花鳥玲愛は、甘さを認めない   作:エーアイ

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第2話 花鳥玲愛は、新人パティシエの菓子を認めない

 

 朝のキュリオは、夜よりも静かだ。

 

 客席にはまだ誰もいない。

 

 磨かれたテーブル。

 

 伏せられたカップ。

 

 開店前の照明は、店内の輪郭だけを柔らかく浮かび上がらせている。

 

 この時間が、花鳥玲愛は嫌いではなかった。

 

 客が来る前。

 

 誰かの視線に晒される前。

 

 店が店として立ち上がる、ほんの少し前の時間。

 

 だからこそ、乱れはすぐに分かる。

 

「森崎さん」

 

「はい」

 

 ホールの奥でカップを確認していた森崎乃々香が、少し背筋を伸ばした。

 

「窓際の二名席、椅子の角度が少し外側に開いています」

 

「あ、すみません。すぐ直します」

 

「謝罪より先に、見直してください」

 

「はい」

 

 森崎は慌てすぎず、けれど素早く椅子の位置を直した。

 

 動きはまだ若い。

 

 ただ、言われたことを素直に受け取るだけの耳はある。

 

 それは悪くない。

 

 悪くないが、まだ足りない。

 

 玲愛は、客席全体を見渡した。

 

 カップの向き。

 

 席の間隔。

 

 予約席の余白。

 

 朝のキュリオは、まだ始まっていない。

 

 だが、始まる前から、店の乱れは決まる。

 

 その時だった。

 

「……厨房が、甘いわね」

 

 玲愛は、ホールの入口で足を止めた。

 

 甘い。

 

 砂糖の匂い。

 

 バターの匂い。

 

 焼き上がった生地の匂い。

 

 それ自体は、喫茶店にあっておかしいものではない。

 

 だが、違う。

 

 今朝の匂いは、いつものキュリオのものではなかった。

 

 角が丸い。

 

 温度が近い。

 

 そして、少しだけ、主張が強い。

 

 昨日、客席に座っていた青年の顔が、ふと脳裏に浮かんだ。

 

 相沢湊。

 

 明日から厨房に入ると言っていた、新人パティシエ。

 

 昨日は客として来店し、定番のタルトと紅茶を注文していた。

 

 客としての姿勢は悪くなかった。

 

 店を見ていた。

 

 皿だけではなく、席の配置、紅茶の温度、客席の空気まで見ようとしていた。

 

 ただし。

 

 見ることと、理解することは違う。

 

「おはようございます、花鳥さん」

 

 厨房側から声がした。

 

 店長の有坂直人だった。

 

 柔らかい物腰。

 

 人当たりの良い声。

 

 だが、玲愛はその声を聞いた時点で、嫌な予感を覚えた。

 

 有坂がこの声を出す時は、大抵、こちらに相談する前に何かを決めている。

 

「おはようございます」

 

 玲愛は一礼した。

 

 声は崩さない。

 

 姿勢も崩さない。

 

 キュリオのチーフウェイトレスとして、朝一番の挨拶を乱す理由はない。

 

「本日から入る相沢さんの件ですね」

 

「話が早くて助かるよ」

 

「昨日、本人も来店していましたので」

 

「どうだった?」

 

「客としては、悪くありませんでした」

 

「客としては、か」

 

「はい」

 

 有坂は苦笑した。

 

 玲愛は表情を変えなかった。

 

 新人が来る。

 

 それ自体は珍しいことではない。

 

 問題は、配置だ。

 

 ホールならば教育できる。

 

 接客、所作、言葉遣い、客との距離、店の空気の読み方。

 

 覚えることは多いが、指導の手順はある。

 

 しかし、厨房。

 

 しかもパティシエ。

 

 客席に直接出ないからといって、軽く扱ってよい場所ではない。

 

 むしろ逆だ。

 

 客に出る皿は、厨房で決まる。

 

 ホールがどれだけ整えても、出てきた菓子が店の品格に届いていなければ、客はそれをキュリオの仕事として見る。

 

 客は、厨房の事情など知らない。

 

 知る必要もない。

 

 だからこそ、こちらも見る。

 

「それで」

 

 玲愛は厨房の奥へ視線を向けた。

 

「相沢さんは?」

 

「三枝さんのところで、試作用のタルトを仕上げているよ」

 

「初日から試作ですか」

 

「採用試験で出したものを、もう一度作ってもらってる。三枝さんにも見てもらっているけど、君にも見てもらいたくて」

 

