花鳥玲愛は、甘さを認めない   作:エーアイ

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第15話 相沢湊は、花鳥玲愛の言葉を皿に戻す

 紅茶のそばに、少しだけ甘さがほしい時に。

 

 その一文を、相沢湊は何度も見返していた。

 

 花鳥玲愛が直した案内文。

 

 正確には、客席に出すために翻訳された言葉。

 

 湊が最初に書いた文は、こうだった。

 

 紅茶と合わせて香りの変化を楽しむ焼き菓子です。

 

 間違ってはいない。

 

 紅茶と合わせる。

 

 香りの変化を楽しむ。

 

 焼き菓子。

 

 どれも、この菓子の説明としては正しい。

 

 だが、玲愛は言った。

 

 作り手側の説明です。

 

 客は分析するために菓子を選ぶわけではありません。

 

 その言葉は、痛かった。

 

 けれど、納得もした。

 

 自分は、まだ作り方を説明しようとしていた。

 

 どう香るか。

 

 どう変わるか。

 

 どう楽しんでほしいか。

 

 それを客に渡そうとしていた。

 

 だが、客が知りたいのは、作り手の意図ではない。

 

 その時間に、その菓子を選んでよいかどうか。

 

 自分の紅茶の隣に置いていいものかどうか。

 

 会話の途中に食べても邪魔にならないか。

 

 一人で少し休みたい時に、重すぎないか。

 

 そういうことなのだと思う。

 

 紅茶のそばに、少しだけ甘さがほしい時に。

 

 その言葉は、湊の菓子をよく見ていた。

 

 よく見ていた、というより。

 

 少し怖いくらい、届いていた。

 

「……すごいな」

 

 朝の厨房で、湊は小さく呟いた。

 

 まだ火は入れていない。

 

 作業台の上には、材料が並んでいる。

 

 バター。

 

 蜂蜜。

 

 アーモンド。

 

 少量の柑橘。

 

 粉。

 

 卵。

 

 いつもの材料。

 

 だが、今日は見る順番が少し違った。

 

 甘さをどう立てるかではない。

 

 香りをどう残すかでもない。

 

 紅茶のそばに、少しだけ甘さがほしい時。

 

 その時に、どの甘さなら置けるのか。

 

 湊は、案内文を書いた紙を作業台の端に置いた。

 

 見ながら作る。

 

 ただし、言葉に合わせるためだけではない。

 

 玲愛の言葉を、そのまま菓子に貼りつけても意味がない。

 

 言葉は客席への翻訳だ。

 

 なら、自分はそれをもう一度、皿に戻す。

 

 客席に出る前の、作り手の手元へ戻す。

 

 そこで初めて、次の菓子になる。

 

「相沢くん」

 

 三枝誠司が声をかけた。

 

「はい」

 

「今日は、その案内文から?」

 

「はい」

 

 三枝は紙を見た。

 

「紅茶のそばに、少しだけ甘さがほしい時に、か」

 

「はい」

 

「花鳥さんらしいね」

 

「そうですね」

 

 湊は頷いた。

 

 それから少し考え、言い直した。

 

「でも、花鳥さんの好みではないんですよね」

 

 三枝が湊を見る。

 

「どういう意味?」

 

「客席に出すための言葉なんだと思います。花鳥さんは、そう言っていました」

 

「うん」

 

「だから、俺も花鳥さんの評価を取りに行くんじゃなくて、この言葉が置かれる客席を考えないといけない」

 

 三枝は少しだけ口元を緩めた。

 

「いいね」

 

「褒めてますか?」

 

「今日は七割くらい」

 

「高いですね」

 

「残り三割は、実際に皿ができてから」

 

「はい」

 

 三枝は材料を見た。

 

「甘さは?」

 

「主役にはしません」

 

「でも、なかったら?」

 

「寂しいです」

 

「香りは?」

 

「最初にだけ分かるくらいにします。でも、紅茶を飲んだ後に少し戻るように」

 

「柑橘は?」

 

「前よりさらに控えめにします。輪郭だけです」

 

「なるほど」

 

 三枝は腕を組んだ。

 

「じゃあ、今日は足すより、置く感じだね」

 

「置く」

 

「うん。紅茶の横に、そっと置く。主役を奪わない。でも、ないと寂しい」

 

 湊は、その言葉をノートに書いた。

 

 そっと置く。

 

 ないと寂しい。

 

「ありがとうございます」

 

「いや、俺も花鳥さんの言葉から考えただけ」

 

「でも、助かります」

 

「じゃあ、作ってみようか」

 

