花鳥玲愛は、甘さを認めない   作:エーアイ

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第17話 花鳥玲愛は、特別扱いを認めない

 通常メニュー候補。

 

 その言葉が、ようやく少し落ち着いてきた。

 

 相沢湊の焼き菓子は、まだ正式な定番商品ではない。

 

 だが、限定提供という言葉だけで処理する段階は越えつつある。

 

 提供数。

 

 焼き色。

 

 紅茶との組み合わせ。

 

 案内文。

 

 提供時間帯。

 

 ホールスタッフの説明。

 

 戻ってきた皿の状態。

 

 それらを確認し、調整し、記録し、また確認する。

 

 地味な作業だった。

 

 しかし、商品とはそういうものだ。

 

 一度客席に置けたからといって、それで完成ではない。

 

 むしろ、客席に置けるようになってからの方が、見るべきことは増える。

 

 花鳥玲愛は、そう考えていた。

 

 だから、確認する。

 

 今日も確認する。

 

 それは当然の仕事だった。

 

 閉店後のキュリオ。

 

 ホールには、もう客の姿はない。

 

 椅子は整えられ、カップは片付けられ、窓際の席には明日の案内カードだけが仮置きされている。

 

 厨房の奥からは、三枝誠司が最後の確認をする声が聞こえる。

 

 有坂直人はカウンターで帳票をまとめている。

 

 森崎乃々香は、ホール側の提供表を玲愛の指示通りに書き写していた。

 

「花鳥さん」

 

「何ですか」

 

「明日の焼き菓子、午後の紅茶セットだけでいいんですよね」

 

「ええ。提供数は増やしません」

 

「最近、希望されるお客様が増えてきましたけど」

 

「だからこそ、増やしません」

 

 玲愛は、案内カードから視線を上げずに答えた。

 

「商品化直後は揺れが出ます。注文が増えたからといって、すぐに数を増やせば、焼き色も提供タイミングも乱れます」

 

「はい」

 

「客席に置ける数を守ることも、品質管理です」

 

「分かりました」

 

 森崎は素直に頷いた。

 

 その後で、少しだけ笑った。

 

「相沢さん、嬉しいでしょうね」

 

「嬉しがるかどうかは、こちらの判断とは関係ありません」

 

「はい」

 

「嬉しいからといって皿の声が大きくなれば、また調整が必要になります」

 

「はい。皿の声ですね」

 

 森崎は、最近その表現に慣れてきたらしい。

 

 玲愛は少しだけ眉を寄せた。

 

 慣れすぎるのもよくない。

 

 言葉は便利だが、便利な言葉ほど雑に使われる。

 

「森崎さん」

 

「はい」

 

「案内カードの位置、明日は紅茶メニューの右側です。菓子単体で先に目に入らないようにしてください」

 

「分かりました」

 

「紅茶と一緒に選んでいただく商品です」

 

「はい」

 

 森崎が作業へ戻る。

 

 玲愛は、手元の案内カードを見る。

 

 紅茶のそばに、少しだけ甘さがほしい時に。

 

 この言葉は、ほぼ店に馴染み始めている。

 

 森崎も使える。

 

 他のホールスタッフも説明できる。

 

 有坂も違和感がないと言った。

 

 三枝も、厨房側で提供温度と焼き上がりを合わせている。

 

 そして湊は、その言葉に寄りすぎないようになった。

 

 少しだけ甘さがほしい時。

 

 その「少しだけ」に逃げず、必要な甘さを残す。

 

 香りは静かに。

 

 だが、消しすぎない。

 

 以前より、良くなっている。

 

 それは認める。

 

 仕事として。

 

 商品評価として。

 

 相沢湊を特別扱いしているわけではない。

 

「花鳥さん」

 

 厨房の入口から、湊が声をかけてきた。

 

「何ですか」

 

「今日の提供分の記録、まとまりました」

 

「見せてください」

 

「はい」

 

 湊がノートを持ってくる。

 

