通常メニュー候補。
その言葉が、ようやく少し落ち着いてきた。
相沢湊の焼き菓子は、まだ正式な定番商品ではない。
だが、限定提供という言葉だけで処理する段階は越えつつある。
提供数。
焼き色。
紅茶との組み合わせ。
案内文。
提供時間帯。
ホールスタッフの説明。
戻ってきた皿の状態。
それらを確認し、調整し、記録し、また確認する。
地味な作業だった。
しかし、商品とはそういうものだ。
一度客席に置けたからといって、それで完成ではない。
むしろ、客席に置けるようになってからの方が、見るべきことは増える。
花鳥玲愛は、そう考えていた。
だから、確認する。
今日も確認する。
それは当然の仕事だった。
閉店後のキュリオ。
ホールには、もう客の姿はない。
椅子は整えられ、カップは片付けられ、窓際の席には明日の案内カードだけが仮置きされている。
厨房の奥からは、三枝誠司が最後の確認をする声が聞こえる。
有坂直人はカウンターで帳票をまとめている。
森崎乃々香は、ホール側の提供表を玲愛の指示通りに書き写していた。
「花鳥さん」
「何ですか」
「明日の焼き菓子、午後の紅茶セットだけでいいんですよね」
「ええ。提供数は増やしません」
「最近、希望されるお客様が増えてきましたけど」
「だからこそ、増やしません」
玲愛は、案内カードから視線を上げずに答えた。
「商品化直後は揺れが出ます。注文が増えたからといって、すぐに数を増やせば、焼き色も提供タイミングも乱れます」
「はい」
「客席に置ける数を守ることも、品質管理です」
「分かりました」
森崎は素直に頷いた。
その後で、少しだけ笑った。
「相沢さん、嬉しいでしょうね」
「嬉しがるかどうかは、こちらの判断とは関係ありません」
「はい」
「嬉しいからといって皿の声が大きくなれば、また調整が必要になります」
「はい。皿の声ですね」
森崎は、最近その表現に慣れてきたらしい。
玲愛は少しだけ眉を寄せた。
慣れすぎるのもよくない。
言葉は便利だが、便利な言葉ほど雑に使われる。
「森崎さん」
「はい」
「案内カードの位置、明日は紅茶メニューの右側です。菓子単体で先に目に入らないようにしてください」
「分かりました」
「紅茶と一緒に選んでいただく商品です」
「はい」
森崎が作業へ戻る。
玲愛は、手元の案内カードを見る。
紅茶のそばに、少しだけ甘さがほしい時に。
この言葉は、ほぼ店に馴染み始めている。
森崎も使える。
他のホールスタッフも説明できる。
有坂も違和感がないと言った。
三枝も、厨房側で提供温度と焼き上がりを合わせている。
そして湊は、その言葉に寄りすぎないようになった。
少しだけ甘さがほしい時。
その「少しだけ」に逃げず、必要な甘さを残す。
香りは静かに。
だが、消しすぎない。
以前より、良くなっている。
それは認める。
仕事として。
商品評価として。
相沢湊を特別扱いしているわけではない。
「花鳥さん」
厨房の入口から、湊が声をかけてきた。
「何ですか」
「今日の提供分の記録、まとまりました」
「見せてください」
「はい」
湊がノートを持ってくる。
焼き色の差。
提供時間。
紅茶との組み合わせ。
客の反応。
戻ってきた皿。
森崎からのコメント。
三枝の確認。
以前より、ずっと見やすくなっている。
情報が整理されている。
自分の感想だけではなく、ホール側の意見も、厨房側の判断も、客席の反応も、分けて書かれている。
悪くない。
「記録の取り方は、前より良くなっています」
「ありがとうございます」
「褒めてはいません」
「はい」
「ただし、森崎さんのコメントとあなた自身の判断が、少し混ざっています」
「どこでしょうか」
湊は、すぐにノートを見る。
その姿勢は良い。
分かったふりをしない。
直す場所を聞く。
玲愛は、該当箇所を指した。
「ここです。『客が選びやすい』というのは森崎さんの表現です。一方、『午後の一人客向け』というのはあなたの判断です」
「あ……はい」
「分けてください」
「分かりました」
「客席の反応を記録する時、誰の視点かを混ぜないこと」
「はい」
「商品が良くなっている時ほど、記録は冷静にしてください」
「分かりました」
湊は頷いた。
玲愛はノートを閉じる。
