歓迎会の準備が、少しずつ進んでいた。
相沢湊は、厨房の作業台の前で焼成記録をまとめながら、ホール側の声を聞いていた。
花鳥玲愛の声。
有坂直人の返事。
森崎乃々香の明るい声。
時々、三枝誠司が厨房側から呼ばれる声。
候補日。
翌日の予約状況。
仕込みの量。
当日参加できるスタッフの確認。
ホールスタッフの帰宅時間。
予算。
店の場所。
席の配置。
料理の内容。
匂いが翌日に残るかどうか。
聞こえてくる言葉は、どれも歓迎会の準備に関するものだった。
湊は、最初のうち、それを少し他人事のように聞いていた。
自分の歓迎会。
その言葉が、まだ少し馴染まなかった。
キュリオに来て、もうしばらく経つ。
最初は皿の上しか見えていなかった。
花鳥に何度も切られた。
ホールの動きを見た。
森崎に運びやすさを聞いた。
三枝に焼成を止められた。
有坂に店全体の流れを見せられた。
少しずつ、キュリオの商品というものを考えるようになった。
その今になって、歓迎会が行われる。
遅いようで、たぶん今でよかったのだと思う。
最初の頃なら、湊は歓迎されることを受け取れなかった。
認められたい気持ちばかりが先に出て、かえって皿に余計な力を入れていた気がする。
今でも十分に落ち着いているとは言えない。
だが、少なくとも、歓迎されることを仕事から逃げる理由にはしない。
そう思えるくらいにはなった。
「相沢くん」
三枝に呼ばれて、湊は顔を上げた。
「はい」
「手、止まってるよ」
「あ、すみません」
「歓迎会、気になる?」
湊は、手元のノートを見た。
焼成記録の途中で、ペンが止まっていた。
「気になります」
「正直でよろしい」
「でも、自分が何か言うと、花鳥さんの作業を増やしそうで」
「まあ、増えるだろうね」
三枝はあっさり言った。
「花鳥さんは、幹事としてかなり細かく見てるから」
「はい」
湊は頷いた。
細かい。
その言葉では足りないくらいだった。
候補日。
翌日の仕込み。
森崎を含む若いスタッフの予算感。
参加予定者の帰宅経路。
当日参加できるスタッフが増えた場合の席調整。
三枝が料理に意識を持っていかれすぎない店。
有坂が場を回しやすい席。
湊が主役として過度にいじられすぎない導線。
苦手な料理。
匂いが翌日に残らないか。
帰り道。
席の位置。
時間。
終了の流れ。
花鳥は、きっとそれを全部「幹事として当然」と言う。
そして実際、それは正しい。
店の行事なのだから。
翌日の営業に影響してはいけないのだから。
参加する人たちが無理なく過ごせるようにするのは、幹事の仕事なのだから。
だが、それでも。
その準備に、花鳥がかなりの時間を使っていることも事実だった。
自分のために。
いや、店のために。
歓迎会のために。
その中に、自分がいる。
そう思うと、湊は落ち着かなかった。
「三枝さん」
「うん?」
「何か、お礼をしたいんです」
三枝は、少しだけ目を細めた。
「花鳥さんに?」
湊は、すぐには答えられなかった。
花鳥に。
そう言ってしまうと、何かが違う気がした。
間違ってはいない。
でも、それだけではいけない。
「幹事への礼です」
湊は、少し考えてから答えた。
三枝は笑った。
「うん。そういうことにしておこう」
「本当に、そうなんです」
「分かってるよ」
「花鳥さんのためだけには作りません」
湊は真面目に言った。
それは、強く意識していた。
以前、湊は踏み込みすぎた。
花鳥自身の好みを聞いた。
花鳥が認める甘さを知ろうとした。
彼女を理由に、菓子を作ろうとした。
その結果、言われた。
私を理由に菓子を作らないでください。
あの言葉は、今も残っている。
痛かった。
でも、必要な言葉だった。
だから今回は違う。
花鳥玲愛のためだけには作らない。
だが、幹事として店の時間を整えてくれている人が、作業の合間に少し息をつけるものなら。
菓子として、考える意味がある。
三枝は、湊の顔を見て、少しだけ穏やかに笑った。
「そこを分けられるようになったのは、成長だね」
「そうでしょうか」
「少なくとも、前なら分けられなかったと思うよ」
「はい」
湊は素直に頷いた。
「分けられませんでした」
「今は?」
「分けたいです」
「なら、作ってみたらいい」
三枝は作業台を軽く叩いた。
「ただし、営業用の仕込みを圧迫しないこと。歓迎会前に花鳥さんの仕事を増やす菓子にしないこと。あと、重すぎないこと」
