推しキャラを救うために百万回ループした、一人の曇らせアンチの物語 作:UT_man
オリジナル:ファンタジー/恋愛
タグ:R-15 残酷な描写 転生 AI本文利用 曇らせ ゲーム転生 ビターエンド AI利用
与えられた能力は「彼女が生き残るまで終わらないループ」。
何度死んでも、何度絶望しても、諦めない。
これは、たった一人の少女を救うために百万回の人生を費やした男の物語。
佐藤アキラは、モニターに流れるエンディングムービーを見つめながら深く息を吐いた。
部屋に響くのは、パソコンの冷却ファンの低い駆動音だけ。青白い光が、床に積まれたゲーム雑誌や飲みかけのペットボトルをぼんやり照らしている。
時計は深夜一時を回っていた。だが、そんなことはどうでもよかった。
問題は、画面の中で終わりを迎えた物語だった。
『ラスト・オブ・エデン』
三年前に何気なく始めたソーシャルゲーム。
重厚なシナリオと魅力的なキャラクターで人気を博した作品であり、アキラもサービス開始から追い続けてきた古参プレイヤーの一人だ。
そして今、その物語は幕を閉じた。
災厄は討たれ、戦争は終わり、人々は平和を取り戻す。
主人公たちはそれぞれの未来へ歩き出し、旅の苦難は報われた。
誰もが救われる大団円。
――ただ一人を除いて。
「……だからなんでそうなるんだよ」
呟きは静かな部屋に溶けた。
画面の中では、ヒロインのエリスが穏やかに微笑んでいる。
どこまでも優しく、静かな笑顔。
だがアキラは知っていた。それが、生者のものではないことを。
エリスは死んだ。
世界を救うために。仲間たちの未来を守るために。愛する人々が笑って生きられるよう、自らの命を差し出して。
物語としては美しいのかもしれない。実際、SNSには絶賛の声が溢れていた。
『最後のエリスの笑顔で泣いた』
『神シナリオだった』
『これ以上ない完璧な終わり方』
『自己犠牲エンドが美しすぎる』
多くのプレイヤーが感動の余韻に浸っている。
だがアキラには受け入れられなかった。
三年間、彼はエリスという少女を見続けてきた。
幼くして両親を失い、それでも誰も恨まず前を向き続けた少女。親友に裏切られ、故郷を焼かれ、それでもなお誰かのために立ち上がり続けた少女。
そんな彼女が、最後には世界のために命を差し出す。
あまりにも救いがなかった。
だから思う。
――もう十分だろう、と。
これ以上、この子から何を奪うつもりなんだ。
「最後くらい幸せになったっていいじゃねえか……」
椅子にもたれながら呟く。
アキラがエリスに惹かれたのは見た目だけではない。
不器用な優しさ。
誰よりも弱いくせに、誰よりも他人のために無茶をするところ。
そういうところが好きだった。
だからエリスが曇らされるたび、本気で腹を立てた。
SNSでは少しばかり有名だった。アカウント名は『曇らせ絶対許さないマン』。
『またエリスが曇ってるんだが?』
『脚本家に人の心はないのか?』
『エリスを幸せにしろ』
『もう十分苦しんだだろ』
そんな投稿を繰り返した結果、同じエリス推しの間では半ば名物扱いされている。
そして今日もまた同じだった。
スマホを取り出し、慣れた手つきでSNSを開く。
打ち込んだ言葉は一つ。
『エリスを救わせろ』
投稿した瞬間から通知が鳴り始める。
共感のコメントが次々と流れてくるが、気持ちは少しも晴れなかった。
どれだけ文句を言おうと、エリスはもう死んでいる。
画面の向こうで微笑んでいるだけだ。
アキラはスマホをベッドへ放り投げ、立ち上がった。
このままでは眠れそうにない。コンビニで何か買って、夜風に当たろう。
そんな軽い気持ちだった。
上着を羽織り、財布だけを持って部屋を出る。
深夜の住宅街は静かだった。
