アクアとして死んだ俺、今度は星野アイとして嘘をつく   作:推しになっちゃった笑

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迎えに来ない人

 

 

 車の窓に、知らない街が流れていた。

 

 職員の車は静かだった。ラジオもついていない。エンジンの低い音と、時々タイヤが道路の継ぎ目を越える音だけが、狭い車内に残っている。俺は後部座席に座り、小さな鞄を膝の上で抱えていた。

 

 鞄は軽かった。

 

 替えの服が少し。使い古したヘアゴム。名前の書かれた書類。持ってきたものを数えようとして、すぐにやめた。数えたところで、星野アイが持っていたものの少なさを確認するだけだった。

 

「気分、悪くない?」

 

 運転席の職員が、ミラー越しに聞いてきた。

 

「大丈夫」

 

 いつもの言葉が、すぐに口から出た。

 

 職員は少しだけ黙った。たぶん、今の「大丈夫」をそのまま受け取ってはいない。大人の仕事として、子どもの言葉の裏を見る目をしている。それが分かったから、俺はそれ以上何も言わなかった。

 

 窓の外を見続ける。

 

 家から離れていく道を、目で追っていた。どこかで母が歩いているかもしれない。店の前か、駅の近くか、知らない路地か。そんな可能性を考えている自分が馬鹿らしいのに、視線は勝手に人影を探していた。

 

 大人の頭は分かっている。

 

 母は帰ってこなかった。俺は放置され、保護される立場になった。これから連れていかれる場所の方が、少なくとも安全だ。食事もある。布団もある。大人の目もある。

 

 なのに、身体は家へ戻りたがっていた。

 

 母が帰ってきた時、誰もいなかったらどうするのか。母が俺を探したらどうするのか。そんな都合のいい想像が、胸の内側にしつこく残っている。

 

 俺は膝の上の鞄を握った。

 

 母は、俺を探すだろうか。

 

 答えは出なかった。

 

 車はしばらく走り、やがて白っぽい建物の前で止まった。古いが、手入れはされている。玄関の前には小さな花壇があり、薄い色の花が並んでいた。家ではない。病院でもない。けれど、誰かの生活を一時的に置いておく場所の匂いがした。

 

「着いたよ。今日はここで休もうね」

 

 職員は優しく言った。

 

 今日は。

 

 その言葉に、俺は少しだけ引っかかった。今日だけでは終わらないかもしれない。いや、終わらない可能性の方が高い。そう分かっていても、今は頷くしかない。

 

「うん」

 

 車を降りると、風が冷たかった。俺は鞄を抱え直す。職員が玄関へ向かい、インターホンを押した。すぐに中から別の職員が出てくる。

 

 その人は俺を見ると、一瞬だけ目を止めた。

 

 まただ。

 

 驚き、同情、少しの困惑。大人たちは、俺を見るたびに似たような顔をする。幼い子どもに向ける心配の奥で、星野アイの顔に引っかかる。俺はその視線に慣れたくなかった。

 

「星野アイちゃんですね」

 

「……はい」

 

「中に入りましょう。寒かったね」

 

 寒かったのは本当だった。けれど、それよりも手の中の鞄が軽いことの方が気になっていた。

 

 建物の中は、外よりずっと暖かかった。廊下には消毒液と洗剤の匂いが混じっている。壁には子どもが描いたらしい絵が貼られていた。色鉛筆で描かれた家や花や動物。その明るさが、今の俺には少し眩しい。

 

 小さな部屋に通され、名前と年齢を確認された。体調も聞かれた。どこか痛いところはあるか。眠れたか。ご飯は食べたか。職員の質問は丁寧だったが、俺が子どもとして扱われていることを何度も突きつけてきた。

 

 当然だ。

 

 今の俺は幼い星野アイなのだから。

 

「昨日の夜から、お母さんは帰ってきていないんだね」

 

「うん」

 

「お母さんの行き先、心当たりはある?」

 

「分からない」

 

「お母さんがよく行く場所とか、会う人とかは?」

 

 俺は首を横に振った。

 