「はい」
「礼を言いたい気持ちが強いと、菓子が重くなるからね」
湊は、少しだけ苦笑した。
「気をつけます」
「それで、どんな菓子にするの?」
湊はノートを開いた。
まだ何も書いていないページ。
そこに、考えていたことを少しずつ書き出す。
幹事作業の合間に食べられるもの。
紅茶と一緒に一口だけ。
甘すぎない。
香りが強すぎない。
考えごとの邪魔をしない。
手を汚さない。
皿を大きく使わない。
食べ終わった後に、少しだけ息が抜けるもの。
三枝が覗き込む。
「通常メニュー候補より、さらに小さい?」
「はい。一口半くらいです」
「一口じゃないんだ」
「一口だと、少し確認だけで終わる気がします。半分残るくらいの方が、紅茶と合わせた時の引きが見られると思って」
「なるほど」
「ただ、二口だと多い気がします」
「花鳥さん、考えながら食べるならそのくらいかもね」
湊は、少しだけ手を止めた。
三枝は笑った。
「言い方を変えるよ。幹事作業をしている人が、考えながら食べるならそのくらいかもね」
「お願いします」
「はいはい」
湊は材料を考えた。
バターは控えめ。
香りは丸く。
蜂蜜は少しだけ。
柑橘は入れるが、前に出しすぎない。
口に残る甘さは短く。
ただし、消えすぎると休憩にならない。
紅茶を邪魔しない。
でも、紅茶を飲んだ後に、少しだけ輪郭が戻る。
いつもの焼き菓子より、さらに静かに。
けれど、弱くしすぎない。
湊は試作を始めた。
生地を小さく取る。
形は丸すぎない。
平たすぎても、仕事中につまむには頼りない。
指で持った時に崩れないようにする。
粉の配分を変える。
焼き色は浅め。
ただし、香りが立たないほど浅くしない。
焼いている間、湊は何度も確認した。
これは花鳥玲愛個人に贈る菓子ではない。
幹事作業の合間に置ける菓子。
歓迎会の準備で店の時間を整えている人が、少しだけ息をつける菓子。
そこに礼は込める。
だが、それだけを理由にしない。
焼き上がった菓子は、小さかった。
通常メニュー候補の焼き菓子より、さらに小さい。
一口では少し足りない。
二口では多くない。
ちょうど一口半。
香りは控えめ。
甘さは弱い。
だが、紅茶を飲むと少しだけ戻る。
三枝が一つ食べた。
しばらく黙っている。
「どうでしょうか」
「悪くない」
「ありがとうございます」
「ただ、最初の一口は少し弱いかな」
「弱いですか」
「花鳥さんが考えごとの途中で食べるなら、このくらいでもいいと思う。でも、休憩として息を抜くなら、もう少しだけ輪郭があってもいい」
「なるほど」
「礼を控えめにしすぎて、菓子まで遠慮してる」
湊は、手元の菓子を見た。
遠慮。
確かに、そうかもしれない。
花鳥のためだけに作ってはいけない。
その意識が強すぎて、菓子の方まで引きすぎた。
「少しだけ、甘さを戻します」
「うん。少しだけね」
「はい」
湊は二度目を焼いた。
蜂蜜をほんの少し増やす。
柑橘の香りはそのまま。
焼き色を少しだけ深くする。
焦がしバターは前に出さない。
紅茶の横に置いても、考えごとの邪魔にならないように。
でも、食べ終わった時に、ほんの少しだけ肩の力が抜けるように。
二度目を食べた三枝は、頷いた。
「こっちだね」
「はい」
「名前は?」
「まだありません」
「じゃあ、試作品として出す?」
「はい」
「花鳥さん、警戒すると思うよ」
「分かっています」
「ちゃんと説明できる?」
湊は、少し考えた。
説明。
これが一番難しい。
礼です、とだけ言えば、受け取られない。
花鳥さんのために作りました、と言えば、たぶん完全に拒否される。
でも、礼を込めていないと言えば嘘になる。
嘘はつきたくない。
湊は、小さく息を吐いた。
「礼は込めています。でも、花鳥さんのためだけには作っていません」
三枝は、少し笑った。
「それをそのまま言うつもり?」
「危ないでしょうか」
「危ないね」
「ですよね」
「でも、相沢くんらしいとは思う」
「褒めていますか?」
「半分くらい」
「残り半分は?」
「花鳥さんに切られる覚悟をしておくこと」
「はい」
湊は、小さな菓子を三つ包んだ。
一つは確認用。
一つは三枝に残す分。
もう一つは、念のため。
包装は簡単にした。
贈り物のように見えすぎないように。
しかし、雑にはしない。
紙は白。
小さく折る。
手を汚さずに取り出せるようにする。
