前回のザックリとしたあらすじ
彩葉の紹介でかぐやに友達が出来た。嬉しい。
でも最近彩葉が元気無さそう。心配。
だから色々試行錯誤して最終的にプレゼントしたら喜んでくれた。めっちゃ嬉しい。
そして聞こえる人が倒れるような音。
―――トントン。
壁を2回叩く。
5秒待機。反応なし。
―――トントン。
壁を2回叩く。
5秒待機。反応なし。
「……なるほど」
面倒くさいことになったな。
床に転がっているスマホを手に取り今の時刻を確認すると、かぐやが芦花という人物と水着を買いに行ってから2時間ほど経過しているのがわかる。
さらには数分前に昼食を芦花と共に済ませる旨がメッセージアプリを用いて届いている。
つまり、かぐやはまだ帰宅しないということ。
「確認か、放置か」
かぐやがこの場にいない以上、俺が取れる選択肢は2つ。
酒寄の部屋へと侵入し、酒寄の状態を目視で確認すること。あるいは行動を起こさずにこのまま放置すること。
そして今俺がどちらを選択したいかと問われたのならば、答えは1つ。
まず前提として、俺と酒寄の関係性はとても希薄なものだ。なにせ本来はただの隣人でしかないのだから。ただかぐやが俺達の間を隔てている壁を無視してそれぞれの手を引っ張っているから共に行動しているだけだ。
かぐやが望むから俺は協力し、同じ理由かは不明だが酒寄もかぐやが望んだから協力しているのだろう。故に俺達は、かぐやの為に、という共通の理由があるからこそ食事も配信も共にしている。
だが今は、この場にかぐやは
ただ―――
「―――その場合、かぐやがどう出るか」
それを選んだあとのかぐやの行動を考えると、あまりいい手ではないだろう。
いや、むしろ悪いか? かぐやはおそらくだが酒寄に懐いている、と判断していいと思うしな。確証は無いが。多分合ってるとは思うのだがそう思った理由は俺のカンでしかないので、外れていそうな気もする。
靴を履き、玄関を抜ける。
アパートの通路を数歩進み、行き慣れた隣の玄関扉の前に辿り着く。
ピンポーン。
インターホンを押すが反応は無し。まあ、そうだろうな。これで反応を返すようならさっき壁を叩いた時に返事をするだろう。
ドアノブに手をかけて開けようとするが、動かず。当然、カギはかかっている。
「戸締りはしっかりとしている。となれば」
自室へと戻り、窓を開けてベランダに出る。
まさかまたこの経路を使用することになるとは。もう使うことは無いと思ったんだがな。
落下防止の柵に足をかけて跳躍。想定通りに隣室のベランダへと無事に着地。視線を室内の方へと向けるとカーテンは開かれており、窓ガラス越しに中の様子は見て取れた。
扇風機だけが室内で稼働しているなかで、酒寄が普段勉学に勤しむ際に使用しているという机のそばでうつ伏せに倒れている人影。
予想通りか。
窓に手を伸ばすと予想した抵抗は無くすんなりと窓は開いた。不用心だな。
倒れている人影―――酒寄へと近付く。
「酒寄」
返事は無し。
うつ伏せに倒れている酒寄の体を仰向きにし、傍らにしゃがんで手首を掴み脈を取る。無事に拍動を確認。続いて口元に耳を寄せる。小さいが呼吸も確認。とりあえず生きてはいる。
立ち上がって部屋を見渡す。さて、ここからどうするか。
なんて、そんなことわざわざ考えるまでもないか。
「酒寄、救急車を呼ぶぞ」
どうせ返事は無いだろうが、一応確認は取ったという体裁を―――
―――視界の端でピクリと指先が震えた。
「……酒寄」
返事は無い。無いが、震えた指先が微かな力だけで俺のズボンの裾を掴む。
一歩下がる。それだけで手は振りほどかれる。碌に力も入らないのだろうというのが見て取れる。だが、それでもまだ俺に向かって伸ばされ続ける手。
口が小さくだが動くのが見えた。なにかを喋っているのか?
再度しゃがみ、口元へと耳を寄せる。
「………びょ、いん………やめ………」
溜息を吐く。
なんだこいつ、頭おかしいのか?
意味がわからん。あれだけ勉学に力を入れているのだからてっきり頭は良いと思っていたのだが、実はバカだったのか? なにを考えてるんだこいつは?
目を見るが、視線は重ならない。正しくこちらを認識しているかは怪しいところだな。
スマホを手に取り操作していると、震える手が床を這って俺へと迫ってくるのが見える。また止めようとしているのだろうか。
「救急車ではなく、かぐやに連絡する。異論はあるか酒寄」
返答無し。
かろうじて動いていた手も床に縫い付けられたように動きを止めた。
意識が落ちたか。
溜息を吐く。
本当に呆れる。今までも何度か思ったことはあるが、今回はその中でも一番だ。心底から理解ができそうにない。
本当に、なんだこいつ。
スマホの画面に表示されたかぐやの番号をタップ。数秒と経たずに繋がった。
『もしもーし。どったのしんたろー、なんかあった~?』
「ああ、あった」
『え、あるの……?』
「酒寄が倒れた」
『……へ?』
「これから俺は対処を試みる。故に火急の要件でないのならあまり連絡をしてくるな」
『…………え、えええええええええええぇぇぇぇっ!?』
☆☆☆
窓から差し込む光が赤へと変わっていく。もう夕方か。
狭い室内でクーラーの稼働する音だけが存在感を主張し続けている。そういえばこの部屋でクーラーが動いているのを見るのは初めてだな。
そんなくだらないことを考えながら手を動かし続けていると、視界の片隅で微かに動く気配。
視線をそちらに向けると布団の上で酒寄が身じろぎをしている。
ようやくか。
「起きたか酒寄」
声をかけると気怠そうにこちらを見る酒寄。視線が重なる。今度はちゃんと見えているようでなによりだ。
「……うらの?」
「ああ」
どこか舌足らずな酒寄の声。寝起きで上手く喋れないのだろう。水分を補給させるべきかもしれんな。今すぐは無理だが。
「……えっと、なにしてんの?」
「酒寄の覚醒を待っていた」
「え、あ、うん……?」
まだ寝惚けているらしい。
そもそも意識を失う前のことを覚えているかどうかも怪しいが。
「酒寄、緊急事態と判断して不法侵入をした。謝罪する。すまなかった」
「え……?」
状況が状況とはいえ俺が行ったのは犯罪行為だ。可能ならばここで今回の件に関して事後承諾といけば楽だが、最悪の場合は諦めるしかないだろう。
まあ別に構わん。どうせ俺の残り時間も大してないのだし、そうなったらそうなっただ。
「不法侵入って………あ、ここ私の部屋? なんで……?」
混乱しているな。どうやら酒寄は今までに気絶した経験はなさそうだ。少し教えれば思い出すだろうか。
「かぐやが出てから数時間して、酒寄が室内で倒れた」
「え……」
「それに俺が気付いたので侵入した」
「……」
「素人が対応するよりも救急車を呼んだほうがいいと思ったのだが」
「ちょっ、浦野!?」
横たえていた体を慌てて起こし俺を制止するように手を伸ばす酒寄だったが、まだ体調は万全ではないようで、すぐに枕へと頭が帰還する。額に乗せていた濡れタオルが静かに枕元に転がった。
起き上がれないみたいだな。これは今日中に立ち上がるのも難しいかもしれない。
俺は動かしていない手を突き出し、酒寄の行動を制する。
「救急車は呼んでない。理由はわかるか?」
「……わから、ないけど」
「酒寄が拒否したからだ。俺がこの部屋に入り込んだ時にはかろうじて酒寄の意識があった。覚えているか?」
ゆっくりと頭を横に振る酒寄。
覚えていないと。
