アンゴルモア、令和ギャルになる。 〜地球滅ぼしに来た終末存在だけど、人間おもろすぎて守ることにした〜 作:池ポチャ
告潮者が旧式審査領域の空席を取得するまで、残り七十二時間。
かつて存在した暫定審査機構には、現在の選定機関から失われた安全規定がありました。
しかし、その規定は一か所には残されていません。
ルルイエの審査領域。
世界各地へ埋められた夢杭。
シャンバラに残る古い夢。
そして、ムーの渡り潮。
誰か一人に管理されないよう、最初から複数の場所へ分散されていた可能性が浮かび上がります。
それを告潮者も、現在の選定機関も放ってはおきません。
空席を守るために必要なのは、そこへ別の誰かを座らせることではない。
「座らなくても成立する仕組み」が本当に存在したことを証明することです。
その証拠を巡り、地上とルルイエで再び同時に戦いが始まります。
青い紙舟が一艘、GTG支援室の机から落ちた。
ナギが拾い上げようと手を伸ばすより早く、その舟は床へ触れる直前で開き、中から何十枚もの薄い紙片を吐き出した。
「わっ!」
紙片は床へ落ちず、青い光をまといながら空中を漂っている。どれにも同じ円形の印が押され、その中央には見覚えのない文字が刻まれていた。
海底郵便局から繋がっている水面の向こうで、カイも目を丸くしている。
『こんなの、郵便局にあった?』
「カイお兄ちゃんが知らないなら、わたしも知らない」
『でも、ムーの文字じゃない』
ナギは一枚へ顔を近づけた。意味は読めない。それでも、文字の下に描かれた図だけは分かる。
一脚の椅子。
その上に、大きな斜線。
「これ……」
隣で資料を整理していたエックスが、椅子から立ち上がった。
『触れないでください』
「もう触りそうだった」
『触れなかったので問題ありません』
「怒ってる?」
『焦っています』
珍しく率直な返事だった。
ナギが瞬きをしている間に、エックスは複数の解析窓を展開した。旧式選定符号、夢杭内部の命令構造、前日にルルイエで取得された暫定審査機構の断片が重ねられていく。
『一致率七十一パーセント。これは審査領域から送信された文書です』
「誰に?」
『そこが分かりません』
カイが郵便局側で古い棚を開きながら叫ぶ。
『待って! この印、見たことある!』
「どこ?」
『配達済みの印じゃない。昔の“預かり”の印!』
棚の奥から、青ではなく灰色に変色した記録板が引き出された。
カイが表面の埃のような光を払うと、そこにも同じ「空席」の印が刻まれている。
『ムーが沈むより、ずっと前に届いてる』
ナギは首を傾げた。
「ムー宛て?」
『違うみたい』
カイは記録を読み進め、途中で顔を上げた。
『宛先がいっぱいある』
「いっぱい?」
『ムーだけじゃない。知らない名前ばっかり』
エックスの解析が追いつく。
『複数文明、複数精神圏、複数中継施設への同報文書です』
「何でそんなに?」
エックスは少し考えた。
『一か所が消されても、規則そのものが消えないようにしたのかもしれません』
ナギは空中を漂う紙片を見る。
一人に覚えさせない。
一つの場所だけに保存しない。
ムーで学んだやり方と似ていた。
「共憶環みたい」
『発想は近いです』
エックスが即座に通信を開く。
『御門、発見があります』
*
国立国会図書館地下管理区域では、告潮者による審査席取得までの残り時間が中央モニターに表示されていた。
六十七時間四十二分。
数字は一秒ずつ減っている。
御門征十郎はナギ側から送られてきた資料を読み終えると、隣のモニターへ旧式審査領域の構造を表示した。
「分散保存か」
タクヤが頷く。
「規則を作った人たちは、自分たち自身も信用し切ってなかったんだろうね」
「どういう意味?」
萌亜が尋ねた。