「はい」

 

 湊は作業を始めた。

 

 バターを溶かす。

 

 焦がしすぎない。

 

 香りが立ちすぎると、紅茶のそばでは前に出る。

 

 だが、浅すぎると、湊の菓子として残らない。

 

 以前なら、香りを強く立てる方へ手が動いた。

 

 食べた人の記憶に残したかったからだ。

 

 自分の菓子だと分かってほしかったからだ。

 

 けれど今は、違う。

 

 記憶に残すために前に出るのではない。

 

 紅茶を飲んだ後、ふと、もう一口食べようと思えるくらいでいい。

 

 会話の途中で、邪魔にならない。

 

 一人の時間で、寂しくならない。

 

 甘さは主役ではない。

 

 でも、ないと寂しい。

 

 紅茶の隣に座る甘さ。

 

 そんなものがあるなら、どんな形だろう。

 

 湊は、蜂蜜の量を少しだけ減らした。

 

 完全には引かない。

 

 後味に、ほんの少しだけ丸さを残す。

 

 柑橘は、前より控える。

 

 分かりやすい酸味で説明しない。

 

 ただ、甘さが重くなりそうな瞬間に、輪郭だけを置く。

 

 粉を合わせる。

 

 混ぜすぎない。

 

 生地を休ませる。

 

 その間に、湊はノートを開いた。

 

 紅茶のそばに、少しだけ甘さがほしい時に。

 

 なら、甘さは主役ではない。

 

 でも、ないと寂しい。

 

 紅茶の隣に座る甘さ。

 

 会話の邪魔をしない甘さ。

 

 一人の時間を少しだけ丸くする甘さ。

 

 湊は、そこで手を止めた。

 

 一人の時間を少しだけ丸くする甘さ。

 

 それは、自分が昔、小さな洋菓子店で見ていたものに近かった。

 

 学校帰りの子ども。

 

 仕事帰りの人。

 

 散歩の途中の老婦人。

 

 何でもない日に、少しだけ甘いものを買っていく人たち。

 

 彼らは、菓子に主役になってほしかったわけではない。

 

 日々の隙間に、少しだけ柔らかいものを置きたかった。

 

 その感覚を、湊は知っていたはずだった。

 

 キュリオに来て、忘れかけていた。

 

 評価されること。

 

 花鳥玲愛に認められること。

 

 自分の香りを残すこと。

 

 そこに意識が寄りすぎていた。

 

 だが、玲愛の言葉は、そこへ戻してくれた。

 

 紅茶のそばに、少しだけ甘さがほしい時に。

 

 それは、湊の菓子を客席へ戻す言葉であり、湊自身を原点へ戻す言葉でもあった。

 

「……よし」

 

 湊は生地を成形した。

 

 大きすぎない。

 

 小さすぎない。

 

 一口で終わるほど小さいと、余韻が残りにくい。

 

 大きすぎると、紅茶のそばでは重い。

 

 二口か、三口。

 

 話の合間に手を伸ばせる大きさ。

 

 一人で本を読みながらでも、負担にならない大きさ。

 

 焼き上がりを想像する。

 

 皿の上に置く。

 

 紅茶の隣に置く。

 

 客が見た時、無理に目を引かない。

 

 けれど、寂しくはない。

 

 それくらいの存在感。

 

 オーブンに入れる。

 

 湯気。

 

 香り。

 

 焼き色。

 

 待つ時間。

 

 湊は、以前よりもその待つ時間が怖くなくなっていることに気づいた。

 

 結果が出るまで待つ。

 

 客席に届くまで待つ。

 

 玲愛の言葉が出てくるまで待つ。

 

 それは、何もしないということではない。

 

 待つために、手元を整えることだ。

 

 焼き上がり。

 

 三枝と確認する。

 

「色は悪くないね」

 

「香り、少し弱いですか?」

 

「弱いというより、近づくと分かる感じかな」

 

「置いた瞬間には?」

 

「強くは出ないと思う」

 

「それでいいのか、少し迷います」

 

 三枝は一つ割って、香りを確認した。

 

「紅茶が来る前に主張する菓子じゃないなら、これくらいでもいいかもね」

 

「食べてみます」

 

 湊は、一つ口に入れた。

 

 甘さは、前より静かだ。

 

 蜂蜜は分かるが、前に出すぎない。

 

 焦がしバターは、最初にだけ少し立つ。

 

 柑橘は、ほとんど後ろにいる。

 

 紅茶を飲む。

 

 少しだけ、輪郭が戻った。

 

