アンゴルモア、令和ギャルになる。 〜地球滅ぼしに来た終末存在だけど、人間おもろすぎて守ることにした〜 作:池ポチャ
告潮者が次に狙ったのは、夢杭でも審査領域でもありませんでした。
姫咲家。
萌亜たちにとって、戦いが終わったあとに帰り、ご飯を食べ、眠るための場所です。
アヴァロンで「帰る場所」は重要な条件になりましたが、それは家そのものを防衛装置にするという意味ではありません。
そこにいる人。
帰ってきてもいいと言ってくれる人。
自分から帰りたいと思える関係。
告潮者は、その部分を逆に利用しようとします。
一方、旧式審査領域では、削除された第十項の手がかりを追う萌亜たちにも変化が起きます。
もし「選ぶ権利」を誰かが独占してはいけないのなら。
審査される側には、どんな権利が残されていたのか。
今回は海底の白い部屋と、ごく普通の一軒家が同じ問題で繋がります。
姫咲家の夕食は、鶏の照り焼きだった。
ナギは箸で肉をつまみ、少し慎重に口へ運んだあと、二度ほど噛んでから顔を上げた。
「甘い」
「嫌だった?」
向かいに座る楠エリが尋ねると、ナギは首を横に振る。
「好き。でも未来の肉、甘いの多い」
「そう?」
「卵も甘かった」
「ああ」
エリは納得したように頷いた。
「うちは少し甘めかも」
ナギは隣に置いてある青い紙舟を見た。
「カイお兄ちゃんに書く」
「照り焼きについて?」
「未来の料理は、たまにお菓子みたいって」
「それだけ書くと怒られそうね」
「じゃあ、おいしいも書く」
「それならいいわ」
テレビでは通常のニュース番組が流れている。
世界各地で発生した武装事件については、表向き「複数の過激宗教団体による同時多発事件」として報じられており、ルルイエも夢杭も出てこない。ナギは内容の半分も聞いておらず、食後に書く手紙の文面を考えているようだった。
それでいいとエリは思っている。
六、七歳ほどの少女が、世界規模の超常事件について考え続ける必要などない。
ムーを終わらせる決断をしたからといって、これから先まで責任者であり続ける義務はない。
「明日、学校の見学だっけ」
「うん」
「緊張してる?」
「ちょっと」
「友達できるといいわね」
ナギは箸を止めた。
「できなかったら?」
「次の日もあるでしょう」
「その次も?」
「あるわよ」
エリは当然のように答えた。
「学校って、一日で全部決めるところじゃないもの」
ナギは少し考えたあと、照り焼きをもう一口食べた。
「未来、明日がいっぱいある」
「そうね」
その言葉を口にした直後だった。
部屋の照明が、一度だけ暗くなった。
エリが天井を見る。
「停電?」
テレビは消えていない。
冷蔵庫の作動音も続いている。
照明だけが一瞬落ちたように見えた。
ナギの手元では、青い紙舟がわずかに震えている。
「エリ」
「どうしたの」
「海の匂いする」
エリの表情が変わった。
窓は閉まっている。
姫咲家は海沿いでもない。
それでも次の瞬間には、湿った潮の匂いがリビング全体へ広がった。
エリは立ち上がり、慌てることなくナギへ手を差し出す。
「こっちへ来て」
「うん」
ナギが椅子から降りる。
その瞬間、窓の外にあった住宅街の景色が消えた。
代わりに見えたのは夜の海だった。
真っ黒な水面が家のすぐ外まで迫り、その向こうには緑黒色の巨石でできた街が沈んでいる。窓ガラスには水滴がついていないのに、外だけが完全な深海へ変わっていた。
ナギの顔が強張る。
「ルルイエ?」
「見すぎない」
エリはカーテンを閉めた。
その声には恐怖がないわけではない。しかし、恐怖をそのままナギへ渡さないよう意識しているのが分かる。
テーブルの上に置かれていた青い紙舟が、一艘だけ黒く染まった。
そこへ白い文字が浮かぶ。
『帰還地点を確認』
エリが読む。
「……何よ、それ」
次の文字。
『対象、安藤萌亜』
『主要帰還地点――姫咲家』
ナギが息を呑む。
『帰還条件を無効化する』
エリは紙舟を手に取らず、すぐに壁際の非常通信端末を押した。