今回はまだ夢域へ入っていない。前回の潜行から十分な休息時間を取らせるという御門の判断で、萌亜、リオナ、瑠々、エクスキューショナーも地上の会議へ参加している。
タクヤは空席の印を指した。
「もし審査規則を中央だけで管理したら、その中央を支配した人が規則を書き換えられるでしょう?」
「あー……」
「だから、同じ規則をいろんな場所へ送った。書き換えが起きた時、外に残った古い写しと比べられるように」
リオナが腕を組む。
「今の選定機関みたいになるのを、最初から警戒してたんだ」
「そう見える」
瑠々は不機嫌そうにモニターを見ていた。
「そのわりに結局なってるけど」
「仕組みは、使う側が守らないと壊れるからね」
タクヤの言葉に、御門が短く頷いた。
「現在確認できている安全規定の断片は三系統だ。ルルイエ内部の原記録、夢杭内部、渡り潮へ残された同報文書。シャンバラ側でも古い夢の記録を捜索している」
エクスキューショナーの周囲に白い文字が浮かぶ。
『現時点で復元できた規定は四項目です』
画面へ順番に表示される。
『第一項。他文明への不可逆介入を行う者は、自らの権限根拠を証明しなければならない』
『第二項。審査権限の恒久所有および自動継承を認めない』
『第三項。対象文明の自己決定を原則として優先する』
『第四項。審査者が対象へ重大な利害関係を有する場合、その審査者を失格とする』
萌亜が告潮者の仮面を思い出す。
「四番、告潮者さんダメじゃん」
「完全に当事者だね」
リオナも頷いた。
瑠々は冷たく言う。
「私とあの方を切り離すために世界中へ杭を打ってる時点で、利害関係しかないでしょう」
「でも、それだけで止められる?」
萌亜が尋ねる。
エクスキューショナーが答えた。
『不十分です。告潮者は旧式審査機構そのものの安全機能を回避しながら権限取得を進めています。規定を発見するだけではなく、旧式領域へ再登録する必要があります』
「じゃあ見つけたルールを戻す?」
『はい。ただし完全な規定でなければ、逆に不正な再構築として拒否される可能性があります』
御門が腕を組んだ。
「欠けている項目数は」
『不明』
「そこからか」
『はい』
萌亜が椅子へ深く座り込む。
「チョベリバ」
「そこは俺も否定しない」
御門が珍しく同意した。
直後、別の警告音が鳴った。
世界地図上で三つの地点が赤く変わる。
イギリス北部。
トルコ沿岸。
そして日本。
長野県山間部。
エックスの声が鋭くなる。
『夢杭保管地点ではありません。安全規定の写しが残っている可能性がある場所です』
御門がすぐに立ち上がる。
「敵も見つけたか」
『その可能性が高いです』
「国内地点の詳細」
地図が拡大される。
古い宗教施設でも、秘密研究所でもない。
山中に残る小さな資料館だった。
「郷土資料館?」
萌亜が首を傾げる。
エックスが説明する。
『明治期に海外から持ち込まれた大量の私信、航海記録、宣教師の日誌などを保管しています。その中に、空席印と一致する記録がある可能性があります』
御門はすでに通信先を切り替えていた。
「カナメ、聞こえるか」
『聞こえてる』
「長野へ向かえ。現地警察と合流しろ」
『輸送警備は』
「別班へ引き継げ。ゼルヴァードは上空支援」
『了解』
ゼルヴァードも応じる。
『先行する』
瑠々が席を立った。
「私も行く」
御門が彼女を見る。
「理由は」
「空席印があの方の古い記録と同じ時代なら、夢側の罠があるかもしれない」
「ルルイエ内部は」
「今日は萌亜たちとエクスキューショナーだけでも旧式審査領域へ入れる」
萌亜が目を丸くした。
「瑠々ちゃんなしで?」
「石門まで送る。それより先は道を覚えたでしょう」
「一回しか行ってない」
「二回」
「誤差」
「誤差じゃない」
瑠々は御門へ向き直る。
