花鳥玲愛は、甘さを認めない   作:エーアイ

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第12話 花鳥玲愛は、体調管理も業務の一部だと言い張る

 朝の厨房の音が、少しだけ重かった。

 

 花鳥玲愛は、ホールのテーブルを整えながら、そう判断した。

 

 騒がしいわけではない。

 

 乱れているわけでもない。

 

 皿が割れた音も、道具を落とした音もない。

 

 ただ、いつもより半拍だけ遅い。

 

 粉をふるう音。

 

 ボウルの底を擦る音。

 

 金属が作業台に触れる音。

 

 その一つ一つに、ほんの少しだけ余裕がない。

 

 相沢湊の音だった。

 

 以前の彼の音は、迷っていた。

 

 強く出ようとして止まる音。

 

 整えようとして、かえって硬くなる音。

 

 何かを足すか消すかで迷う音。

 

 最近は、少し違っていた。

 

 客席の方を向き始めた音。

 

 必要なものを、必要な順番で置こうとする音。

 

 まだ未熟だが、以前より静かになった音。

 

 だが、今日の音はその静けさとは違う。

 

 静かなのではなく、鈍い。

 

「……相沢さんの作業音が、少し重いわね」

 

 誰に聞かせるでもなく、玲愛は小さく呟いた。

 

 心配ではない。

 

 厨房から出るものは、客席に影響する。

 

 厨房の音が乱れれば、皿も乱れる。

 

 皿が乱れれば、紅茶の流れも客席の時間も乱れる。

 

 だから、気づいただけだ。

 

 ホールのチーフとして、当然の確認だった。

 

「花鳥さん」

 

 森崎乃々香が、カップの位置を直しながら声をかけてきた。

 

「窓際の二名席、これで大丈夫でしょうか」

 

「椅子は良いです。ですが、メニューの角度が少し外側です」

 

「あ、はい」

 

「今日のお客様は、入口側からお入りになる予定です。座った時、自然に手が届く位置にしてください」

 

「分かりました」

 

 森崎はすぐに直した。

 

 その素直さは悪くない。

 

 以前より、客が座った後の手元を想像するようになっている。

 

 玲愛はそれを確認してから、厨房の入口へ視線を向けた。

 

 湊が作業台の前に立っていた。

 

 白いコックコート。

 

 袖口は整っている。

 

 姿勢も崩れてはいない。

 

 だが、返事が少し遅い。

 

 三枝誠司が何か指示を出す。

 

 湊は頷く。

 

 その頷きが、いつもより半拍遅れる。

 

 大きな不調ではない。

 

 倒れるような様子でもない。

 

 本人は平気な顔をしている。

 

 だからこそ、厄介だった。

 

 自分で止まらない人間は、商品に乱れを出すまで気づかないことがある。

 

 玲愛は、客席側の準備を終えてから、厨房へ向かった。

 

「三枝さん」

 

「おはよう、花鳥さん」

 

 三枝は作業台の上を確認しながら顔を上げた。

 

「少しよろしいですか」

 

「どうぞ」

 

 玲愛は声を低くした。

 

「相沢さんの作業、今朝から少し遅くありませんか」

 

 三枝の目が、少しだけ細くなった。

 

 驚いた、というより、やはりという顔だった。

 

「やっぱり花鳥さんも気づいた?」

 

「気づきます。皿の出るタイミングに影響しますので」

 

「うん。昨日、持ち帰り想定分の配合を詰めすぎたみたいでね。本人は平気な顔をしているけど、少し疲れてる」

 

「平気な顔で商品を乱されても困ります」

 

「まったくその通り」

 

 三枝は苦笑した。

 

 湊の方を見る。

 

 湊は、焼き菓子の香りを確認しているところだった。

 

 顔を近づけすぎている。

 

 湯気に、わずかに目を細めた。

 

 その時点で、玲愛の中で判断は固まった。

 

 香りの判断が甘い。

 

 湯気への反応が遅い。

 

 体調そのものが大きく崩れているわけではない。

 