街灯に照らされた道を歩きながら、アキラはまだエリスのことを考えていた。
もし自分があの世界へ行けたなら、もし物語に介入できたなら、絶対にエリスを死なせたりしないのに。
そんな叶うはずのない妄想をしていた、その時だった。
交差点へ差しかかり、青信号を確認して横断歩道へ踏み出す。
視界の端で異様な光が弾けた。
反射的に振り向く。
大型トラックだった。
こちらへ向かって突っ込んできている。
「――え?」
理解するより早く衝撃が襲った。
身体が宙へ投げ出される。
空とアスファルトと街灯の光が入り乱れる中、アキラは不思議なほど冷静だった。
ああ、死ぬんだな。
最後に浮かんだのは家族でも友人でもない。ただ一人の少女だった。
「……エリス」
その名を口にした直後、アキラの意識は暗闇へ沈んだ。
◆◆◆◆◆
アキラは後になっても、エリスと初めて出会った日のことを忘れられなかった。
王都中央広場。
噴水の前に立つ彼女は、原作そのままの姿だった。
陽光を受けて輝く金髪。澄んだ青い瞳。そして人を安心させる柔らかな笑顔。
何百時間も画面越しに見てきた姿。
それなのに実際に目の前へ現れた瞬間、アキラの頭は真っ白になった。
「……エリス」
思わず漏れた声に、少女が不思議そうに首を傾げる。
「えっと……私のこと、知ってるんですか?」
胸の奥が熱くなった。
画面の向こうにいた少女が、今こうして自分に話しかけている。
三年間追い続けた推しが、確かにそこにいる。
「いや、その……」
言葉が出てこない。
初対面のはずなのに、そんな気がしなかった。
「ごめん。ちょっと驚いて」
どうにか笑うと、エリスも小さく笑った。
「ふふ、変な人ですね」
その笑顔を見て、アキラは思う。
まだ間に合う、と。
彼女はまだ何も失っていない。
原作で待ち受ける悲劇も、絶望も、まだ訪れていない。
今なら救える。
本気でそう信じていた。
最初の悲劇を防ぐのは簡単だった。
原作第一章。
王都騎士団に潜んでいた内通者の裏切り。
本来ならこの事件でエリスは仲間を失い、後悔を抱えながら旅へ出ることになる。
だがアキラは犯人を知っていた。名前も動機も、隠された証拠の場所も。
だから先回りした。
事件は起こる前に解決した。
裏切りは防がれ、仲間は生き残り、エリスは泣かなかった。
完璧だった。
これならいける。原作を知っている自分なら、すべて防げる。
そう思っていた。
だが運命は、想像以上に悪質だった。
裏切り事件が消えたことで、本来は表に出なかった問題が別の形で噴き出した。
外交関係が悪化し、小競り合いが国境紛争へ発展する。
そして戦争が始まった。
原作には存在しない戦争だった。
炎に包まれた街を前に、アキラは立ち尽くす。
知らない、こんな展開は知らない。
その困惑を嘲笑うように、崩れた建物がエリスの上へ落下した。
血が舞う。
少女の姿が瓦礫の下へ消える。
アキラは声も出せなかった。
次の瞬間、世界が暗転した。
目を覚ますと、そこは王都の宿屋だった。
第一話と同じ朝、同じ部屋、同じ時間。
そして――生きているエリス。
しばらく天井を見つめたまま動けなかった。
夢ではない。
本当に戻っている、本当にループしたのだ。
そして理解する。
これはゲームではない。
原作知識だけで攻略できる物語でもない。
運命そのものが、エリスを死へ導こうとしている。
だが、だからどうした。
アキラは立ち上がった。
一度失敗しただけだ、二度目がある。三度目も四度目もある、何度だってやり直せる。
なら、いつか必ず辿り着けるはずだ。
エリスが生き残る未来へ。
◆◆◆◆◆
十回目のループで、アキラはついに戦争そのものを防いだ。