「今日の焼き菓子そのものは、大きな問題ありません」
「はい」
「焼き色も許容範囲です。紅茶との組み合わせも、推奨三種であれば安定しています」
「はい」
「案内文とのずれも、今のところ大きくありません」
「ありがとうございます」
「ただし、通常メニュー候補としては、まだ継続確認が必要です」
「はい」
「来週までは、提供数を固定します」
「分かりました」
湊は素直に返事をした。
そこで確認は終わるはずだった。
玲愛はノートを返そうとした。
だが、湊が少しだけ迷うようにこちらを見た。
「花鳥さん」
「何ですか」
「一つ、聞いてもいいですか」
「内容によります」
いつもの返し。
湊も、もう慣れている。
だが、今日は少しだけ言葉を選んでいるようだった。
「最近、確認してくださる回数が増えましたよね」
玲愛は、すぐに答えた。
「必要だからです」
「はい」
「商品化直後は揺れが出やすいので」
「はい」
「焼き色、香り、紅茶との組み合わせ、提供数、案内文。どれも客席への影響を確認する必要があります」
「はい」
「通常メニュー候補として扱う以上、確認頻度が増えるのは当然です」
「はい」
「特別扱いではありません」
少し早口になった気がした。
だが、内容は正しい。
玲愛は湊を見た。
湊は黙っていた。
何か言い返すわけでもない。
茶化すわけでもない。
ただ、少しだけ考えていた。
その沈黙が、妙に長く感じる。
「何ですか」
「いえ」
湊は、静かに頷いた。
「分かっています」
その返事に、玲愛は本来なら満足するべきだった。
そう。
分かっているなら、それでいい。
特別扱いではない。
必要な確認である。
商品としての揺れを見ているだけ。
湊がそう理解しているなら、何の問題もない。
ないはずだった。
なのに、玲愛はなぜか少しだけ引っかかった。
「……本当に分かっているのですか」
自分で言ってから、少しだけおかしな問いだと思った。
分かっていると言われたのに、確認する。
普段なら自然な流れだ。
だが、今の確認は少し違った。
何を確かめたいのか、自分でも分からない。
湊は、真面目に答えた。
「はい。花鳥さんは、特別扱いはしません」
玲愛は、返事を失いかけた。
それは、正しい。
その通りだ。
玲愛は特別扱いをしない。
店の商品を、個人的な感情で扱わない。
湊の菓子だから見るのではない。
客席に出すものだから見る。
商品として必要だから確認する。
湊本人を、他のスタッフより特別に扱っているわけではない。
そのはずだ。
だから、湊の返答は正しい。
正しいのに、少しだけ胸の奥に何かが残った。
湊が本当に「特別扱いではない」と受け取っている。
そう分かった瞬間、なぜか少し物足りない。
おかしい。
認めてほしいわけではない。
特別扱いだと思われたいわけでもない。
むしろ逆だ。
勘違いされては困る。
困るのに。
「なら結構です」
玲愛は、仕事の声で言った。
「はい」
湊は頷いた。
そこで終わるはずだった。
今度こそ。
だが、湊は少しだけ視線を落としてから、もう一度口を開いた。
「でも」
「何ですか」
「俺にとっては、見ていただけるだけで十分特別です」
玲愛は、動きを止めた。
完全に。
ノートを返す手も。
視線も。
言葉も。
湊は、こちらを見ていた。
照れているようでもない。
告白のように大きく言ったわけでもない。
ただ、事実を置いた。
自分にとっては。
見てもらえるだけで。
十分特別。
それは、玲愛に特別扱いを求める言葉ではなかった。
玲愛の言い分を否定していない。
玲愛が特別扱いをしないことも認めている。
その上で、湊自身の側にある特別だけを、静かに置いた。
だから、逃げ場がなかった。
「……言葉の使い方に注意してください」
ようやく出た言葉は、それだった。
湊は小さく頭を下げた。
「すみません」
「謝罪ではなく、修正してください」
「難しいです」
「では、今後の課題です」
「はい」
湊は、真面目に頷いた。
本当に、今後の課題として受け取った顔だった。
それがまた、玲愛を少し困らせた。
「相沢さん」
「はい」
「その言葉は、商品記録には残さないでください」
「残しません」
「本当に?」
「はい。これは、俺の方の話なので」