「私はホール担当です」

 

「でも、客に出すものを一番厳しく見るのは君だろう?」

 

 その言い方は、卑怯だった。

 

 玲愛は一瞬だけ沈黙した。

 

 否定できない。

 

 客席に出る以上、皿の上のものも店の言葉になる。

 

 ケーキ一つ、焼き菓子一つ、皿の余白一つ。

 

 すべてが店の顔になる。

 

 それを見ないチーフウェイトレスなど、キュリオには必要ない。

 

「……確認します」

 

「ありがとう」

 

「採用を認めるとは言っていません」

 

「もう採用はしてるよ」

 

「では、配置継続の可否を確認します」

 

「厳しいなあ」

 

「当然です」

 

 厨房の奥から、金属音がした。

 

 トングが置かれる音。

 

 皿が台に置かれる音。

 

 そして、若い男の声。

 

「三枝さん、仕上がりました」

 

 声だけで、玲愛は一つ判断した。

 

 緊張している。

 

 だが、萎縮はしていない。

 

 声の芯が残っている。

 

 昨日、会計の時に名乗った時もそうだった。

 

 客としては控えめだったが、目は逃げなかった。

 

 今日も同じだ。

 

 ただし、それは接客の評価ではない。

 

 厨房の人間として、どこまで通用するかは別だ。

 

 厨房長の三枝誠司が、奥から皿を持って現れた。

 

 三十代半ばほどの、穏やかな雰囲気の男だった。

 

 だが、作業台を見る目は柔らかいだけではない。

 

 焼き色の差も、仕上げの揺れも、軽く見逃す人ではない。

 

 三枝の後ろから、相沢湊が姿を見せた。

 

 昨日とは違う。

 

 今日は客席側の服ではなく、白いコックコートを着ている。

 

 新しい。

 

 袖口に不慣れさがある。

 

 だが、手元は綺麗だった。

 

 爪は短く整えられている。

 

 無駄な装飾もない。

 

 髪もきちんとまとめている。

 

 最低限の意識はある。

 

 玲愛は、そこで評価を止めた。

 

 最低限は最低限でしかない。

 

「おはようございます、花鳥さん」

 

 相沢は、まっすぐ頭を下げた。

 

「本日より厨房に入ります。改めて、よろしくお願いします」

 

「おはようございます、相沢さん」

 

 玲愛も一礼を返した。

 

「昨日はお客様として。本日からは厨房のスタッフとして、よろしくお願いします」

 

「はい」

 

「昨日召し上がったものは、覚えていますか」

 

 相沢の表情が、わずかに引き締まった。

 

「覚えています」

 

「味だけではなく?」

 

「はい。味だけではなく、です」

 

 返事は早かった。

 

 そこは良い。

 

 昨日の言葉を、ただ聞き流してはいない。

 

 だが、覚えていることと、使えることは違う。

 

「では、今日はあなたの皿を見ます」

 

「はい」

 

 有坂が横で、少し楽しそうにしていた。

 

 玲愛は見なかった。

 

 余計な反応を拾う必要はない。

 

 三枝が皿を作業台に置いた。

 

「花鳥さん、これが採用試験の時に出したものをベースにしたタルト」

 

「三枝さんの評価は?」

 

「技術はある。香りの作り方も悪くない。ただ、商品としてそのまま出せるかは別かな」

 

「同感になりそうですね」

 

「まだ食べてないのに厳しいな」

 

 三枝は苦笑したが、否定はしなかった。

 

 相沢が少しだけ背筋を伸ばす。

 

「こちらです」

 

 白い皿の中央に、小さなタルトが置かれていた。

 

 焼き色は悪くない。

 

 縁の立ち上がりも崩れていない。

 

 クリームの絞りは、わずかに力が入りすぎている。

 

 果物の配置は綺麗だが、整いすぎている。

 

 客に楽しませるためというより、自分の技術を見せるための配置。

 

 新人にありがちな癖だった。

 

「試作としては、形になっていますね」

 

「ありがとうございます」

 

「褒めてはいません」

 

「はい」

 

 返事が早い。

 

 言葉を飾らない。

 

 だが、少しだけ、目が揺れた。

 

 自信があるのだろう。

 

 そして、否定される覚悟もある。

 

 面倒なタイプだ。

 

 折れる新人よりはましだが、折れない新人は別の意味で手がかかる。

 

「花鳥さんも食べてみて」

 

 有坂が言った。

 

「開店準備があります」

 