外交関係の悪化を招く事件を潰し、裏で糸を引いていた貴族たちの不正も暴く。その結果、国境の緊張は解け、本来なら戦火に包まれるはずだった地域も平穏を保った。
今度こそ成功だと思った。
エリスは元気だった。仲間たちも生きている。
誰も死んでいない。
これで終わるはずだった。
だが、そうはならなかった。
王都で原因不明の疫病が流行した。原作には存在しない災厄だった。
最初は数人の体調不良だったものが、瞬く間に街全体へ広がる。
当然、エリスは動いた。
苦しむ人々を見捨てられる少女ではない。
昼も夜もなく患者の元を回り、自らの身を顧みず治療を続けた。
そして最後には、自分が倒れた。
アキラが解毒薬を完成させた時には、すでに遅かった。
ベッドの上で苦しげに息を吐きながら、それでもエリスは微笑んだ。
「大丈夫ですよ」
その言葉を聞いた瞬間、アキラは初めて感情を爆発させた。
「大丈夫なわけあるか!」
エリスは目を丸くし、それから少し困ったように笑った。
それが最後だった。
次の瞬間、世界は暗転した。
気付けば宿屋のベッドの上。
十一回目の朝だった。
それからも失敗は続いた。
暗殺、魔物の暴走、崩落事故、誘拐、飛竜災害、侵略戦争。
どれだけ未来を変えても、どれだけ悲劇を潰しても、エリスは必ず死んだ。
まるで世界そのものが、彼女の生存を拒んでいるかのように。
百回目を超えた頃には、原作知識だけでは足りないと理解していた。
だから学んだ。
剣術、魔法、歴史、政治、経済、暗殺術、貴族社会の権力構造。
一度死ねば肉体は失われるが、それでも知識だけは積み重なる。
学ばない理由はなかった。
百年分の人生を重ねる頃には、アキラはもはや普通の人間ではなくなっていた。
それでも届かない、どれだけ強くなっても届かない。
エリスだけが救えない。
五百回目のループで、アキラは原作そのものを崩壊させた。
本来出会うはずの仲間を引き離し、戦争を未然に潰し、黒幕を物語の始まる前に始末した。
もはや原作の面影すら残っていない。
そこまでやれば運命も変わると思った。
だが結果は同じだった。
平和な街道を歩いていたエリスは、落石事故で死んだ。
本当に、それだけだった。
戦争も陰謀もない、魔王も黒幕も関係ない。
ただ石が落ちてきた。
それだけで終わった。
アキラはしばらく動けなかった。
何百回も積み重ねた努力が、たった一つの偶然で消え去ったからだ。
そして理解した。
世界は原因を求めているわけではない、結果だけを求めている。エリスが死ぬという結果だけが固定されているのだと。
その頃から、アキラは笑わなくなった。
ループのたびに新しい人生を送った。
友人ができた、家族ができた、恋人ができたこともあった。
だが、すべて途中で手放した。
エリスを救えなければ意味がない。
そう考えるようになっていた。
千回目のループを迎える頃には、自分が何歳なのかも分からなくなっていた。
積み重ねた人生は、すでに数万年を超えている。
それでも諦められなかった。
宿屋の窓から見える王都の景色は、初めてこの世界へ来た日と何も変わらない。
変わったのはアキラだけだった。
彼の中に残っているものは、もう一つしかない。
エリスを救う。
その執念だけだった。
◆◆◆◆◆
いつからだったのか、アキラ自身にも分からなかった。
エリスを救うためにループを重ねるうち、少しずつ何かが変わっていた。
最初の頃、彼にとって重要だったのは攻略だけだった。
どの事件が起こるのか、誰が死ぬのか、どの選択をすれば被害を減らせるのか。
頭の中を占めていたのは、そんな情報ばかりだった。
エリスもまた、「救うべきヒロイン」の一人でしかなかった。
だが、それは長く続かなかった。
どれだけ完璧な手順を組み立てても、エリスは死ぬ。
