貴婦人の一角獣   作:全肯定逆張りおじさん

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夢の中へ

 トレーナーは、同じ映像を何度も見ていた。

 

 何度も、何度も。

 

 机の上に肘をつき、画面へ少し身を寄せ、映像の中のレースを眺めている。再生し、止め、巻き戻し、また再生する。映像の端に映る異国の芝も、観客席の光も、実況の声が一段高くなるところも、もう目を閉じてもなぞれるのではないかと思えるほどだった。

 

 それでも、また見る。

 

 飽きるということを知らないのか。

 

 あるいは、飽きるほど見ることで、何かを確かめているのか。

 

 ジェンティルドンナは、カップを手にしたまま、しばらくそれを眺めていた。

 

 紅茶の水面は静かだった。

 

 午後の光が、窓の外から斜めに差している。冬へ向かう季節の光は、夏のように厚くはない。薄く、乾き、しかし不思議と輪郭だけははっきりしている。トレーナー室の棚、書類の山、壁に貼られた予定表、机の端に寄せられた資料。そのひとつひとつを、静かに縁取っていた。

 

 部屋は落ち着いていた。

 

 レース場の歓声から切り離された、小さな部屋。

 

 外では誰かの足音が廊下を過ぎる。遠くで扉が閉まる。湯気の細い線が、紅茶からゆっくり立ち上がる。トレーナーの指先が、再生ボタンに触れる。

 

 画面の中では、異国のターフが映っている。

 

 ドバイシーマクラシック。

 

 乾いた光。

 

 日本とは違う色の空。

 

 遠く、広く、どこか現実離れしたターフ。

 

 その中を、ジェンティルドンナが走っていた。

 

 勝ったレースである。

 

 去年の雪辱を晴らしたレース。

 

 遠い国の空の下で、ふたたび己の名を掲げたレース。

 

 その映像を見ること自体は、悪くない。

 

 勝利の映像である。勝者としての姿である。担当トレーナーが担当の勝利を確認することに、咎める理由はない。

 

 ないはずだった。

 

 だが、回数には限度がある。

 

 ジェンティルドンナは、紅茶のカップを静かに置いた。

 

「はぁ……また見てるんですの?」

 

 呆れを隠さない声だった。

 

 トレーナーは振り返った。

 

 少しだけ気まずそうに笑う。

 

「僕は、君と違って緊張しやすいからさ。担当の雄姿を眺めることぐらい許しておくれよ」

 

「雄姿?」

 

「うん。とてもいい走りだった」

 

「ドバイシーマクラシックは勝ちましたもの。当然ですわ」

 

 当然。

 

 そう言いながら、ジェンティルドンナは画面を見る。

 

 勝利は当然である。

 

 勝つために走った。

 

 勝つために整えた。

 

 勝つために積み重ねた。

 

 だから勝った。

 

 そこに過剰な感傷を差し挟む必要はない。

 

 そのはずだった。

 

 けれど、画面の中の自分は、ただレースを踏み伏せてはいなかった。

 

 直線に入る瞬間。

 

 脚を伸ばす前の、ほんのわずかな間。

 

 そこに、以前なら許さなかった種類の柔らかさがあった。

 

 迷いではない。

 

 緩みでもない。

 

 弱さでもない。

 

 ただ、レースの流れへ手を差し入れるような、触れるような、掴むような、一瞬。

 

 かつてなら、そうしたものを余計なものとして斬り捨てただろう。

 

 レースは屈服させるもの。

 

 勝者は支配するもの。

 

 そこに触れたいなどという言葉は不要である。

 

 そう思っていた。

 

 今も、その考えが消えたわけではない。

 

 勝つこと。

 

 勝者であること。

 

 それは、ジェンティルドンナの核にある。

 

 だが、その核の周囲に、以前は存在を認めなかったものが増えた。

 

 夢。

 

 思い。

 

 触れたいという願い。

 

 勝ちたいという、あまりにも単純な言葉。

 

 口にすれば幼い。

 

 文字にすれば、なおさら頼りない。

 

