第19話 有坂直人は、相沢湊の歓迎会を提案する
相沢湊の焼き菓子は、キュリオの中で少しずつ場所を持ち始めていた。
まだ大きく看板に出すほどではない。
定番商品と呼ぶには、もう少し様子を見たい。
けれど、限定提供という言葉で毎回説明する段階は、少し過ぎている。
午後の紅茶と一緒に、少しだけ甘さがほしい時に。
その案内文も、ホールの中で馴染み始めている。
森崎乃々香は、以前より自然に客へ説明できるようになった。
三枝誠司は、焼き色の揺れをかなり抑えられるようになった。
相沢湊は、皿の上だけでなく、皿の外側を見ようとしている。
そして花鳥玲愛は。
相変わらず、特別扱いではないと言いながら、誰より細かく見ている。
有坂直人は、閉店後のカウンターで提供記録を確認しながら、小さく笑った。
悪くない。
店として、とても悪くない状態だった。
厨房では、三枝が湊に焼成記録の確認をしている。
ホール側では、玲愛が森崎に翌日の案内カードの位置を指示している。
店の音が、以前より少しだけまとまっている。
新しい人間が入ると、店の音は変わる。
変わりすぎれば乱れる。
変わらなければ、入った意味がない。
湊の音は、最初は少し浮いていた。
けれど今は、キュリオの音の中に混ざり始めている。
有坂は帳票を閉じた。
「そういえば」
その一言に、近くにいた三枝が顔を上げた。
「どうしたの?」
「相沢くんの歓迎会を、ちゃんとしてなかったね」
厨房の入口近くで、湊が固まった。
「え?」
森崎が、ぱっと顔を上げた。
「歓迎会ですか?」
玲愛だけが、即座に眉を寄せた。
「今さらではありませんか」
早い。
とても早い反応だった。
有坂は、思わず少し笑った。
「うん。今さらと言えば今さらだね」
「相沢さんが入ってから、もうしばらく経っています」
「そうだね」
「業務にも、ある程度は慣れています」
「うん」
「通常メニュー候補の調整も進んでいます」
「だからこそ、そろそろかなと思って」
玲愛は黙った。
有坂は続けた。
「入ってすぐだと、相沢くんも落ち着かなかっただろうし。菓子もまだ商品になる前だった。今なら、店の一員として歓迎するにはちょうどいい」
三枝が頷いた。
「やるなら今がいいかもね。菓子も落ち着いてきたし」
「三枝さんまで」
玲愛が、少しだけ責めるように三枝を見た。
三枝は、穏やかに肩をすくめた。
「いや、実際そうだよ。最初の頃にやっても、相沢くんはたぶん、歓迎されてる場合じゃないって顔をしていたと思う」
湊は、否定できない顔をした。
「……たぶん、していたと思います」
「ほら」
三枝は笑った。
「今なら、少しは受け取れるでしょ?」
「はい。たぶん」
「たぶん?」
玲愛がすぐに反応した。
湊は背筋を伸ばした。
「受け取れるようにします」
「歓迎会を課題のように扱わないでください」
「すみません」
「謝罪ではなく、自然に参加してください」
「難しいです」
「では、今後の課題です」
いつものやり取りだった。
森崎が小さく笑いをこらえている。
有坂は、それを見ながら思った。
やはり、今がちょうどいい。
このやり取りが自然に出るようになったなら、歓迎会をしても店の流れは乱れない。
「いいですね、歓迎会」
森崎が素直に言った。
「相沢さん、ちゃんと歓迎されるべきです」
「森崎さん」
「だって、今まで普通に働いていましたけど、歓迎会してなかったのは本当ですし」
「普通に働いていたから、必要性が薄れていたとも言えます」
玲愛は冷静に返した。
「ですが、区切りとしては必要かもしれません」
森崎は、そこで少し嬉しそうに笑った。
「じゃあ、やりましょう」
「森崎さん、まだ何も決まっていません」
「はい。でも、やる方向ですよね」
「まだ検討段階です」
玲愛はそう言ったが、すでに頭の中で段取りを組み始めている顔だった。
有坂は、それを見逃さなかった。
「もちろん、店全体で大きくやるわけじゃないよ」
有坂は、先にそう付け加えた。
「シフトもあるし、全スタッフを一度に動かすと翌日の営業に響くからね。今回は、相沢くんの菓子に直接関わってきたメンバーと、勤務後に無理なく参加できる人たちで、小さくやろうと思う」
湊は少しだけ息を吐いた。
店全体。
全スタッフ。
そう言われて、ようやく思い出したように、自分が大きな店の中にいることを実感する。
キュリオには、ここにいる人たち以外にもスタッフがいる。
同じ時間に働いている人もいれば、シフトの関係で今日は顔を合わせない人もいる。
その全員を、自分のために動かすわけではない。
それは少し、ありがたかった。
玲愛はすぐに確認した。
「参加対象を明確にしてください。全スタッフ対象かどうかで、調整範囲が変わります」
「うん。今回は関係者中心で。ほかのスタッフには、僕から共有しておくよ」