「その要請を受諾してここで簡易的な処置をした。外傷ならともかく、そうでないものについては経験がなかったので、ほぼインターネットで調べた方法を取ったがな」
「……そう、なんだ」
「ああ」
数度瞬きを繰り返して、布団で横になりながら部屋の様子を窺うように視線を回す酒寄。
布団の上には両手の指で数えるほどのぬいぐるみが酒寄を取り囲んでいるし、少し離されたちゃぶ台には酒寄のスマホと、すぐに水分を取れるようにとペットボトルが置かれている。
配信やら動画やらで使用する小道具の類は基本的に俺の部屋で保管しているが、その中でかぐやが気に入ったものは酒寄の部屋に持ち込まれている。おかげでこちらの部屋の内装も俺の部屋同様にかぐやが共に暮らし始めてからと比べると随分と散らかっている。
枕元に置かれた名前も知らない生き物のぬいぐるみを、指先でなぞるように触れる酒寄。
「……これって」
「元気になるためのふかふか、だそうだ。基準は俺にはわからんが、厳選している様子はあったぞ」
「ふかふか……?」
ぬいぐるみの一つを手に取る酒寄。
そのぬいぐるみの目玉が外から差し込む夕焼けの赤を反射する。もう日も暮れるな。
「……あっヤバい、バイト!」
「対処済みだ」
スマホを取ろうとまたもや起き上がろうとする酒寄を言葉で止める。
「かぐやがな」
「え……?」
「応対した者との通話でかぐやは自身を『酒寄の妹』と名乗っていた。向こうがそれに納得していたかどうかまでは知らんがな。気になるようなら後で口裏を合わせておけ」
口をポカンと開け、俺を見る酒寄。
予想外の答えだったらしい。まあ、気持ちはわからなくもない。かぐやがそこまでの対応力を持っているとは俺も思わなかった。案外緊急時には頼りになる気質のようだ。洗浄したペットボトルに水を入れて用意したり、起きた時のために料理を用意したりなど。
先程までのかぐやの行動を思い返しながらも変わらずに手を動かしていると、酒寄の視線を察知する。そちらを見ると不思議そうに疑問の表情を浮かべていた。
「……浦野」
「なんだ」
「……
指をさして問うてくる酒寄。
ようやく意識が覚醒してきたようだな。まさかその質問がここまで出てこないとは予想外だった。
「―――寝かしつけている」
「…………はい?」
「あーだこーだと騒がしかったからな。面倒くさいので寝かしつけた」
そう言って、正座している俺の
「すぅ………すぅ………」
頭を撫でながら、膝の上で静かに眠るかぐやを観察する。
寝顔は赤ん坊の頃から変わらんな。こうして見ると本当にあの赤ん坊が大きくなった存在なんだと強く実感する。まだあれから一月も経っていないというのに不思議な感じだ。
『水にタオルにあとは、しんたろーあと何がいるかな!?』
『……かぐや』
『あっ、ふかふか! ふかふか置いてたら彩葉元気になるかな!? なるよねふかふか!』
『……かぐや』
『ってか病院! 病院行こ、しんたろー彩葉連れてってあげれる?』
『……かぐや』
『外に出てタクシー捕まえてくる! ちょっと待ってて』
『待て』
『うおっ………しんたろー?』
『病院はやめて、だ』
『え……?』
『意識を失う寸前に酒寄が口にした言葉だ。一応伝える。あとは好きにしろ』
『好きにって……』
『かぐやの好きなように行動すればいい。俺はそれに従うだけだ』
『……』
『……』
『……でも、もし彩葉が死んじゃったらどうしよ……』
『……』
『かぐやは、まだあんまりわかってないけど、人間って簡単に死んじゃうものなんでしょ……?』
『……それはどこから得た知識だ?』
『映画………この前の同時視聴配信で見た………死んでゾンビになって転生して宇宙に旅立っちゃう……』
『……その死後の世界についての考えには何も言う気は無い。だが、少なくとも今のところ酒寄に緊急性は無いとは思う。素人判断ではあるがな』
『彩葉だいじょうぶ!?』
『おそらくは。呼吸と脈拍は少し速いが、発熱していることを考えればある意味正常だろう』
『あっちっちなのは、いいの?』
『高温と呼べる体温ではない。それは先ほど確認したな』
『……うん。かぐやが体温計使った』
『外傷も無し。発見時は倒れていたが、その時に目に見えた怪我をしている様子もない』
『……うん』
『つまり現状の酒寄は、少し熱を出して発汗しているくらいだ。異論は?』
『……ううん、ないよ』
『ならあとは発熱に合わせて布団や着替え、室内温度を調整してやればいいだろう。俺はそう考えた』
『……かぐやも、そう思うかも……』
『そうか、では少し休め。動き続けたところで状況は変わらん』
『でも』
『…………かぐや、こっちに来い』
『えっ? ―――わっ!?』
『寝ていろ』
『あ』
『不快なら言え。すぐに止める』
『……ううん、このままあたま撫でたままがいい』
『そうか』
『うん』
『酒寄が起きたら知らせる』
『うん、おねがい』
『……』
『……』
『昼食を取らずに帰ってきたのだろう? なら先に食事を済ませてもいい』
『ううん。いい』
『……食べないのか?』
『うん。彩葉のこと待ちたい』
『そうか』
『うん………しんたろーお腹空いた?』
『問題ない』
『そっかぁ―――彩葉が起きたら一緒にご飯たべようね』
『了承した』
かぐやがこうして眠る前の会話を思い出す。
飛び込むように帰ってきたと思えば、狭い室内を右に左にと大騒ぎ。なんともやかましいものだった。よほど酒寄が倒れたという報告が刺激的だったんだろう。水着を買いに行ったはずなのに、その手に荷物は無かった。はたしてどうしたのやら。
長い金の髪を梳くように頭を撫でる。かぐやは変わらずにどことなく安らかな表情のまま眠っている。招いたのは俺だがよく眠れるものだ。硬いだろうに。
膝枕をして頭部を撫でる。この行為は少し前にヤチヨで学んだものだ。
あの時のヤチヨは疲れていたようで、何故か俺にこの態勢を取るように要求してきた。そして実行してみるとヤチヨは普段と異なり、とても静かにそれを堪能していた。
そのことからこの行為は対象を鎮める効果があるのではと俺は判断し、そして騒ぐかぐやに対して実行した。
効果は絶大。あれだけ騒いでいたかぐやが一瞬で静かになった。
なんて便利な方法か。もちろん今後も使うつもりだ。かぐやはよく喧しいからな。
ヤチヨには感謝だな。やはりヤチヨは頼りになる。今後も何か問題が発生したら頼るとしよう。断られたら断られただ。別に大して期待してるわけでもない。
「……浦野」
「なんだ」
床に手をついて酒寄が上体を起こす。
汗だくだな。酒寄の額を大粒の汗が滴り落ちる。水分を取らせないとまずいかもな。
「浦野は、結局のところどうしたいの……?」
「……具体的に言え。何について聞いている?」
よくわからん。
どうしたい、とは何だ。何に関することを聞きたいのかわからん。
酒寄が俺の膝の上で寝こけるかぐやを指さす。
「かぐやのこと。浦野はかぐやをどう思ってるの。これからどうしたいの? ずっと考えてたけど、私には浦野が何をしたいのか全然わかんない……」
「……」
かぐやのこと。
そんなもの、最初から答えは決まり切っている。
「どうとも」
「え?」
「どうとも思っていない」
「―――なっ」
「俺はかぐやに対して興味が無い」
真実を口にする。偽る必要は一切ない。
ただ俺の胸の内を開陳するだけだ。
「故にかぐやをどうこうする気もない。どうでもいい存在にわざわざ関わる意味もない」
「―――なっ、ならなんで配信手伝ってるの? そんなの理屈になってないっ」
よくわからんな。なんで慌てた表情をする?