 淑女の言葉としては、いささか剥き出しに過ぎる。

 

 それでも、脚は知っている。

 

 あのジャパンカップの直線で、知ってしまった。

 

 冷たい計算では届かない場所があることを。

 

 ただ支配しようとするだけでは、レースは完全には開かないことを。

 

 そして、勝ちたいという願いが、必ずしも品位を損ねるものではないことを。

 

 認めるには時間がかかった。

 

 今でも、好き好んで口にする気はない。

 

 だが、完全に否定することも、もうできない。

 

「ここがいいんだ」

 

 トレーナーが言った。

 

 映像を少し戻す。

 

「どこですの」

 

「直線に入ったところ。君が、ちゃんとレースに触ろうとしてる」

 

 ジェンティルドンナは、わずかに目を細めた。

 

「また、そのような曖昧なことを」

 

「曖昧かな」

 

「ええ。非常に」

 

「でも、君はわかってる」

 

「わかっているかどうかと、あなたの言葉選びがよろしくないことは別問題ですわ」

 

 トレーナーは苦笑した。

 

 その顔が、少しだけ癪に障る。

 

 彼は時折、こちらが認めたくないものを、認める前から知っているような顔をする。悪意はない。誇示でもない。ただ、担当のことを見ているだけなのだろう。

 

 それが、腹立たしいこともある。

 

 腹立たしく、また、少しだけ悪くないこともある。

 

 ジェンティルドンナは、紅茶へ視線を落とす。

 

 湯気はもう薄い。

 

 香りだけが静かに残っている。

 

「その後のレースでは負けましたけれど」

 

 彼女は言った。

 

「宝塚記念も、天皇賞秋も」

 

「うん」

 

「それでも、あなたは嬉しそうに語りますのね」

 

「嬉しいよ」

 

 トレーナーは、画面から目を離さずに言った。

 

「君が、本当に走るようになったから」

 

 ジェンティルドンナは、すぐには返さなかった。

 

 本当に走る。

 

 ずいぶんと不作法な言い方である。

 

 まるで、それまでの彼女が本当に走っていなかったかのようではないか。

 

 桜花賞も。

 

 オークスも。

 

 秋華賞も。

 

 ジャパンカップも。

 

 彼女は走った。

 

 勝つために走った。

 

 勝ち取るために走った。

 

 その事実を軽んじる言葉ならば、許すべきではない。

 

 だが、トレーナーの声に侮りはなかった。

 

 軽視もない。

 

 ただ、喜んでいる。

 

 彼女が、以前とは違う場所へ足を踏み入れたことを。

 

 レースをただ足元へ伏せさせるだけでなく、その中にある熱へ手を伸ばせるようになったことを。

 

 敗北の中にさえ、何かを置いてこられるようになったことを。

 

 それが癪だった。

 

 癪でありながら、否定しきれなかった。

 

「では、負けてこんなに喜ばれるのでしたら、お世話になったお礼に今日も負けましょうか?」

 

「いや」

 

 トレーナーは即座に首を振った。

 

「ぜひ勝ってほしい」

 

 返答が早い。

 

 あまりに早い。

 

 その早さに、ジェンティルドンナは少しだけ満足した。

 

 ほんの少しだけである。

 

「こんな僕の弱気を吹き飛ばすように。君なら必ずできると確信してるよ」

 

 彼の声は、いつものように柔らかかった。

 

 だが、以前のような曖昧さだけではない。

 

 あのジャパンカップの直線で叫んだ声を、ジェンティルドンナは覚えている。

 

 聞こえるはずのない距離から届いた声。

 

 いつもの掴みどころのない男とは思えない、剥き出しの声。

 

 走れ、と。

 

 夢を見ろ、と。

 

 彼女にもっとも似合わない言葉を、もっとも届く形で投げてきた声。

 

 あの時、確かに何かが変わった。

 

 劇的にではない。

 

 世界が急に色を変えたわけでもない。

 

 勝利の意味が別のものになったわけでもない。

 

 ただ、走る時の手触りが変わった。

 