 本当に分からなかった。情けないほど、何も知らない。母の仕事先も、交友関係も、頼れる相手も曖昧だ。子どもの立場では知りようがないことも多い。けれど、中身が大人であるせいで、知らないこと自体がひどく無力に感じられた。

 

 職員はメモを取りながら、俺の顔を見た。

 

「分かった。大丈夫。大人の方で確認するからね」

 

 大丈夫。

 

 その言葉を他人から言われると、胸の奥が変なふうに痛んだ。俺が言う「大丈夫」とは違う。職員のそれは、子どもを安心させるための言葉だった。

 

 俺は頷いた。

 

 その後、持ち物を確認された。鞄の中身を机の上に並べる。服。ヘアゴム。書類。小さな袋に入った菓子。近所の女性が持たせてくれたものだ。

 

「これだけ?」

 

 職員は、責めるようには言わなかった。けれど、驚きは隠しきれていなかった。

 

「うん」

 

「大事なものとか、他に持ってきたいものはあった?」

 

 俺は少し考えた。

 

 何も浮かばなかった。

 

 家に戻れば、母の使っていた化粧道具や服、欠けた皿、薄い布団はある。けれど、それは俺の大事なものではない。星野アイが大事に持っていたものが何か、俺には分からなかった。いや、もしかすると最初からなかったのかもしれない。

 

「ない」

 

 答えると、職員は目を伏せた。

 

「そっか」

 

 その短い言葉が、やけに重かった。

 

 案内された部屋には、小さな机と椅子があった。奥には布団が畳まれている。俺一人の部屋ではないらしいが、今は誰もいなかった。職員はここで少し休んでいいと言い、何かあったら呼ぶようにと伝えて出ていった。

 

 扉が閉まると、急に静かになった。

 

 俺は椅子に座ったまま、部屋の中を見回した。清潔だ。危険なものはない。布団もある。水も飲める。昨日の家より、ずっと安全な場所だった。

 

 それなのに、落ち着かない。

 

 安全だから落ち着かないのかもしれない。家にいた時は、母の機嫌や食事や戸締まりを気にしていればよかった。ここでは、何を気にすればいいのか分からない。誰も怒鳴らない。誰も面倒だと言わない。その静けさが、かえって怖い。

 

 廊下から子どもの声が聞こえた。

 

 何人かが近づいてきて、扉の前で足音が止まる。小声で何かを話している。俺は椅子に座ったまま、扉を見る。

 

「新しい子?」

 

「女の子?」

 

「見た?」

 

 声は幼い。悪意というより好奇心だ。けれど、視線を向けられる予感だけで、身体が少し強張る。

 

 扉が少し開いた。

 

 同じくらいの年の子どもと、少し年上の子どもが顔を出す。俺と目が合った瞬間、二人とも黙った。片方はぽかんと口を開け、もう片方は少し眉を寄せる。

 

「……お人形みたい」

 

 小さい方の子が呟いた。

 

 俺は返事に困った。褒め言葉として受け取ればいいのか、距離を取ればいいのか分からない。星野アイの容姿は、子ども相手でもこういう反応を引き出すらしい。

 

「名前、なに?」

 

「アイ」

 

「アイちゃん?」

 

「うん」

 

「なんで来たの?」

 

 年上の子が聞いた。

 

 悪気はないのだろう。けれど、その質問はまっすぐすぎた。俺は少しだけ黙った。母が帰ってこなかったから。家に一人でいたから。保護されたから。どれも事実だが、子ども相手にそのまま言うには重い。

 

「ちょっとだけ、ここで待つことになった」

 

 そう答えると、年上の子が鼻を鳴らした。

 

「みんな最初はそう言うよ」

 

 その言葉に、空気が少し変わった。

 

 小さい子が年上の子の袖を引く。言いすぎだと思ったのかもしれない。年上の子は俺から目を逸らし、わざとらしく肩をすくめた。

 

「別に、意地悪じゃないし」

 

「うん」

 

 俺は頷いた。

 

 その反応が予想外だったのか、年上の子はまた俺を見た。

 

「泣かないの?」

 

「泣いた方がいい?」

 