別にかぐやと俺の関係など酒寄にとってはどうでもいいことだろうに。
「約束をした。だから協力している。以上だ」
「…………約束?」
「ああ」
あの日、ヤチヨのライブを3人で見に行った日に約束をした。
『手伝ってほしいの! ヤチヨカップの1ヶ月間! 優勝できるようにっ!』
『だからさっ。彩葉もしんたろーもいらないって言ってたけど、やっぱり一緒に行こうよ―――
くだらない戯言だ。意味のない妄言だ。叶うことのない空言だ。
可能性など理論上はある、という程度のほぼ無に等しいもののはずだ。
「約束がある。だから協力している。それだけだ」
ヤチヨカップに優勝して、コラボライブをして、ハッピーエンド。馬鹿な話だな。
きっと無理だ。9割9分9厘無理だ。わかってる。俺のようなやつが辿り着ける場所では無い。わかっている。
―――でも、もしも俺がそこに行けたのなら。
「かぐや、起きろ」
「……う、うぅ~ん……」
目を見開いてこちらを見続けている酒寄を尻目に、かぐやの頭を撫でながら声をかける。
うめき声を上げて身じろぎはするが起きる気配は無い。それどころか体を丸めて俺の腹に顔をうずめようとしてくる。
溜息を飲み込む。
仕方ない。起きたら知らせるとは既に言っている。問題なし。
撫でていた手に力を入れて、頭を鷲掴みにする。
「……うぇ?」
少しずつ、少しずつ手に力を入れる。まるで石か何かを握りしめるように力を込める。
速く起きろ。
「痛っ! えっ、痛っ!? なになになになにっ!?」
「おはよう、かぐや」
起きたようでなによりだ。
「しんたろー!? え、今かぐやになにしたのっ!?」
「起こした」
そういう約束だったからな。
指をさす。
お目当ての相手は向こうだ。俺は放っておいて構わんぞ。
「え? ―――彩葉っ!」
意識が覚醒している酒寄を認識した途端に立ち上がり、飛ぶようにして傍に寄るかぐや。
「彩葉、しんどい? 吐き気する? それともお腹空いた? 欲しいものある?」
矢継ぎ早に質問を繰り返すかぐや。
その様子に呆気にとられたらしく、少しの合間かぐやの顔を漫然と眺めていた酒寄だったが、徐々にかぐやの目尻に滴が溜まっていくのが見えたのか、少し慌てたように声をかける。
「……平気。大丈夫だから」
「大丈夫じゃないよ………だって彩葉、倒れたんだよ……」
「それは………まあ、そうだけど」
頬をかきながら誤魔化すようにそっぽを向く酒寄。
今さらそれは通じないだろうに。
「そうだ彩葉、病院行こ。お医者さんにちゃんと診てもらお。ね?」
「……お金かかるから、やだ」
「そんなもん、かぐやに任しとき!」
確かに。今の時点ならこの3人の中で一番金銭を所有しているのはかぐやだろうな。以前、配信等で獲得したらしいふじゅ~の額を見せてもらったが、凄まじい額だった。ライバーというものは意外と儲かるものらしい。
「……全部ギリギリで予定組んでるから………何日も休んだら、もう追いつけないよ……」
酒寄の瞳を覗く。そこには以前に何度か見たような輝きはない。
弱っているな。
「……そしたら奨学金も………出ないかも……」
進学。
それが酒寄の目指すべきものか。
この安アパートに住んでいることからも、金銭的な不安があるのだろうと推測をしたことはある。それを踏まえれば奨学金制度を活用しようとしているのは実に納得がいく話だ。
『……学校ってそんなに大事なわけ?』
『命より大事!』
いつかの会話を思い出す。あれはそういう意味だったのか。
納得する。実際に今日、倒れて意識が朦朧としている中で口にしたのが『病院はやめて』だ。これはもう納得するしかない。
本当に、酒寄にとって学校は命よりも大事なものだったのだろう。
「なんで彩葉は、そんなに1人で頑張らないといけないの?」
「……」
かぐやが疑問を口にする。だが酒寄は答えを返さない。いや、言えないのかもな。あの表情を見ればわかる。今、酒寄は追い詰められている。
さて、酒寄はどう答えるのやら。
そうして傍目から様子を窺っていると、しゃくりあげる声が聞こえてくる。
声の元を見ると、かぐやが大粒の涙を流していた。
そっちが泣くのか。
「かぐやもめっちゃ無理言っちゃったし………彩葉、死んじゃったらヤダぁ~!」
「なっ、大げさな………死にゃしないよ」
無理をし過ぎなければな。意外と人は簡単に死ぬらしいぞ。
「しんたろぉ~、彩葉やっぱり死んじゃう~」
「そうか」
大変だな。だが本人に自身を改めさせるしか対策は無い気もするがな。
「止めてよぉ~……」
そうか。
「酒寄、無理をするな」
「なっ」
これでいいな。文句は無いだろう。
「いろはぁ〜、無理しないで休んで……」
「別に無理なんて………こんなの、お母さんなら―――」
そこまで言葉にして、ハッとしたように口を抑える酒寄。動揺しているのか視線が震えている。
この様子では今の言葉を言うつもりなど無かったのだろうな。
「いろは……?」
「あ、いや」
涙と鼻水で顔面を濡らしているかぐやに、慌てたように手を伸ばす酒寄。だがかぐやに触れる寸前で躊躇ったのだろうか、ピタリと動きを止める指先。
数瞬の間の後、再び動き出した手がゆっくりと金糸のように流れる髪を梳くように撫ではじめる。
「かぐや、大丈夫だから………泣かないで」
「ひっく、ぐすっ………いろはぁ〜」
「うん。ここにいるから」
普段よりも少し柔らかい声音で話しかける酒寄。
発熱しているからか顔は赤らんでいるし、発汗もしていることから決して楽な体調ではないはずだ。すぐにでも横になったほうがいいだろう。
だけど、かぐやが泣いているから全部後回し、といったところか。
極限状態でこそ、その人間の本質は見えるもの。
いつだか読んだ本にそんなことが書いてあったのを唐突に思い出す。
もしあの言葉が正しいのなら、この目の前の光景こそが酒寄彩葉の本質なんだろうな。
「……優しい人、か」
どれほどの時間があろうとも、決して俺には理解できない存在だな。
眼前の少女たちを尻目に立ち上がり、玄関へと歩き出す。
「え、浦野……?」
「なにかあれば呼べ」
靴を履き、扉を開いて外に出る。
「ちょっと待っ」
閉める。
言葉の途中だったが、別にいいだろう。かぐやのものならともかく、酒寄の言葉に従う義務は俺には無いのだから。
「どうでもいい」
そう、どうでもいい。