「五分だけ」

 

「三分です」

 

「じゃあ三分で」

 

 有坂はあっさり引いた。

 

 そのやり取りを聞いて、三枝が小さく笑った。

 

 玲愛は、小さく息を吐いてフォークを取った。

 

 相沢の視線がこちらに向く。

 

 見なくても分かった。

 

 作った者の視線。

 

 自分の菓子が、誰かの口に入る瞬間を見ている目。

 

 昨日、客席でキュリオのタルトを見ていた時の彼とは違う。

 

 あの時の彼は、見ていた。

 

 今日は、見られることを求めている。

 

 期待。

 

 不安。

 

 評価への渇き。

 

 そういうものが混ざっている。

 

 皿の上ではなく、食べる側に重さを預けてくる目。

 

 菓子を出す者が、それをしてはいけない。

 

 客に責任を渡してはいけない。

 

 玲愛はタルトを小さく切った。

 

 崩れ方を見る。

 

 生地はやや硬い。

 

 フォークの入りに少し抵抗がある。

 

 クリームとの一体感は、まだ甘い。

 

 口に運ぶ。

 

 甘さが広がった。

 

 最初に来るのは、バターの香り。

 

 次に果物の酸味。

 

 クリームは重すぎない。

 

 後味は思ったより軽い。

 

 悪くない。

 

 悪くないが。

 

 玲愛はフォークを置いた。

 

「店に出せるものではありません」

 

 厨房の空気が、わずかに止まった。

 

 相沢は黙っていた。

 

 有坂も、三枝も、何も言わなかった。

 

 玲愛は皿を見たまま続けた。

 

「味は悪くありません。焼きも大きくは外していない。香りの立て方も理解しています。ですが、商品として不安定です」

 

「不安定、ですか」

 

「生地が主張しすぎています。果物の酸味に頼っています。クリームは軽く仕上げていますが、全体をまとめるほどの役割を持っていません。見た目は整っていますが、視線誘導が作為的です」

 

 玲愛は一拍置いた。

 

「客に楽しませるためではなく、作り手が評価されるための皿に見えます」

 

 相沢の目が、はっきり揺れた。

 

 刺さった。

 

 それは分かった。

 

 強すぎたかもしれない。

 

 だが、初日に曖昧な評価をする方が不誠実だ。

 

 昨日、彼は客としてキュリオの皿を食べた。

 

 その上で今日、この皿を出している。

 

 なら、こちらも曖昧にはできない。

 

 相沢は、皿を見ていた。

 

 悔しそうではあった。

 

 だが、反発はしなかった。

 

「……はい」

 

 彼は頷いた。

 

「分かりました」

 

「分かりました、で終わるのですか」

 

「いえ」

 

 相沢は顔を上げた。

 

「どこを直すべきか、もう少し聞かせていただけますか」

 

 玲愛は、少しだけ目を細めた。

 

 有坂が笑いそうになっている気配がした。

 

 三枝も、横で静かに見ている。

 

 余計な反応だ。

 

「今、言いました」

 

「はい。でも、花鳥さんは客席から見た時の皿の話をされています。厨房側で考えていた評価と違いました。そこを知りたいです」

 

「昨日、客席に座ったはずですが」

 

「はい」

 

「それでも、まだ厨房側の皿になっています」

 

 相沢は、言葉を止めた。

 

 昨日の経験を責めたいわけではない。

 

 ただ、事実として、彼の皿はまだ客席に届いていない。

 

 玲愛は続けた。

 

「見ることと、作ることは違います。昨日あなたが覚えたものを、この皿はまだ使えていません」

 

「……はい」

 

「あなたは、自分の菓子を否定されたのですよ」

 

「はい」

 

「悔しくないのですか」

 

「悔しいです」

 

 即答だった。

 

 相沢は皿を見た。

 

「でも、悔しいだけなら、一人で作っていればいいので」

 

 玲愛は言葉を止めた。

 

「店で出すなら、店で出せるものにしないといけないんだと思います」

 

 その言葉は、正しい。

 

 正しいが、新人が初日にすぐ言えるほど軽い言葉でもない。

 

 昨日、客として過ごした時間が、彼の中に少しは残っているのだろう。

 

 味だけではない。

 

 その言葉を、少なくとも忘れてはいない。

 

 玲愛は相沢を見た。

 

 彼の表情は、まだ硬い。

 

 悔しさもある。

 

 自尊心もある。

 

 納得しきっていない部分もある。

 