「知らない。普通、泣くじゃん」

 

 普通。

 

 その言葉が引っかかった。

 

 普通の子どもなら泣くのかもしれない。母がいなくなり、知らない場所に連れてこられ、知らない子どもに囲まれたら泣くのかもしれない。けれど俺は、泣くタイミングを逃してしまった。

 

 泣いていい身体なのに、泣けない中身が入っている。

 

「泣いたら、困るでしょ」

 

 そう言うと、年上の子が少しだけ目を見開いた。

 

 しまった。

 

 子どもらしくない返事だった。慌てて笑おうとする。場を柔らかくするための笑顔。怖がらせないための笑顔。相手の顔色を整えるための笑顔。

 

「大丈夫だから」

 

 俺はそう言って、少しだけ笑った。

 

 小さい子の表情が緩む。年上の子も、何か言い返そうとして口を閉じた。廊下の空気が、ほんの少しだけ和らいだのが分かった。

 

 使えてしまう。

 

 その事実が気持ち悪かった。

 

 星野アイの笑顔は、まだ下手でも人の感情を動かす。俺が意識して作れば、子ども相手ですら空気を変えてしまう。便利だ。危険なほど便利だ。

 

 だからこそ、怖い。

 

 職員が戻ってきて、子どもたちは散っていった。俺は何事もなかったように椅子に座り直す。職員は俺の顔を見て、少し安心したようだった。

 

「少し話せた?」

 

「うん」

 

「疲れたら無理しなくていいからね」

 

「大丈夫」

 

 また言ってしまった。

 

 職員は苦笑に近い顔をした。

 

「アイちゃんは、大丈夫ってよく言うんだね」

 

 俺は返事に詰まった。

 

 そうなのだろうか。俺がそう言っているのか、星野アイの身体がそう言わせているのか、もう分からない。ただ、大丈夫と言えば大人は少し安心する。安心した大人は、こちらを深く見ないでくれる。

 

 だから、口が勝手に選ぶ。

 

「……癖かも」

 

 そう答えると、職員は何かを言いかけてやめた。

 

 昼食は温かかった。

 

 白いご飯と、味噌汁と、煮物。特別な料理ではない。けれど、きちんと誰かが作った食事だった。俺は箸を持ち、少しずつ食べる。身体が空腹だったことに、食べ始めてから気づいた。

 

 温かいものが胃に落ちると、急に眠くなった。

 

 昨夜ほとんど眠れていない。緊張も続いていた。子どもの身体は、限界が来るのも早い。職員に促され、俺は布団に横になった。

 

 少し眠ったらしい。

 

 目を覚ますと、部屋の明るさが変わっていた。夕方に近い。廊下から食器の音が聞こえる。誰かが笑う声もする。安全な場所の音だった。

 

 俺は起き上がり、無意識に聞いた。

 

「お母さんから、連絡あった?」

 

 職員はちょうど部屋に入ってきたところだった。俺の言葉を聞いて、一瞬だけ足を止める。

 

 その反応で、答えは分かった。

 

「……まだ、ないよ」

 

 声は優しかった。

 

「でも、確認は続けてるからね。何か分かったら、ちゃんと伝える」

 

「うん」

 

 俺は頷いた。

 

 大丈夫、と言おうとして、やめた。大丈夫ではないことくらい、もう職員にも分かっている。それでも何か言わなければ、相手の顔が曇る気がした。

 

 だから、笑った。

 

「ありがとう」

 

 職員は痛そうな顔をした。

 

 俺はその顔を見て、失敗したと思った。安心させるために笑ったはずなのに、逆に痛ませてしまった。嘘の使い方がまだ下手なのだ。星野アイの笑顔は、いつか誰かを騙せるくらい綺麗になる。けれど今は、痛々しいだけの作り笑いだった。

 

 夕食後、もう一度母のことを聞かれた。

 

 連絡先。知っている親族。母の仕事。よく行く場所。俺は分かる範囲で答えたが、どれも曖昧だった。職員たちは責めなかった。ただ、記録を取っていく。

 

 自分の人生が、紙の上に整理されていく。

 