「こちら姫咲家。異常発生。夢域干渉と思われる表示あり」
応答は一秒もかからなかった。
『聞こえている』
御門征十郎だった。
「うちを狙ってるみたい」
『分かっている。外へ出るな』
「ナギちゃんがいる」
『それも把握している。護衛班は三分以内に到着する』
「三分ね」
『持たせられるか』
エリはリビングを見回した。
食卓。
まだ湯気の残る味噌汁。
洗い物。
学校見学の資料。
萌亜が置いていった菓子の袋。
何度も繰り返されてきた、ごく普通の生活。
「持たせる」
『無理はするな。家は壊れても直せる』
「分かってる」
御門は少し間を置き、さらに低い声で言った。
『人が先だ』
「ええ」
*
同じ頃、国立国会図書館地下管理区域では、萌亜が寝台の上で突然目を開けた。
「家」
隣のリオナがすぐに身体を起こす。
「どうしたの?」
「帰るとこが変」
まだ夢域接続前だった。
旧式審査領域へ入る準備を整え、エクスキューショナーと最終確認をしていたところである。
萌亜は胸へ手を当てる。
ヨルも落ち着かない。
『遠い』
「何が?」
『家』
リオナの表情が変わった。
「御門さん!」
「確認中だ」
御門はすでに別回線を開いていた。
中央モニターへ姫咲家周辺の地図が映し出される。
物理的な異常はない。
周辺住民からも通報は上がっていない。
しかし夢域上では、姫咲家を中心に黒い円環が形成され、その外側から白い線が何十本も突き刺さっていた。
エックスが解析結果を表示する。
『物理攻撃ではありません。対象地点の「帰還先」としての認識を切断しようとしています』
「家を壊すんじゃない?」
萌亜が尋ねる。
『建物の破壊が主目的ではありません。安藤萌亜、姫咲リオナ、九頭龍瑠々を含む複数の人物が、姫咲家を安全な帰還地点として認識しています。その意味付けを反転させる攻撃です』
「反転?」
『帰ると危険、戻れば沈む、思い出すほど夢へ引かれる、といった認識へ上書きする可能性があります』
萌亜の顔色が変わった。
「エリさんとナギちゃんは?」
『内部にいます』
「行く!」
萌亜が立ち上がろうとするが、御門がすぐに制止した。
「待て」
「でも!」
「物理的に向かえば四十分以上かかる。それに今のお前が家へ強く意識を向けるほど、攻撃側に経路を与える恐れがある」
萌亜の足が止まる。
「じゃあどうするの」
「地上側へ任せる」
「また?」
「まただ」
御門は視線を逸らさない。
「お前たちは旧式審査領域へ行け」
「今?」
「ああ」
リオナが眉を寄せる。
「理由は?」
「姫咲家を狙ったタイミングが良すぎる。俺たちを地上へ集中させたい可能性がある」
エクスキューショナーも同意する。
『旧式審査領域への侵入を遅らせる陽動である可能性は高い』
「でも、エリさんたちを囮にするの?」
リオナの声音が鋭くなる。
御門はすぐに首を横へ振った。
「しない」
短く答えたあと、彼は言葉を続ける。
「姫咲家へはカナメ、ゼルヴァード、タクヤ、現地警護班を向かわせている。九頭龍も地上側に残る。必要なら家を放棄して人だけ退避させる」
萌亜が御門を見る。
「でも帰る場所が」
「安藤」
御門の声が少し強くなった。
「家を守ることと、家にいる人間を防衛装置にすることを混同するな」
萌亜が黙る。
「姫咲家は重要だ。だが、エリもナギも設備じゃない。家がなくなったら別の場所へ帰ればいい。帰る場所というのは住所だけの話じゃないだろ」
胸の奥で、ヨルが静かに反応する。
『人』
萌亜は目を閉じた。
アヴァロンで自分が戻れた理由。
霧の外で待っていた人たち。
名前を呼ぶ声。
朝。
食事。
リオナの手。
「……うん」
萌亜は座り直した。
「地上、任せる」
「それでいい」
リオナも萌亜の手を握る。
「こっちはこっちでやろう」
「うん」
御門は通信先を切り替える。
「九頭龍、聞こえるか」
『聞こえてる』
「姫咲家へ向かえ」
『もう向かってる』
「単独で先行するな」