どれだけ未来を変えても、結末だけは変わらない。
ならせめて。
生きている間だけでも幸せでいてほしい。
そう考えるようになったのは、いつ頃からだっただろう。
あるループでは、収穫祭へ一緒に出掛けた。
本来なら調査に使うはずだった一日だった。
それでも、その時のアキラはエリスを祭りへ連れて行きたかった。
色とりどりの屋台、響く笑い声。
賑わう広場の中で、エリスは子供のようにはしゃいでいた。
「見てください、アキラさん!」
焼き菓子の袋を抱えながら、楽しそうに手を振る。
「このお店、すごくいい匂いがするんです!」
「さっきも同じこと言ってただろ」
「だって本当にいい匂いなんですもん」
頬を膨らませる姿が可笑しくて、アキラは思わず笑った。
その時のエリスは英雄でも聖女でもなかった。世界を救う運命を背負ったヒロインでもない。
ただの少女だった。
それが嬉しかった。
また別のループでは、二人で長い旅をした。
急げば数日で着く道を、わざと遠回りする。
森を抜け、川を渡り、小さな村へ立ち寄る。宿屋で食事をして、焚き火を囲みながら星を眺める。
そんな時間が好きだった。
「アキラさんって、不思議な人ですよね」
ある夜、焚き火の向こうでエリスが言った。
「どうして?」
「時々、すごく遠くを見るような顔をするんです」
胸が小さく跳ねた。
何千回も繰り返した人生のことなど話せるはずがない。
彼女の死を、何度見送ったかも。
「気のせいだよ」
「そうでしょうか」
エリスは首を傾げたが、それ以上は聞かなかった。
代わりに夜空を見上げながら呟く。
「でも、アキラさんと一緒にいると安心するんです」
その言葉が胸に刺さった。
彼女は知らない。
収穫祭を歩いたことも、旅をしたことも、雨宿りをしたことも、笑い合ったことも。
すべて忘れている。
覚えているのはアキラだけだった。
どれだけ大切な時間を積み重ねても、ループが終われば消えてしまう。
次の人生でエリスはまた初対面の笑顔を向けてくる。
最初の頃は苦しかった。
何年もかけて築いた信頼が、一瞬で失われることが。
思い出が最初から存在しなかったことになることが。
だが、やがて慣れた。慣れてしまった。
そしてある時、ふと気付いた。
自分はもう「推しキャラ」を救おうとしているわけではない。
画面の向こうにいたヒロインを救いたいのではない。
エリスを救いたいのだ。
泣き虫で、少し頑固で、誰かのために無茶をして、焼き菓子が好きで、困っている人を放っておけなくて、笑うと少しだけ目尻が下がる。
そんな一人の少女を。
気付いた瞬間、アキラは動けなくなった。
それは認めたくなかった感情だった。
認めてしまえば、この恋は最初から叶わない。
何千回一緒に過ごしても、エリスにとってアキラは出会って数ヶ月の友人でしかない。
積み重ねた時間が違いすぎる。
覚えているのは自分だけだ。
それでも。
それでもアキラは、彼女と過ごす時間をやめられなかった。
どうせ次のループで消えてしまうとしても。
また忘れられるとしても。
少しでも笑ってくれるなら、それでよかった。
だから今日も王都の広場へ向かう。
そこには何も知らないエリスがいる。
初めて会った時と同じ笑顔で、初めて会った時と同じ声で。
「こんにちは」
そう言って。
アキラもまた、何千回目になるかも分からない出会いを繰り返すのだった。
◆◆◆◆◆
十回や百回ではない。
千回でも、一万回でもない。
アキラはもう、自分が何回ループしたのか覚えていなかった。
最初の頃は記録をつけていた。
どの選択が失敗だったのか、どの事件が悲劇を招いたのか、誰が鍵を握っているのか。
そうして情報を整理し、次の人生へ活かそうとしていた。