本当に、どうでもいいことだ。
☆☆☆
欄干に背を預け、群青に染まった空を眺める。もうすっかり夜だな。
「……この空は、綺麗なのか?」
疑問を吐き出す。だが当然応えるものなどいやしない。ここには俺以外には誰もいないのだから。
だけど仕方ない、ふと気になってしまったんだ。いつか2人並んで見たあの仮想の空にどこか似た色合いだったものだから。
あの時は『キレイでしょ』なんて言って自慢されたんだったな。そんなこと俺に判断できないと何度も伝えていたのに。
本当に変な女だ。あの友人は。
「違うな、変なのは俺か」
人でなし。
ただ生きること。そんなことすらも満足に出来ないロクデナシ。この世界に生まれるべきでは無かった汚物。
人の中に居場所は無いし、だからといって居場所を作ることも出来やしない。
……いや、これは俺の気質のせいかもしれないが。
「……別に、なんでもいいか」
言葉で飾る意味などない。結局のところ、大事なのは一つだけ。
―――俺か、それ以外か。
それだけだ。
もしかしたら世界のどこかには俺の同類もいるのかもしれないが、認識していない相手なんていないも同然だ。考える必要もないだろう。
俺は1人だ。その事実は変わるものではない。
空に向けていた視線を下ろし、眼前の扉を見やる。中では酒寄がかぐやに話をしているはずだ。
先ほど中の気配が窓際へと動いたのを感じた。あの2人に気配を察知する技能があるかは知らんが、アパートの通路を歩く足音は聞き取れるはずなので、俺が未だに玄関前にいることは把握しているだろう。だから、俺から少しでも離れるように窓際に移ったんだろう。
部外者には聞かれたくない話なんだろうな。
「……お母さん」
酒寄が咄嗟に漏らしてしまった言葉を思い返す。
こんな安アパートに住み、バイトに明け暮れ、奨学金制度を活用するためにも勉学に励む。
この数週間を共に過ごし、会話もしたが初めて聞いた家族についての言葉。
きっと、それは酒寄にとっての根幹。今の酒寄彩葉を構築するもの。
「家族、か」
家族。
一つの集団の在り方。血の繋がる存在。
生物である以上、それは確実に存在するものだ。
ああいや、血縁がなくとも家族にはなれるか。婚姻関係とはそういうものだしな。
俺にも、家族はいる。
たとえ人でなしであっても、生き物だ。それを生み育んだ両親は俺にもいる。
―――もう、会うこともない相手だが。
『真太郎、こんなとこに住むなんて嫌だよね? お母さんたちと一緒に暮らす方がいいよね?』
『そうだ。だって家族なんだ。僕たちの子供なんだ。だろう? 今日初めて会ったお爺ちゃんなんかより、父さんたちと3人で暮らしたいだろ真太郎? そうだよな? なあ真太郎、そうだろう……?』
『だから帰りましょう。家に帰って、それから………そう、新しいゲームでも買いましょう? ね? そうしましょう真太郎。ゲームじゃなくてもいいから、他に欲しいものがあるならなんでも買ってあげるからっ』
『ああ、そうだ。その通りだ。母さんの言った通り。なんでも買ってあげるさ真太郎。父さんこれでも結構稼いでるんだから大丈夫だ。それに物じゃなくたってもいい。どこか行きたい場所があるなら連れて行ってあげるさ。3人で、家族一緒にどこだって。だから』
瞳を閉じると、在りし日の光景が瞼の裏に浮かび上がる。
必死な声と表情で俺の小さな手を握りしめ、額に汗を流しながらまるで言い聞かせるように話し続ける2人の男女。
いつもは優しく包み込むように俺の手を握る女の手は、今までにないほどに強く握りしめられ。
俺の肩を掴む男の手は、普段の朗らかな陽気が消え失せたかのように強く力が込められていた。
必死だった。
俺に話す機会を与えないかのように、矢継ぎ早に言葉を繰り出す。俺が口を開こうとするたびに握られた手が、掴まれた肩に痛みが走る。
きっと、聞きたくなかったんだろう。
どんな答えが返ってくるのか、わかっていたから。
『――――――――、――』
『―――――』
でも俺は口を開いた。
2人の男女の顔を見て、目を見つめて、言葉を発した。俺は思ったことを、心から生まれた言葉を無感動に口にした。
その答えを聞いた2人が浮かべた表情を、今でも俺は覚えている。
あの瞳に宿った感情は当時の俺ではわからなかった。だって知識が無かった。理解もできなかった。その感情を俺は持ち得ていなかったから。
でも今は違う。わからないから調べ、学んだ。だから思い返して2人が浮かべた感情の意味を数年越しに知った。
だから―――
「―――くだらない」
瞳を開く。
視界に映るのは住み慣れた安アパートの通路。そして並ぶ扉。
静かに気配を探れば、会話をしている2人が寄り添っているだろう気配。かぐやと酒寄は壁の向こうにずっといる。
壁を隔てたその場所に、俺は1人で立っている。
ずっとそう。俺はずっと前からそうだった。そしてそれはこれからもそうだ。変わることは無い。
俺はずっと、ここにいるままだ。
「……ごめんなさい」
脳裏をよぎる2人の男女に謝罪する。
生まれた子供が俺でなければ、問題なんてなかったはずの2人に。あんな顔をすることもなかったはずの2人に。
きっと、憐れ、というべき2人に謝罪する。
もっとも、俺に『憐れ』なんてものはわからんが。だがきっと間違っていないはずだ。
愛し合い、生まれた子供が人でなしであった2人は、きっと誰よりも憐れなはずなのだから。
天を見上げると深まった群青の中に、薄く細い月があった。
今にも消えそうな小さな光だけが、俺を見ていた。
「彩葉、大丈夫……?」
「大丈夫だって。もう、朝起きてからそれで何度目だと思ってんの?」
「だって~」
「いいから。ほら、今日は代わりに朝の片付けしてくれるんでしょ?」
「……うん、わかった………なんかあったら呼んでね?」
「はいはい」
不安げに眉を寄せて、かぐやは握っていた私の手をギュッと力を込めて握りしめた。
昨日から握られてばっかりだな、私の手。
思わず苦笑を溢してしまいながら、私も優しく握り返す。そうするとかぐやの眉の角度も少し戻った。完全に、とは言えないのが難点だが。だけど多少は不安を取り除くことは出来たらしい。よかった。
昨日のことだが、私―――酒寄彩葉は倒れた。
多少、無茶を重ね過ぎたらしい。気付いた時には布団の上だった。