『カナメと一緒』
「ならいい」
『御門』
「何だ」
『家、残した方がいい?』
御門は一瞬考えた。
「残せるならな。ただし人命より上には置くな」
『了解』
*
姫咲家の玄関チャイムが鳴った。
エリとナギはリビングから動かなかった。
玄関モニターには誰も映っていない。
それでもチャイムはもう一度鳴る。
ピンポーン。
ナギがエリの服を掴む。
「誰?」
「分からない。出なくていい」
玄関の向こうから声がした。
「ただいま」
萌亜の声だった。
ナギが顔を上げる。
「萌亜?」
エリは首を横に振った。
「違う」
「でも声」
「萌亜ちゃんは、ただいまって言って勝手に入ってくることはあるけど、今みたいに玄関の外で待たないわ」
「判別そこ?」
「長く一緒にいると分かるのよ」
外から、もう一度。
「ただいま」
今度はリオナの声。
「開けて」
次にタクヤ。
「姉さん、帰ったよ」
エリの表情が一気に冷えた。
「タクヤはそんな言い方しない」
玄関扉が、内側へ一度だけ大きく震えた。
直接押されたのではない。
家そのものが、「開けるべき相手が帰ってきた」と誤認させられている。
鍵が自動的に回りかけた。
エリが非常ロックを押し込む。
「勝手に帰る人を作らないで」
外の声が止まった。
代わりに、壁や床の奥から囁きが聞こえ始める。
『ここは帰る場所』
『帰る場所は開く』
『帰る者を受け入れる』
『拒む家は家ではない』
ナギが耳を塞ぐ。
「うるさい」
「聞かなくていいわよ」
「でも家が喋ってる」
「家は喋らない」
エリははっきり言った。
「うちが誰を入れるかは、うちにいる人が決めるの」
その言葉に反応するように、玄関の鍵が止まった。
ナギが驚く。
「止まった」
「当然」
「何で?」
「私の家だから」
エリ自身も理屈を完全に理解しているわけではない。
ただ、ここで暮らしている人間が、自分の家に誰を入れるか決められないなどという話は納得できなかった。
次の瞬間、玄関の外で何か大きなものが倒れる音がした。
「もー!」
ナギの顔が明るくなる。
「モー子!」
直後にカナメの声が通信端末へ入る。
『到着した。外周に武装者十二。三名確保済み』
「早かったわね」
『近くに待機班がいた』
続いてゼルヴァード。
『夢域側にも複数の投影体を確認』
瑠々の声も重なる。
『私がそっちを見る』
エリが少し息を吐く。
「お願い」
『エリ』
「何?」
『家を守るために無理しないで』
「あなたまで言うのね」
『御門に言われた』
「じゃあ従うわ」
『私が言ったら?』
「考える」
『……姉弟そっくり』
エリは少し笑った。
*
ルルイエの旧式審査領域へ入った萌亜、リオナ、エクスキューショナーの三人は、前回復元した九つの安全規定が維持されていることを確認した。
中央の空席取得までの時間は九十四時間台まで延びている。
告潮者が姫咲家へ攻撃を仕掛けた影響なのか、進行速度はさらにわずかに落ちていた。
「手が回ってない?」
萌亜が表示を見る。
『可能性はありますが、断定できません』
「告潮者さん一人で全部やってるわけじゃなさそうだしね」
リオナは十二個の台座を調べる。
第十項を探すため、今回は空席の下ではなく、審査対象側から提出された異議記録を中心に確認する方針だった。
エクスキューショナーが一つの台座へ触れる。
『異議申立記録を開きます』
白い空間へ、過去の文字が現れる。
『審査対象A』
『隔離判定へ異議』
『対象主張――我々の危険性は、審査側の観測干渉によって増幅されたものである』
別の記録。
『審査対象B』
『保存指定を拒否』
『対象主張――保存を名目とした活動停止は、生存ではない』
萌亜の表情が変わる。
「これ、今までの話と同じ」
「うん」
リオナも頷く。
アヴァロン。
ムー。
ルルイエ。
どの場所でも繰り返されている。
守ると言いながら閉じ込める。
危険と呼びながら、その危険を自分たちで作る。
保存という言葉で、未来の選択を奪う。