 悪くない。

 

 だが、まだ少し硬い。

 

 甘さが静かになった分、形が少し真面目すぎる。

 

 紅茶のそばに置くには悪くないが、少しだけ余白が足りない。

 

「……もう少し、丸くしたいです」

 

 三枝が頷いた。

 

「食感?」

 

「はい。味は近い気がするんですが、食べた時の印象が少し硬いです」

 

「なら、焼き時間を少しだけ短くするか、生地の厚みを変えるか」

 

「厚みを少し変えてみます」

 

「いいと思う」

 

 もう一度作る。

 

 急がない。

 

 言葉に合わせようとして、皿を焦らせない。

 

 紅茶のそばに、少しだけ甘さがほしい時に。

 

 そこに、硬すぎるものは置きにくい。

 

 かといって、柔らかくしすぎると菓子の輪郭が消える。

 

 湊は厚みを少しだけ変えた。

 

 焼き時間も微調整する。

 

 今度は、前より少しだけ丸い。

 

 食べる。

 

 紅茶を飲む。

 

 甘さが戻る。

 

 戻るが、長く残りすぎない。

 

 前より、近い。

 

「三枝さん」

 

「うん」

 

「これ、ホール側に見てもらっていいですか」

 

「いいよ。まず森崎さん?」

 

「はい。それから、花鳥さんに」

 

 三枝が少し笑った。

 

「順番に意味を持たせないようにね」

 

 湊は、思わず苦笑した。

 

「気をつけます」

 

「でも、見てもらいたいんだよね」

 

「はい」

 

「それは悪いことじゃないと思うよ」

 

「そうでしょうか」

 

「頼り方を間違えなければね」

 

 湊は頷いた。

 

 休憩時間に、森崎乃々香に試食してもらう。

 

 森崎はまず皿を持った。

 

「前より、見た目が柔らかくなりましたね」

 

「分かりますか」

 

「はい。小さいんですけど、前ほど遠慮している感じがしません」

 

「よかった」

 

 森崎は一口食べた。

 

 紅茶を飲む。

 

 少し考える。

 

「案内文に近くなったと思います」

 

「本当ですか」

 

「はい。“紅茶のそばに、少しだけ甘さがほしい時に”って言われたら、これなら納得できます」

 

 湊は小さく息を吐いた。

 

 安心しかけて、すぐに止める。

 

 まだ一人の意見だ。

 

「気になるところはありますか」

 

「うーん……説明する時に、もう少しだけ特徴がほしいかもしれません。でも、菓子自体は今の方が好きです」

 

「特徴ですか」

 

「はい。静かだけど、ちゃんと相沢さんの菓子だって分かるところを、どう言えばいいか迷います」

 

「なるほど」

 

 湊はノートに書いた。

 

 静かだが、湊の菓子だと分かる部分。

 

 それは、玲愛にも言われたことだった。

 

 あなたの香りを消さないこと。

 

 湊はその言葉を思い出す。

 

 あれも、案内文と同じだ。

 

 玲愛の好みではない。

 

 客席に必要な言葉。

 

 そして、自分に必要な言葉。

 

「ありがとうございます。助かります」

 

「いえ。花鳥さんにも見てもらうんですか?」

 

「はい」

 

「たぶん、細かく言われますね」

 

「そうですね」

 

「でも、今日のは前より良いと思います」

 

「ありがとうございます」

 

 森崎は少し笑って戻っていった。

 

 湊は皿を用意し直した。

 

 玲愛に見てもらう分。

 

 前回のように、特別な順番にしてはいけない。

 

 そう思いながらも、皿の位置を少しだけ整える。

 

 持ちやすさ。

 

 置いた時の見え方。

 

 香りの立ち方。

 

 紅茶との距離。

 

 それらを確認する。

 

 そして、ホールへ向かった。

 

 玲愛は、案内カードの仮配置を確認していた。

 

 窓際の席。

 

 紅茶のメニュー。

 

 小さなカード。

 

 そこに、自分の菓子の言葉がある。

 

 紅茶のそばに、少しだけ甘さがほしい時に。

 

 湊は、少しだけ息を整えた。

 

「花鳥さん」

 

「何ですか」

 

「試作品、確認をお願いします」

 

 玲愛は顔を上げた。

 

 視線が皿へ向かう。

 

「案内文を受けた調整ですか」

 

「はい」

 

「見せてください」

 

 湊は皿を置いた。

 

 玲愛は、まず皿を見る。

 

 持ち上げる。

 

 置く。

 

 香りを確認する。

 

