花鳥玲愛は、甘さを認めない   作:エーアイ

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第2章のエピローグです。


第18話 相沢湊は、特別扱いを求めない

 見ていただけるだけで十分特別です。

 

 そう言った後、相沢湊は少しだけ後悔した。

 

 言いすぎただろうか。

 

 踏み込みすぎただろうか。

 

 花鳥玲愛は、言葉の境界に厳しい人だ。

 

 仕事と私情を混ぜない。

 

 客席に出すものを、自分の好みで歪めない。

 

 誰か一人を理由に菓子を作ることを許さない。

 

 そして、特別扱いを認めない。

 

 そんな人に向かって、自分にとっては特別です、などと言った。

 

 あとから考えれば、かなり危ない。

 

 だが、不思議と、取り消したいとは思わなかった。

 

 あれは、花鳥に特別扱いを求める言葉ではない。

 

 花鳥が自分を特別に扱っている、と決めつける言葉でもない。

 

 ただ、湊の側の事実だった。

 

 見てもらえること。

 

 記録を読んでもらえること。

 

 皿の弱さを指摘してもらえること。

 

 案内文を直してもらえること。

 

 香りを消しすぎるなと言われること。

 

 体調が乱れれば止められること。

 

 紅茶を出されること。

 

 それらは全部、花鳥にとっては仕事なのだろう。

 

 品質管理。

 

 客席への影響確認。

 

 商品化直後の揺れの確認。

 

 ホール側の責任。

 

 スタッフの体調管理。

 

 理由はいくらでもある。

 

 そして、その理由は全部正しい。

 

 だから湊は、それを否定しない。

 

 花鳥玲愛は、特別扱いをしない。

 

 それでいい。

 

 それでも、湊にとっては十分特別だった。

 

 閉店後の厨房で、湊はノートを閉じた。

 

 今日の記録は終わっている。

 

 焼き色。

 

 紅茶との組み合わせ。

 

 案内カード。

 

 提供数。

 

 森崎乃々香のコメント。

 

 三枝誠司の確認。

 

 花鳥玲愛の指摘。

 

 必要なことは書いた。

 

 余計なことは書かない。

 

 花鳥に言われた通り、視点は分けた。

 

 客の反応。

 

 ホールスタッフの意見。

 

 厨房側の判断。

 

 自分の考え。

 

 そして、花鳥の確認。

 

 混ぜない。

 

 混ぜれば、皿が曖昧になる。

 

 湊は、ノートの最後のページを見た。

 

 そこには、小さく一文だけ書いてある。

 

 見てもらえることに甘えない。

 

 けれど、見てもらえたことは忘れない。

 

 書いてから、少しだけ迷った。

 

 これは商品記録ではない。

 

 業務記録でもない。

 

 だが、消す必要はないと思った。

 

 自分のためのメモだ。

 

 明日、皿を作る時に必要な言葉。

 

 花鳥の言葉を、客席に必要な言葉として受け取る。

 

 森崎の言葉を、ホール実務の言葉として受け取る。

 

 三枝の言葉を、厨房の判断として受け取る。

 

 有坂の言葉を、店全体の判断として受け取る。

 

 そして、自分の中に残ったものを、皿に戻す。

 

 それが、今の湊の仕事だった。

 

「相沢くん」

 

 三枝が声をかけてきた。

 

「はい」

 

「今日はもう上がっていいよ。記録、終わったんでしょ?」

 

「はい。終わりました」

 

「なら帰ろう。明日も焼くんだから」

 

「分かりました」

 

 三枝は片付いた作業台を一度見て、頷いた。

 

「最近、記録がかなり整理されてきたね」

 

「花鳥さんに、視点を混ぜるなと言われたので」

 

「花鳥さんらしい」

 

「はい」

 

「でも、それをちゃんと受け取ってる湊くんも、だいぶ変わったよ」

 

「そうでしょうか」

 

「最初の頃なら、たぶん花鳥さんの評価欄だけ大きくしてたんじゃない?」

 

 湊は、少しだけ言葉に詰まった。

 

 否定できない。

 

「……していたかもしれません」

 

「今は?」

 

「今も、気にはします」

 

「うん」

 

「でも、それだけで皿を決めるのは違うと思います」

 

 三枝は少し笑った。

 

「いい答えだね」

 

「褒めていますか?」

 

「八割くらい」

 

「高いですね」

 

「残り二割は、明日の皿で」

 

「はい」

 

 三枝は、厨房の灯りを一つ落とした。

 

 湊も片付けを終え、コックコートを整える。

 

 ホール側へ出ると、花鳥玲愛が案内カードの位置を確認していた。

 

 閉店後のホール。

 

 誰もいない客席。

 

 窓際のテーブルに置かれた紅茶メニューと案内カード。

 