 母がいない。生活が不安定。子どもが一人で残されていた。相談歴あり。保護継続の必要あり。

 

 言葉にすると簡単だ。

 

 けれど、その簡単な言葉の下に、星野アイの身体が待っていた夜がある。

 

 夜になり、仮の寝室へ案内された。

 

 布団は清潔だった。昨日の布団よりずっと厚い。部屋には俺以外にも二人の子どもがいたが、職員が今日は疲れているからと声をかけ、余計な質問は止めてくれた。

 

 電気が消える。

 

 完全な暗闇ではない。廊下の灯りが少しだけ入っている。俺は布団の中で目を開けたまま、耳を澄ませた。

 

 玄関の音はしない。

 

 代わりに、廊下の足音がする。職員が見回りをしているのだろう。誰かが小さく寝返りを打つ音も聞こえる。家ではない場所の夜。母のいない夜。

 

 俺はもう母がすぐ戻るとは思っていない。

 

 それでも、足音が近づくたびに身体が反応する。母かもしれない。そんなはずがない。そう分かっているのに、心臓が小さく跳ねる。

 

 迎えに来る人ではない。

 

 その言葉が、頭の中に浮かんだ。

 

 母は、俺を迎えに来る人ではないのかもしれない。帰ってくる人ではないのかもしれない。そう認めかけた瞬間、胸の奥がぎゅっと痛んだ。

 

 俺は星野アイではない。

 

 そう言いたかった。

 

 俺は雨宮吾郎で、星野アクアだった。母に置いていかれた幼い少女ではない。だから、この痛みは俺のものではない。そう切り離したかった。

 

 けれど、身体は切り離してくれなかった。

 

 母を待つ痛みは、この身体の奥に残っている。俺がどれだけ理屈を並べても、星野アイの身体は母を待つことをやめられない。

 

 翌日、職員から説明を受けた。

 

「アイちゃん、しばらく別の施設で生活することになると思う」

 

 言い方は柔らかかった。だが、意味は明確だった。一時的にここで待つ段階から、もう少し長く生活する場所へ移る。家には戻らない。少なくとも、すぐには。

 

「お母さんが迎えに来たら?」

 

 また、聞いてしまった。

 

 聞くつもりはなかった。答えは分かっている。迎えに来るかどうかは分からない。来たとしても、すぐに一緒に暮らせるとは限らない。そんなことは、頭では分かっていた。

 

 職員は困ったように、でも丁寧に答えた。

 

「その時は、ちゃんとお話するよ。アイちゃんが安全に暮らせることが一番大事だから」

 

 迎えに来る、とは言わなかった。

 

 俺はその空白を理解した。

 

「分かった」

 

 そして笑った。

 

 職員の表情がまた痛そうに揺れる。俺はそれを見て、もう笑わない方がいいのかもしれないと思った。でも、笑わなければどういう顔をすればいいのか分からなかった。

 

 泣けばいいのか。

 

 怒ればいいのか。

 

 母を責めればいいのか。

 

 どれも選べないから、星野アイの顔は笑おうとする。

 

 数日後、俺は児童養護施設へ移ることになった。

 

 荷物は相変わらず軽かった。最初に持ってきた小さな鞄に、ここで渡された服が少し増えただけだ。職員は優しかった。子どもたちも、完全に悪い子たちではなかった。けれど、ここは通過点でしかない。

 

 車に乗る前、俺は建物の入口で立ち止まった。

 

 母から連絡はなかった。

 

 その事実を、誰もはっきりとは言わなかった。けれど、言われなくても分かる。大人たちの目線、言葉の選び方、俺に向ける慎重な優しさ。全部が、母はまだ戻らないと告げていた。

 

 俺は車に乗り込む。

 

 窓の外に、一時保護先の建物が遠ざかっていく。ここにも母は来なかった。家にも戻らなかった。なら、次の場所にも来ないのかもしれない。

 

 迎えに来ない人を待つことは、思っていたより身体に残った。

 

 そうして俺は、星野アイとして施設へ入った。

 

 母を待つ癖だけを残したまま。

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