 それから、一口食べた。

 

 湊は待った。

 

 紅茶が添えられる。

 

 玲愛は紅茶を一口飲んだ。

 

 表情は変わらない。

 

 だが、少しだけ間が長い。

 

 それは、悪い沈黙ではない気がした。

 

 もちろん、勝手に決めつけてはいけない。

 

 玲愛はフォークを置いた。

 

「前より、案内文に近づいています」

 

「はい」

 

「甘さは控えめですが、消えてはいません」

 

「はい」

 

「焦がしバターの香りも、最初にだけ立ちます。紅茶を飲むと、少し戻る。そこは悪くありません」

 

「はい」

 

「柑橘は、もう少しだけ弱くてもいいかもしれません。今は輪郭として機能していますが、紅茶によっては少し見えすぎます」

 

「分かりました」

 

「形は前より良いです。以前より、客席で遠慮しているようには見えません」

 

 湊は、ノートに書きながら頷いた。

 

 森崎と同じことを、別の角度から言っている。

 

 やはり、そこは改善できたらしい。

 

「ただし」

 

 玲愛の声が少しだけ硬くなる。

 

 湊は顔を上げた。

 

「案内文に合わせすぎています」

 

「……はい」

 

「紅茶のそばに置ける菓子にはなっています。ですが、その言葉に収まろうとしすぎると、またつまらなくなります」

 

 つまらなくなる。

 

 その言葉は、以前にも刺さった。

 

 整えすぎたタルトを出した時。

 

 店に合わせようとしすぎて、自分の香りを消した時。

 

 あの時の感覚が、少しだけ戻る。

 

 だが、今の湊は前より落ち着いて受け取れた。

 

「はい」

 

「言葉は、皿を縛るためのものではありません」

 

「皿を客席へ運ぶためのもの、ですよね」

 

 玲愛が、少しだけ目を細めた。

 

「覚えているなら、使ってください」

 

「はい」

 

「あなたは、花鳥玲愛の言葉を再現する必要はありません」

 

 湊は、一瞬だけ止まった。

 

 玲愛は続けた。

 

「客席に必要な言葉を受け取り、それをあなたの皿に戻せばいい」

 

「……はい」

 

「今の皿は、その途中です」

 

 途中。

 

 否定ではない。

 

 合格でもない。

 

 途中。

 

 その言葉が、湊には一番しっくりきた。

 

 まだ完成ではない。

 

 でも、戻る方向は見えている。

 

「花鳥さん」

 

「何ですか」

 

 湊は、皿を見た。

 

 紅茶の隣に置かれた、小さな焼き菓子。

 

 玲愛の案内文。

 

 森崎の感想。

 

 三枝の言葉。

 

 自分の原点。

 

 その全部を、無理に一皿に詰めるのではなく、必要な形に戻す。

 

 その途中に、今いる。

 

「花鳥さんの言葉、皿に戻してみました」

 

 玲愛の動きが、ほんの少し止まった。

 

 湊は、すぐに続けた。

 

「そのまま使うんじゃなくて、作ってみたかったんです。客席に必要な言葉だって分かっています。でも、あの言葉を見たら、もう一回、菓子として考え直せる気がしたので」

 

 玲愛は、静かにこちらを見た。

 

 それから、いつもの声で言った。

 

「私の言葉ではありません。客席に必要な言葉です」

 

「はい」

 

 湊は頷いた。

 

 それは分かっている。

 

 分かっているからこそ、次の言葉は慎重に置いた。

 

「でも、花鳥さんが見つけてくれた言葉です」

 

 玲愛は、すぐには返さなかった。

 

 沈黙。

 

 短い。

 

 だが、確かにあった。

 

 湊はそれ以上言わなかった。

 

 茶化さない。

 

 押さない。

 

 説明しすぎない。

 

 今の言葉は、自分にとって本当だった。

 

 それ以上、意味を足してはいけない。

 

 玲愛は、やがて皿へ視線を戻した。

 

「……言葉の扱いに注意してください」

 

「はい」

 

「作り手が、客席用の言葉に酔うと、皿が浮きます」

 

「はい」

 

「あなたは、皿で答えるべきです」

 

「分かりました」

 

「次の調整では、柑橘を少し引いてください。それから、甘さを引きすぎないこと」

 

「はい」

 

「紅茶のそばに、少しだけ甘さがほしい時に」

 

 玲愛は、自分で書いた案内文を口にした。

 

 その声は、客席で案内する時の声ではなかった。

 

 少しだけ低く、確かめるような声。

 