だが、その作業もいつしか意味を失った。
知識は十分すぎるほど集まっていた。
歴史も、政治も、魔法も、戦術も。もはやこの世界の誰より理解していると言っていい。
それでも結果だけは変わらなかった。
エリスは死ぬ。
どんな未来でも、どんな人生でも、必ず。
ある時は病で、ある時は戦場で、ある時は暗殺で、ある時は事故で。
寿命を全うしたことすらあった。
それでも最後には世界を救うために命を差し出していた。
結末だけが変わらない。
何十万回もの人生を重ねた末に、アキラは一つの違和感へ辿り着いた。
死因ではない、死ぬ場所でもない、死ぬ時期でもない。
もっと根本的なものだった。
どんな歴史でも、最後には必ず災厄が現れる。
形は違う。原因も規模も違う。
それでも世界を滅ぼす何かが現れ、そのたびにエリスが命を差し出す。
そこだけは一度も変わらなかった。
まるで世界そのものが、その結末を求めているように。
その仮説を抱いてから、アキラは研究に没頭した。
エリスを救うためではない。
世界の仕組みを知るために。
神話を調べた、禁書を読み漁った、失われた遺跡を巡った、封印された魔導書を解析した、歴代英雄の記録を追い続けた。
そのために何度も死んだ。何百年も費やした。
それでも調べ続けた。
そして――数十万回目の人生で、ついに答えへ辿り着く。
世界の最果て、神代の遺跡。
そこに刻まれた古代文字を解読した瞬間、アキラは長い沈黙の後で笑った。
「そういうことかよ……」
掠れた声が石造りの空間に響く。
そこに記されていたのは、この世界の成り立ちだった。
遥かな昔。
世界は一度、滅びかけた。
あらゆる生命を呑み込む終末の災厄によって。
それを止めたのは一人の少女だった。少女は自らを犠牲にし、世界を存続させた。
だが災厄は消えていない、封じられただけだ。
封印はいずれ弱まる。
そして再び、同じ役目を担う者が必要になる。
世界を支える楔、災厄を封じるための生贄、その役割を受け継ぐ存在。
それが――エリスだった。
アキラは動けなかった。
理解したくなかった。
だが理解してしまった。
世界が彼女の死を必要としている。
それがすべてだった。
戦争を止めても、病を防いでも、暗殺を阻止しても、事故を回避しても。
世界は必ず別の道を用意する。
最後にエリスを犠牲へ辿り着かせるために。
アキラは壁にもたれ、そのまま座り込んだ。
乾いた笑いが漏れる。
何十万回も人生を費やした。
何十万回も足掻いた。
その答えがこれだった。
最初から勝てない。
世界そのものが敵だったのだから。
「ふざけるなよ」
神か、運命か、世界そのものか。
誰へ向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
「なんであいつなんだよ」
エリスは優しかった。
誰かのために泣ける人間だった。自分より他人を優先してしまう人間だった。
だから選ばれたのだろう。
だから犠牲になれるのだろう。
そんな理屈を認められるはずがなかった。
拳を握る。
血が滲むほど強く。
それでも怒りは収まらない。
――その時だった。
視線が遺跡の最奥へ向く。
崩れかけた石碑。
先ほどまでは見落としていた一節。
そこには、こう刻まれていた。
――楔は継承可能である。
アキラは目を見開いた。
心臓が大きく脈打ち、震える指で続きを追う。
――資格を持つ魂が存在するならば。
――世界を支える役割は移譲できる。
――代償は同等の魂一つ。
呼吸が止まった。
遺跡には誰もいない。
その沈黙の中で、アキラは石碑を見つめ続ける。
長い、長い時間。
やがて。
「……なんだ」
小さな声が漏れた。
笑いにも似ていた。
安堵にも似ていた。
あるいは諦めだったのかもしれない。