 焼き色の差。

 

 提供時間。

 

 紅茶との組み合わせ。

 

 客の反応。

 

 戻ってきた皿。

 

 森崎からのコメント。

 

 三枝の確認。

 

 以前より、ずっと見やすくなっている。

 

 情報が整理されている。

 

 自分の感想だけではなく、ホール側の意見も、厨房側の判断も、客席の反応も、分けて書かれている。

 

 悪くない。

 

「記録の取り方は、前より良くなっています」

 

「ありがとうございます」

 

「褒めてはいません」

 

「はい」

 

「ただし、森崎さんのコメントとあなた自身の判断が、少し混ざっています」

 

「どこでしょうか」

 

 湊は、すぐにノートを見る。

 

 その姿勢は良い。

 

 分かったふりをしない。

 

 直す場所を聞く。

 

 玲愛は、該当箇所を指した。

 

「ここです。『客が選びやすい』というのは森崎さんの表現です。一方、『午後の一人客向け』というのはあなたの判断です」

 

「あ……はい」

 

「分けてください」

 

「分かりました」

 

「客席の反応を記録する時、誰の視点かを混ぜないこと」

 

「はい」

 

「商品が良くなっている時ほど、記録は冷静にしてください」

 

「分かりました」

 

 湊は頷いた。

 

 玲愛はノートを閉じる。

 

「今日の焼き菓子そのものは、大きな問題ありません」

 

「はい」

 

「焼き色も許容範囲です。紅茶との組み合わせも、推奨三種であれば安定しています」

 

「はい」

 

「案内文とのずれも、今のところ大きくありません」

 

「ありがとうございます」

 

「ただし、通常メニュー候補としては、まだ継続確認が必要です」

 

「はい」

 

「来週までは、提供数を固定します」

 

「分かりました」

 

 湊は素直に返事をした。

 

 そこで確認は終わるはずだった。

 

 玲愛はノートを返そうとした。

 

 だが、湊が少しだけ迷うようにこちらを見た。

 

「花鳥さん」

 

「何ですか」

 

「一つ、聞いてもいいですか」

 

「内容によります」

 

 いつもの返し。

 

 湊も、もう慣れている。

 

 だが、今日は少しだけ言葉を選んでいるようだった。

 

「最近、確認してくださる回数が増えましたよね」

 

 玲愛は、すぐに答えた。

 

「必要だからです」

 

「はい」

 

「商品化直後は揺れが出やすいので」

 

「はい」

 

「焼き色、香り、紅茶との組み合わせ、提供数、案内文。どれも客席への影響を確認する必要があります」

 

「はい」

 

「通常メニュー候補として扱う以上、確認頻度が増えるのは当然です」

 

「はい」

 

「特別扱いではありません」

 

 少し早口になった気がした。

 

 だが、内容は正しい。

 

 玲愛は湊を見た。

 

 湊は黙っていた。

 

 何か言い返すわけでもない。

 

 茶化すわけでもない。

 

 ただ、少しだけ考えていた。

 

 その沈黙が、妙に長く感じる。

 

「何ですか」

 

「いえ」

 

 湊は、静かに頷いた。

 

「分かっています」

 

 その返事に、玲愛は本来なら満足するべきだった。

 

 そう。

 

 分かっているなら、それでいい。

 

 特別扱いではない。

 

 必要な確認である。

 

 商品としての揺れを見ているだけ。

 

 湊がそう理解しているなら、何の問題もない。

 

 ないはずだった。

 

 なのに、玲愛はなぜか少しだけ引っかかった。

 

「……本当に分かっているのですか」

 

 自分で言ってから、少しだけおかしな問いだと思った。

 

 分かっていると言われたのに、確認する。

 

 普段なら自然な流れだ。

 

 だが、今の確認は少し違った。

 

 何を確かめたいのか、自分でも分からない。

 

 湊は、真面目に答えた。

 

「はい。花鳥さんは、特別扱いはしません」

 

