閉店後のキュリオには、昼間とは違う音がある。
カップを棚へ戻す音。
椅子の脚が床に触れる音。
伝票をまとめる紙の音。
ホールの照明が、一つずつ落とされていく気配。
そして、厨房の奥から聞こえる音。
湯気。
金属。
皿。
低い声。
三枝誠司と相沢湊が、最後の試作確認をしている音だった。
花鳥玲愛は、ホールのカウンターで提供表を確認していた。
明日の案内文。
焼き色の記録。
紅茶との組み合わせ。
提供数。
ホール側の説明順。
確認することはある。
だから、まだ残っている。
それだけだ。
先に帰れない理由は、きちんとある。
明日の案内文確認が残っている。
今日の焼き色の記録を受け取る必要がある。
ホール側の提供表を更新しなければならない。
有坂店長から、通常提供候補としての案内カードをもう一度見るよう頼まれている。
理由はいくらでもある。
いくらでもあるのだから、問題はない。
玲愛は、提供表に一つ線を引いた。
紅茶のそばに、少しだけ甘さがほしい時に。
案内文は、ほぼこれで固まりつつある。
ただし、湊がそれに合わせすぎると、また皿が弱くなる。
言葉に寄せすぎてもいけない。
作り手の香りを消しすぎてもいけない。
客席に置ける範囲で、必要な甘さを残す。
その確認が必要だった。
つまり、帰らない理由はある。
厨房の音が少し遅れているからといって、それを待っているわけではない。
「花鳥さん」
森崎乃々香が、最後のカップを片付けながら声をかけてきた。
「何ですか」
「今日はもう、ホール側の確認終わってませんでした?」
玲愛は、視線を提供表から上げなかった。
「明日の準備があります」
「はい。明日の準備ですね」
森崎は素直に頷いた。
ただ、声が少しだけ柔らかい。
余計なことを察している時の声だった。
「森崎さん」
「はい」
「明日の窓際席、案内カードの位置をもう一度確認してください」
「あ、はい」
「カードが手前すぎると、紅茶の説明より前に菓子が目に入ります。今回の商品は、紅茶と一緒に案内するものです」
「分かりました」
森崎はすぐに動いた。
踏み込みすぎない。
それは良い判断だった。
だが、気づかれていないわけではない。
玲愛は、少しだけ眉を寄せた。
誤解されている。
そう思ったが、何を誤解されているのかを考えるのはやめた。
厨房の奥で、湊の声が聞こえた。
「三枝さん、こっちは少し甘さが戻りすぎます」
「うん。焼き色はいいんだけど、紅茶を飲んだ後に少し残るね」
「案内文には近いんですが」
「近いけど、花鳥さんが言うなら、少し言葉に寄りすぎかもね」
玲愛は、手を止めた。
言葉に寄りすぎ。
昨日、自分が言ったことだ。
私の言葉ではありません。
客席に必要な言葉です。
そう言った。
湊は、それを聞いていた。
そして、今も考えている。
なら、確認は必要だ。
玲愛は提供表にメモを書き込んだ。
案内文への寄せすぎ注意。
必要な甘さを残す。
甘さの引きと香りの戻りを分けて確認。
字はいつも通り整っている。
そのことに、少し安心した。
自分の手元は乱れていない。
なら、仕事として残っているだけだ。
しばらくして、有坂直人がカウンターの奥から出てきた。
「花鳥さん、まだ残ってる?」
「明日の提供表を確認しています」
「そう。相沢くんたち、もう少しかかりそうだね」
「そのようです」
「先に帰ってもいいよ。明日の朝でも確認できるし」
「今日中に確認できるものは、今日中に確認します」
「うん。花鳥さんらしい」
有坂は、それ以上は言わなかった。
ただ、少しだけ笑っている。
玲愛は見なかった。
有坂店長は、店全体をよく見ている。
だからこそ、余計なところまで見えていることがある。
それは店長としては良い資質だが、今は少し余計だった。
「店長」
「うん?」
「明日の案内カード、通常提供候補としての表記はこのままでよろしいですか」
「見せて」