 ターフへ足を踏み入れる時、そこにあるものを以前より遠ざけなくなった。

 

 歓声も。

 

 相手の気配も。

 

 期待も。

 

 不安も。

 

 自分の胸の奥にある、幼い言葉も。

 

 すべてを切り捨てて冷たく立つのではなく、必要なものだけを残し、脚に乗せる。

 

 そのやり方を知った。

 

 知ってしまった。

 

 ジェンティルドンナは、画面を見た。

 

 そこにいるのは、すでに勝った自分だった。

 

 ドバイの空の下で、雪辱を果たし、歓声を浴び、勝者として掲げられた過去の自分。

 

 悪くはない。

 

 勝利を眺めること自体に、咎める理由はない。

 

 だが、今日走るのは、画面の中の彼女ではない。

 

 有馬記念を走るのは、今ここにいる自分だ。

 

 初めての長距離。

 

 初めての中山。

 

 そして、最後のレース。

 

 過去の勝利に安堵するには、今日という日は少々重すぎた。

 

 ジェンティルドンナは、紅茶のカップを置いた。

 

「でしたら……」

 

「うん?」

 

「たとえ、わたくしでも、違う女に懸想なんて品のない真似はおよしなさいな」

 

 トレーナーは目を瞬いた。

 

「違う女?」

 

「画面の中の女ですわ」

 

 ジェンティルドンナは、映像の中の自分を見る。

 

 勝者として走り終えた、過去の姿。

 

「その方は、もう勝ちました。あなたが何度見返したところで、結果は変わりません」

 

「……うん」

 

「今日走るのは、そちらのわたくしではありませんわ」

 

 彼女は、ゆっくりとトレーナーを見る。

 

「今のわたくしです」

 

 トレーナーは、しばらく黙った。

 

 画面の中では、過去のジェンティルドンナがターフを駆けている。

 

 だが、部屋の中には、今日走るジェンティルドンナがいる。

 

「ちゃんと見ておりますの?」

 

 声は静かだった。

 

 責めているようで、責めているだけではない。

 

 確かめている。

 

 今日の自分を。

 

 最後のレースへ向かう自分を。

 

 過去の勝利ではなく、今ここにいる自分を。

 

 トレーナーは、ゆっくりと頷いた。

 

「見てるよ」

 

「でしたら、よろしい」

 

「でも、少し違った」

 

「何がですの」

 

「見てるつもりだった。けど、君に言われて、今ちゃんと見直した」

 

 ジェンティルドンナは、わずかに目を細めた。

 

「遅いですわ」

 

「ごめん」

 

「謝罪は結構。今日の走りで返しなさい」

 

「走るのは君だよ」

 

「あなたも走るのですわ」

 

 トレーナーは、少し驚いた顔をした。

 

 ジェンティルドンナは、当然のように言う。

 

「担当のラストランを前にして、過去の映像に逃げている暇などありませんでしょう」

 

「逃げてたかな」

 

「ええ。少なくとも、わたくしにはそう見えました」

 

 トレーナーは、画面を止めた。

 

 ドバイのターフを走るジェンティルドンナが、そこで静止する。

 

 勝者の姿。

 

 過去の自分。

 

 美しい記録。

 

 けれど、今日の彼女ではない。

 

「うん」

 

 トレーナーは、小さく息を吐いた。

 

「そうだね。ちゃんと今の君を見るよ」

 

「当然です」

 

 ジェンティルドンナは、カップを持ち上げる。

 

 紅茶の香りが、静かに立つ。

 

「わたくしのトレーナーなのですから」

 

 その言葉は、いつものように高慢で、当然のように響いた。

 

 だが、その奥に、以前とは違う重さがあった。

 

 見なさい。

 

 過去の勝利ではなく。

 

 記録でもなく。

 

 誰かが語る評価でもなく。

 

 今、ここにいる自分を。

 

 最後のレースへ向かう自分を。

 

 それは命令であり、信頼でもあった。

 

 トレーナーは、画面を消さなかった。

 