 だが、商品判断に影響する程度には乱れている。

 

「今日の試作は中止した方がよいかと」

 

 玲愛が言うと、三枝はすぐに頷いた。

 

「同意。相沢くん」

 

「はい」

 

 湊が顔を上げる。

 

 やはり、返事が少し遅い。

 

 三枝は穏やかな声のまま言った。

 

「今日は通常業務まで。試作は止めよう」

 

 湊の表情が動いた。

 

「ですが」

 

「ですが、ではありません」

 

 玲愛は、先に言っていた。

 

 湊がこちらを見る。

 

 その顔は、驚きと少しの不満を隠しきれていない。

 

「あなたの体調が乱れれば、商品が乱れます」

 

「……体調は、そこまで悪くありません」

 

「そこまで悪くなってからでは遅いです」

 

 玲愛は、湊の手元へ視線を落とした。

 

「今朝、焼き色の確認が普段より遅れています。香りの判断も甘い。紅茶との相性確認も、先ほど一つ見落としました」

 

 湊は言葉を止めた。

 

 心当たりがあるのだろう。

 

「体調が乱れていないと言うなら、作業結果で証明してください。今のあなたは、証明できていません」

 

「……はい」

 

 三枝が静かに続けた。

 

「花鳥さんに言われる前に止まりな。厨房長命令」

 

 湊は、一度だけ作業台を見た。

 

 まだ試したい配合が残っているのだろう。

 

 焼き直したいものもあるのだろう。

 

 だが、そこで手を伸ばさなかった。

 

「分かりました。今日は通常業務までにします」

 

「うん。そうして」

 

 三枝は頷いた。

 

 玲愛は、湊の顔を見た。

 

 悔しそうではある。

 

 だが、反発はしない。

 

 そこは変わっていない。

 

 この人は、止められた理由が仕事にあるなら、受け取る。

 

 だから厄介だ。

 

 受け取るからこそ、無理をしてしまう。

 

「相沢さん」

 

「はい」

 

「通常業務も、必要最低限です」

 

「はい」

 

「皿の最終確認は、今日は三枝さんの判断を優先してください」

 

「分かりました」

 

「ホールへの受け渡しも、森崎さんに確認を入れてください。いつもより一拍遅くても構いません。雑に早く出さないこと」

 

「はい」

 

 湊は頭を下げた。

 

 それで、話は終わった。

 

 終わったはずだった。

 

 玲愛はホールへ戻ろうとした。

 

 その時、三枝が小さく言った。

 

「休ませるなら、水だけじゃなくて温かいものでも出してやりたいけど、厨房からだと手が離せないな」

 

 玲愛は足を止めた。

 

 三枝の声は、独り言に近かった。

 

 だが、こちらに届くように置かれていた。

 

 つまり、分かっていて言っている。

 

「三枝さん」

 

「うん?」

 

「ホールで用意します」

 

「助かるよ」

 

「スタッフの体調管理も、店の品質管理です」

 

 三枝は少しだけ笑った。

 

「うん。そういうことにしておく」

 

「そういうこと、ではありません」

 

「はいはい」

 

 三枝は湊の方へ戻っていった。

 

 玲愛はホールへ向かう。

 

 温かいもの。

 

 ただし、香りの強い紅茶は避けるべきだ。

 

 今の湊は、香りの判断が鈍っている。

 

 そこに強い香りを当てると、余計に疲れる。

 

 甘さもいらない。

 

 身体を休めるための温度。

 

 喉に引っかからない香り。

 

 飲み終わった後に残りすぎないもの。

 

 菓子に合わせる紅茶ではない。

 

 湊本人に合わせる紅茶。

 

 そこまで考えて、玲愛は手を止めた。

 

 湊本人に合わせる。

 

 その言葉が、自分の中で少しだけ引っかかった。

 

「……体調管理よ」

 

 誰にも聞こえない声で言う。

 

 これは商品確認ではない。

 

 スタッフ管理だ。

 

 スタッフの体調が乱れれば、商品が乱れる。

 