玲愛は紙を渡した。
有坂は目を通す。
「いいと思うよ。言葉が前に出すぎていない」
「ありがとうございます」
「ただ、相沢くんの皿がこれに負けないかは、最終確認だね」
「はい」
「だから残ってる?」
「必要な確認です」
「そっか」
有坂は紙を返した。
「じゃあ、戸締まりの確認はこっちでしておくよ。花鳥さんは、必要な確認を」
「ありがとうございます」
「うん。必要な確認をね」
有坂は、少しだけ含みを残して去っていった。
玲愛は小さく息を吐いた。
なぜ、皆、同じような言い方をするのか。
森崎も。
有坂も。
三枝も、おそらく分かっている顔をする。
自分は仕事をしているだけだ。
店の品質を守っている。
客席に出す商品を確認している。
湊を待っているわけではない。
ただ、湊が厨房から出てこなければ確認できない資料があるだけだ。
それだけだ。
厨房の音が止んだ。
玲愛は、無意識に顔を上げた。
扉の向こうで、三枝の声がする。
「今日はここまでにしよう。相沢くん、記録まとめて」
「はい」
「花鳥さん、たぶん待ってるよ」
「え?」
「いや、提供表の確認で」
「……はい」
湊の返事が、少しだけ慌てたように聞こえた。
玲愛は、眉を寄せた。
三枝さん。
余計なことを言わないでほしい。
ただし、提供表の確認であることは事実だ。
だから訂正のしようがない。
少しして、湊が厨房から出てきた。
白いコックコートの袖口を整えている。
少し疲れてはいるが、前回のような鈍さはない。
今日の疲れは、試作確認を重ねた後のものだ。
体調不良ではない。
玲愛はそれを確認した。
確認しただけだ。
「花鳥さん」
湊は、こちらへ来ると頭を下げた。
「すみません、遅くなりました」
「待っていたわけではありません」
玲愛は即座に言った。
少し早かった。
早すぎたかもしれない。
湊は、一瞬だけ目を瞬かせた。
だが、笑わなかった。
茶化さなかった。
「はい。残っていてくださって、ありがとうございます」
玲愛は、返す言葉を一瞬失った。
待っていたわけではない。
そう言った。
それに対して、湊は否定しなかった。
からかいもしなかった。
ただ、残っていてくれたことに礼を言った。
その返し方は、少しずるい。
「礼を言う場面ではありません」
「はい」
「確認事項が残っていただけです」
「分かっています」
「本当に?」
「はい。だから、助かります」
まただ。
湊は、こちらの言い訳を壊さない。
仕事の理由を仕事の理由として受け取る。
その上で、礼を言う。
だから、逃げ場がない。
玲愛は、提供表を指した。
「今日の試作記録を見せてください」
「はい」
湊はノートを開いた。
焼き色。
香り。
甘さの戻り方。
紅茶との組み合わせ。
案内文との距離。
三枝のコメント。
細かく記録されている。
以前より、かなり整っている。
湊は、その中の一行を指した。
「今日の最後の試作ですが、案内文に寄せすぎました」
「自覚があるなら結構です」
「はい。甘さを引きすぎました。紅茶のそばには置けるんですが、少し寂しいです」
「少しだけ甘さがほしい時に、と書いている以上、甘さが弱すぎても不適切です」
「はい」
「少しだけ、という言葉に逃げないことです」
「花鳥さんにも言われました」
「ええ。言いました」
「言われた意味が、少し分かりました」
「少し?」
「半分くらいです」
玲愛は、ほんの少しだけ眉を動かした。
いつもの返答。
だが、以前よりその半分には重みがある。
「では、残り半分は次の皿で確認します」
「はい」
湊は頷いた。
「明日は、甘さを少し戻します。ただ、香りは強くしすぎないようにします」
「それでよいでしょう」
「案内カードは、このままですか?」
「仮案としてはこのままです。皿が変わるなら、明日の状態で最終確認します」
「分かりました」
「提供表も、明日は午後限定のままです」
「はい」