「地上に私が必要な場所があるなら、今日はそっちへ行く」
御門は数秒考えた後、頷いた。
「分かった。ただし単独行動は禁止だ」
「カナメたちと行く」
「ならいい」
萌亜が少し寂しそうに言う。
「初の別行動」
瑠々が振り返る。
「何、その顔」
「ルルイエ組が分裂した」
「帰ってくるわよ」
「ほんと?」
「たぶん」
「たぶん禁止」
以前自分が言った言葉を返され、瑠々は一瞬黙った。
「……帰ってくる」
「よし」
リオナが笑う。
「完全に扱い方覚えられてるね」
「不本意」
*
長野県の山あいにある資料館は、普段なら観光客が一日に十人来るかどうかという小さな建物だった。
木造二階建てで、裏手には古い蔵が二棟ある。周囲には民家が数軒あるだけで、カルトが武装襲撃するような価値がある場所には見えない。
それだけに、到着したカナメは駐車場へ残されたタイヤ痕を見た時点で顔を険しくした。
「先に入られたな」
資料館職員は全員避難済みで、幸い人質はいない。現地警察が周辺を封鎖し、GTG班が超常反応を確認している。
上空から降りてきたゼルヴァードが報告した。
「建物内に二十六。裏手の林に八」
「武装は」
「銃器。建物内部に爆薬反応もある」
「資料を燃やす気か」
「可能性は高い」
その時、後方から車が一台到着した。
扉が開き、瑠々が降りる。
カナメが見る。
「本当に来たのか」
「御門に許可取った」
「それなら止めない」
「夢の反応は?」
「蔵の方が強い」
瑠々は目を閉じ、少しだけ意識を広げた。
ルルイエ内部ほど深くは繋がない。地上に染み出した夢の気配だけを探る。
すぐに目を開けた。
「いる」
「何が」
「深きものじゃない。人間の夢」
瑠々は古い蔵を見る。
「たくさん重なってる」
「昔の持ち主か」
「たぶん。手紙を書いた人、読んだ人、運んだ人。記録に残った感情が夢杭みたいに層になってる」
カナメが拳銃を確認する。
「壊せないな」
「ええ。燃やされたら、規定だけじゃなくて全部消える」
「なら火を出させない」
ゼルヴァードが建物を見上げる。
「爆薬は私が監視する。起爆信号が出た時点で切断する」
「頼む」
カナメは現地指揮官へ合図を送った。
「突入する」
*
ルルイエの石門前で、萌亜は瑠々から青緑色の小さな石を渡された。
「何これ?」
「私の夢域標識」
「お守り?」
「道しるべ。勝手に意味を増やさないで」
「はーい」
「もし道が変わったら、それを床へ置いて。私の側へ戻る道だけは出る」
リオナが石を見る。
「瑠々が地上にいても?」
「繋がってるから」
萌亜がにやりとする。
「神様とも、私たちとも?」
「今それ言う?」
「友達距離」
「帰ったら話す」
「判断保留じゃなくなった」
瑠々が本気で嫌そうな顔をした。
「もう行って」
エクスキューショナーが淡々と告げる。
『照れを確認』
「記録するな」
『判断保留』
「あなたまで」
瑠々の姿が黒い潮へ溶け、地上側へ意識が戻っていく。
残された萌亜、リオナ、エクスキューショナーは巨大な石門を越え、前回見つけた黒い湖まで慎重に進んだ。
夢杭へ繋がる白い糸は、七本減っただけでも密度が変わっている。それでも残りは多く、湖の上には細い糸が蜘蛛の巣のように張り巡らされていた。
その奥にある石段を下りると、旧式審査領域の白い空間が現れる。
中央の椅子は空席のままだ。
しかし、その背後には残り時間が表示されていた。
『66:51:08』
「減ってる……」
萌亜が呟く。
「当たり前だけど、見ると嫌だね」
リオナも表情を曇らせる。
エクスキューショナーは十二の台座を順番に調べ始めた。
『前回閲覧できなかった領域があります』
「どこ?」
『空席の下です』
萌亜とリオナが中央の椅子を見る。
「下?」
『はい』