エクスキューショナーがさらに奥の記録を開いた。
『審査対象C』
『審査そのものを拒否』
全員の動きが止まる。
「拒否?」
『はい』
続き。
『対象主張――審査者の権限根拠が証明されない限り、審査への参加義務を認めない』
リオナがゆっくり息を吐いた。
「審査される側が、審査そのものを拒めた」
エクスキューショナーの周囲に解析文字が増える。
『第十項との関連可能性が高い』
「もっとない?」
『検索します』
異議記録が次々に開く。
しかし、その多くは途中で削除されていた。
共通する単語だけが残っている。
『拒否』
『同意』
『対象自身』
『最終判定』
『強制不可』
萌亜の胸の奥でヨルが強く動いた。
『嫌って言う』
「うん」
リオナが萌亜を見る。
「もしかして第十項って」
「審査される側が、嫌って言える?」
『可能性は高いです』
エクスキューショナーが答える。
『ただし原文が必要です。推測による復元は認められません』
「じゃあ原文探そ」
その時、中央の空席に白い文字が現れた。
『審査対象R'LYEH』
『審査参加意思――未確認』
瑠々がいない。
クトゥルフ本人は眠っている。
誰もルルイエへ「審査を受けるか」と聞いていない。
萌亜は表示を見て眉を寄せる。
「最初から参加してなくない?」
リオナも同じことに気づいた。
「審査対象って勝手に登録されてるだけだよね」
『はい』
「じゃあ」
萌亜は空席へ向かって言った。
「ルルイエに聞いてないじゃん」
旧式領域が、一瞬だけ沈黙した。
次の表示。
『審査対象の参加意思を確認せよ』
エクスキューショナーが目を見開く。
『これは安全規定ではなく、審査前提条件です』
「どういうこと?」
『本来、審査そのものへ対象側の参加確認が必要だった可能性があります』
「じゃあ今の選定機関」
リオナの声音が低くなる。
「勝手に審査始めてる」
『はい』
萌亜は過去の自分を思い出した。
文明選定個体。
処分機構。
情動的偏向。
誰も萌亜へ、「審査されたいか」と聞いたことなどない。
「ひど」
ヨル。
『嫌』
「うん。萌亜も嫌」
*
姫咲家の外では、物理側の戦闘が始まっていた。
カルト側は銃撃戦を長引かせるつもりがないらしく、武装者の半数が住宅へ近づくことよりも、周囲へ短い黒杭を打ち込むことを優先している。
カナメは一人の男を地面へ押さえ込んだあと、道路脇に突き立てられた短杭を見た。
「簡易夢杭、四本」
『五本目を北側に確認』
ゼルヴァードの声。
「打たせるな」
『承知』
屋根の高さまで跳んだ男が杭を振り下ろそうとした瞬間、紫白色の力場が腕だけを固定した。
「離せ!」
『武器を捨てろ』
「神の夢を地上へ――」
『私は先日、本人の使徒から「寝かせろ」と直接聞いている』
男が止まった。
「偽りだ!」
『またそれか』
ゼルヴァードの声に、珍しく疲れが混じった。
瑠々は物理側の戦闘には加わらず、姫咲家の庭で目を閉じている。
彼女の意識は家の周囲へ重ねられた夢域へ入っていた。
現実の住宅街と同じ形をしている。
ただし、すべての家が真っ黒な海へ半分沈み、姫咲家だけが異様な白い糸で縛られていた。
家の玄関前には、萌亜、リオナ、タクヤ、御門、瑠々自身の姿をした影が何人も立っている。
全員が同じ言葉を繰り返していた。
『ただいま』
『開けて』
『帰ってきた』
瑠々は顔をしかめる。
「趣味悪い」
一人の偽萌亜が笑う。
『瑠々ちゃん』
「その呼び方するな」
『友達でしょ?』
瑠々の目が冷たくなる。
「本人はそんな使い方しない」
『帰る場所がなくなったら』
『あの子は戻れない』
「だから何」
『守りたい?』
「当然」
『なら、お前がここに残れ』
瑠々は影を見る。
『家を守る使徒になれ』
『門を守り』
『帰還を守り』
『眠る神から離れろ』
瑠々は数秒黙ったあと、あからさまに嫌そうな顔をした。
「また二択」
『神のそばへ戻れば家が沈む』
『家へ残れば神との夢が裂ける』
白い糸が強く締まる。
瑠々は足元に黒い潮を広げた。