 ただ、再生を止めたまま、少しの間だけ黙っていた。

 

 部屋には、紅茶の香りが残っている。

 

 冬の光が、机の上を静かに滑る。

 

 画面の中の過去のジェンティルドンナは、止まったままだった。

 

 その前に、今のジェンティルドンナがいた。

 

 有馬記念。

 

 それは、ジェンティルドンナにとってトゥインクルシリーズのラストランとなるレースだった。

 

 初めての長距離。

 

 初めての中山競馬場。

 

 そして、最後のレース。

 

 条件だけを並べれば、いくらでも不安材料はあった。

 

 中山のコースは東京とは違う。

 

 直線は短い。

 

 坂もある。

 

 小回りで、位置取りも難しい。

 

 長距離という未知の要素もある。

 

 これまで彼女が積み上げてきた強さを、そのまま同じ形で持ち込めるとは限らない。

 

 世間は騒いだ。

 

 距離はどうか。

 

 中山はどうか。

 

 ラストランで本当に勝てるのか。

 

 彼女ほどのウマ娘でも、有馬記念は容易ではない。

 

 それらの声を、ジェンティルドンナは静かに聞いた。

 

 かつてなら、切り捨てただろう。

 

 外側の声。

 

 ターフを走らぬ者の言葉。

 

 勝手な期待と勝手な不安。

 

 今も、すべてに耳を貸すつもりはない。

 

 だが、以前ほど遠くもなかった。

 

 観客が夢を見る。

 

 ファンが願う。

 

 誰かが彼女の勝利を信じる。

 

 誰かが彼女の敗北を恐れる。

 

 そのすべてが、レースの外側にあるだけの雑音だとは、もう思わない。

 

 ターフには、たしかに夢がある。

 

 そんな言葉を自分の口から言う気はない。

 

 あまりにも甘く、あまりにも無防備で、いまだに少し気恥ずかしい。

 

 けれど、完全な嘘八百ではなかった。

 

 そのことを、彼女は知ってしまった。

 

 だから、最後のレースへ向けて、彼女はいつものように整えた。

 

 身体を整える。

 

 脚を整える。

 

 呼吸を整える。

 

 食事を整え、睡眠を取り、調教を重ねる。

 

 未知の距離を前にしても、やるべきことは変わらない。

 

 勝つために必要なものを積む。

 

 勝つために余計なものを削る。

 

 ただし、すべてを削り落とすことはしない。

 

 胸の奥にある幼いものを、もう完全には閉じ込めない。

 

 勝ちたい。

 

 その言葉は、今も剥き出しにすれば少し落ち着かない。

 

 けれど、走る時にはそれでよい。

 

 脚に乗せればよい。

 

 言葉にならないものは、脚が持っていけばよい。

 

 有馬記念当日。

 

 中山の空は、乾いていた。

 

 冬の青は高く、薄く、どこか硬い。雲は遠くへ退き、陽は白い。風は冷たく、頬を撫でるというより、肌の表面を細い刃でなぞっていくようだった。

 

 それでも、競馬場は熱かった。

 

 スタンドには人が詰まり、色とりどりの旗が揺れ、新聞を握る手があちこちで震えている。コートの襟を立てた者。マフラーに顔を埋めながら双眼鏡を構える者。白い息を吐きながら、何度も同じ名前を呼ぶ者。

 

 冷えた空気の中で、人の熱だけが濃かった。

 

 中山のターフは、東京のそれとは違って見えた。

 

 東京が長く広がる河ならば、中山は器であった。

 

 狭く、濃く、熱を逃がさない器。

 

 声も近い。

 

 視線も近い。

 

 コーナーも、坂も、観客席も、すべてが近い。

 

 そこへ、この日のあらゆるものが詰め込まれていた。

 

 期待。

 

 不安。

 

 祈り。

 

 名残惜しさ。

 

 勝ってほしいという願い。

 

 勝つところを見届けたいという欲。

 

 そして、終わってしまうのだという静かな寂しさ。

 

 ラストラン。

 