 けれど、聞く姿勢は崩していない。

 

 そこだけは、評価してもいい。

 

 評価してもいいが。

 

「……まず、生地です」

 

 玲愛は皿を指した。

 

「食感に自信があるのでしょうが、今のままでは最初の一口で印象を奪いすぎます。キュリオの客は、あなたの技術を食べに来るのではありません。ここで過ごす時間の中で、菓子を食べるのです」

 

「時間の中で……」

 

「昨日、客席で食べたタルトを思い出してください」

 

 相沢の表情が変わった。

 

「はい」

 

「あの皿は、強い香りで客を振り向かせるためのものではありません。紅茶と合わせ、席の空気と合わせ、会話の邪魔をせず、食べ終えた後の時間まで含めて成立する皿です」

 

「……はい」

 

「あなたの皿は、皿単体で完結させすぎています」

 

 玲愛は、タルトの断面を見た。

 

「紅茶と合わせた時、会話の途中で口にした時、客が一人で休んでいる時。そのどこに置かれる菓子なのかを考えるべきです」

 

「はい」

 

「果物の酸味も同じです。今は分かりやすく逃げています」

 

「逃げてますか」

 

「逃げています」

 

 相沢の眉が少しだけ動いた。

 

 そこは刺さったらしい。

 

「甘さを重くしないために酸味を使うのは間違いではありません。ですが、今の使い方は客に説明しすぎています。甘くありません、重くありません、爽やかです、と皿が言いすぎている」

 

「……なるほど」

 

「納得しましたか」

 

「半分くらいです」

 

 玲愛は相沢を見た。

 

 相沢は慌てて背筋を伸ばした。

 

「すみません。でも、全部分かったふりをする方が失礼だと思いました」

 

「それはそうですね」

 

 有坂が今度こそ笑った。

 

 玲愛は有坂を見た。

 

 有坂はすぐに咳払いをした。

 

 三枝は、笑わずに相沢を見ていた。

 

 そこは厨房長らしい。

 

 面白がってはいるのだろうが、今は茶化す場面ではないと分かっている。

 

「では、半分は持ち帰りなさい」

 

「はい」

 

「残り半分は、今日の仕込みで証明してください」

 

「今日、ですか」

 

「初日だから待ってもらえると思っているのですか」

 

「思っていません」

 

「なら結構です」

 

 玲愛はフォークを置いた。

 

 皿には、まだ半分以上タルトが残っている。

 

 もう一口食べる理由はない。

 

 評価は終わった。

 

 終わったはずだった。

 

「花鳥さん」

 

 相沢が言った。

 

「何ですか」

 

「もう一つ、聞いてもいいですか」

 

「内容によります」

 

「今のタルトで、良かったところはありましたか」

 

 玲愛は即答しようとした。

 

 味は悪くない。

 

 焼きも大きくは外していない。

 

 香りも立っている。

 

 すでに言った。

 

 それで十分のはずだった。

 

 だが、相沢の問いは、そういう意味ではなかった。

 

 良かったところ。

 

 店に出せるかどうかではなく。

 

 商品として正しいかどうかでもなく。

 

 この菓子の中に、残すべきものはあったか。

 

 そう聞いている。

 

 面倒な質問だった。

 

 新人のくせに、面倒なところを聞く。

 

 昨日、客席にいた時もそうだった。

 

 彼は、皿の上だけを見ているようで、最後には別のものを見ようとしていた。

 

 今日も同じだ。

 

 否定されても、残すべきものを探している。

 

 玲愛は、皿を見た。

 

 タルトの断面。

 

 少し硬い生地。

 

 整いすぎた果物。

 

 説明しすぎる酸味。

 

 そして、口に残っているバターの香り。

 

 完璧ではない。

 

 商品としては未完成。

 

 だが。

 

 食べた後、すぐに消えない。

 

 ほんの少しだけ、記憶に残る。

 

 困った菓子だった。

 

「……香りです」

 

 玲愛は言った。

 

「最初の香りだけは、悪くありませんでした」

 

 相沢の顔が、ほんの少し明るくなった。

 

 玲愛はすぐに続けた。

 

「ただし、悪くないというだけです。店に出せるとは言っていません」

 

「はい」

 

「勘違いしないでください」

 

「しません」

 

「本当に?」

 

「……少しだけ、しました」

 

「しないでください」

 

「はい」

 

 有坂が横で肩を震わせていた。

 

 玲愛は、もう一度有坂を見た。

 

 今度は、明確に。

 