 花鳥は、その角度をほんの少し直している。

 

 紅茶のそばに、少しだけ甘さがほしい時に。

 

 その言葉が、店の中で静かに場所を持ち始めている。

 

 湊は、少しだけ足を止めた。

 

 花鳥は気づいた。

 

「相沢さん」

 

「はい」

 

「明日の案内カードは、この位置で出します」

 

「分かりました」

 

「紅茶メニューより前に出しすぎないこと」

 

「はい」

 

「菓子単体で選ばせるのではなく、紅茶と一緒に案内してください」

 

「はい」

 

「提供数は固定です」

 

「はい」

 

「焼き上がりが揺れた場合は、三枝さんの判断を優先してください」

 

「分かりました」

 

 確認は、いつも通りだった。

 

 言葉も、声も、姿勢も。

 

 花鳥玲愛は、何も変わらない。

 

 変わらないはずだった。

 

 だが、湊は少しだけ分かるようになっていた。

 

 彼女が何を見ているのか。

 

 どこで線を引いているのか。

 

 どの言葉を仕事として置いているのか。

 

 そして、どの言葉を仕事として置きながら、少しだけ自分の内側へ入れてしまっているのか。

 

 もちろん、決めつけてはいけない。

 

 湊には、花鳥の内心を断定する権利はない。

 

 ただ、以前よりは、彼女の言葉の重さを受け取れるようになった気がした。

 

「花鳥さん」

 

「何ですか」

 

「今日の言葉ですが」

 

「どの言葉ですか」

 

「特別、の話です」

 

 花鳥の動きが、一瞬だけ止まった。

 

 湊は、すぐに続けた。

 

「すみません。蒸し返すつもりではありません」

 

「なら、なぜ言うのですか」

 

「誤解されたくないので」

 

 花鳥は、静かにこちらを見た。

 

「私は、誤解していません」

 

「はい」

 

「特別扱いではないと理解しているのでしょう」

 

「理解しています」

 

「なら問題ありません」

 

「はい。問題ありません」

 

 湊は、そこで一度息を置いた。

 

「俺は、花鳥さんに特別扱いをしてほしいわけではありません」

 

 花鳥は何も言わなかった。

 

 湊は続けた。

 

「花鳥さんが、店の商品として見ていることも分かっています。客席に出すものだから確認してくださっていることも、分かっています」

 

「ええ」

 

「それを変えてほしいとは思っていません」

 

「当然です」

 

「はい」

 

 湊は、案内カードを見た。

 

 紅茶のそばに、少しだけ甘さがほしい時に。

 

 その言葉は、強くない。

 

 だが、必要なところに届く。

 

 湊も、そういう言い方をしたいと思った。

 

「ただ、俺にとっては、見てもらえることが大事なんです」

 

 花鳥の視線が、わずかに揺れた気がした。

 

「自分の皿が、客席に届いているのか。紅茶のそばに置けているのか。誰かの時間を邪魔していないか。そこを一番厳しく見てくれるのが、花鳥さんなので」

 

「それは、私の職務です」

 

「はい」

 

「ホールのチーフとして、当然の確認です」

 

「分かっています」

 

「なら」

 

「だから、ありがたいんです」

 

 湊は、まっすぐ言った。

 

 茶化さない。

 

 押さない。

 

 花鳥の言い分を壊さない。

 

 ただ、自分の側にあるものを置く。

 

「花鳥さんが仕事として見てくださることが、俺にはありがたいです」

 

 花鳥は、しばらく黙っていた。

 

 ホールには、閉店後の静けさがあった。

 

 棚の中のカップ。

 

 整えられた椅子。

 

 明日の案内カード。

 

 そして、二人分の沈黙。

 

 やがて、花鳥は小さく息を吐いた。

 

「……言葉の使い方に、引き続き注意してください」

 

「はい」

 

「今の言い方も、少し危険です」

 

「すみません」

 

「謝罪ではなく、修正してください」

 

「難しいです」

 

「では、今後の課題です」

 

「はい」

 

 いつものやり取りだった。

 

 だが、湊には少しだけ柔らかく聞こえた。

 

 勘違いかもしれない。

 

 そう思っておく。

 

「相沢さん」

 

「はい」

 

「明日は、通常通りに焼いてください」

 

「分かりました」

 

「今日の話を、皿に余計に乗せないこと」

 

 湊は、思わず少し笑いそうになった。

 

 だが、笑わなかった。

 

「難しいですね」

 

「難しくありません」

 

「そうでしょうか」

 

「商品に関係のない感情は、皿に乗せないでください」

 

「はい」

 

「ただし」

 

 花鳥は、一拍置いた。

 

「客席に必要なものまで、削らないこと」

 

 湊は、ゆっくり頷いた。

 

