花鳥玲愛は、甘さを認めない   作:エーアイ

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第11話 相沢湊は、花鳥玲愛の感想を待っていない

 花鳥玲愛が、確認用の焼き菓子を持ち帰った。

 

 その事実を、相沢湊は当然覚えていた。

 

 忘れる方が難しい。

 

 閉店後の厨房。

 

 今日の調整前の焼き菓子。

 

 焼き色の差を見るための確認用。

 

 余り物ではない。

 

 商品には出していない。

 

 記録にも残した。

 

 三枝誠司にも見てもらった。

 

 その上で、玲愛が言った。

 

 置いていきなさい。

 

 商品確認です。

 

 特別扱いでもありません。

 

 その言葉は、いつも通りだった。

 

 厳しくて、正しくて、逃げ道をきちんと塞いでいる。

 

 ただ、湊は見てしまった。

 

 玲愛が紙袋を受け取る時、一瞬だけ視線を外したことを。

 

 それを特別だと思うほど、湊は自惚れていない。

 

 けれど、意識しないほど鈍くもなかった。

 

 花鳥さんは、昨日の菓子をどう食べただろう。

 

 皿に出しただろうか。

 

 紅茶を淹れただろうか。

 

 店ではない場所で食べた時、香りはどう感じただろうか。

 

 焼き色の差は、やはり強く出ただろうか。

 

 甘さは戻っただろうか。

 

 重かっただろうか。

 

 聞きたいことは、いくつもあった。

 

 だが、湊は聞かなかった。

 

 朝の厨房で、湊は仕込み表を確認していた。

 

 昨日の提供数。

 

 戻ってきた皿。

 

 紅茶との組み合わせ。

 

 焼き色の差。

 

 そして、確認用として渡した一つ。

 

 ノートには、そこまで書いてある。

 

 その先は、まだ空白だった。

 

 花鳥玲愛の確認結果。

 

 そこに何が書かれるのか。

 

 気にならないわけがない。

 

 けれど、催促してはいけない。

 

 以前の自分なら、たぶん聞いていた。

 

 花鳥さん、昨日の菓子はどうでしたか。

 

 香りは残りましたか。

 

 甘さは重くありませんでしたか。

 

 店に出すにはどうでしょうか。

 

 良かったところはありましたか。

 

 そう聞いていたと思う。

 

 聞いて、答えを欲しがっていたと思う。

 

 でも、今は違う。

 

 少しは違うはずだ。

 

 玲愛は、必要なら言う。

 

 言うべきことは、必ず言う。

 

 厳しいことも。

 

 痛いことも。

 

 こちらが聞きたくないことも。

 

 必要なら、逃さず言う。

 

 だから、待つ。

 

 自分の菓子が、客席に届くまで待つように。

 

 皿が客の前に置かれ、紅茶に手が伸び、一口食べられるまで、こちらから意味を押しつけないように。

 

 玲愛の言葉も、同じだ。

 

 出てくる前に、こちらから取りに行ってはいけない。

 

「相沢くん」

 

 三枝に呼ばれて、湊は顔を上げた。

 

「はい」

 

「今日の仕込み、いつもの倍量じゃないからね」

 

「はい。提供数は昨日と同じです」

 

「なら、手を急がせないこと」

 

「分かっています」

 

 三枝は作業台の上を見た。

 

 湊が並べていた焼き菓子の生地を、一つ手に取る。

 

「昨日より、少し慎重だね」

 

「そうですか」

 

「うん。慎重なのはいいけど、固くなりすぎると焼きに出るよ」

 

「気をつけます」

 

「花鳥さんの感想、気になる?」

 

 湊の手が、ほんの少し止まった。

 

 三枝はそれを見逃さなかった。

 

 だが、笑わない。

 

 茶化さない。

 

 ただ、いつもの穏やかな声で言った。

 

「気になるよね」

 

「……はい」

 

「聞かないの?」

 

「聞きません」

 

「どうして?」

 

 湊は、生地を見た。

 

 まだ焼く前の、柔らかい生地。

 

 ここで触りすぎると、形が崩れる。

 

 早く答えを出そうとすると、余計な力が入る。

 