近づくと、椅子の影だけが周囲の光と合っていないことに気づく。
エクスキューショナーが床へ手をかざすと、椅子の真下に古い文字が浮かび上がった。
『空席維持規定』
萌亜の顔が明るくなる。
「あるじゃん!」
『しかし閲覧条件があります』
「何?」
次の表示。
『審査席へ座る意思を持たない審査候補のみ閲覧可能』
リオナが目を瞬いた。
「だから昨日出なかった?」
『昨日の時点では、私たちが審査候補として認識されていませんでした』
「今日なら?」
『四名のうち三名が現在領域内に存在します』
萌亜が中央の椅子から少し離れた。
「座りません」
リオナも一歩後退する。
「私も」
『私も審査権限を要求しません』
三人が明確に拒否した瞬間、白い床へ細い亀裂のような光が走り、空席の下から文字が浮かび上がった。
『第五項』
『資格を満たす審査者が存在しない場合、審査席は空席のまま維持できる』
萌亜が両手を上げた。
「これ!」
「欲しかったやつ」
リオナも笑う。
続いて第六項が表示される。
『審査不能は異常状態ではない』
『判断保留を敗北と定義しない』
エクスキューショナーの動きが止まった。
萌亜が彼女を見る。
「好きそう」
『……はい』
「即答」
『非常に合理的です』
次。
『第七項』
『審査対象との対話経路を、審査者の都合のみを理由として遮断してはならない』
リオナの表情が変わる。
「ムー」
「うん」
選定機関は、ムーと外部存在との通信を危険と判断して遮断した。
古い規定では、それが禁じられている。
さらに文章が続く。
『理解不能を、敵対の根拠としてはならない』
萌亜の胸の奥でヨルが反応した。
『これ』
「ルルイエでやってるやつだね」
『うん』
分からないものを、無理に敵へ変えない。
萌亜たちが自分で辿り着いたことを、この古い仕組みも規則として残していた。
「昔の人たち、ちゃんと考えてたんだ」
リオナが言う。
「たぶん、失敗したから考えたんじゃない?」
「そっか」
萌亜は少し納得した。
最初から正しかったのではない。
誰かを傷つけた。
何かを失った。
その結果、「次はこうしない」と規則へ残した。
それなのに。
現在の選定機関は、その面倒な部分を切り捨ててしまった。
エクスキューショナーが規定を読み続ける。
『第八項――』
突然。
文字が消えた。
「え?」
白い空間が激しく揺れる。
『外部改変要求』
『安全規定への削除処理』
告潮者ではない。
もっと硬い。
もっと機械的な白い線が、空間の外側から侵入してくる。
エクスキューショナーの表情が強張った。
『現行選定機関です』
「今!?」
『旧式規定の復元を検知した可能性があります』
空中へ新しい命令が表示された。
『上位選定個体エクスキューショナー』
『旧式審査領域を現行管理体系へ統合せよ』
エクスキューショナーは黙って命令を見る。
『空席維持規定を無効化』
『旧式安全規定を歴史資料として封印』
『審査席を選定機関管理下へ移行』
萌亜が顔をしかめた。
「告潮者さんと同じことしてない?」
リオナも言う。
「空席を取り合ってるだけじゃん」
エクスキューショナーの周囲に、白い拘束線が現れた。
『命令実行を要求』
御門の通信が割り込む。
『エクスキューショナー』
『聞こえています』
『どうする』
エクスキューショナーは一度だけ、空席を見た。
そこへ自分が座る選択肢もある。
現在の選定機関へ渡すこともできる。
告潮者が奪う前に、自分たちで占有してしまうという理屈も成立する。
だが。
彼女は前回、空席のままにすることを支持した。
『拒否します』
白い拘束線が一斉に締まる。
『命令違反』
『上位選定個体としての適格性を再審査』
エクスキューショナーの輪郭が揺れた。
「エクスキューショナーさん!」