「当日勤務者のうち、無理なく参加できる方も確認しますか」
「そうだね。ただ、強制にはしない。あくまで小さな歓迎の席にしよう」
「承知しました」
玲愛は頷いた。
これで、仕事の形が見えた。
有坂は、そのタイミングで言った。
「じゃあ、花鳥さん」
「はい」
「幹事、お願いしていいかな」
玲愛の動きが止まった。
森崎は目を輝かせた。
三枝は「ああ、そうなるよね」という顔をした。
湊は、申し訳なさそうな顔をした。
玲愛だけが、静かに有坂を見た。
「なぜ、私なのですか」
「花鳥さんが一番、参加対象者の予定と翌日の営業を見ているから」
有坂は即答した。
正論だった。
自分でも、かなり正論だと思う。
「シフトの兼ね合い。翌日の予約。閉店後に無理のない時間。当日参加するホールスタッフの帰宅時間。三枝さんたち厨房の仕込みへの影響。相沢くんの翌朝の作業量。全部見るなら、花鳥さんが一番早い」
玲愛は、反論しなかった。
反論できない顔だった。
有坂はさらに続ける。
「もちろん、店長として最終確認はするよ。でも、実務の調整は花鳥さんに任せたい」
「……店長命令ですか」
「お願いかな」
「お願いの形をした指示に聞こえます」
「そう聞こえたなら、花鳥さんの判断力が正確なんだと思う」
「褒めても変わりません」
「うん。変えなくていいよ」
有坂は笑った。
「だから、お願い」
玲愛は、しばらく黙った。
湊が口を開きかける。
「花鳥さん、もし負担でしたら」
「相沢さん」
「はい」
「主役が幹事に気を遣わないでください」
「……はい」
「歓迎される側は、余計なことを言わず、必要な連絡に答えてください」
「分かりました」
湊は素直に引いた。
その引き方も、以前より上手くなっている。
有坂は少しだけ目を細めた。
いい関係になってきている。
本人たちが認めるかは、別として。
玲愛は、手元の予約表を閉じた。
「業務上必要な行事であれば、調整します」
声はいつも通りだった。
背筋も伸びている。
ホールチーフの顔。
店の行事を引き受ける顔。
私情など一切混ざっていない、という顔。
森崎が嬉しそうに言った。
「花鳥さんが幹事なら安心ですね」
「安心する前に、参加可否を確認してください」
「はい」
「三枝さん、厨房側の予定をまとめていただけますか」
「了解」
「店長、日程候補を三つ出します。翌日の予約状況と照らし合わせて、最終判断をお願いします」
「うん。お願い」
「参加対象者については、店長からの共有後に再確認します」
「そうしてくれると助かる」
「相沢さん」
「はい」
「食べられないもの、苦手なもの、翌日の仕込みに影響するものがあれば、今日中に提出してください」
「今日中ですか」
「幹事に余計な手戻りを発生させないでください」
「分かりました」
「本当に?」
「努力します」
「実行してください」
「はい」
森崎が少し笑った。
三枝も笑っている。
有坂は、帳票をまとめながら言った。
「じゃあ、相沢くんの歓迎会、正式に進めるということで」
湊は少し照れたように頭を下げた。
「ありがとうございます」
「まだ店も場所も決まっていません」
玲愛が即座に言う。
「お礼は、終わってからにしてください」
「はい」
「ただし、参加する意思表示としては受け取ります」
「お願いします」
湊は、玲愛に向かって頭を下げた。
玲愛は一瞬だけ視線を外した。
「幹事として必要な範囲で調整するだけです」
「はい」
「特別な対応ではありません」
「分かっています」
「本当に?」
「はい」
湊は真面目に頷いた。
玲愛は、少しだけ不満そうに見えた。
有坂は、そこには触れないことにした。
触れない方がいいものもある。
店長として。
大人として。
そして、少し面白いものを長く眺めるためにも。
その日の閉店後、玲愛はいつもより少し早く店を出た。
歓迎会の候補日を洗い出すためだった。
もちろん、業務上必要な確認である。
有坂は、それを見送りながら三枝に言った。
「花鳥さん、きっちりやってくれそうだね」
「きっちりやりすぎると思うよ」
三枝は笑った。
「相沢くんの歓迎会だし」
「相沢くんの、というより店の行事だよ」
「有坂さんまでそれを言うんだ」
「花鳥さんに聞かれたらそう言うよ」
「大人だね」
「店長だから」
二人は軽く笑った。
湊は、厨房の奥でノートを閉じていた。
森崎は、明日のホール表をまとめながら、少し楽しそうにしている。
店の中に、歓迎会という言葉が一つ増えた。
それだけで、空気が少し変わる。
キュリオ全体を動かす大きな行事ではない。
全員が集まる公式な宴会でもない。
けれど、湊の菓子に直接関わってきた人たちが、店の時間を乱さない範囲で集まる。
それは、小さいが、きちんとした歓迎だった。