「花鳥さんは、必要なら言ってくれるので」

 

「うん」

 

「それに、俺が先に聞くと、評価を急かしているみたいになります」

 

「いい判断だね」

 

「褒めてますか?」

 

「半分くらい」

 

 湊は少しだけ苦笑した。

 

「ありがとうございます」

 

「残り半分は?」

 

「たぶん、手元に出すな、ですよね」

 

「分かってるならいい」

 

 三枝は生地を戻した。

 

「今日は、いつも通り焼こう。確認結果は、来た時に受け取ればいい」

 

「はい」

 

 いつも通り。

 

 その言葉を、湊は意識した。

 

 いつも通りに作る。

 

 昨日、玲愛が持ち帰ったからといって、今日の菓子が変わってはいけない。

 

 評価が気になるからといって、香りを強めてもいけない。

 

 甘さを引きすぎてもいけない。

 

 皿の上で、声を大きくしない。

 

 玲愛に言われた言葉が、頭に残っていた。

 

 あなたの菓子は、静かに置いた方が向いています。

 

 あの言葉は、今でも少し嬉しい。

 

 嬉しいが、浮ついてはいけない。

 

 湊は生地を整えた。

 

 焼き色が揺れないように。

 

 香りが前に出すぎないように。

 

 けれど、自分の香りを消しすぎないように。

 

 その間を探す。

 

 朝のキュリオには、まだ客がいない。

 

 ホール側からは、カップを置く音が聞こえる。

 

 森崎乃々香の声。

 

 有坂直人の柔らかい返事。

 

 そして、少し遅れて、花鳥玲愛の声が聞こえた。

 

「窓際の席は、椅子を少し内側へ。今日は年配のお客様が入ります」

 

 いつもの声だった。

 

 背筋が伸びる声。

 

 客席を整える声。

 

 湊は、手元から意識を逸らさないようにした。

 

 今すぐ振り返って、昨日の感想を聞く必要はない。

 

 ない。

 

 ないはずだった。

 

 それでも、厨房の入口の方に、少しだけ耳が向く。

 

 自覚はある。

 

 だが、聞きに行かない。

 

 それだけでも、以前よりはましだと思うことにした。

 

 しばらくして、玲愛が厨房の入口に立った。

 

「三枝さん」

 

「はい」

 

「昨日の焼き菓子の確認結果を共有します」

 

 湊は、作業の手を止めかけた。

 

 止めなかった。

 

 三枝がこちらを見たからだ。

 

 その視線だけで、作業を続けろと言われているのが分かった。

 

「相沢くんも聞いてください」

 

 玲愛の声がした。

 

 湊は、そこで初めて顔を上げた。

 

「はい」

 

 玲愛は、手帳を開いていた。

 

 いつもの仕事の顔。

 

 いつもの姿勢。

 

 昨日、彼女が自宅でその菓子を食べたかもしれないことなど、少しも表に出ていない。

 

 それでいい。

 

 それでいいのに、少しだけ残念だと思った自分を、湊はすぐに作業台の下へ押し込んだ。

 

「焼き色は許容範囲です」

 

 玲愛は淡々と言った。

 

「ただし、紅茶によって甘さの戻り方が変わります」

 

「はい」

 

「昨日のものは、店外で飲んだ紅茶では少し重く感じました」

 

 湊は、思わず聞き返していた。

 

「店外で、ですか?」

 

 玲愛の視線が、一瞬だけこちらへ向いた。

 

 早かった。

 

 そして、即座に防御が来た。

 

「確認です」

 

「はい」

 

「店内とは違う環境で、香りと甘さがどう残るかを見る必要がありました」

 

「はい」

 

「持ち帰ったのは、商品確認のためです」

 

「分かっています」

 

「本当に?」

 

 いつもの確認だった。

 

 湊は、少しだけ息を整えた。

 

 ここで笑ってはいけない。

 

 照れていますか、などと言ってはいけない。

 

 そんなことを言った瞬間、昨日の確認も、玲愛が持ち帰ってくれた意味も、全部軽くなる。

 

 それはしたくなかった。

 

 湊は、まっすぐ答えた。

 