確認は進んだ。
必要なことは話した。
焼き色。
甘さ。
案内文。
提供時間。
記録。
客席への出し方。
すべて確認した。
つまり、もう帰っていい。
玲愛は提供表を閉じた。
「以上です」
「ありがとうございます」
「明日の朝、再度確認します」
「はい」
湊はノートを閉じた。
それから、少しだけ言いづらそうにした。
「花鳥さん」
「何ですか」
「もう帰られますか」
玲愛は、一瞬だけ止まった。
「帰ります」
「そうですか」
「今日の業務は終了しました」
「はい」
「何か問題がありますか」
「いえ」
湊は首を振った。
「俺も今日は帰ります」
「そうしてください」
「では、途中までご一緒してもいいですか」
玲愛は、すぐには答えなかった。
キュリオの外。
帰り道。
仕事ではない。
いや、仕事の延長と言えなくもない。
今日の確認事項を話すことはできる。
明日の案内文の件もある。
提供表の更新も、頭の中で整理しておく必要がある。
帰る方向が途中まで同じなら、無駄に別々に出る理由もない。
そう。
理由はある。
「途中までなら」
玲愛は答えた。
「ありがとうございます」
「勘違いしないでください」
「はい」
「帰る方向が同じだけです」
「分かっています」
「本当に?」
「はい」
湊は真面目に頷いた。
本当に分かっている顔だった。
それはそれで、少しだけ引っかかる。
何が引っかかるのかは、考えない。
玲愛は手早く荷物を整えた。
有坂に声をかける。
「店長、先に失礼します」
「お疲れさま。相沢くんも?」
「はい。お疲れさまでした」
「気をつけて」
有坂は、それだけ言った。
余計なことは言わない。
ただ、少しだけ笑っている。
森崎はすでに帰る準備を終えていた。
「あ、花鳥さん、相沢さんと同じタイミングなんですね」
「偶然です」
「はい。偶然ですね」
森崎はすぐに頷いた。
踏み込まない。
ただし、分かっている顔をしている。
「森崎さん」
「はい」
「明日の案内カード、朝一番で再確認します」
「分かりました」
「では、お疲れさまです」
「お疲れさまでした」
店を出る。
夜の空気が、少し冷たい。
閉店後のキュリオの香りが、扉の向こうへ遠ざかる。
紅茶。
焼き菓子。
磨かれたカップ。
客席の残り香。
それらが背中側へ下がり、代わりに夜道の空気が前に来る。
湊は玲愛の隣を歩いた。
近すぎない。
遠すぎない。
客席で皿を置く時の距離に似ている。
そう思ってから、玲愛は自分の発想を少しだけ嫌になった。
何でも仕事に置き換えるのは、悪い癖かもしれない。
「花鳥さん」
「何ですか」
「今日は、残っていてくださってありがとうございました」
「店内で聞きました」
「はい。でも、外でも言っておきたかったので」
「外で言う必要はありません」
「そうかもしれません」
湊は、少しだけ前を見た。
「でも、助かりました」
玲愛は返事をしなかった。
夜道を歩く。
足音が二人分になる。
昼間なら聞こえない小さな音が、夜だと少しだけはっきりする。
湊は続けた。
「今日、案内文に寄せすぎていたのは、自分でも分かっていたんですが、どこまで戻すべきか迷っていました」
「三枝さんとは確認したのでしょう」
「はい」
「なら、明日でもよかったはずです」
「そうですね」
「今日中に私が確認する必要は、必ずしもありませんでした」
「はい」
「なら、礼を言うほどのことではありません」
湊は少しだけ黙った。
それから、静かに言った。
「それでも、花鳥さんに今日見てもらえたので、明日は迷わず作れます」
玲愛は、歩く速度を変えなかった。
変えなかったが、胸の奥に少しだけ何かが残った。
湊は、こういう言い方をする。
こちらの仕事の理由を否定しない。
こちらが残った理由を、勝手に甘いものへ変えない。
それでも、自分にとってどう助かったかを言う。
それが、困る。
「迷わず作れる、というのは危険です」