 その言葉は、場内のどこにも掲げられているわけではないのに、あらゆる声の底に沈んでいた。

 

 最後。

 

 これが最後。

 

 ジェンティルドンナの、最後の走り。

 

 彼女はパドックを歩いた。

 

 初めての長距離。

 

 初めての中山競馬場。

 

 そして、トゥインクルシリーズの最後。

 

 条件だけを並べれば、不利はいくらでも数えられる。直線は短い。坂がある。小回りで、位置取りも問われる。これまでの強さを、そのまま同じ形で持ち込める場所ではない。

 

 だが、彼女の歩様は乱れなかった。

 

 背筋は伸びている。

 

 視線は高い。

 

 足取りは静かで、確かだった。

 

 以前のように、近づくものを斬るための威圧ではない。

 

 逃げないための強さだった。

 

 トレーナーは隣を歩いていた。

 

 いつもより口数が少ない。

 

 緊張しているのだろう。

 

 彼は、緊張しやすい。

 

 そう言っていた。

 

「ずいぶん静かですのね」

 

 ジェンティルドンナが言うと、トレーナーは小さく息を吐いた。

 

「うん。緊張してる」

 

「正直ですこと」

 

「今日くらいはね」

 

「今日くらいではなく、普段からもう少し正直でもよろしくてよ」

 

「そうかな」

 

「ええ。特に担当の前では」

 

 トレーナーは、少し笑った。

 

「君は?」

 

「わたくし?」

 

「緊張してる?」

 

 ジェンティルドンナは、前を見た。

 

 冬の中山。

 

 白い陽。

 

 人で埋まったスタンド。

 

 遠くに見えるゲート。

 

 乾いた芝。

 

 すべてが、最後の一度へ向かっていた。

 

「していない、と言えば嘘になりますわね」

 

 トレーナーは目を丸くした。

 

「珍しい」

 

「何ですの、その顔は」

 

「いや、嬉しくて」

 

「緊張している担当を前に、喜ぶものではありませんわ」

 

「ごめん。でも、君がそう言えるようになったんだなって」

 

 ジェンティルドンナは、少しだけ目を細めた。

 

「また成長観察ですの?」

 

「担当の成長を見るのは、トレーナーの特権だからね」

 

「では、特権の濫用にはご注意なさい」

 

「はい」

 

「それから」

 

「うん?」

 

「今日、わたくしがどのような走りをしても、泣くのはおやめなさいな」

 

「泣かないよ」

 

「本当に?」

 

「たぶん」

 

「信用に値しませんわね」

 

 彼女は微笑んだ。

 

 冬の光の中で、その微笑はかすかに柔らかかった。

 

 トレーナーは何か言おうとした。

 

 ジェンティルドンナは先に釘を刺す。

 

「何か余計なことを仰るおつもりなら、今のうちにお考え直しなさい」

 

「……うん。やめておく」

 

「賢明ですわ」

 

 やがて、時間が来る。

 

 ゲートへ向かう。

 

 ラストラン。

 

 その言葉が背中に乗る。

 

 だが、不思議と重すぎることはなかった。

 

 最後だから勝たなければならない。

 

 最後だから美しくなければならない。

 

 最後だから完璧でなければならない。

 

 そういう思いはある。

 

 けれど、それだけではない。

 

 走りたい。

 

 このターフで。

 

 この声の中で。

 

 この身体で。

 

 最後に、もう一度。

 

 その思いが、脚の奥で静かに熱を持っていた。

 

 ジェンティルドンナは振り返らなかった。

 

 トレーナーの顔を見る必要はない。

 

 見なくてもわかる。

 

 緊張している。

 

 祈っている。

 

 信じている。

 

 それでよい。

 

 彼女は前を向いた。

 

 中山のターフがある。

 

 有馬記念がある。

 

 最後のレースがある。

 

 勝者と敗者を分ける場所がある。

 

 そして、その向こうに、夢がある。

 

 そんな言葉を口にする気はない。

 

 けれど、否定もしない。

 

 ゲートに入る。

 