 有坂は咳払いをした。

 

「というわけで、相沢くん。花鳥さんのお墨付きも出たことだし」

 

「出していません」

 

「採用継続ということで」

 

「私は配置継続の可否を確認すると言いました。採用を決める権限は店長にあります」

 

「つまり反対はしない?」

 

 玲愛は沈黙した。

 

 反対する理由はある。

 

 現場経験が足りない。

 

 商品としての安定感がない。

 

 自分の菓子を見せたい気持ちが強い。

 

 ホールとの連携も未知数。

 

 キュリオの水準に届くまで、時間がかかる。

 

 昨日、客としてキュリオを見た。

 

 今日、自分の皿を出した。

 

 それでもまだ足りない。

 

 だが。

 

 聞く耳がある。

 

 悔しがれる。

 

 分かったふりをしない。

 

 そして、香りだけは悪くない。

 

 それだけで十分とは言わない。

 

 だが、初日に切り捨てる理由としては足りない。

 

「一週間です」

 

 玲愛は言った。

 

「一週間、厨房での動きを見ます。その間、客に出す新作には関わらせないでください。既存商品の補助、仕込み、皿出し、ホールとの連携確認からです」

 

「厳しいね」

 

 有坂が言う。

 

「当然です」

 

 玲愛は三枝へ視線を向けた。

 

「三枝さん。厨房側では可能ですか」

 

「問題ないよ。相沢くんには、まず既存商品の流れを見てもらう。新作はその後でいい」

 

「では、その形でお願いします」

 

「了解」

 

 三枝は相沢に向き直った。

 

「相沢くん。聞いた通り。まずは厨房の動きと、ホールに出る皿の流れを覚えること。君の菓子は、その後」

 

「はい」

 

 相沢は、深く頷いた。

 

 玲愛は相沢に向き直った。

 

「相沢さん」

 

「はい」

 

「あなたの菓子は、まだキュリオの商品ではありません」

 

「はい」

 

「ですが、あなたの仕事まで否定したわけではありません」

 

 相沢が、少しだけ息を止めた。

 

 その反応を見て、玲愛は自分の言葉が少し余計だったことに気づいた。

 

 余計だ。

 

 新人にそこまで言う必要はない。

 

 だが、一度出した言葉を戻す方がみっともない。

 

「勘違いしないでください」

 

 だから、玲愛はいつもの言葉で蓋をした。

 

「私は、店に不要なものを置きたくないだけです」

 

「はい」

 

「置く価値があるかどうかは、これから判断します」

 

「分かりました」

 

 相沢は、深く頭を下げた。

 

「よろしくお願いします、花鳥さん」

 

「こちらこそ」

 

 玲愛も一礼した。

 

 そこで会話は終わった。

 

 終わらせた。

 

 開店準備がある。

 

 カップの確認。

 

 予約席の配置。

 

 スタッフへの指示。

 

 今日もキュリオは開く。

 

 新人パティシエ一人に構っている時間などない。

 

 玲愛はホールへ戻った。

 

「森崎さん」

 

「はい」

 

「開店前の最終確認をします。窓際から順番に」

 

「はい」

 

 森崎がすぐに動く。

 

 その背後で、厨房から金属音がした。

 

 相沢湊が、次の仕込みに入った音だった。

 

 玲愛は、歩きながら、指先に残るフォークの感触を思い出す。

 

 少し硬いタルト生地。

 

 強すぎる酸味。

 

 整いすぎた果物。

 

 未完成な皿。

 

 店に出せるものではない。

 

 認める必要はない。

 

 認める理由もない。

 

 ただ。

 

 開店前のキュリオに残った、あの甘い匂いだけが。

 

 昨日の客席で彼が飲んでいた紅茶の香りと、少しだけ重なった。

 

 昨日は、彼がこちらの店を見ていた。

 

 今日は、こちらが彼の菓子を見た。

 

 どちらも、まだ足りない。

 

 けれど、足りないと分かるだけのものはある。

 

「……未熟ね」

 

 誰に向けた言葉なのかは、考えなかった。

 

「花鳥さん?」

 

 森崎が首を傾げる。

 

「何でもありません。カップの向きが少しずれています」

 

「あ、はい」

 

「開店前に直せるものは、開店前に直してください」

 

「はい」

 

 玲愛は背筋を伸ばした。

 

 今日も、店が始まる。

 

 花鳥玲愛は、新人パティシエの菓子を認めない。

 

 少なくとも、今日のところは。

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