玲愛は言った。
「迷いが必要な場面もあります」
「はい。完全に迷わない、ではなくて」
「ではなくて?」
「どこで迷えばいいかが、少し分かりました」
玲愛は、少しだけ目を伏せた。
悪くない答えだった。
かなり悪くない。
「なら、明日はそこを確認します」
「お願いします」
「必要があれば、です」
「はい」
二人は角を曲がった。
ここから少し行けば、玲愛の帰る方向と湊の方向は分かれる。
まだ、店の外にいる。
それなのに、話している内容は仕事だ。
案内文。
焼き色。
甘さ。
迷い。
皿。
だから問題はない。
これは仕事の延長である。
ただ、店の外の空気の中で、その仕事の話をしているだけだ。
「花鳥さん」
「何ですか」
「今日の帰り道で、少し考えました」
「何をですか」
「紅茶のそばに、少しだけ甘さがほしい時に、という言葉です」
「まだ考えていたのですか」
「はい」
「考えすぎると皿が硬くなります」
「気をつけます」
湊は少しだけ笑った。
茶化す笑みではない。
自分でも分かっている、という顔だった。
「その言葉、店の中で見るより、外で思い出す方が少し違って見えます」
「どういう意味ですか」
「店では、客席に置くための言葉に見えました。でも、帰り道で考えると、店を出た後に残る甘さの話にも見えます」
玲愛は、足を止めかけた。
止めなかった。
店を出た後に残る甘さ。
それは、玲愛も考えていたことだった。
湊の菓子を自宅で食べた時。
閉店近くに出すには、甘さが少し戻ると思った時。
客が帰る時に重くなりすぎないかを考えた時。
それと似ている。
「……悪くない視点です」
玲愛は言った。
湊が少しだけ驚いた顔をした。
「ありがとうございます」
「褒めてはいません」
「はい」
「ただ、店を出た後の印象も商品には関係します」
「はい」
「明日の試作では、そこも考えてください」
「分かりました」
角の手前で、二人は立ち止まった。
ここで道が分かれる。
湊は頭を下げた。
「では、また明日」
「ええ。明日」
「明日の菓子、今日より少しだけ迷う場所を変えてみます」
「迷う場所を変える?」
「はい。甘さを引くかどうかではなく、どこに残すかで迷います」
玲愛は、少しだけ目を細めた。
「それは、良い迷いです」
「ありがとうございます」
「ただし、迷いすぎて焼き色を乱さないこと」
「はい」
「三枝さんにも確認を」
「分かっています」
「本当に?」
「半分くらいです」
「では、残り半分は明日の皿で確認します」
「はい」
いつものやり取りだった。
だが、店の外で交わすと、少しだけ違って聞こえる。
玲愛は、その違いに名前をつけなかった。
湊はもう一度頭を下げた。
「お疲れさまでした、花鳥さん」
「お疲れさまです」
湊が歩き出す。
少しずつ背中が遠ざかる。
玲愛は、それを見送った。
見送る必要はない。
帰る方向が違うのだから、自分も歩き出せばいい。
だが、数秒だけ、その背中を見ていた。
仕事の確認は終わった。
案内文の話も終わった。
明日の課題も決まった。
つまり、もう見る理由はない。
玲愛は視線を外した。
「……待っていたわけではないわ」
夜道で、小さく呟いた。
誰も聞いていない。
だから、訂正する必要もない。
残っていたのは、明日の準備のため。
店の品質を守るため。
客席に出す菓子を確認するため。
それだけだ。
それだけなのに。
湊が厨房から出てきた時、少しだけほっとしたこと。
残っていてくださって、ありがとうございます、と言われて、返す言葉に困ったこと。
店の外で、二人分の足音を聞いたこと。
それらが、帰り道の空気の中に少しだけ残っている。
玲愛は歩き出した。
明日も店は始まる。
ホールを整え、案内カードを確認し、紅茶の香りを見て、湊の皿を客席に置く。
そのために必要な確認をする。
ただ、それだけだ。
そういうことにした。