『問題ありません』
「問題ある揺れ方!」
萌亜が手を伸ばす。
だが、リオナが先に周囲を見る。
「共憶環!」
『起動済みです』
地上のエックス。
『個体記録を分散保持します』
御門も続ける。
『初期化命令を確認したら即座に遮断する。君は判断だけ維持しろ』
『了解』
エクスキューショナーは拘束線の中で、もう一度命令へ答えた。
『旧式安全規定の復元を優先』
『空席の恒久占有を支持しない』
『命令を拒否します』
白い線が弾けた。
*
長野の資料館では、ほぼ同じ時間に最初の爆発が起きていた。
ゼルヴァードが起爆信号そのものを止めたにもかかわらず、信徒の一人が手動式の小型爆薬を使用した。
爆風で窓ガラスが砕け、木片と古い紙の匂いが舞う。
「火!」
GTG職員が叫ぶ。
蔵の入り口付近で古い木材へ火が移り、乾燥した壁を這うように炎が広がり始める。
瑠々の顔色が変わった。
「夢にも燃え移る!」
現実の炎だけではない。
百年以上にわたって紙へ残された感情や夢が、現実の火を「記録が消える」という意味として受け取り、夢側でも燃焼を始めている。
蔵の周囲に、見えない海の波が荒れ始めた。
「消火班!」
カナメが叫びながら一人の武装信徒を壁際へ押さえ込む。
別の信徒が火の中へ向かおうとする。
「燃やせ!」
「古い戒律を消せ!」
瑠々の目が冷たくなった。
「戒律じゃない」
男が振り返る。
「偽使徒!」
「その呼び方にも飽きた」
瑠々は黒い潮を伸ばし、男の足首だけを絡め取った。勢いよく転倒させることはせず、その場から一歩も進めないよう固定する。
「人の手紙を勝手に燃やすな」
「神の覚醒を妨げる偽りの――」
「その神が寝たいって言ってるの」
「嘘だ!」
瑠々は本気で疲れた顔になった。
「毎回そこから説明するの?」
別方向から銃声が響き、カナメが遮蔽へ入る。
「瑠々、火を頼めるか!」
「現実の火は無理!」
「夢側!」
「そっちはやる!」
瑠々は目を閉じた。
蔵の内部に残された夢へ、自分の意識を浅く接続する。
そこには数え切れないほどの人の痕跡があった。
遠い国から海を渡った者。
故郷へ帰れなかった者。
誰かへ手紙を書いた者。
受け取った者。
読まずにしまった者。
夢の中で炎が紙片へ近づいている。
瑠々はその火を力任せに消そうとはしなかった。
「借りるわよ」
誰へともなく告げる。
古い夢の中に残っていた雨。
航海中の嵐。
雪解け水。
誰かが泣いた夜。
記録に結びついた「水」の記憶だけを集め、燃えている場所へ流す。
炎が少しずつ弱くなる。
一方、現実側では消防とGTG職員が消火剤を浴びせ、ゼルヴァードが熱の拡散を抑えていた。
現実と夢の両側から火が消えていく。
瑠々が目を開ける。
「まだ残ってる」
カナメが答える。
「何が」
「一番古い記録」
「場所は」
「地下」
カナメは近くの職員を見る。
「地下書庫は?」
「図面上はありません!」
「じゃあ隠し部屋か」
その時、モー子が蔵の床を前脚で叩いた。
「もー」
全員が牛を見る。
もう一度。
「もー」
ごん。
床板の一部だけ音が違う。
カナメは数秒黙った。
「……まさか」
床を確認すると、古い収納棚の下に金属製の取っ手が隠されていた。
瑠々がモー子を見る。
「ほんと何なの、この牛」
「それ、もう何回目だ」
カナメが取っ手へ手をかける。
「でも助かった」
「もー」
*
地下書庫から見つかったのは、一冊の本ではなかった。
木箱の中に収められた、何百通もの封書。
差出人も宛先もばらばらで、年代も一致していない。
しかし、その最下段に一通だけ、空席印が押された封筒が残っていた。
封筒の表には日本語でも英語でもない文字があり、その横に後世の誰かが鉛筆で注釈している。
『判定者不在時ノ処置ニ関スル写』