「分かりました」

 

「本当に?」

 

「半分くらいです」

 

「では、残り半分は明日の皿で確認します」

 

「はい」

 

 確認。

 

 やはり、確認なのだ。

 

 花鳥にとっては仕事。

 

 湊にとっても仕事。

 

 それでいい。

 

 その中に、少しだけ言葉が残る。

 

 それで十分だった。

 

 有坂が奥から声をかけた。

 

「花鳥さん、相沢くん、そろそろ閉めるよ」

 

「はい」

 

「分かりました」

 

 森崎は先に帰ったらしい。

 

 三枝も厨房側の戸締まりへ回っている。

 

 湊は荷物を持った。

 

 花鳥も手帳を鞄にしまう。

 

 その手帳に、案内文の控えが挟まれていることを、湊は知っている。

 

 必要だからだ。

 

 仕事だからだ。

 

 それでも、自分の言葉が、そこに少しだけ関わっているような気がしてしまう。

 

 そう思うのは、たぶん湊の勝手だ。

 

 勝手だが、悪いことではないと思いたかった。

 

 店を出る。

 

 夜の空気が入ってくる。

 

 昨日より少しだけ冷えていた。

 

 花鳥は、店の扉が閉まる音を確認してから歩き出した。

 

 湊も隣を歩く。

 

 前と同じように、近すぎない距離。

 

 職場の同僚として、自然な距離。

 

 だが、店の外に出ると、その距離は少しだけ違って感じる。

 

 湊は、無理に話さなかった。

 

 夜道を少し歩く。

 

 足音が二つ。

 

 しばらくして、花鳥が言った。

 

「今日の話は、明日の作業に持ち込まないでください」

 

「はい」

 

「特別という言葉を意識して、皿を変えないこと」

 

「はい」

 

「あなたの菓子は、客席に置くものです」

 

「分かっています」

 

「本当に?」

 

「はい」

 

 湊は頷いた。

 

「でも、作る時には少しだけ思い出すと思います」

 

「今、持ち込まないようにと言いました」

 

「皿に乗せないようにします」

 

「……言い方を変えても同じです」

 

「すみません」

 

「謝罪ではなく、修正してください」

 

「難しいです」

 

「では、今後の課題が増えましたね」

 

「はい」

 

 花鳥は、少しだけ呆れたように息を吐いた。

 

 それが、湊には少し嬉しかった。

 

 怒られて嬉しいわけではない。

 

 ただ、こうして言葉を返してもらえることが、やはりありがたかった。

 

 角の手前で、二人は足を止めた。

 

 ここから先は、帰る道が分かれる。

 

 湊は頭を下げた。

 

「では、また明日」

 

「ええ。明日」

 

「明日の菓子、いつも通りに焼きます」

 

「そうしてください」

 

「でも、必要な甘さは削らないようにします」

 

 花鳥は、少しだけ目を細めた。

 

「それは、良い判断です」

 

「ありがとうございます」

 

「褒めてはいません」

 

「はい」

 

「ただ、今日のところは、そう判断して構いません」

 

「はい」

 

 湊は、もう一度頭を下げた。

 

「お疲れさまでした、花鳥さん」

 

「お疲れさまです」

 

 花鳥は、いつものように背筋を伸ばしていた。

 

 夜道の中でも、その姿勢は崩れない。

 

 湊は歩き出した。

 

 少し進んでから、一度だけ振り返りたくなった。

 

 だが、振り返らなかった。

 

 今は、それでいい。

 

 花鳥に特別扱いを求めない。

 

 見返りを求めない。

 

 勘違いしない。

 

 でも、見てもらえることを大事にする。

 

 それが、今の湊にできる距離の取り方だった。

 

 帰り道、湊は明日の配合を考えた。

 

 甘さは引きすぎない。

 

 香りは前に出しすぎない。

 

 紅茶のそばに置く。

 

 でも、菓子としての手は残す。

 

 客席に必要なものを削らない。

 

 そして、花鳥の言葉を余計に乗せない。

 

 難しい。

 

 かなり難しい。

 

 だが、悪くない難しさだった。

 

 湊は、鞄の中のノートを思い出した。

 

 見てもらえることに甘えない。

 

 けれど、見てもらえたことは忘れない。

 

 その一文を、明日の朝もう一度見るだろう。

 

 そして、菓子を作る。

 

 誰か一人のためだけではなく。

 

 評価されるためだけでもなく。

 

 紅茶のそばに、少しだけ甘さがほしい時。

 

 その時間に置けるものを作る。

 

 そこに、花鳥玲愛の目があるなら。

 

 それは、湊にとって十分特別だった。

 

 相沢湊は、特別扱いを求めない。

 

 ただ、明日もまた見てもらえるように、皿の上と、その外側を整えることにした。

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