「はい。ありがとうございます。店の外で食べた時の感想は、助かります」

 

 玲愛が、ほんの少しだけ黙った。

 

 それは一秒にも満たない沈黙だった。

 

 けれど、湊には分かった。

 

 今の返しは、玲愛が予想していたものと少し違ったらしい。

 

 玲愛はすぐに手帳へ視線を戻した。

 

「……助かるなら、記録してください」

 

「はい」

 

「焼き色が深い分、焦がしバターの香りが前に出ます。店内では周囲の香りや客席の流れで丸くなりますが、静かな環境では菓子だけが少し近くなります」

 

「近くなる、ですか」

 

「ええ。皿との距離ではなく、印象の距離です」

 

「はい」

 

 湊はノートに書いた。

 

 店外では、印象が近くなる。

 

 甘さが戻る。

 

 焦がしバターが前に出る。

 

 紅茶によって重く感じる。

 

 玲愛の言葉は、具体的だった。

 

 ただ「重い」ではない。

 

 どう重いのか。

 

 どの環境で変わるのか。

 

 何が前に出るのか。

 

 それを見ている。

 

 店の外で。

 

 彼女自身の紅茶で。

 

 湊の焼き菓子を、皿に出して。

 

 そこまで考えかけて、湊は手を止めた。

 

 いけない。

 

 そこを想像するために聞いているわけではない。

 

 これは商品確認だ。

 

 玲愛もそう言っている。

 

 なら、こちらも商品確認として受け取る。

 

「焼成温度を少し下げた方がよいでしょうか」

 

 湊が聞くと、玲愛はすぐに答えた。

 

「一律に下げるより、二回目以降の焼き上がりを見てください。提供数が増えた時に、後半だけ色が深くなるなら、工程側の問題です」

 

 三枝が頷いた。

 

「そこは俺も見よう。相沢くん、一回目と二回目で天板の位置を変えた?」

 

「昨日は変えていません」

 

「じゃあ、オーブンの温度戻りかもしれない。次はそこを記録しよう」

 

「はい」

 

 玲愛は続けた。

 

「それと、夜に近い時間帯に出す場合は、少し引きを早くした方がいいです」

 

「夜、ですか」

 

「ええ。午後早めなら許容範囲ですが、閉店に近い時間帯では甘さが長く残ります。客が帰る時に、少し重くなる可能性があります」

 

「分かりました」

 

「提供時間帯も、記録してください」

 

「はい」

 

 湊は書きながら、少しだけ感心していた。

 

 玲愛は、食べた後の客の帰り道まで見ている。

 

 店の中だけではない。

 

 食べ終わった後。

 

 席を立つ時。

 

 店を出た後。

 

 そこまで含めて、甘さの残り方を見ている。

 

 自分が学んできた「客の顔を見る菓子」と、どこかでつながる感覚だった。

 

 だから、痛いことを言われても聞ける。

 

 玲愛の言葉は、菓子を客席へ戻す。

 

 今もそうだ。

 

「花鳥さん」

 

「何ですか」

 

「ありがとうございます」

 

「先ほど聞きました」

 

「いえ。もう一度です」

 

「一度で十分です」

 

「はい」

 

 湊は素直に頷いた。

 

 玲愛はほんの少しだけ眉を動かした。

 

 困っているようにも見えた。

 

 だが、すぐに仕事の顔に戻った。

 

「午前の仕込みに戻ってください」

 

「はい」

 

「三枝さん、後ほど焼成記録の確認をお願いします」

 

「分かりました」

 

 玲愛は厨房を離れた。

 

 背筋はいつも通り。

 

 歩く速度も変わらない。

 

 けれど、湊はその背中を見送ってから、ノートに一行だけ追加した。

 

 店の外で食べた時の感想は、想像以上に具体的。

 

 そこまで書いて、少し迷った。

 

 その下に、もう一行書きかける。

 

 花鳥さんは、家で紅茶を淹れて食べたらしい。

 

 書いてから、すぐに線を引いた。

 

 記録に残す内容ではない。

 

 商品確認として必要な情報ではない。

 

 それでも、一度書いてしまった自分に、湊は少しだけ苦笑した。

 

「相沢くん」

 