 玲愛は、返事を失いかけた。

 

 それは、正しい。

 

 その通りだ。

 

 玲愛は特別扱いをしない。

 

 店の商品を、個人的な感情で扱わない。

 

 湊の菓子だから見るのではない。

 

 客席に出すものだから見る。

 

 商品として必要だから確認する。

 

 湊本人を、他のスタッフより特別に扱っているわけではない。

 

 そのはずだ。

 

 だから、湊の返答は正しい。

 

 正しいのに、少しだけ胸の奥に何かが残った。

 

 湊が本当に「特別扱いではない」と受け取っている。

 

 そう分かった瞬間、なぜか少し物足りない。

 

 おかしい。

 

 認めてほしいわけではない。

 

 特別扱いだと思われたいわけでもない。

 

 むしろ逆だ。

 

 勘違いされては困る。

 

 困るのに。

 

「なら結構です」

 

 玲愛は、仕事の声で言った。

 

「はい」

 

 湊は頷いた。

 

 そこで終わるはずだった。

 

 今度こそ。

 

 だが、湊は少しだけ視線を落としてから、もう一度口を開いた。

 

「でも」

 

「何ですか」

 

「俺にとっては、見ていただけるだけで十分特別です」

 

 玲愛は、動きを止めた。

 

 完全に。

 

 ノートを返す手も。

 

 視線も。

 

 言葉も。

 

 湊は、こちらを見ていた。

 

 照れているようでもない。

 

 告白のように大きく言ったわけでもない。

 

 ただ、事実を置いた。

 

 自分にとっては。

 

 見てもらえるだけで。

 

 十分特別。

 

 それは、玲愛に特別扱いを求める言葉ではなかった。

 

 玲愛の言い分を否定していない。

 

 玲愛が特別扱いをしないことも認めている。

 

 その上で、湊自身の側にある特別だけを、静かに置いた。

 

 だから、逃げ場がなかった。

 

「……言葉の使い方に注意してください」

 

 ようやく出た言葉は、それだった。

 

 湊は小さく頭を下げた。

 

「すみません」

 

「謝罪ではなく、修正してください」

 

「難しいです」

 

「では、今後の課題です」

 

「はい」

 

 湊は、真面目に頷いた。

 

 本当に、今後の課題として受け取った顔だった。

 

 それがまた、玲愛を少し困らせた。

 

「相沢さん」

 

「はい」

 

「その言葉は、商品記録には残さないでください」

 

「残しません」

 

「本当に?」

 

「はい。これは、俺の方の話なので」

 

 玲愛は、また言葉に詰まりかけた。

 

 俺の方の話。

 

 湊は、境界を分けている。

 

 玲愛が仕事として見ていること。

 

 湊がそれを特別だと感じること。

 

 その二つを混ぜていない。

 

 だから、玲愛は否定しづらい。

 

「……結構です」

 

 玲愛はノートを返した。

 

「明日の記録は、今日指摘した通り、視点を分けてください」

 

「はい」

 

「提供数は固定」

 

「はい」

 

「案内カードは、午後分のみ」

 

「はい」

 

「紅茶は推奨三種から外さないこと」

 

「分かりました」

 

「以上です」

 

「ありがとうございます」

 

「一度で十分です」

 

「はい」

 

 湊はノートを受け取った。

 

 そして、厨房へ戻っていった。

 

 その背中を見ながら、玲愛は少しだけ息を吐いた。

 

 確認は終わった。

 

 業務は終わった。

 

 何も問題はない。

 

 ないはずなのに、胸の奥に先ほどの言葉が残っている。

 

 見ていただけるだけで十分特別です。

 

 湊は、どうしてああいう言い方をするのだろう。

 

 こちらの防御を崩さない。

 

 言い訳を壊さない。

 

 それでいて、言葉だけを置いていく。

 

 静かに。

 

 紅茶のそばに置かれた、少しだけの甘さのように。

 