熱とダルさで少しボンヤリとしていたが話を聞くに、なんと隣の部屋にいた浦野に助けられた、らしい。いつかのようにベランダを跳び越え、不法侵入をして。
文句などない。むしろ感謝を伝えるべき出来事だ。覚えていないけど、意識を失う直前に私が述べた言葉に従って救急車を呼ばないでくれたのだから。
もしそんなことになってしまったのなら、未成年である私の保護者として連絡が母に入るだろう。そしてそれを理由に私は、きっと母の元に連れ戻されてしまっていたはずだ。
『体調管理は全ての基本や。ここで躓くやつはどんな
母が言った過去の言葉が脳裏を過ぎ去る。
眉間に皺を寄せながら言う姿は、今でも容易に想像することが出来る。
「はぁ……」
そんな光景を脳裏に描いてしまい、思わず溜息を漏らす。
するとそれが耳に入ったのか、キッチンの片づけをしていたかぐやが慌てたように振り返ってしまう。
しまった。聞こえちゃったか。
「彩葉っ!?」
「あー、大丈夫大丈夫。ちょっとお腹いっぱいで満足だったなー、って感じのが漏れただけだから。ね? だから大丈夫。本当に」
「……ホントに?」
「ほんとほんと」
「うん……」
納得してなさそうな顔のまま、キッチンに向き直るかぐや。
さすがに今の嘘は拙かったか。でも言うべきような内容でもないし、それに私の家族の話であって、かぐやには―――
『かぐやには……』
『え?』
『ううん、なんでもない』
昨日の会話を思い出し、声を出さずに静かに呻く。
―――してた。そういえば昨日の私、めちゃくちゃ家族のことについて喋ってたわ。
死んじゃったお父さんの話。出て行ってしまったお兄ちゃんの話。変わってしまったお母さんの話。そして正しさに潰されそうになった私の話。
私が今こうして東京にいる理由は、昨日のあの時間で全て話してしまった。
弱っていたとはいえ、昨日の私は一体なにをしているんだか。
反省しなくちゃ。
俯いていた顔を上げると、丁度かぐやは食器を洗い終えたようだった。
今日の朝食はパン粥だった。はじめて食べたけどすごく美味しかった。かぐやの料理技術の発展具合には本当に驚かされてしまう。
いつもなら朝食は隣室の浦野の部屋で食べるのだけど、今日は私の部屋で食べた。昨日倒れてしまった私を気遣ってのことだろう。本当に申し訳ない。
「彩葉、お昼なに食べたい?」
タオルで手を拭きながら、かぐやがそう訊ねてくる。
まだ朝ごはんから2時間も経ってないってのにもうお昼ごはんの話とは、ちょっと気が急いているんじゃなかろうか。
「リクエストあるなら言ってね。今ならしんたろーに電話したら買ってきてくれるかもだし」
「……あー、うん、大丈夫。おまかせで」
「オッケー! 美味しいのつくるね!」
嬉しそうに笑うかぐや。
そんな顔をされるようなことは、別に言ってないんだけどなぁ。
浦野は今、買い物に行っている。主に私に必要なものを買うために。
具体的には熱さましのシートとか、スポーツドリンクとかそういうの。私の部屋にも浦野の部屋にも無いものを手に入れに行っている。
私はわざわざそんなの買わなくていいと言ったのだけど、かぐやは聞いてくれなかった。そして浦野もまた私の言葉を無視し、かぐやのお願いを聞いて買い物に行った。朝食後すぐのことだ。
そうして私はかぐやの甲斐甲斐しい看病を受けながら、布団の上で横たわっている。
なんだかなぁ。
「あ。そうだかぐや、あんたちゃんと真実たちに連絡した?」
「……連絡?」
壁に貼っている予定表の日時を見て、思い至った事実に気付いてかぐやに声をかける。
だが生憎とかぐやはその事実に気付いていないようだった。
「今日、真実たちと3人で海に遊びに行く日でしょ……?」
「あ」
ポカンと口を開けて固まるかぐやを見て、思わず頭を抱える。
やっぱり忘れてたなこの子。
原因は何かといえばそれは無論のこと私が倒れたせいなので強くは言えないけど、本当ならば昨日のうちに連絡をしておかなければいけなかった。これは気付かなかった私のせいだな。
「今からでも連絡しておきな。もうすぐ集合時間でしょ?」
本当は私のことなんか放っておいて海に行ってくれてもいいんだけど、さすがに聞いてくれそうにない。昨日からのかぐやの様子を見ればそれくらいは容易に想像がつく。
正直このタイミングではドタキャンになってしまうが仕方ない。どれだけ遅れてもせめて連絡はすべきだ。真実たちにお願いしといてこの結果なのは本当に申し訳ないけど……。
「わかった。じゃあ通話す」
―――ピンポーン。
かぐやの言葉をインターホンが遮る。
来客、ではないだろう。いつものように夕食の時に律義に鳴らして来訪するあの男が戻ってきたに違いない。
かぐやも同感なのか、すぐさま立ち上がり玄関へと向かってく。鍵を開けるつもりだろう。
「おかえり、しんたろー!」
「ああ、かぐや。ただいま」
「うん!」
かぐやが扉を開くとそこには案の定ビニール袋を持った隣人、浦野真太郎が立っていた。
玄関に踏み込み、そしてかぐやに向いていた視線が布団に横になっている私へと向けられる。
「……酒寄、ただいま」
「……おかえり、浦野」
いつものように挨拶を交わす。とはいえ普段とは逆の言葉だけども。
私が『ただいま』と言い、浦野が『おかえり』と返すのがここ最近の日常だ。講習やバイトやらで私の方が外に出る回数が多いので自然とそうなっていた。
というか、それもおかしな話ではあるんだけども。なんで私が友達でもなんでもない隣人相手にこんな挨拶をしなくちゃならないのかという話だ。
でも、仕方ない。
だって―――
「ぬふふ~」
―――かぐやが、めちゃくちゃ嬉しそうにしてるのだから。
本当に仕方ない。だって言わないと悲しそうな顔するし。
なら仕方ない。マジで。うん。
諦念と共に吐き出しそうになった溜息を抑えつつ、私は浦野に声をかけようとする。倒れた私のために買い物に行ってくれたのだ。その理由がどうあれ、結果として私のための行動である以上はせめて感謝を伝えなくてはなら……ない………し…………って、あれは―――
「うわー、まじかー……」
「……おじゃまします」
浦野の背後、玄関から新たな人影が2つ入ってくる。
その人物は―――
「あれー!? 真実と芦花だ!? なんでー?」
―――私の友人にして、今日かぐやと共に海に遊びに行く予定だった真実と芦花がそこにいた。
「なっ、なっ……」
なんで!?