カナメが通信を開く。
「御門」
『何だ』
「見つけた」
『送れるか』
「今撮る」
瑠々が封筒を見る。
「待って」
「何かある?」
「開ける前に確認する」
彼女が手をかざすと、封筒の周囲に小さな青い光が浮かんだ。
「渡り潮の古い規則が残ってる。受取人を指定しない共有文書」
「開けてもいい?」
「たぶん。でも一人で受け取らない方がいい」
カナメは頷き、現地GTG職員、エックス、ナギ、カイの回線を繋いだ。
複数の受領者が同時に確認した状態で封を開く。
中には数枚の薄い紙。
エックスが解析する。
『第八項を確認』
ルルイエ側の萌亜たちにも、同じ文章が共有された。
『審査に必要な情報は、一審査者による独占を認めない』
『判断根拠は対象が望む範囲で開示され、異議申立ての経路を維持しなければならない』
リオナが息を吐いた。
「異議申立て」
御門が低く言う。
『今の選定機関に一番足りないやつだな』
エクスキューショナーが黙る。
誰も彼女を責めない。
彼女自身が今、その機関の命令へ逆らっている。
次の文章。
『第九項』
『審査者自らが審査対象の状態を作り出した場合、その結果を対象の性質として評価してはならない』
萌亜がすぐにムーを思い出した。
「これ……」
「選定機関が追い込んで沈ませたのに、ムーが自分で閉じたって評価したこと」
リオナも気づく。
『該当します』
エクスキューショナーの声は重かった。
さらに最後。
『第十項』
その文字だけが途中で消えている。
封書側にも。
ルルイエ側にも。
同じ場所が欠けていた。
「十個目がない」
ナギの声。
『こっちにもない』
カイも郵便局を探す。
『同じところ破れてる!』
エックスが解析する。
『偶然ではありません。第十項だけが複数の保存先から意図的に削除されています』
御門が問う。
『何について書かれていたか推定できるか』
『断片のみです』
文字が一部復元される。
『最終……』
『……審査……』
『……対象自身……』
『……選択……』
萌亜が眉を寄せた。
「対象自身?」
瑠々が古い封書を見つめる。
「最後は」
「審査される側が何か決める?」
誰にも断定できない。
だが。
第十項を誰かが特に恐れて消したことだけは分かる。
*
ルルイエの旧式審査領域では、第九項までの安全規定を再登録する作業が始まった。
地上の夢杭。
長野で見つかった封書。
渡り潮の保存文書。
シャンバラから回収された古い夢。
複数の出典を照合し、同じ内容であることを確認してから一項ずつ戻していく。
最初の四項。
空席維持を認める第五項。
判断保留を正常な選択肢とする第六項。
対象との対話を守る第七項。
情報独占を禁じる第八項。
審査者が作り出した状況を対象の責任へ転嫁できない第九項。
九つの規定が戻った瞬間、中央の空席を覆っていた白い光が弱くなった。
『審査席移譲処理』
『再評価』
残り時間が止まる。
萌亜が息を呑んだ。
「止まった?」
しかし数秒後。
『安全規定欠損』
『第十項未登録』
『移譲処理継続』
数字は再び動き始めた。
『64:03:11』
リオナが悔しそうに唇を噛む。
「あと一個」
エクスキューショナーが解析を続ける。
『ただし移譲速度は低下しました』
「どのくらい?」
『推定完了まで九十六時間へ延長』
萌亜の顔が少し明るくなる。
「時間増えた!」
「でも止まってない」
リオナが釘を刺す。
「うん」
地上から御門の声が届く。
『それでも十分だ。増えた時間を使う』
「第十項を探す?」
『ああ』
瑠々も長野から通信へ入った。
『一番消したかった規則なんでしょうね』
「たぶん」
萌亜は空席を見る。
誰かが座ることより。
誰かに選ばせることより。
もっと都合の悪い規定。
対象自身。
