浅葱が家へ来ることは、いつの間にか特別なことではなくなっていた。
朝起きて顔を洗い、おばさんの作ってくれた朝ご飯を食べながら居間でのんびりしていると、決まって玄関の引き戸が開く音がする。
もちろん、その音が聞こえるのは僕だけだ。
「おはようなのじゃ」
そう言いながら銀色の髪を揺らして居間へ入ってくる浅葱を見て、「また来たの?」と聞くのも、もはや毎朝のやり取りになっていた。
「またとはなんじゃ。失礼なやつじゃの」
頬を膨らませて文句を言うくせに、僕の隣へ座る速さだけは日に日に早くなっている。
最初の頃は夕方になると「神社へ戻るのじゃ」と帰っていたが、最近では神社にいる時間の方が短いんじゃないかと思うくらいだった。
以前、そのことを聞いたことがある。
「神社はいいの?」
「暇じゃ」
「神様ってもっと忙しいものじゃないの?」
「忙しい神もおる」
「じゃあ浅葱は?」
「暇じゃ」
あまりにも迷いのない返事に思わず笑ってしまうと、浅葱は「何がおかしい」と不服そうに眉を寄せていた。
そんな調子だから、一日中一緒にいるのが当たり前になった。
ゲームをしたり、漫画を読んだり、散歩に出たり、昼寝をしたり。何をするわけでもなく縁側に座って田んぼを渡る風を眺めているだけの日もある。
八月の日差しは容赦なく照りつけ、蝉は朝から夕方まで飽きもせず鳴き続ける。古びた扇風機はぶうん、と気の抜けた音を立てながら首を振り、畳の匂いと冷えた麦茶の香りが混ざる居間は、不思議と心地よかった。
浅葱はそんな時間が好きらしい。
「人間は面白いのう」
「何が?」
「何もせんでも、一緒におるだけで満足そうな顔をする」
「それは浅葱じゃない?」
「わしか?」
首を傾げる姿がおかしくて笑うと、「また笑ったの」と少しだけ嬉しそうに頬を緩める。
そんな日々の中で、一つだけ変わったことがあった。
ゲームをクリアした日に何気なく頭を撫でたのが始まりだったはずなのに、いつの間にか浅葱は理由もなく撫でられに来るようになった。
漫画を読んでいると肩へ頭を預けてくる。
ゲームをしているとコントローラーを持つ腕へ額を擦り寄せてくる。
昼寝をしようと横になると、いつの間にか隣へ転がってきて耳だけをこちらへ向けている。
「……何?」
そう聞くと、浅葱は少しだけ耳を動かして、
「待っておる」
と言う。
「何を?」
「分かるじゃろう」
最近ではもう、「撫でるのじゃ」とすら言わなくなった。
頭を差し出されれば、ああ撫でろということか、と分かってしまう自分もどうかと思う。
仕方なく髪を撫でると、耳がぴくりと震え、尻尾が機嫌よく左右に揺れる。その様子を見ると、ついもう少しだけと手が止まらなくなるのだから不思議だった。
「裕は学習能力があるのう」
「誰のせいだよ」
「褒めておるのじゃ」
「褒められてる気がしないんだけど」
「気のせいじゃ」
浅葱は満足そうに笑っていた。
それから数日が過ぎた頃、今度は別の変化があった。
ある朝、暑苦しさを感じて目を覚ますと、目の前に銀色の髪があった。
一瞬夢かと思ったが、ゆっくり瞬きをすると浅葱と目が合う。
「起きたかの」
「……何してるの?」
「おるだけじゃ」
どうやらタオルケットの中へ勝手に潜り込んできたらしい。
「普通、人の布団には入らないからね」
「そうなのか?」
「そうなの」
浅葱は少しだけ不思議そうな顔をしたあと、「人間は難しいのう」と呟いた。
起き上がろうとすると、浅葱の鼻先が肩口に近づいてくる。
くん、と小さく音がした。
「今、嗅いだ?」
「嗅いだ」
まるで悪いことをしていないと言わんばかりの返事だった。
「何で?」
「落ち着くからじゃ」
「匂いで?」
「うむ」
浅葱は僕の服の袖を指先で摘まみながら、小さく頷く。
「最初は気づかなかったんじゃが、おぬしの匂いを嗅いでおると安心するのじゃ。神社の御神木の近くにおる時みたいにな」
狐だからなのか、神様だからなのか、それとも浅葱だからなのか。
理由は結局分からなかった。
ただ、それ以来の浅葱はさらに遠慮がなくなった。
隣へ座れば肩が触れるくらい近いし、ゲームをしていても漫画を読んでいても、気づけば僕の肩口で小さく鼻を鳴らしている。
「それ、もう癖になってない?」
「そうかもしれんの」
少しも反省した様子はなく、そう言って笑う。
ある昼下がり、扇風機の風を受けながら漫画を読んでいると、浅葱がいつものように肩へ寄りかかってきた。髪が腕に触れ、小さく「くん」と鼻を鳴らす音が聞こえる。
呆れながら頭を撫でると、浅葱は目を細めて身体の力を抜いた。
「おぬしの匂いを嗅ぎながら撫でられておると、本当に幸せじゃのう」
照れもなくそう言って笑う浅葱に、返す言葉は見つからなかった。
代わりにもう一度だけその頭を撫でると、浅葱は喉を鳴らす猫みたいな顔をして、嬉しそうに尻尾を揺らしていた。
◇
祐が眠りに着いておおよそ1時間が経とうとするころ、眠ってしまった祐に抱きついている浅葱の息遣いは、どんどん荒くなっていった。
「祐、、祐、、、、」
「あぁ、、わしの祐、、」
ぐりぐりと頭を強く埋め恍惚とした表情を浮かべる。祐が起きている時とはまた違った雰囲気を纏い浅葱は甘く蕩けるような時間を楽しんでいた。
祐の足に自分の足を絡め独占欲をあらわにする。
「んん、、浅葱、、、」
今だに眠りについている祐が、寝苦しそうに浅葱の名前を呼ぶ祐。
「ああぁぁぁ」
名前を呼ばれて嬉しさに身を震わせる。
「本当に愛やつじゃのぉ」
仰向けの祐の上に体制を変え、黒く濡れた瞳でまじまじと見つめる。
「このまま食ってしまおうか」
両の手の指を絡め、目も細くして捕まえた獲物をどうしようかと浅葱は考える。
本能では祐をここで番にしてしまえと叫ぶがそれを止めるのは、祐から求められたいという女としての気持ちであった。
「やはりここは、お主からじゃな」
自分の中での葛藤の末勝ったのは、女としての自分だった。
「今日はこれだけだ許してやるのじゃ」
軽く口付けをして再び裕の腕枕の元に帰っていく。