有坂は思う。
相沢湊は、ようやく歓迎される。
入ったばかりの新人としてではなく。
皿の上だけを見ていた作り手としてでもなく。
キュリオの時間を、少しずつ覚え始めたスタッフとして。
だから、今でよかったのだ。
たぶん。
そして、その幹事を花鳥玲愛がする。
有坂は、もう一度小さく笑った。
きっと、かなり丁寧な歓迎会になる。
丁寧すぎるくらいに。
玲愛は家に着くと、いつも通り靴を揃えた。
手を洗う。
髪をほどく。
鞄を置く。
そこまでは、いつもと同じだった。
だが、今日は鞄から手帳を取り出したところで、手が止まった。
まだ、何も決めていない。
候補日はある。
条件も分かっている。
有坂から任された理由も理解している。
参加対象者の予定。
翌日の営業。
厨房側の仕込み。
当日参加するホールスタッフの帰宅時間。
相沢湊の翌朝の作業量。
見なければならないものは多い。
多いが、できない量ではない。
幹事として必要な作業である。
だから、問題はない。
ないはずだった。
「……どうしよう」
誰も聞いていない部屋で、玲愛は小さく呟いた。
職場なら、絶対に出さない声だった。
どうしよう、などと言っている場合ではない。
幹事を引き受けた以上、やることは決まっている。
日程を整理する。
参加対象を確認する。
店の候補を出す。
予算を見直す。
翌日の営業に影響しない範囲で調整する。
歓迎会を、店の行事として成立させる。
それだけだ。
それだけなのに。
「……相沢さんの歓迎会、なのよね」
声に出した瞬間、少しだけ顔が熱くなった。
玲愛はすぐに背筋を伸ばした。
「違うわ。店の行事よ」
自分に言う。
店の行事。
スタッフ行事。
業務上必要な区切り。
新しく入ったスタッフが、店の中で落ち着いた段階で行う確認。
そう。
確認だ。
歓迎会も、ある意味では確認である。
相沢湊が、キュリオの中でどのように受け入れられているか。
スタッフ同士の距離に問題がないか。
翌日の営業に影響しないか。
主役が無理に気を遣いすぎないか。
店全体の空気が乱れないか。
それを、幹事として見る。
ホールチーフとして整える。
それだけだ。
玲愛は手帳を開いた。
第一候補。
第二候補。
第三候補。
日付だけを書き込む。
その下に、確認項目を並べる。
予約状況。
仕込み負荷。
参加可否。
予算。
帰宅時間。
主役の負担。
最後の項目を書いたところで、玲愛はペンを止めた。
主役の負担。
必要な項目である。
歓迎会なのだから、主役が疲れすぎては意味がない。
それだけだ。
それだけのはずなのに、文字が少しだけ目に残った。
「……別に、相沢さんを気にしているわけじゃないわ」
言ってから、すぐに訂正する。
「違う。気にしているのは幹事としてよ」
訂正になっているかは分からない。
だが、今はそういうことにする。
玲愛は、手帳を閉じかけた。
けれど、閉じなかった。
明日、店の候補を比較する。
騒がしすぎる店は避ける。
翌日に匂いが残る料理も避ける。
森崎が無理なく参加できる予算にする。
三枝が料理に意識を持っていかれすぎない店を選ぶ。
有坂が場を回しやすい席を確保する。
相沢湊が、過度に主役扱いされすぎない流れにする。
そこまで考えて、玲愛は小さく息を吐いた。
「……考えることが多すぎるのよ」
素の声が漏れた。
だが、その声に嫌悪はなかった。
困っている。
少しだけ焦っている。
けれど、やりたくないわけではない。
それが一番困る。
玲愛はペンを置いた。
「ちゃんとやればいいだけよ」
自分に言い聞かせる。
いつも通り。
店の空気を乱さないように。
参加する人たちが無理なく過ごせるように。
そして、相沢湊が。
歓迎されたことを、ちゃんと受け取れるように。
そこまで考えて、玲愛はすぐに手帳を閉じた。
「違うわ。参加者全員のためよ」
誰も聞いていない部屋で、もう一度言う。
言い訳ではない。
業務上の整理である。
明日、候補日と候補店を出す。
湊には苦手なものを確認する。
森崎には参加可否を聞く。
三枝には厨房側の予定を詰めてもらう。
有坂には最終判断をもらう。
店長から共有される参加対象も確認する。
やることは多い。
だが、できる。
玲愛は照明を少し落とした。
明日も店は始まる。
歓迎会の準備も、通常業務も、どちらも乱さない。
それが花鳥玲愛の仕事だ。
ただ。
寝る前、玲愛はもう一度だけ手帳を開いた。
日程候補の横に書いた「主役の負担」という文字を見る。
それを少しだけなぞり、すぐに手を離した。
「……まあ、必要項目でしょう」
そう呟いて、今度こそ手帳を閉じた。
相沢湊の歓迎会。
業務上必要な行事。
店の区切り。
特別扱いではない。
そういうことにして。
玲愛は、明日の確認事項を頭の中で並べながら、ゆっくり目を閉じた。