「最初から、俺が代わればよかったのか」
その呟きは静かな闇へ溶けていく。
数十万回探し続けた答えは、あまりにも単純だった。
◆◆◆◆◆
百万回目だった。
少なくともアキラはそう数えていた。
本当は途中で何度も間違えているかもしれない。
何千年も生きた人生もあれば、一日で終わった人生もあった。
それでも、この人生を百万回目と呼ぶことにした。
もう終わりにすると決めていたからだ。
王都の広場では収穫祭の準備が進んでいた。
見慣れた光景だった。見飽きるほど見てきた光景だった。
それでも嫌いにはなれない。
職人たちの声、子供たちの笑い声、甘い菓子の匂い、夕日に染まる石畳。
そのすべてが、エリスの生きる世界だった。
「アキラさん?」
聞き慣れた声に振り返る。
そこにはエリスがいた。
初めて会った日と同じ笑顔。
けれどアキラにとっては違う。
何十万回も見てきた笑顔だった。
泣き顔も、怒った顔も、眠そうな顔も、死にゆく顔も。
全部知っている。
「どうかしました?」
「いや」
アキラは小さく笑った。
「なんでもない」
もちろん嘘だった。
この時間の一秒一秒が惜しかった。
もう二度と訪れない時間だから。
この人生が終われば、すべて終わる。
次のループはない。
だからその日、アキラはエリスと過ごした。
特別なことは何もしない。
一緒に祭りを歩く。
焼き菓子を買う。
他愛もない話をする。
夕暮れの広場を並んで歩く。
何十万回も繰り返した時間だった。
それでも最後だと思うと、何もかもが違って見えた。
エリスは今日もよく笑った。
他人の心配ばかりしていた。
困っている人を見かけるたびに立ち止まった。
そんな姿を見ながら、アキラは思う。
やっぱり好きだな、と。
最初は推しだった。
救われてほしいキャラクターだった。
だが今は違う。
ずっと昔に違っていた。
エリスはエリスだ。
誰とも代われない、一人の少女だ。
だから救いたかった。
理由なんて、それだけで十分だった。
数日後。
運命の日が訪れる。
世界の果てで封印が崩壊し、災厄が姿を現した。
空が裂ける。
大地が軋む。
世界中から悲鳴が響く。
何十万回も見てきた終わりの光景。
そしてエリスは前へ出る。
世界を救うために。
自分を犠牲にするために。
それが彼女の運命だった。
――だが、今回は違う。
「駄目です!」
エリスが叫ぶ。
彼女の前にはアキラが立っていた。
本来ならエリスが立つはずだった場所。
世界を支える楔となる祭壇の中心。
そこにいるのはアキラだった。
「どいてください!」
声が震えている。
「私がやらなきゃいけないんです!」
アキラは答えない。
ただ静かに彼女を見る。
きっとこれが最後だ。
「どうしてですか!」
エリスの瞳から涙が零れる。
「どうしてそんなことをするんですか!」
当然だった。
彼女は何も知らない。
ループのことも。
運命の真相も。
アキラが費やした気の遠くなる時間も。
知らなくていい。
そんなものを背負わせたくなかった。
だからアキラは笑う。
できるだけ優しく。
いつものように。
「アキラさん……」
伸ばされた手を見る。
一瞬だけ迷った。
全部話してしまいたくなる。
今までのことを。
どれだけ救いたかったかを。
どれだけ好きだったかを。
けれど、それは違うと思った。
それは自分のための言葉だ。
エリスのためじゃない。
だから。
「エリス」
彼女が顔を上げる。
涙で濡れた瞳が、まっすぐこちらを見ていた。
「俺さ」
一度だけ息を吐く。
そして。
「好きだから」
エリスの瞳が大きく見開かれた。
アキラは少しだけ笑う。
それで十分だった。
次の瞬間。
祭壇が眩い光を放つ。
世界を支える楔が移譲される。
エリスから。