 扉が閉まる。

 

 歓声が波になる。

 

 ジェンティルドンナは息を吸った。

 

 静かに。

 

 深く。

 

 最後の一度へ向けて。

 

 冬の中山に、沈黙が落ちる。

 

 それは一瞬だった。

 

 ほんの一瞬。

 

 数万の人間が息を詰め、風さえも身を屈めたような、薄く張った静寂。

 

 そして。

 

 ゲートが開いた。

 

 声が爆ぜた。

 

 冬の芝を、ウマ娘たちが駆け出していく。

 

 乾いたターフに脚音が重なり、冷たい空気が裂ける。色の帯が第一コーナーへ流れ、スタンドの声がそれを追いかける。

 

 中山の熱は、逃げ場がなかった。

 

 声は天へ抜けず、器の中で何度も跳ね返る。歓声は歓声を呼び、祈りは悲鳴へ変わり、悲鳴はまた名前を呼ぶ声へ変わる。

 

 レースは進む。

 

 坂を越え、コーナーを回り、スタンド前を過ぎる。

 

 そのたびに、人々の熱は色を変えた。

 

 期待。

 

 焦燥。

 

 驚き。

 

 願い。

 

 祈り。

 

 誰かが拳を握る。

 

 誰かが口元を覆う。

 

 誰かが隣の肩を掴む。

 

 誰かが目を閉じる。

 

 誰かが叫ぶ。

 

 誰かは、もう何も言えない。

 

 冬の中山は、そのすべてを抱えていた。

 

 トゥインクルシリーズの終わり。

 

 ひとつの時代の終わり。

 

 それは一人のウマ娘のラストランであり、そこへ夢を託した者たちの一日でもあった。

 

 コースの上では、色の列がほどけていく。

 

 ひとつの影が前へ出る。

 

 別の影が食らいつく。

 

 また別の影が外から伸びる。

 

 声が割れる。

 

 冬空の下、競馬場全体が大きな生き物のように震える。

 

 最終コーナー。

 

 白い陽が傾きかけたターフへ落ちる。

 

 芝は乾き、土は鳴り、脚音はひとつの嵐になる。

 

 スタンドの誰もが立ち上がりかける。

 

 手が伸びる。

 

 声が重なる。

 

 名前が叫ばれる。

 

 最後の直線。

 

 中山の直線は短い。

 

 だからこそ、熱は一気に凝縮される。

 

 長い物語の終わりが、わずかな距離へ押し込められる。

 

 届くのか。

 

 届かないのか。

 

 残るのか。

 

 差されるのか。

 

 勝つのか。

 

 終わるのか。

 

 そのすべてが、一息の中に詰め込まれる。

 

 場内の熱は、最高潮へ達していた。

 

 絶叫が重なり、悲鳴が混じり、祈りが砕け、歓喜が先走る。

 

 誰かが泣いている。

 

 誰かが笑っている。

 

 誰かが、まだ何も決まっていないのに両手を握り締めている。

 

 誰かが、もう見ていられないというように顔を覆う。

 

 その中心には、一つの名があった。

 

 ◇

 

 二人が出て行った、トレーナー室。

 

 そこは、喧噪あふれる競馬場とは別世界だった。

 

 人の波もない。

 

 絶叫もない。

 

 冬の風も入ってこない。

 

 机の上には、開きっぱなしの資料。

 

 片づけられなかったペン。

 

 畳まれずに置かれたタオル。

 

 そして、つけっぱなしのテレビ。

 

 室内には、ほのかな紅茶の香りが残っている。

 

 温かさの名残。

 

 誰かがそこにいて、笑い、言葉を交わし、少しだけ黙った気配。

 

 そんなものだけが、やわらかく残っている。

 

 誰もいない部屋に、実況の声だけが滲む。

 

『――が一着です!!』

 

 静かなトレーナー室に、その声が響いた。

 

『こんにちはとさようならを同時にやってのけました!』

 

 テレビの光が、空の椅子を照らしている。

 

 紅茶の香りは、まだかすかに残っていた。

 

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