 商品が乱れれば、客席が乱れる。

 

 だから必要な対応である。

 

 それ以上ではない。

 

 玲愛は茶葉を選んだ。

 

 香りは穏やか。

 

 渋みは少ない。

 

 温度は少し低め。

 

 熱すぎると、今の湊には重い。

 

 ぬるすぎれば休憩にならない。

 

 ほどよく温かいところで止める。

 

 カップを一つ用意する。

 

 客席用ではない。

 

 スタッフ用。

 

 だが、雑にはしない。

 

 体調が悪い人間に雑なものを出すほど、玲愛は仕事を軽く見ていない。

 

 紅茶を淹れ終え、玲愛は厨房へ戻った。

 

 湊は作業台から少し離れ、椅子に座っていた。

 

 休憩と言われても、手元にはノートを置いている。

 

 書くつもりなのだろう。

 

 玲愛は、そのノートを見て言った。

 

「休憩中に記録を取る必要はありません」

 

 湊が顔を上げる。

 

「ですが、今日の失敗は」

 

「後で書いてください」

 

「はい」

 

 玲愛はカップを置いた。

 

「飲んでください」

 

 湊は、少しだけ驚いた顔をした。

 

「俺に、ですか」

 

「他に誰がいるのですか」

 

「……ありがとうございます」

 

「礼は不要です」

 

「でも、いただきます」

 

 湊はカップに手を伸ばした。

 

 その動作が、いつもより少し慎重だった。

 

 玲愛はそれを見た。

 

 やはり疲れている。

 

 自覚が遅い。

 

 湊は紅茶を一口飲んだ。

 

 すぐに感想を言わない。

 

 温度を確かめるように、少しだけ息を吐いた。

 

「飲みやすいです」

 

「当然です」

 

「当然、ですか」

 

「体調が万全ではない人間に、香りの強い紅茶を出す理由はありません」

 

「はい」

 

「熱すぎても、冷めすぎても、休憩には向きません」

 

「はい」

 

「スタッフの体調管理も、店の品質管理です」

 

 言ってから、玲愛は自分の声が少し硬くなったのを感じた。

 

 なぜ硬くなるのか。

 

 理由は明確だ。

 

 言い訳が必要だからだ。

 

 湊はカップを見ていた。

 

 湯気は弱い。

 

 香りも控えめ。

 

 それでも、飲むにはちょうどよいはずだ。

 

「花鳥さん」

 

「何ですか」

 

「今日、俺の作業、そんなに遅かったですか」

 

「はい」

 

「自分では、少し眠いくらいだと思っていました」

 

「眠い、で済ませるには、香りの判断が甘すぎます」

 

「……すみません」

 

「謝罪ではなく、修正してください」

 

「はい」

 

「今日は試作をしない。通常業務も、必要以上に抱え込まない。休憩後は三枝さんの指示に従う。以上です」

 

「分かりました」

 

 湊は素直に頷いた。

 

 そして、もう一口紅茶を飲んだ。

 

 その顔が少しだけ緩んだ。

 

 玲愛は、それを見てしまった。

 

 見ただけだ。

 

 安心したわけではない。

 

 紅茶が適温だったことを確認しただけだ。

 

 飲みにくければ、休憩として不十分になる。

 

 それを確認しただけである。

 

「花鳥さん」

 

「何ですか」

 

「これ、菓子に合わせる紅茶とは違いますね」

 

 玲愛は、一瞬だけ返答が遅れた。

 

 湊はカップを見ている。

 

 茶化してはいない。

 

 ただ、気づいたことを言っている。

 

「当然です」

 

 玲愛は答えた。

 

「今は菓子を食べる時間ではありません。あなたを休ませるための紅茶です」

 

 言ってから、言い方を間違えた気がした。

 

 あなたを休ませるため。

 

 そこだけ切り取れば、妙に個人的に聞こえる。

 

 玲愛はすぐに続けた。

 

「業務上、必要な休憩です」

 

「はい」

 