 そこまで考えて、玲愛は自分の思考を止めた。

 

 例えが悪い。

 

 非常に悪い。

 

 今の言葉は、商品と関係ない。

 

 湊の菓子とも関係ない。

 

 いや、全く関係ないとは言い切れないかもしれないが。

 

 少なくとも、今考える必要はない。

 

「花鳥さん」

 

 森崎の声がした。

 

 玲愛は顔を上げた。

 

「何ですか」

 

「明日の案内カード、こちらで大丈夫でしょうか」

 

「見せてください」

 

 森崎がカードを差し出す。

 

 紅茶のそばに、少しだけ甘さがほしい時に。

 

 その文字が、きちんと収まっている。

 

 余白も悪くない。

 

 紅茶メニューとの位置も適切。

 

「これで構いません」

 

「分かりました」

 

 森崎は頷いた。

 

 それから、少しだけ玲愛の顔を見た。

 

「花鳥さん」

 

「何ですか」

 

「少し、顔が赤いですか?」

 

「照明のせいです」

 

「はい」

 

「森崎さん」

 

「はい」

 

「明日の開店前、カードの角度を再確認してください」

 

「分かりました」

 

 森崎はそれ以上何も言わなかった。

 

 その判断は、非常に正しい。

 

 玲愛は提供表をまとめ、手帳を閉じた。

 

 そこには、明日の確認事項が並んでいる。

 

 焼き色。

 

 紅茶。

 

 提供数。

 

 案内カード。

 

 記録視点。

 

 必要なことだけが書かれている。

 

 湊の言葉は書いていない。

 

 書く必要はない。

 

 これは仕事の手帳である。

 

 だが、手帳を閉じても、その言葉は消えなかった。

 

 見ていただけるだけで十分特別です。

 

 困った言葉だった。

 

 商品評価ではない。

 

 業務連絡でもない。

 

 改善点でもない。

 

 だから処理できない。

 

 玲愛は、ホールの窓際へ向かった。

 

 明日の一名席。

 

 紅茶のメニュー。

 

 案内カード。

 

 カップの位置。

 

 全て確認する。

 

 いつも通り。

 

 店は、いつも通りでなければならない。

 

 湊の焼き菓子が通常メニュー候補になっても。

 

 確認回数が増えても。

 

 彼がそれを特別だと言っても。

 

 店の時間は、整っていなければならない。

 

 それを守るのが、自分の仕事だ。

 

 玲愛は案内カードを少しだけ直した。

 

 角度を変える。

 

 紅茶のメニューより前に出すぎないように。

 

 菓子が主張しすぎないように。

 

 でも、選ぼうとした客の目にはちゃんと届くように。

 

 その加減が大事だった。

 

 まるで、何か別のものにも似ている。

 

 玲愛は、そこまで考えてやめた。

 

 余計なことだ。

 

「……特別扱いではないわ」

 

 誰もいないホールで、小さく呟く。

 

 声に出すと、少しだけ落ち着く。

 

 特別扱いではない。

 

 商品化直後は揺れが出やすい。

 

 客席への影響を確認する必要がある。

 

 スタッフの状態を見るのも、品質管理である。

 

 案内文の整合性を見るのも、ホールの仕事である。

 

 だから、確認する。

 

 だから、見る。

 

 だから、待つ。

 

 だから、紅茶を出す。

 

 だから、言葉を直す。

 

 だから、帰り道で話す。

 

 だから。

 

 玲愛は、そこで言葉を止めた。

 

 理由を並べすぎると、逆に怪しくなる。

 

 分かっている。

 

 それでも、まだ認めるわけにはいかない。

 

 花鳥玲愛は、特別扱いを認めない。

 

 ただ、相沢湊の菓子と、その作り手を確認する機会が、以前より少しだけ増えただけだった。

 

 そして、その確認を。

 

 明日もまた、少しだけ待っている自分には。

 

 まだ、名前をつけないことにした。

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