どうして2人がここにいるの!?
一体全体なにが起きたっていうわけ!?
「帰りに声をかけられた。目的地がここだと言うので連れてきた」
お前かあああああああああああああああ!
「かぐや、忘れ物だそうだぞ」
「忘れ物?」
目を見開いて内心で仰天している私には気付かずに、かぐやに対して浦野が芦花を顎でしゃくって示す。
そんな芦花の手には一つの袋があった。
「かぐやちゃん、昨日これお店に忘れていったでしょ。気付いてなかった?」
「おーう? ……あっ、水着!」
「そ。手に持ってたの落としてそのまま走って帰っちゃったから、届けに来たよ」
「わー! ありがと芦花! ごめんね」
「ううん、気にしないでいいよ」
かぐやと芦花が朗らかに会話をしているのを余所に置いて、浦野は手元の袋から荷物を取り出してそれぞれをあるべき場所へと収納していく。まるでどこに何を置くべきなのかわかっているみたいに。
今、来客が2人もいる目の前で!
「へー、ふーん、ほーん」
やめて真実。それやめてホントに。
荷物をしまっていく浦野の背中を見ながら何かに納得したような声を出さないで。
違うから。
マジで違うからやめてマジで。
「かぐや、あらかた片付けたが残った食材はどうする。頼まれたものは買ってきたが、この量は入りきらんぞ」
「うんとね~………これとこれと、あとこれはこっちの冷蔵庫に入れるから、残りはしんたろーの冷蔵庫に入れてほしいな」
「了承した」
かぐやに言われた通りのものだけ私の冷蔵庫にしまい、残りを持って玄関へと向かう浦野。その姿を真実も芦花も黙って見つめている。
やめて。見ないで。
「あとはなにも無いか?」
「ん?」
「俺がやるべき用事だ。何も無いようなら俺は部屋にそのまま戻るぞ。この人数ならこっちにいても邪魔だろう」
その言葉に周囲を見回すかぐや。今、この狭い室内には5人もの人間がいて、浦野の言うように少し手狭な状態というのが見て取れる。
「……うーん、そだね。そのほうがいいかも」
「ああ」
「うん。なんかあったら呼ぶね!」
「ああ」
そうして玄関扉を開け、外へと出ていく浦野。
扉が閉まり、わずかな間の後に通路を歩く音が聞こえる。そしてすぐに足音は止まり、隣室の玄関が開かれて閉まる音が耳に入る。
それを私の友人2人は黙って聞き続け、まるで音を追うように視線を巡らせていき、そして終着点である浦野の部屋がある方向の壁を静かに凝視する2人。
「……」
「……」
「おう? どったの2人とも?」
沈黙を切り裂くようにかぐやが声をかけるが、2人は声を発さずにそのまま視線を交差させて目だけで会話をしている。
そんな2人の様子を見て、私はそっと掛け布団を引き上げて全身を布団の中に隠す。
ここは戦略的撤退しか選択肢はない。
「彩葉?」
「彩葉~?」
「ええっ!? どしたの彩葉! どっか痛いの!?」
友人たちの圧のある声と、かぐやの本気で心配しているだろう声に私が降服したのはそれから5秒後のことであった。
☆☆☆
「なるほどね~、浦野くんとはライバー活動のときに会うくらいの関係って前に言ってたのは、嘘だったと」
「はい」
「近所に住んでるって言ってたけど、それは同じアパートの隣だったと」
「はい」
「毎日会ってるどころか、毎日一緒にごはんを食べてると」
「はい」
「しかも帰ってきたり、はたまた出かける時には『いってらっしゃい』『ただいま』と挨拶をしあうような間柄だと」
「……はい」
それはちょっと語弊があるというか、意味合いがちょっと異なるというか。正確にはそうするようにかぐやが求めてきた結果そうなってしまったというか。
「……これ、付き合ってるよね?」
「というか半同棲中って言うべきじゃない?」
「待って違うホントに違うから待ってっ!」
慌てて2人の合間に割り込む。
マジでその勘違いだけはホントにやめて。マジで無理だから。
「いや、だってさ~」
私の部屋の中を見回し、そして浦野がいる方向を見てから真実は言う。
「私でも彼氏とはそんな挨拶しないよ。ってか絶対恥ずかしくてまともに言えるようになるのにめっちゃ時間かかると思う。なのに彩葉めっちゃ当然みたいな顔と口調だったじゃん」
「いや、まあ、それはそうかもなんだけど!」
最初の頃はめちゃくちゃに気まずかったんだよ。
でも今は多少は慣れたし、嫌そうな顔するとかぐやが悲しそうな顔するから内心を表に出したりしないように気を張った結果であるわけで。
「……おー、んー?」
私達の会話を首を傾げながら聞いているかぐや。付き合うとか彼氏彼女とかの関係についての知識が薄いからよくわかっていないんだと思う。
おかげで今は助かっているが、本当のことを説明はできない。だってそんなことを言えばかぐやは絶対に悲しそうな表情になるに決まっている。
である以上、私のあの男に対する内心をこの場で話すことはできない。
「……高校2年生の夏、家出少女を拾ったことで今までろくに話すこともなかった2人の距離は急接近し、始めたライバー活動を通じてお互いのことを徐々に知っていく、みたいな」
「芦花っ!? 違うから! マジでそんなんじゃないんだって!」
とはいえこの誤解はどうやって解いたらいいわけ!?
もうどうしたらいいのか、私にはさっぱりなんだけど!?