湊は、それを見て少しだけ迷った。
丁寧すぎるだろうか。
いや、確認用でも丁寧であるべきだ。
そういうことにした。
閉店後。
玲愛は、ホールのカウンターで歓迎会の第一候補の店について確認していた。
手帳。
候補表。
席の簡単な図。
参加予定者の予定。
当日参加できるスタッフが増えた場合の席数。
かなり細かい。
湊は、少し離れた場所からそれを見ていた。
花鳥は、今日も仕事の顔だった。
背筋を伸ばし、必要な項目を確認し、感情を表に出さない。
歓迎会の幹事をしている。
自分を主役にした、小さな店の行事のために。
もちろん、本人はそう言わない。
店の行事です。
幹事として当然です。
特別扱いではありません。
そう言うだろう。
湊は、包みを持ったまま近づいた。
「花鳥さん」
「何ですか」
玲愛は顔を上げた。
「歓迎会の調整、ありがとうございます」
「幹事として必要なことです」
「はい。分かっています」
「でしたら、礼は不要です」
「なので、礼ではなく確認です」
玲愛の目が、少しだけ細くなった。
警戒された。
当然だと思った。
「何の確認ですか」
湊は、小さな包みを出した。
「幹事作業の合間に、紅茶と一緒に食べても邪魔にならないかの確認です」
玲愛は、包みを見た。
すぐには受け取らない。
「なぜ私が確認するのですか」
「今、一番幹事作業をしているのが花鳥さんだからです」
玲愛は黙った。
湊は、言葉を足しすぎないようにした。
ここで説明しすぎると、たぶん重くなる。
菓子も言葉も。
少し置くくらいでいい。
玲愛は、包みをもう一度見た。
「……業務上、確認する意味はあります」
「はい」
「ただし、私への礼として作ったのなら受け取りません」
来ると思っていた言葉だった。
それでも、少しだけ胸が詰まる。
湊は頷いた。
「礼は込めています。でも、花鳥さんのためだけには作っていません」
玲愛の動きが止まった。
湊は続けた。
「幹事をする人が、作業の合間に少し息をつける菓子として考えました」
「……言葉の使い方に注意してください」
「はい」
「礼を込めています、という表現は危険です」
「分かっています」
「本当に?」
「半分くらいです」
「では、残り半分は今後の課題です」
「はい」
湊は、素直に頷いた。
玲愛はようやく包みを受け取った。
指先が、ほんの少しだけ慎重だった。
雑に扱わない。
それだけで、湊は少しだけ安心した。
「ここで確認すればよいのですか」
「無理に今でなくても」
「後にすると、あなたが余計に気にするでしょう」
「……否定できません」
「なら、今確認します」
玲愛は小さな皿を一枚出した。
包みを開く。
中の菓子を見る。
「小さいですね」
「幹事作業の邪魔にならない大きさにしました」
「一口ではありませんね」
「一口だと、紅茶との相性が見にくいので」
「二口でもない」
「多いと、休憩ではなく食事に近くなると思いました」
「中途半端です」
「はい。一口半を狙いました」
玲愛は、少しだけ眉を動かした。
「狙うところが細かいですね」
「花鳥さんほどではありません」
「比較しないでください」
「はい」
玲愛は、菓子を一口分だけ切った。
口に運ぶ。
湊は、見すぎないようにした。
だが、どうしても気になる。
玲愛の表情は大きく変わらない。
仕事の顔。
確認する人の顔。
湊は、息を止めないようにした。
玲愛は紅茶を飲んだ。
それから、もう一度菓子を見た。
「甘さは弱いです」
「はい」
「ですが、弱すぎるほどではありません」
「はい」
「香りは控えめです。紅茶の横に置いても、邪魔にはなりません」
「はい」
「考えごとの途中で食べても、思考を切りません」
湊は、その言葉に少しだけ安堵した。
そこを狙っていた。
伝わったなら、よかった。
玲愛は、残りを小さく切った。
二口目。
紅茶。
少しだけ間を置く。
その間に、湊は手元のノートを開きかけた。
「記録は後にしてください」
玲愛が言った。
見ていないようで、見ている。
「はい」
「今、記録を取られると、私が確認しづらいです」
「すみません」
「謝罪ではなく、待ってください」
「はい」
湊はノートを閉じた。
玲愛は最後の欠片を食べた。
皿の上が空になる。
湊は、そのことに気づいたが、何も言わなかった。
全部食べてくれた。
それだけで十分だった。
玲愛はフォークを置いた。
「悪くありません」
「ありがとうございます」