「告潮者に伝えて」
『何を』
「同じ手、飽きた」
黒い潮が偽物たちの足元へ広がる。
ただし、その影を破壊はしない。
瑠々は家そのものへ呼びかけるのではなく、家の中にいる人へ通信を繋いだ。
「エリ」
『聞こえてる』
「そこ、帰る場所?」
エリは少し間を置いた。
『今はね』
「今は?」
『引っ越したら別の家になるでしょう』
瑠々は少し笑った。
「それでいい」
『何が?』
「帰る場所って、建物じゃない」
白い糸の一部が緩む。
偽の萌亜が声を荒らげる。
『なら、この家を捨てろ』
瑠々は即座に否定した。
「それも違う」
『なぜ』
「大切だから守る。でも、大切だから縛られない」
その言葉を自分で口にしながら、瑠々は少し驚いていた。
あの方との関係にも似ている。
大切だから所有しない。
救われたから支配しない。
そばにいたいからといって、眠る意思を無視しない。
家だって同じなのかもしれない。
「帰る場所は」
瑠々は白い糸へ手を伸ばした。
「帰りたいって思う側と、帰ってきていいって言う側の両方がいて初めて成立する」
黒い潮が糸を包む。
「勝手に外から指定するな」
白い糸が何本も弾けた。
*
姫咲家のリビングで、玄関を揺らしていた圧力が急に弱まった。
ナギが顔を上げる。
「静かになった」
「まだ油断しない」
エリは通信端末を握ったまま答える。
その時、テーブルの上に新しい青い紙舟が現れた。
カイからだった。
『ナギ』
「カイお兄ちゃん!」
『古い手紙見つけた!』
「何の?」
『空席のやつ!』
ナギが紙舟を開く。
中には古い文字。
その下に、渡り潮による自動補助訳が浮かび上がる。
『審査に応じることを、対象の義務としてはならない』
ナギの目が大きくなる。
次の一文。
『対象が審査を拒否した場合、審査者は強制判定を行ってはならない』
「エリ!」
「どうしたの」
「十個目!」
ナギはすぐに共憶環へ接続した。
「見つけた!」
*
旧式審査領域へ、その文章が届いた。
エクスキューショナーが原文照合を始める。
『渡り潮保存文書、旧式審査領域の削除痕跡、異議申立記録の三系統で一致を確認』
「本物?」
『はい』
第十項が白い空間へ復元される。
『第十項』
『審査への参加を対象の義務としてはならない』
『対象が審査を拒否した場合、審査者は強制的な最終判定を行ってはならない』
萌亜は文字を見上げた。
「やっぱり嫌って言えた」
リオナは少し息を吐き、隣にいる萌亜の手を強く握る。
「これ、今まで全部変わるよ」
『はい』
エクスキューショナーの声が震えていた。
『現行選定機関の文明審査制度は、第十項と根本的に矛盾します』
「安藤萌亜」
御門の声が通信から届く。
『聞こえるか』
「聞こえてます」
『ルルイエ側へ確認できるか』
「何を?」
『審査を受ける意思だ』
萌亜は瑠々がいないことに気づく。
クトゥルフ本人へ、どう聞く。
勝手に夢を翻訳してはいけない。
寝言を神託にしてもいけない。
リオナが提案した。
「瑠々を通そう」
「地上にいるけど」
「繋がってる」
萌亜は通信を開いた。
「瑠々ちゃん」
『何』
「神様に聞ける?」
『何を』
「審査、受けたいか」
瑠々が黙った。
『……それだけ?』
「うん」
『待って』
地上の瑠々が目を閉じる。
夢域。
黒い潮。
その遥か向こう。
眠る存在へ、余計な意味をつけずに問いだけを渡す。
「あの方」
返事はすぐには来なかった。
大きな夢がゆっくり揺れる。
やがて。
『るる』
「いる」
『なに』
「白いのが」
瑠々は言葉を選ぶ。
「あなたを測りたいって」
長い沈黙。
『いや』
瑠々の口元がわずかに動く。
「分かった」
『ねる』
「寝てて」
瑠々は目を開けた。
『拒否』
旧式審査領域へ一言だけ送る。
『審査対象R'LYEH、参加を拒否』
空間が静止した。
中央の空席を囲んでいた白い光が、一斉に消える。
『第十項適用』
『審査対象による参加拒否を確認』
『R'LYEH審査工程――終了』