玲愛は、また言葉に詰まりかけた。
俺の方の話。
湊は、境界を分けている。
玲愛が仕事として見ていること。
湊がそれを特別だと感じること。
その二つを混ぜていない。
だから、玲愛は否定しづらい。
「……結構です」
玲愛はノートを返した。
「明日の記録は、今日指摘した通り、視点を分けてください」
「はい」
「提供数は固定」
「はい」
「案内カードは、午後分のみ」
「はい」
「紅茶は推奨三種から外さないこと」
「分かりました」
「以上です」
「ありがとうございます」
「一度で十分です」
「はい」
湊はノートを受け取った。
そして、厨房へ戻っていった。
その背中を見ながら、玲愛は少しだけ息を吐いた。
確認は終わった。
業務は終わった。
何も問題はない。
ないはずなのに、胸の奥に先ほどの言葉が残っている。
見ていただけるだけで十分特別です。
湊は、どうしてああいう言い方をするのだろう。
こちらの防御を崩さない。
言い訳を壊さない。
それでいて、言葉だけを置いていく。
静かに。
紅茶のそばに置かれた、少しだけの甘さのように。
そこまで考えて、玲愛は自分の思考を止めた。
例えが悪い。
非常に悪い。
今の言葉は、商品と関係ない。
湊の菓子とも関係ない。
いや、全く関係ないとは言い切れないかもしれないが。
少なくとも、今考える必要はない。
「花鳥さん」
森崎の声がした。
玲愛は顔を上げた。
「何ですか」
「明日の案内カード、こちらで大丈夫でしょうか」
「見せてください」
森崎がカードを差し出す。
紅茶のそばに、少しだけ甘さがほしい時に。
その文字が、きちんと収まっている。
余白も悪くない。
紅茶メニューとの位置も適切。
「これで構いません」
「分かりました」
森崎は頷いた。
それから、少しだけ玲愛の顔を見た。
「花鳥さん」
「何ですか」
「少し、顔が赤いですか?」
「照明のせいです」
「はい」
「森崎さん」
「はい」
「明日の開店前、カードの角度を再確認してください」
「分かりました」
森崎はそれ以上何も言わなかった。
その判断は、非常に正しい。
玲愛は提供表をまとめ、手帳を閉じた。
そこには、明日の確認事項が並んでいる。
焼き色。
紅茶。
提供数。
案内カード。
記録視点。
必要なことだけが書かれている。
湊の言葉は書いていない。
書く必要はない。
これは仕事の手帳である。
だが、手帳を閉じても、その言葉は消えなかった。
見ていただけるだけで十分特別です。
困った言葉だった。
商品評価ではない。
業務連絡でもない。
改善点でもない。
だから処理できない。
玲愛は、ホールの窓際へ向かった。
明日の一名席。
紅茶のメニュー。
案内カード。
カップの位置。
全て確認する。
いつも通り。
店は、いつも通りでなければならない。
湊の焼き菓子が通常メニュー候補になっても。
確認回数が増えても。
彼がそれを特別だと言っても。
店の時間は、整っていなければならない。
それを守るのが、自分の仕事だ。
玲愛は案内カードを少しだけ直した。
角度を変える。
紅茶のメニューより前に出すぎないように。
菓子が主張しすぎないように。
でも、選ぼうとした客の目にはちゃんと届くように。
その加減が大事だった。
まるで、何か別のものにも似ている。
玲愛は、そこまで考えてやめた。
余計なことだ。
「……特別扱いではないわ」
誰もいないホールで、小さく呟く。
声に出すと、少しだけ落ち着く。
特別扱いではない。
商品化直後は揺れが出やすい。
客席への影響を確認する必要がある。
スタッフの状態を見るのも、品質管理である。
案内文の整合性を見るのも、ホールの仕事である。
だから、確認する。
だから、見る。
だから、待つ。
だから、紅茶を出す。
だから、言葉を直す。
だから、帰り道で話す。
だから。
玲愛は、そこで言葉を止めた。
理由を並べすぎると、逆に怪しくなる。
分かっている。
それでも、まだ認めるわけにはいかない。
花鳥玲愛は、特別扱いを認めない。
ただ、相沢湊の菓子と、その作り手を確認する機会が、以前より少しだけ増えただけだった。
そして、その確認を。
明日もまた、少しだけ待っている自分には。
まだ、名前をつけないことにした。