「ま、元気そうで良かったけどね。彩葉もかぐやちゃんも連絡付かなかったから心配してたし」
「え、あっ、ごめん。気付いてなかった……」
「いいよー別に。大変だったんでしょ?」
芦花が苦笑を向けてくる。
申し訳ない。本当なら今日は楽しく海に行っていたはずだったろうに私のせいで予定を崩させてしまった。
「……ごめん。今日、海のはずだったのに」
「いいって。今日の気温見てみたらなんかすごい暑いらしいし、行かなくて正解だったかも。ね?」
「芦花……」
笑ってそう言ってくれる芦花。
本当に私にはもったいないくらいの優しい友達だ。感謝しかない。
「―――で? それはそれとして、これはどういうことなわけ?」
「……」
前言撤回。
感謝だけでは終わりそうにない。
「うーん? 彩葉、もしかして困ってる?」
「困ってる。めっちゃ今困ってる」
過去一番、は言い過ぎかもしれないけど五指に入るレベルでは困ってる。
「そっか。じゃあ呼ぶねー」
「うん、おねが―――はい?」
トントントン。かぐやが壁を3回叩く。それは私達3人の間で取り決めた合図のうちの一つ。『こっち来て』だ。
「待て待て待て待て!」
すぐに私は壁に這いより、急いで壁を叩く。
トントントントン。4回。『今はダメ』だ。
ガチャリと扉が開いた音が聞こえたが、外に出ていく足音は聞こえない。なんとかギリギリ間に合ったっぽい。
トントントントン。再度私は壁を4回叩く。今こっち来なくていいから。来たらさらに困ることになるから。だからそっちで大人しくしててお願いだから。
ガチャリと扉が閉まる音が聞こえ、そして静かになる。外を歩く足音は聞こえてこない。私の意図は無事に伝わったらしい。よかった。
安堵して振り返るとそこには私を静かに見つめる2人。
……うん。まあ、そうよね。
諦めを胸に抱きつつ天を仰いで大きく深呼吸をして心を整えて、そして私は友人たちの中で展開されているだろう盛大な誤解を解くために口を開いた。
☆☆☆
「大丈夫、彩葉?」
ちゃぶ台に突っ伏した私にかかる声に対し、首を振って応える。
「疲れた……」
マジで疲れた。
誤解は解けた、はず。少なくとも最後には納得したとは2人とも言っていた。内心がどうかは全くもって知らないけど。私は2人の言葉を信じるしかない。
「キツイ? お昼たべれそ?」
「……たべる」
「わかった! ちょい待ち! すぐにできっからねー」
キッチンへと駆け行くかぐやを背を眺めつつ、わざわざ予定を崩して見舞いに来てくれた友人たちの言葉について考える。
浦野との関係、か。
今日、一体何度それについて訊ねられたか。
そんなこと、私が一番知りたい。
私と浦野はどんな関係なのか、そんなのわからないとしか言えないのだから。
同じ高校に通うクラスメイト。
―――正解。ただ、それだけでは足りない。
同じアパートに住む隣人。
―――これも正解。だけどやっぱり、それだけでは足りない。
同じライバーグループで活動している仲間。
―――正解、でいいのかは少し怪しい。あの男を仲間とは、私は胸を張って言えないから。
『どうとも思っていない』
『俺はかぐやに対して興味が無い』
『故にかぐやをどうこうする気もない。どうでもいい存在にわざわざ関わる意味もない』
昨日の光景を思い返す。
いつものように無表情で、いつものようにまるで感情の籠っていない声音でそう言い放った男の姿を思い出す。
かぐやが何をしても、私が何を言っても表情一つ変えず、まるで機械のように抑揚のない言葉で話す男。いつも不愛想で、何を考えているのかわからない気味の悪い男。
そんなヤツが当たり前のように言った言葉に、昨日の私は腹を立て―――ることは出来なかった。
何故か。そんなの決まってる。あの光景を見ていたからだ。
膝の上に頭を乗せ、心底安心しているような表情で眠るかぐや。その頭を優しく丁寧に撫でる手。決して起こしたりしないように最大限の注意を払っているだろう手を、私は確かに見ていた。
「マジで、意味わかんない……」
かぐやに聞こえないように、小さく呟く。
なんなんだろうか、あの男は。
どうでもいい、興味ないと言いながらも、かぐやに協力している理由について詳しく聞くことはできなかった。
一応『約束がある』とは聞き出せたが、それだけ。それがどういう意味なのかは不明なまま。
欲しいとねだる物を買い与え、行こうと連れ出されても素直に付き従い、やってと願われれば歌い踊るかぐやの後ろで着ぐるみを纏って花を撒く。なんなんだろうかあの男は。
―――結局、浦野真太郎という男がなにを考えているのか、私にはわからないままだ。
「……悪いやつでは、ないはず。多分」
どういう約束をかぐやと交わしているかは不明だが、それだけの理由であれだけ献身的に協力しているのだから、多分悪意からそうしてはいないはず。
油断させてから裏切る。とかそういうのなら、もうとっくにやってるはずだ。出来るのだし。
あと昨日の私も助けてくれたし。そこは、まあ、感謝しなくちゃいけないし評価するべきポイントだ。そんなことを考えてる私は何様って感じだけど。
あっ、そういえば昨日のお礼まだちゃんと言ってないからあとで言わないと。
「じゃあ、良いやつ……?」
それもなんか違う気がする。
今でも覚えている。かぐやが今の姿に、急成長した日のこと。
一切の躊躇いなく『手放す』と宣言した浦野の姿を。
善意も悪意も垣間見えない、ひたすらにフラットな声でそう口にした男を覚えている。
「わっかんないなぁ、マジで」
「なにが?」
「うおっ」
跳び起きるように上体を起こすと目の前ではかぐやの瞳が瞬いていた。
気付かなかった。考えに没頭していて接近に気付かなかったみたい。
「なんかわかんないことあるの?」
「あーっと……」
なんと誤魔化すか少し迷うが、不意に思い至る。
別に誤魔化す必要なんてないじゃん。本人に聞けばいいんだ、と。
「かぐや、聞いてもいい?」
「なに、彩葉?」
ごくりと唾を飲み込んでから、問いを口にする。
「かぐやと浦野って、どんな約束してるの?」
あの浦野がそこまで協力する約束とは何か。それがわかれば、少しはあの男を理解できるのかもしれない。
かぐやが口を開く。その答えを一字一句聞き洩らさないように集中して聞こうとし―――
「―――約束? なんのこと?」
「…………はあ?」
そんな頓珍漢な回答に私は目を丸くするしかなかった。
「えっ、ちょっ、はあ? わかんないの? なんで?」
「なんでって言われても………彩葉それ、なんの話してるの?」
「なんのって……」
そんなの私の方が聞きたいわ。
「なんか、ないわけ? 浦野と会話した中でした約束とか、頼みとか?」
「うーん……?」
腕を組んで考え始めるかぐや。
マジで心当たりが無いんだろうか? だとしたら一体浦野のあの言葉は何を指し示していたんだ? 本当に意味がわからない。
「約束……約束……? あ、あれのこと?」
「思い出した?」
「多分……?」
ちょっと怪しいけど、聞かないよりはいいはず。
「教えてもらってもいい?」
「いいよ別に。変なことじゃないし」
「どんなこと?」
私が問うと、かぐやはなんでもないようにあっさりと答える。
「ヤチヨカップ優勝目指すから手伝ってー、って」
「……それだけ?」
「うん」
「……他には無し?」
「……あとは、一緒にハッピーエンドに行こ―、とか?」
「……」
絶対に違う。
これじゃないだろうってのがヒシヒシと感じる。
かぐやもピンと来てない顔をしている。
これ以上は無理か。一旦諦めよう。