 三枝の声がした。

 

「手、止まってる」

 

「あ、すみません」

 

「焦げるよ」

 

「考えがですか」

 

「今回は菓子も」

 

「はい」

 

 湊は慌てて作業に戻った。

 

 生地を整える。

 

 天板に並べる。

 

 焼成前の状態を確認する。

 

 今の情報を、すぐに全部反映しようとしない。

 

 まずは、昨日との違いを見る。

 

 変えるなら、記録してから。

 

 焦らない。

 

 それも玲愛に言われたことだ。

 

 午前の営業が始まった。

 

 注文が入る。

 

 紅茶セット。

 

 焼き菓子付き。

 

 湊は、昨日と同じように皿を整えた。

 

 ただし、香りを少しだけ意識する。

 

 前に出しすぎない。

 

 引きすぎない。

 

 焼き色を見る。

 

 一つ目。

 

 二つ目。

 

 三つ目。

 

 大きな差はない。

 

 だが、後半に少し色が深くなりやすい。

 

 温度戻り。

 

 天板の位置。

 

 生地の厚さ。

 

 記録することが増えていく。

 

 仕事は地味だ。

 

 地味だが、面白い。

 

 玲愛が店外で食べてくれたことで、見えたものがある。

 

 店の外でどう変わるか。

 

 紅茶が違うとどう戻るか。

 

 客席だけでは拾えない差。

 

 それを、彼女が持ってきた。

 

 確認用として。

 

 特別扱いではなく。

 

 湊は、その言葉を思い出した。

 

 特別扱いではありません。

 

 玲愛は、きっと本気でそう言っている。

 

 だから、湊もそれを軽く扱ってはいけない。

 

 自分にとってそれが少し特別に思えても、彼女の言葉を否定しない。

 

 その上で、受け取る。

 

 午後の合間、森崎が厨房の入口に来た。

 

「相沢さん、今日の焼き菓子、一つ目より二つ目の方が少し香りが強かった気がします」

 

「本当ですか」

 

「はい。お客様は気にされていませんでしたけど、置いた時に少し分かりました」

 

「ありがとうございます。記録します」

 

「花鳥さんも、朝、同じようなことを言っていました?」

 

「はい。焼き色と紅茶で甘さの戻り方が変わると」

 

「さすが花鳥さんですね」

 

 森崎は素直に言った。

 

 湊も頷いた。

 

「本当に」

 

 森崎は、少しだけ湊を見た。

 

「相沢さん、今日は感想を聞きに行かないんですね」

 

 湊は手を止めた。

 

「聞きに行った方がよかったですか」

 

「いえ、そういう意味じゃなくて」

 

 森崎は少し慌てた。

 

「前なら、もっと気にしていた気がしたので」

 

「気にはしています」

 

「そうなんですか?」

 

「はい」

 

 湊は正直に答えた。

 

「でも、花鳥さんは必要なことを言ってくれるので」

 

 森崎は、少しだけ笑った。

 

「相沢さん、花鳥さんのこと、だいぶ分かってきたんですね」

 

「分かってきたんでしょうか」

 

「少なくとも、焦って聞かない方がいいって分かっているなら、前より分かっていると思います」

 

「それは、たぶん」

 

 湊は少し苦笑した。

 

「怒られた成果です」

 

「花鳥さんに聞かれたら、怒られますよ」

 

「言わないでください」

 

「言いません」

 

 森崎は楽しそうに戻っていった。

 

 湊は作業に戻る。

 

 焦って聞かない。

 

 待つ。

 

 それは、思ったより難しい。

 

 でも、待ったことで、今日の玲愛の言葉はきちんと届いた。

 

 もし朝一番でこちらから聞いていたら、同じ内容でも違う受け取り方になっていたかもしれない。

 

 花鳥さん、どうでしたか。

 

 そう聞いてしまえば、玲愛は「確認です」ともっと硬く言っただろう。

 

 それはそれで、必要な防御だったのかもしれない。

 

 けれど、今日は違った。

 

 玲愛が自分から伝えに来た。

 

 焼き色は許容範囲です。

 

 紅茶によって甘さの戻り方が変わります。

 