 湊は真面目に頷いた。

 

 笑わない。

 

 茶化さない。

 

 それが、少しだけ困る。

 

「ありがとうございます。助かります」

 

「一度で十分です」

 

「はい」

 

「それから」

 

「はい」

 

「午後、少しでも判断が鈍るようなら、三枝さんに申告してください」

 

「分かりました」

 

「自分で抱え込まないこと」

 

「はい」

 

「客席に出る前に止めるのも、仕事です」

 

 湊は、その言葉を聞いて少しだけ目を伏せた。

 

「はい」

 

 玲愛はそれ以上言わなかった。

 

 ホールへ戻る。

 

 背中に、湊がカップを置く小さな音が聞こえた。

 

 飲み終えたのだろうか。

 

 もう少し休めばいい。

 

 そう思いかけて、玲愛はその思考を止めた。

 

 休憩時間は三枝が管理している。

 

 ホール側が口を出しすぎることではない。

 

 ただし、客席に影響が出るなら別だ。

 

 それだけだ。

 

 午後の営業では、湊の皿は大きく乱れなかった。

 

 試作を止めた分、通常業務には余裕が戻っている。

 

 それでも、いつもより慎重だった。

 

 森崎が皿を受け取る時、少しだけ声をかける。

 

「相沢さん、今日は無理しないでくださいね」

 

「ありがとうございます。気をつけます」

 

 湊はそう答えた。

 

 その声は、朝よりは軽い。

 

 玲愛はそれを、客席の端から確認した。

 

 確認しただけだ。

 

 何度も言うが、心配ではない。

 

 夕方近く。

 

 湊が一度、紅茶との組み合わせを確認しようとして、少し迷った。

 

 玲愛はそれを見ていた。

 

 いつもなら、湊自身が気づく。

 

 今日は、一拍遅れた。

 

 だが、すぐに三枝へ確認した。

 

「三枝さん、これは紅茶との組み合わせ、花鳥さんに確認を通してからでいいですか」

 

「そうしよう」

 

 良い判断だった。

 

 自分で無理に判断しなかった。

 

 朝の指摘を受けている。

 

 玲愛は、それを見て小さく頷いた。

 

 声には出さない。

 

 褒める場面ではない。

 

 ただし、記録には残してよい。

 

 閉店後。

 

 厨房では片付けが進んでいた。

 

 湊は、朝よりは顔色が戻っている。

 

 それでも、試作を始めようとはしなかった。

 

 その点は評価できる。

 

 玲愛は、ホール側の確認を終えて厨房へ向かった。

 

「相沢さん」

 

「はい」

 

「今日の提供分については、大きな乱れはありませんでした」

 

「はい」

 

「ただし、午後の紅茶との組み合わせ確認で、一拍遅れました」

 

「はい。自分でも迷ったので、三枝さんに確認しました」

 

「それで構いません。判断が鈍っている時に、自分だけで決めないのは正しいです」

 

「ありがとうございます」

 

「褒めてはいません」

 

「はい」

 

「勘違いしないでください」

 

「しません」

 

「本当に?」

 

「少しだけ、しました」

 

「しないでください」

 

「はい」

 

 いつものやり取りだった。

 

 朝よりは、声に余裕がある。

 

 それも確認した。

 

 湊は、少しだけ迷ってから言った。

 

「花鳥さん」

 

「何ですか」

 

「今日の紅茶、飲みやすかったです」

 

 玲愛は、一瞬だけ動きを止めた。

 

 来ると思っていなかったわけではない。

 

 湊は礼を言う人間だ。

 

 それは分かっている。

 

 それでも、その言葉は少しだけまっすぐすぎた。

 

 今日の紅茶。

 

 菓子に合わせた紅茶ではない。

 

 客に出した紅茶でもない。

 

 湊本人に合わせた紅茶。

 

 そのことを、湊は気づいている。

 

 そして、それを茶化さずに礼として置いてくる。

 

 玲愛は、すぐに仕事の顔を戻した。

 