あとは機会があれば浦野本人に聞けばいい。聞けるタイミングがあればだけど。
さすがにかぐやの前では聞けないもんな。本人の前で『興味ない』とか言い出されたらたまったもんじゃない。もしそれでかぐやが泣いちゃったりしたら困るし。
とりあえず、また今度にしよう。
「あー、うん。教えてくれてありがと」
「いいけど………今のでよかったの?」
「十分。ありがとね」
「そっか! ならよかった~」
晴れたように笑うかぐやにつられて私も笑う。楽しそうでなにより。
「彩葉、お昼できたから食べよ?」
「そうだね。お腹減っちゃった」
「じゃあ、しんたろーも呼ぶね」
そう言ってから壁を3度叩き、それから玄関へと向かうかぐや。
「しんたろーごはんたべよー」
「……ああ」
足音が途絶えたタイミングで扉を開け、インターホンを押そうとしていた浦野を招き入れる。
もう何歩で到着するかまで完璧に覚えてるっぽいな。
そうして部屋に入ってきた浦野を加えて3人でちゃぶ台を囲み、湯気を上げている料理を前に揃って手を合わせる。
「いただきまーす」
「いただきます」
「……いただきます」
いつものようにバラバラな声の後、箸に手を伸ばす。
「どう? 美味しい?」
「美味しい」
「でっしょ~? かぐや特製病人飯だかんね!」
「いや、病人飯て」
「しんたろーはどう? 美味しい?」
「……わからん。これも美味しい料理、というやつなのか?」
「私は美味しいって思うけど。また食べたいって思えるし」
「そうか………ならやはり俺にはわからんな」
「そっか~………わかった。晩ごはんはもっと美味しいの作るね!」
「……そうか」
「そーだ!」
いつものようで、いつもとは違う食事風景。
私は寝間着姿のままだし、日が明るい時間帯なのに浦野の部屋でなく私の部屋で食べてるし、そもそも本来ならバイトの時間だから私はいないはずだし。
そんなことを思いつつも食事を進め、完食しきったあとで私は口を開いた。
「かぐや、浦野」
名を呼ばれ、食器を片付けようとしていた動きを止める2人。
「彩葉?」
「……」
向けられた2つの視線を真っ直ぐに見返し、頭を下げる。
「迷惑かけて、ごめんなさい」
心からの謝罪を告げる。色々ドタバタとしていて、結局今の今まで言えなかったから。
「予定もあったし、お金だって使わせた。本当にごめんなさい」
かぐやは昨日は買い物をしている途中で、さらに今日は海に行く予定だった。
浦野の予定はわからないけど、久しぶりにかぐやに付き合う必要のない2日間だったはずで、なにか予定を組んでいた可能性は大いにあった。
それを、私が体調管理を怠ったせいでダメにしてしまった。
「使ったお金は補填するし、予定のほうは………その、私に出来る限りでなんとかする。だから」
「―――彩葉」
短く、だが力強い言葉で遮られる。
頭を上げると、かぐやは優しく柔らかな笑顔を浮かべていた。
「迷惑なんかじゃないよ。マジで。嘘じゃない」
「……でも」
「ホントだって! 迷惑じゃない。ただ、心配だっただけ」
そっと私の傍に近寄り、私の手を握るかぐや。
その手からは温もりだけでなく、あたたかな感情までもが伝わってくるようで。
「だから、なんていうかさ。その、あれだよあれ!」
「……あれって?」
「ごめんじゃなくて、ありがとーって言ってよ。そっちの方がかぐやは嬉しい」
柔らかな光で優しく照らしてくる月のように笑うかぐや。
そんな顔で言われてしまったら、もう何も言えないじゃない。
「……かぐや、ありがとう。心配してくれて嬉しかった」
「うん!」
力強く、嬉しそうに笑うかぐやから視線を横にずらし、浦野を見つめる。
いつものように何も思っていないような無表情で、温度の無い瞳と視線を合わせる。
「浦野も助けてくれてありがとう。おかげで助かった」
「別に礼などいらん。俺は目的はどうあれ不法侵入という罪を犯している」
「それは私を助けるためなんだから不問にするに決まってるじゃん。気にしなくていいよそんなの」
「そういうものか」
「うん」
「……では、好きにすればいい」
「そうする。昨日はありがとう浦野。あと今日の買い物の代金教えて。私が払うから」
「それはかぐやに言え。俺の管轄ではない」
「え?」
その予想外の返答にかぐやの方を見ると、下手な口笛を吹きながらそっぽを向いていた。
誤魔化し方へたくそか。
どういうことかと理由を訪ねようとかぐやに聞こうとしていると、その前に声がかかる。
「酒寄。礼とは関係なく一つ頼みがある」
思わず目を瞬かせる。
「…………頼み?」
「ああ」
浦野が、私に?
「……別にいいけど、どんなこと?」
普段ならば先に内容を聞いてから判断をするが、さすがに今回は別だ。それに無茶な内容ではないと思うし。多分だけど。
「かぐやいろPチャンネルとしての活動についてだ」
「チャンネルの?」
「え、なになに? しんたろーなんの話?」
かぐやも疑問に思ったのか間に挟まるように会話に参加してくる。
「これは俺の友人からの提案なんだが」
出た。浦野の友人。
ツクヨミの全ライバーを認知していると自称する浦野の助言者。
たびたび浦野はその人物に今後の方針などについて助言を貰っているらしく、たまに食事の場で話題に上る人物だ。ちなみに正体は未だに不明。私は候補は3人まで絞った。多分ここ最近のかぐやのライブを現地の後ろの方から見ている男の誰かのはず。多分。かぐやは教えてもらえずによくぶーたれている。
「酒寄」
「……なに?」
さて、今度は何を言ってきたんだ?
「―――ライブで演奏する気はないか?」
「…………はい?」
思わず聞き返してしまった私は、多分間違っていなかったと思う。
限界の向こう側に行っちゃった系女子/酒寄彩葉
頑張りすぎ。原作と違いオリ主くんがいることで必要のない心労やら、より過酷なタイムスケジュールを設定した結果原作よりも1週間近くはやく倒れた。
そもそも原作時点で夏休み前半で14連勤なの絶対おかしい。休め高校生。若さにかまけて無理無茶に慣れるんじゃない。
実はオリ主くんがかぐやに協力する理由にとても近付いていたが、生憎と気付くことは無かった。
世界に存在しているのは俺とそれ以外のみだ!/浦野真太郎
心配という感情は言葉では知ってる。実感はしてない。そんなオリ主くんである。
外傷、おもに刃物での切り傷や、拳や蹴りでの打撲に対しての応急手当なら慣れているが、熱が出た時にどう対処したらいいのかわからずにスマホで調べながら実は色々頑張ってたオリ主くん。
内心で面倒くさいと思いながら女の子を助けてたと書けばまるでツンデレみたいだが、もちろんそんな男ではない。
心配になってそれ以外のことが吹っ飛んだ/かぐや
超心配。少し前から無理してるの知ってたし、気を付けるように言ってたし、そもそも休めとも言っててこれである。ただただ心配なかぐやだった。
今後は彩葉の大丈夫はあんまり信用しすぎないようにすると心の内で誓うかぐやであった。それが露見することは多分ない。
多分今話で一番必死だったのはこの子。
心配していると表に出さない、そういう気遣い/諌山真実と綾紬芦花
彩葉の友人として、そして新たな友人としてかぐやのライバー活動に積極的に協力し、これまでと違う客層にかぐやを紹介するという導線を作ったりした心優しい友人たち。
ちなみにオリ主くんには本名は覚えられてない。芦花と真実、あるいはROKAとまみまみとしてしか覚えてない。クラスメイトだとは未だに知らないオリ主くん。ちなみに顔はかぐやの編集中の動画を見て覚えてる。じゃないと家まで連れてったりしなかった。