「少しだけ、という言葉に逃げないでください」

 

「逃げる?」

 

「少しだけ、だから弱くていいわけではありません」

 

「……はい」

 

「少しだけだからこそ、必要な甘さを残すべきです」

 

 湊は、その言葉を胸の中で受け取った。

 

 必要な甘さ。

 

 それが、今日の答えに近い気がした。

 

「分かりました」

 

「本当に?」

 

「半分くらいです」

 

「では、残り半分は次の皿で確認します」

 

「はい」

 

 玲愛はフォークを置いた。

 

「方向は悪くありません」

 

「ありがとうございます」

 

「褒めてはいません」

 

「はい」

 

「ですが、前より皿に戻っています」

 

 湊は、少しだけ息を止めた。

 

 皿に戻っている。

 

 その言葉が、思った以上に嬉しかった。

 

「ありがとうございます」

 

「一度で十分です」

 

「はい」

 

「それと」

 

「はい」

 

「案内文の控えは、作業台に置いたままにしないでください。汚れます」

 

「あ、はい」

 

「必要なら、書き写して作業用を別に作ること」

 

「分かりました」

 

「本当に?」

 

「昨日、もう書き写しました」

 

 玲愛が、少しだけ目を細めた。

 

「……そうですか」

 

「はい」

 

「なら結構です」

 

 玲愛は皿を返した。

 

 湊は受け取る。

 

 皿には、半分ほど菓子が残っている。

 

 商品確認としては十分。

 

 だが、湊はその残りを見て、少しだけ思った。

 

 次は、最後まで食べてもらえるものにしたい。

 

 いや、違う。

 

 最後まで食べてもらうことが目的ではない。

 

 客席に置けるものにすることが目的だ。

 

 その中に、玲愛が最後まで確認する価値があればいい。

 

 そう修正する。

 

「相沢さん」

 

「はい」

 

「今、余計なことを考えましたね」

 

 湊は固まった。

 

「……分かりますか」

 

「皿を見ていました」

 

「すみません」

 

「謝罪ではなく、修正してください」

 

「はい」

 

 やはり、花鳥玲愛はよく見ている。

 

 湊は小さく息を吐き、皿を持って厨房へ戻った。

 

 三枝が待っていた。

 

「どうだった?」

 

「途中だそうです」

 

「いいじゃない」

 

「はい」

 

「嬉しそうだね」

 

「そうですか」

 

「うん」

 

 湊は、皿を作業台に置いた。

 

「花鳥さんの言葉を、そのまま再現しようとしすぎていました」

 

「なるほど」

 

「客席に必要な言葉を、自分の皿に戻す。まだ途中です」

 

「いい課題だ」

 

「はい」

 

 三枝は、残った試作品を一口食べた。

 

「前より近いね」

 

「ありがとうございます」

 

「でも、もう少し湊くんの手が残ってもいいかな」

 

「手、ですか」

 

「うん。作り手の手。花鳥さんが言う香りと近いかもしれない」

 

 湊は頷いた。

 

 やはり、そこだ。

 

 客席に合わせる。

 

 言葉に合わせる。

 

 けれど、自分の手を消さない。

 

 その加減を見つける必要がある。

 

 閉店後。

 

 湊はノートを開いた。

 

 紅茶のそばに、少しだけ甘さがほしい時に。

 

 甘さは主役ではない。

 

 でも、ないと寂しい。

 

 紅茶の隣に座る甘さ。

 

 会話の邪魔をしない甘さ。

 

 一人の時間を少しだけ丸くする甘さ。

 

 必要な甘さ。

 

 少しだけ、に逃げない。

 

 客席に必要な言葉。

 

 花鳥さんが見つけてくれた言葉。

 

 最後の一行を書いて、湊は少しだけ迷った。

 

 これは記録として必要だろうか。

 

 少し考えて、消さなかった。

 

 事実だった。

 

 玲愛は否定するだろう。

 

 私の言葉ではありません。

 

 客席に必要な言葉です。

 

 そう言うだろう。

 

 それでも、その言葉を見つけたのは花鳥玲愛だった。

 

 湊は、ノートを閉じた。

 

 明日、もう一度作る。

 

 案内文に縛られず。

 

 けれど、言葉から逃げず。

 

 客席へ戻すために。

 

 相沢湊は、花鳥玲愛の言葉を皿に戻す。

 

 それは、花鳥玲愛のために作ることではない。

 

 けれど、彼女が見つけてくれた言葉が、自分の手元で菓子になることを、湊は少しだけ嬉しいと思っていた。

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