アキラへ。
膨大な力が流れ込む。
存在そのものが世界へ溶けていく。
不思議と痛みはなかった。
ただ穏やかだった。
視界が白く染まる。
身体の感覚が消えていく。
意識が遠のいていく。
その最後の瞬間。
アキラは泣き叫ぶエリスを見た。
そして初めて思った。
――ああ。
救えたんだな。
それが最後だった。
佐藤アキラという存在は、その瞬間に消滅した。
名前も。
記録も。
魂も。
何も残らない。
ただ一つ。
エリスが生きているという結果だけを残して。
◆◆◆◆◆
世界は救われた。
災厄は消え去り、長く人々を脅かし続けた終末の影も消滅した。
戦争はなくなった。
飢えに苦しむ者も減った。
人々は未来を語り、子供たちは明日を信じて眠りにつく。
誰もが望んだ平和だった。
そしてエリスもまた、生きていた。
本来なら世界を救う代償として命を失うはずだった少女は、その運命から解放されている。
友人たちと笑い合い。
祭りを楽しみ。
季節の移ろいを当たり前のように迎える。
そんな日々を生きていた。
それは、かつてアキラが願い続けた光景だった。
何十万回も。
何百万回も。
ただ一度、この未来を見るために。
仲間たちも生きている。
失われるはずだった命は失われず、訪れるはずだった別れも訪れなかった。
誰もが未来へ歩いていく。
物語として見れば、これ以上ないほど幸福な結末だった。
けれど。
その結末へ至るまでの道程を知る者は、もう誰もいない。
アキラという青年がいたことは記録に残っている。
世界を救った英雄として語る者もいる。
だが、それだけだ。
彼が何を積み重ねてきたのか。
何を失ってきたのか。
何を願い続けてきたのか。
知る者はいない。
百万回。
その数字の中には、数え切れない人生があった。
出会いがあった。
別れがあった。
笑った日も、泣いた日もあった。
絶望したこともあった。
諦めそうになったこともあった。
それでも彼は歩き続けた。
たった一人の少女を救うために。
その軌跡は、もうどこにも残っていない。
記録にも。
歴史にも。
人々の記憶にも。
まるで最初から存在しなかったかのように。
ある春の日。
王都では今年も収穫祭が開かれていた。
賑わう広場を歩いていたエリスは、ふと足を止める。
理由は分からない。
ただ、人混みの向こうに誰かを見た気がした。
顔は思い出せない。
名前も分からない。
声も知らない。
それなのに。
胸の奥が少しだけ痛んだ。
懐かしいような。
寂しいような。
そんな感覚だった。
「エリス?」
仲間に呼ばれ、彼女は振り返る。
「どうしたの?」
「……ううん」
エリスは小さく首を振った。
「なんでもない」
そう言って笑う。
優しい笑顔だった。
誰も不幸にならない笑顔。
かつて一人の青年が守り抜こうとした笑顔だった。
エリスは再び歩き出す。
仲間たちの待つ場所へ。
平和な未来の中へ。
もう振り返ることはない。
その必要がないからだ。
彼女は救われた。
だから、それでいい。
たとえ誰にも知られなくても。
たとえ誰にも覚えられなくても。
たった一人の人生が、そのために費やされたとしても。
きっと彼は後悔しなかっただろう。
もしもう一度最初からやり直せたとしても。
きっと同じ道を選ぶ。
同じように足掻き。
同じように苦しみ。
そして最後には、自分のすべてを差し出す。
ただ一人の少女を救うために。
それが佐藤アキラという人間だった。
世界のどこにも記録されなかった百万回の人生。
誰にも語られることのなかった恋。
誰にも知られることのなかった願い。
そのすべてを胸に抱いたまま、一つの物語は静かに幕を閉じる。
――これは、推しキャラを救うために百万回ループした、一人の曇らせアンチの物語である。