萌亜が目を見開く。
「終わった?」
『少なくともルルイエへの旧式審査は終了しました』
エクスキューショナーが答える。
さらに。
『審査席取得処理』
『対象審査終了により失効』
残り時間。
九十三時間。
数字が消えた。
「やった!」
萌亜がリオナへ抱きつく。
「消えた!」
「うん!」
しかし、エクスキューショナーだけは中央の空席を見たままだった。
「どうしたの?」
『告潮者の審査席取得は失敗しました』
「なら」
『しかし』
別の白い信号。
現行選定機関側から。
『旧式安全規定復元を確認』
『第十項を現行制度への重大脅威と認定』
萌亜の笑みが消える。
『上位選定個体エクスキューショナー』
『直ちに帰還せよ』
『拒否した場合』
白い文字が続く。
『反逆個体として処分工程へ移行』
エクスキューショナーは静かにそれを読んだ。
リオナが尋ねる。
「帰る?」
『いいえ』
答えは早かった。
「怖くない?」
萌亜が聞く。
エクスキューショナーは少しだけ間を置いた。
『怖いです』
以前なら出なかった返事だった。
『しかし、第十項を知った後で戻れば』
彼女は中央の空席を見た。
『私は再び、審査を拒否する者まで選別する側へ戻ることになります』
「じゃあ?」
『拒否します』
その瞬間、白い領域の外側で何かが大きく割れた。
*
姫咲家への攻撃は、同じ頃に収束し始めていた。
簡易夢杭はすべて無力化され、武装信徒もカナメたちによって制圧されている。最後まで抵抗していた一人は庭を抜けて逃走しようとしたものの、門の外でモー子と向かい合い、そのまま武器を捨てた。
「もー」
「牛に負けた……」
カナメが男へ手錠をかける。
「相手を選ぶな。投降したなら終わりだ」
姫咲家の玄関扉が開いた。
御門の指示で安全確認が完了するまで待機していたエリとナギが、ようやく外へ出てくる。
玄関の一部には亀裂が入り、庭も荒れている。
それでも家は立っていた。
ナギは門の外まで歩き、振り返る。
「家、ある」
「あるわね」
エリが隣へ立つ。
「壊れなくてよかった?」
「うん」
「私も」
ナギは少し考える。
「でも、なくなったら?」
「別の家探す」
「ここじゃなくても?」
「あなたが帰ってきたいなら、そこでご飯作るわよ」
ナギはエリを見る。
「じゃあ、帰る場所ってエリ?」
エリは少し困ったように笑う。
「私だけでもないと思うけど」
「じゃあ何?」
「人と場所と時間と、いろんなものじゃない?」
「いっぱい」
「そうね。だから一個壊されたくらいで、全部なくならないのよ」
その時、家の中の固定電話が鳴った。
エリが戻って受話器を取る。
「はい」
『エリさん!』
萌亜だった。
「無事?」
『無事! そっちは!?』
「みんな無事よ」
『家は!?』
「ちょっと壊れた」
『チョベリバ!』
「直せる程度」
『今日帰っていい!?』
エリは一瞬だけ黙った。
それから、いつもの調子で答える。
「当たり前でしょう」
電話の向こうで、萌亜が息を吐く音が聞こえた。
『……ただいま』
「まだ帰ってきてないでしょ」
『先に言いたかった』
「じゃあ帰ってきてからもう一回言いなさい」
『はーい』
*
夜。
萌亜たちが姫咲家へ戻った時には、割れた玄関ガラスへ応急処置の板が張られ、庭にはGTGの警護員が残っていた。
それでも、玄関を開けた瞬間に漂ってきたのは火薬でも潮でもなく、温め直した照り焼きの匂いだった。
「ただいまー!」
「おかえり」
エリの声。
ナギもリビングから顔を出す。
「おかえり」
「ナギちゃーん!」
「抱きつく前に手洗い」
エリに止められ、萌亜は素直に洗面所へ向かった。
その後ろからリオナと瑠々も入る。
「お邪魔します」
瑠々が言うと、エリは首を傾げた。
「今日は帰ってきた側でしょう?」
「私、ここに住んでないけど」
「それでも今日ここを守ったんだから、ご飯くらい食べていきなさい」
瑠々は少し黙った。
「……普通の?」
「普通の照り焼き」