選択。
残されている単語はそれだけだった。
胸の奥でヨルが小さく呟く。
『選ぶ』
「誰が?」
『自分』
萌亜は少し目を見開いた。
その言葉が合っているかは分からない。
分からないから、まだ答えにはしない。
「御門さん」
『何だ』
「ヨルが、第十項は“自分で選ぶ”なんじゃないかって」
『根拠は』
「ない」
『なら仮説として残せ』
「はい」
『ただし忘れるな』
「何を?」
『仮説を答えにするな』
萌亜は少し笑った。
「御門さん、旧式審査員向いてそう」
『絶対に嫌だ』
「即答」
『俺は今の仕事だけで十分だ』
リオナが笑う。
「それが一番信用できるかも」
*
その頃。
どこかの白い空間。
告潮者は一人、中央の椅子を見ていた。
目の前には復元された九つの安全規定が浮かんでいる。
「残したか」
背後から、別の白い声がした。
『旧式規定復元率、九十パーセント』
「十分だ」
『審査席取得速度が低下』
「構わない」
『第十項が復元された場合、取得権限を失う可能性』
告潮者は白い仮面へ手を添えた。
「だから消した」
『完全消去に失敗』
「知っている」
白い空間の奥。
もう一脚。
椅子があった。
ルルイエで見つかった空席とは違う。
そこには誰かが座っている。
だが、姿は白い光に覆われて見えない。
告潮者はその存在へ振り返らなかった。
「第十項を見つける前に」
「地上をもっと騒がせる」
『武装蜂起を拡大するか』
「違う」
告潮者の声が静かに低くなる。
「彼らが一番守りたいものを狙う」
白い画面へ。
地球。
日本。
東京。
そして。
一軒の家。
姫咲家。
そこには。
楠エリ。
ナギ。
帰る場所。
告潮者はしばらく映像を見つめた。
「帰る場所があるから」
「夢から戻れる」
「なら」
白い仮面の亀裂から、人間の目が覗く。
「帰る場所そのものを」
「夢に沈めればいい」
第47話では、旧式審査機構の安全規定がかなり復元されました。
重要なのは、この規則そのものが最初から分散保存されていたことです。
ルルイエの審査領域だけではなく、夢杭、渡り潮、シャンバラ、さらに地上へ残された古い文書にも同じ規定が存在しました。
「管理する側が規則を書き換えるかもしれない」
その可能性まで想定して、外へ写しを残していたわけです。
今回判明した規則には、「審査者がいないなら空席のままでいい」「判断保留は失敗ではない」「理解できないことを敵対の理由にしない」といった、現在の選定機関とは大きく異なる考え方が含まれていました。
さらに、審査する側が対象を追い込んでおきながら、その結果を対象自身の性質として評価することも禁じられています。
これはムーで起きたことと正面から繋がります。
そして残ったのが、第十項。
複数の保存場所で、そこだけが意図的に削除されていました。
残っている断片は、
「対象自身」
「選択」
など、ごくわずかです。
告潮者が審査席を得るうえで、もっとも邪魔になる規則だった可能性があります。
一方、ルルイエへ向かう組と地上組も、今回は少し構成を変えました。
瑠々はカナメ、ゼルヴァードたちと地上へ残り、古い資料の保護へ。
萌亜、リオナ、エクスキューショナーは瑠々抜きで旧式審査領域へ。
誰か一人がいなければ何もできない状態から、少しずつ役割を入れ替えられるようになっています。
安全規定を九項まで戻したことで、告潮者の審査席取得には多少の猶予も生まれました。
ただし、相手も次の手へ動いています。
狙われたのは戦闘施設でも、夢杭でもありません。
萌亜たちが何度も帰還目印として使ってきた場所。
「帰ったらご飯がある」と言ってくれる人のいる家です。
海底へ潜る者にとって、帰る場所は防御の一部。
次に守ることになるのは、そのごく普通の家になりそうです。