「ただし、歓迎会の店選びには影響しません」
「はい」
「幹事への賄賂ではありませんね」
「そのつもりはありません」
「なら結構です」
玲愛は皿を片付けようとした。
湊は、少しだけ迷ってから言った。
「でも、少しでも助かれば嬉しいです」
玲愛の手が止まった。
ほんの一瞬。
それから、ゆっくりこちらを見る。
「……言葉の使い方に注意してください」
「はい」
「今の言い方も、かなり危険です」
「すみません」
「謝罪ではなく、修正してください」
「難しいです」
「では、今後の課題です」
「はい」
いつものやり取りだった。
でも、少しだけ違う気がした。
湊の菓子が、その間に入っていたからだろうか。
玲愛は包み紙を畳んだ。
捨てるのかと思った。
だが、すぐには捨てなかった。
手帳の横に、きれいに置く。
湊は、それを見なかったことにした。
見なかったことにしたが、気づかなかったわけではない。
「相沢さん」
「はい」
「この菓子は、商品候補ではありませんね」
「はい。今のところは」
「今のところ?」
「幹事作業中の人に出す菓子、というのは商品としては狭すぎるので」
「当然です」
「でも、仕事の合間に少し息をつける菓子としては、考える余地があるかもしれません」
玲愛は、少しだけ黙った。
「……考える余地はあります」
「はい」
「ただし、今は歓迎会の準備が優先です」
「分かっています」
「あなたも、主役として必要な連絡に答えること」
「はい」
「余計な試作で通常業務を乱さないこと」
「はい」
「本当に?」
「努力します」
「実行してください」
「はい」
玲愛は手帳を閉じた。
話は終わった。
湊は頭を下げる。
「確認、ありがとうございました」
「一度で十分です」
「はい」
「それと」
「はい」
「……菓子は、悪くありませんでした」
湊は、少しだけ言葉を失った。
先ほども、悪くありません、と言われた。
だが、今の言葉は少し違った。
確認結果ではなく、もう一度置かれた言葉のように聞こえた。
湊は、ゆっくり頷いた。
「ありがとうございます」
「一度で十分です」
「はい」
玲愛は、すぐに仕事の顔に戻った。
「明日、第一候補の店の空きを確認して、仮押さえします」
「分かりました」
「苦手なものの追加があれば、今日中に」
「ありません」
「本当に?」
「はい」
「では、その条件で進めます」
「お願いします」
湊は、もう一度頭を下げて厨房へ戻った。
三枝が、作業台の近くで待っていた。
「どうだった?」
「悪くない、とのことでした」
「よかったね」
「はい」
「それだけ?」
湊は少し考えた。
玲愛が包み紙をすぐ捨てなかったこと。
最後にもう一度、悪くありませんでした、と言ってくれたこと。
それを言うべきか迷った。
でも、言わなかった。
それは、記録に残すことではない気がした。
「幹事作業の邪魔にはならなかったようです」
三枝は笑った。
「相沢くんも、だいぶ花鳥さんに似てきたね」
「そうでしょうか」
「言い訳の組み立て方が」
「それは、良いことなんでしょうか」
「半分くらいは」
「残り半分は?」
「明日の皿で確認だね」
湊は苦笑した。
いつの間にか、皆がそう言う。
残り半分は、明日の皿で。
湊はノートを開いた。
記録を書く。
甘さは弱いが、弱すぎない。
香りは控えめ。
紅茶の横で邪魔にならない。
考えごとの途中でも思考を切らない。
幹事作業中の小休止としては、成立の余地あり。
そこまで書いて、湊は少しだけペンを止めた。
礼は込めた。
でも、花鳥玲愛のためだけには作っていない。
その線は、たぶん守れたと思う。
ただ、花鳥が少しだけ息をつける皿にはしたかった。
それは否定できない。
否定しなくてもいいのかもしれない。
湊は、ノートの端に小さく書いた。
幹事への礼。
作業の合間に、少しだけ息をつけるもの。
それから、少し迷って、もう一行だけ足す。
花鳥さんのためだけには作らない。
でも、花鳥さんにも届いてほしいとは思っている。
書いてから、湊はしばらくその文字を見た。
危険な表現だ。
花鳥に見られたら、言葉の使い方に注意してください、と言われるだろう。
湊は、ページを閉じた。
相沢湊は、花鳥玲愛のためだけには作らない。
それでも、幹事として店の時間を整えてくれる人が、少しだけ息をつける皿にはしたかった。
それは、礼で。
確認で。
まだ名前のない、小さな菓子だった。