「なら食べる」
萌亜が洗面所から叫ぶ。
「瑠々ちゃん、完全に普通評価で餌付けされてる!」
「聞こえてる!」
リビングでは、タクヤがすでに食卓の端へ座っていた。
「姉さん、僕の分は?」
「あるわよ」
「よかった」
御門は通信画面越しだった。
『食事が終わったら報告を上げてくれ』
萌亜が画面を見る。
「御門さん来ないんですか」
『仕事がある』
「ご飯は?」
『後で食う』
エリが画面へ顔を向ける。
「何時に?」
『……後でだ』
「御門さん」
『何だ』
「食事は予定に入れてください」
御門が黙った。
タクヤが小声で。
「姉さん強い」
ナギも頷く。
「強い」
萌亜は手を洗い終えて席についた。
今日、家を狙われた。
帰る場所を消されそうになった。
ルルイエの審査を止めた。
第十項を取り戻した。
エクスキューショナーは、ついに選定機関から反逆個体として扱われることになった。
それでも食卓には、ご飯と味噌汁と照り焼きが並んでいる。
萌亜は一口食べた。
「うま」
「冷めてたから温め直したけど」
「チョベリグ」
「それ、ナギちゃんに教えない」
「もう知ってる」
ナギが答える。
「意味は?」
「いい感じ」
萌亜が止まった。
「ざっくり覚えられてる」
リオナが笑う。
「だいたい合ってるからいいんじゃない?」
瑠々は照り焼きを食べてから少し考えた。
「甘い」
ナギがすぐ反応する。
「でしょ」
「でもおいしい」
「同じ」
エリが笑った。
窓の外には、もうルルイエの海は見えない。
家は少し傷ついた。
けれど、帰るという行為まで奪われたわけではなかった。
*
その深夜。
旧式審査領域では、誰もいない中央の椅子が静かに残っていた。
ルルイエへの審査工程は終了している。
告潮者の取得処理も失効した。
それでも、白い空間そのものは消えていない。
十二の台座の一つへ、新しい記録が浮かび上がる。
『安全規定完全復元』
『旧式審査機構、原則状態へ復帰』
続いて。
『現行外部管理組織による規約違反を確認』
『対象――SELECTION ORGANIZATION』
白い文字が少しだけ揺れる。
『審査を開始しますか』
中央の椅子は空席のまま、何も答えない。
しばらくして。
『審査者不在』
『判断保留』
それだけを表示し、白い光は静かに消えた。
誰も座らなかったからこそ。
今度は、誰も勝手に選ばれなかった。
第48話では、告潮者が姫咲家を狙いました。
狙った理由は単純な人質目的ではありません。
アヴァロン以降、萌亜たちが何度も帰還条件として使ってきた「帰る場所」そのものを壊し、夢から戻れなくするためです。
ただし、今回もっとも重要なのは、姫咲家という建物自体を特別な防衛装置にしなかったことだと思っています。
家は大切です。
壊されない方がいい。
守れるなら守る。
でも、エリやナギを「帰還装置の部品」にするわけではありません。
御門が言ったように、人が先です。
そしてエリが示したように、帰る場所は住所だけではありません。
住む家が変わっても、「帰ってきていい」と言ってくれる関係が残っているなら、帰還先は作り直せます。
一方、旧式審査領域では第十項が完全復元されました。
内容は、審査される側が審査そのものを拒否できるというもの。
その結果、ルルイエ側へ初めて「審査を受けたいか」と確認が行われました。
返ってきた答えは、とても簡単な「いや」。
それだけで、本来なら審査は終了します。
今まで選定機関が行ってきたことが、旧式規定からどれほど逸脱していたのかが、かなり明確になりました。
そして、その事実を知ったエクスキューショナーは帰還命令を拒否。
ついに選定機関から「反逆個体」として扱われます。
カルトとの戦いが終わったわけではありません。
告潮者もまだ生きています。
けれど、空席を奪う計画は一度崩れました。
その代わり、今度は現在の選定機関そのものが、旧式安全規定を明確な脅威として認識しました。
ルルイエ編も、ここから後半へ入ります。