 店外で飲んだ紅茶では少し重く感じました。

 

 その言葉を、湊はちゃんと受け取ることができた。

 

 茶化さずに。

 

 急かさずに。

 

 勝手に意味を足しすぎずに。

 

 それでよかったのだと思う。

 

 閉店後。

 

 湊は今日の焼成記録をまとめていた。

 

 一回目。

 

 二回目。

 

 天板の位置。

 

 焼き色。

 

 香りの立ち方。

 

 提供時間帯。

 

 紅茶との組み合わせ。

 

 三枝にも確認してもらい、次回の調整点を決める。

 

「温度を下げるより、後半の管理だね」

 

 三枝が言った。

 

「はい」

 

「花鳥さんの店外確認、効いたね」

 

「はい」

 

「よかったね」

 

 湊は頷きかけて、少し止まった。

 

「よかった、でいいんでしょうか」

 

「どういう意味?」

 

「花鳥さんに、手間をかけさせたので」

 

 三枝は少しだけ考えた。

 

「手間はかかっただろうね」

 

「はい」

 

「でも、必要だと思ったからやったんじゃない?」

 

「そうだと思います」

 

「なら、その分、皿を良くすればいい」

 

 湊は、ゆっくり頷いた。

 

「はい」

 

 三枝は作業台を片付けながら言った。

 

「それに、花鳥さんが不要だと思ったら、たぶん持ち帰らないよ」

 

 湊は顔を上げた。

 

 三枝はそれ以上言わなかった。

 

 余計なことは言わない、という顔だった。

 

 湊も、それ以上は聞かなかった。

 

 ただ、ノートの端に小さく書いた。

 

 不要ではなかった。

 

 それが、仕事としての意味なのか。

 

 商品としての必要なのか。

 

 それとも、もう少し別の何かなのか。

 

 湊には、まだ分からない。

 

 分からないなら、決めつけない。

 

 でも、受け取る。

 

 それくらいは、してもいいと思った。

 

 その日の帰り際、湊はホールの入口で玲愛とすれ違った。

 

「相沢さん」

 

「はい」

 

「今日の焼成記録、明日の朝に確認します」

 

「分かりました」

 

「店外での確認結果も、必要な範囲で記録に反映してください」

 

「はい」

 

「余計なことは書かないように」

 

 湊は、一瞬だけ固まった。

 

 玲愛はこちらを見ている。

 

 まさか、線を引いた一文を見られたわけではないだろう。

 

 いや、見られてはいないはずだ。

 

 湊は慎重に答えた。

 

「……必要なことだけ書きます」

 

「本当に?」

 

「努力します」

 

「実行してください」

 

「はい」

 

 玲愛は頷き、ホールへ戻ろうとした。

 

 湊は、その背中に声をかけた。

 

「花鳥さん」

 

「何ですか」

 

「今日の確認、ありがとうございました」

 

「先ほども聞きました」

 

「はい。でも、もう一度です」

 

「一度で十分です」

 

「分かりました」

 

 湊は頭を下げた。

 

「では、お疲れさまでした」

 

「お疲れさまです」

 

 玲愛はそれだけ言って、ホールへ戻った。

 

 湊は厨房へ戻りかけて、少しだけ足を止めた。

 

 感想を待っていない。

 

 そう言えば、嘘になる。

 

 気になっていた。

 

 朝からずっと気になっていた。

 

 でも、催促はしなかった。

 

 待った。

 

 待ったから、受け取れた。

 

 花鳥玲愛が、店の外で見た自分の菓子。

 

 その言葉は、湊のノートに残った。

 

 焼き色。

 

 甘さの戻り方。

 

 香りの近さ。

 

 夜に近い時間帯の重さ。

 

 そして、もう一つ。

 

 彼女が、持ち帰ってまで確認してくれたという事実。

 

 それをどう扱えばいいのか、湊はまだ知らない。

 

 知らないが、今はそれでよかった。

 

 相沢湊は、花鳥玲愛の感想を待っていない。

 

 少なくとも、催促はしない。

 

 ただ、彼女が必要だと思って言葉にしてくれた時、それを取りこぼさないように、手元を整えて待っている。

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