「体調が悪い人間に、香りの強い紅茶を出すほど雑な仕事はしません」

 

「はい」

 

「温度も香りも、休憩に必要な範囲で調整しただけです」

 

「分かっています」

 

「本当に?」

 

 湊は少しだけ考えた。

 

 そして、真面目に答えた。

 

「はい。だから、助かりました」

 

 玲愛は、言葉を失いかけた。

 

 分かっています、で終わればよかった。

 

 そこで止まれば、業務上の対応として片付けられた。

 

 だが、湊はその後に、助かりました、と置いた。

 

 体調管理も品質管理です。

 

 その言い訳を壊さずに、受け取った。

 

 その上で、礼を言った。

 

 こういう返し方をされると、困る。

 

「……明日は、通常通りの作業に戻れるようにしてください」

 

「はい」

 

「ただし、無理に戻す必要はありません」

 

「はい」

 

「三枝さんの判断を優先してください」

 

「分かりました」

 

「それと」

 

「はい」

 

「今日は早めに帰りなさい」

 

 言ってから、玲愛は少しだけしまったと思った。

 

 命令が少し個人的に聞こえる。

 

 だが、撤回する方が不自然だ。

 

 玲愛は続けた。

 

「明日の品質に影響します」

 

「はい。今日は帰ります」

 

「結構です」

 

 湊は頭を下げた。

 

「お疲れさまでした、花鳥さん」

 

「お疲れさまです」

 

 湊は厨房の奥へ戻っていった。

 

 三枝がそれを見て、小さく笑っている気配がした。

 

 玲愛はそちらを見なかった。

 

 余計な反応を拾う必要はない。

 

 ホールへ戻ると、森崎が最後のカップを片付けていた。

 

「花鳥さん」

 

「何ですか」

 

「相沢さん、少し元気になってましたね」

 

「通常業務に支障が出ない程度には戻っています」

 

「はい」

 

 森崎は素直に頷いた。

 

 だが、少しだけ笑っている。

 

「何ですか」

 

「いえ。花鳥さんの紅茶、効いたんだなと思って」

 

「休憩用の紅茶です」

 

「はい」

 

「スタッフの体調管理も、店の品質管理です」

 

「はい。品質管理ですね」

 

 森崎は、それ以上踏み込まなかった。

 

 ただ、明らかに何かを察している顔だった。

 

 玲愛は、窓際の椅子を整えた。

 

「森崎さん」

 

「はい」

 

「明日の予約表を確認してください」

 

「はい」

 

 森崎はすぐに動いた。

 

 玲愛は、一人になったホールで小さく息を吐いた。

 

 今日の対応は、正しい。

 

 試作を止めた。

 

 三枝に判断を預けた。

 

 通常業務への影響を抑えた。

 

 休憩用に温かいものを出した。

 

 体調が戻ったことを確認した。

 

 すべて、店のためだ。

 

 客席のためだ。

 

 商品を乱さないためだ。

 

 それ以上ではない。

 

 そう整理したのに、なぜか湊の言葉が残っている。

 

 今日の紅茶、飲みやすかったです。

 

 助かりました。

 

 あれは、評価ではない。

 

 客の感想でもない。

 

 菓子に対する言葉でもない。

 

 玲愛が湊に出した紅茶への、湊本人からの言葉だった。

 

 それが少しだけ、胸の中に残る。

 

「……体調管理よ」

 

 誰もいないホールで、玲愛は小さく呟いた。

 

「業務の一部に決まっているでしょう」

 

 そう言い聞かせてから、照明を落とす。

 

 明日も、店は始まる。

 

 相沢湊の菓子も、客席に置かれる。

 

 だから、その作り手が乱れていては困る。

 

 困るから、見た。

 

 困るから、止めた。

 

 困るから、紅茶を出した。

 

 それだけだ。

 

 それだけのはずだった。

 

 けれど、明日の朝。

 

 厨房から聞こえる湊の音が、いつもの調子に戻っているかどうか。

 

 玲愛は、少しだけ気にしていた。

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