歓迎会の主役。
その言葉は、相沢湊には少し重かった。
キュリオに入ってから、もうしばらく経つ。
新人という言葉だけで扱われる時期は、少し過ぎた。
焼き菓子も、限定提供から通常メニュー候補へ近づいている。
森崎乃々香は、客に説明する時、以前より自然に湊の菓子を扱ってくれる。
三枝誠司は、焼成記録を見ながら、湊に必要な範囲で任せてくれる。
有坂直人は、店全体の流れの中で、湊の菓子の位置を考えてくれる。
花鳥玲愛は。
相変わらず、厳しく見ている。
皿の上だけではなく。
皿の外側も。
客席に置かれた後も。
食べ終わった後も。
そして最近は、湊本人の動きまで。
ただし、花鳥はそれを全部、仕事だと言う。
品質管理。
客席への影響確認。
スタッフの体調管理。
幹事としての調整。
特別扱いではない。
湊は、それを否定しない。
否定しないまま、その中にあるものを受け取るようになった。
だから今日の歓迎会も、受け取らなければならない。
そう思っていた。
それでも、主役として店に入るのは、やはり落ち着かなかった。
「相沢さん、こっちです」
森崎が、店の入口で明るく手を振った。
キュリオではない店。
半個室のある、落ち着いた飲食店。
駅から近く、騒がしすぎず、料理の匂いも強すぎない。
花鳥が選んだ店だった。
湊は、入口で一度だけ周囲を見た。
店の明るさ。
席の距離。
店員の声の大きさ。
料理の香り。
全部が、強すぎない。
歓迎会の場として、よく整っている。
少し考えれば分かる。
これは偶然ではない。
花鳥がそう選んだ。
「相沢さん」
その花鳥が、席の近くに立っていた。
私服ではない。
仕事終わりなので、店の外用に整えた服装。
だが、キュリオの制服ではない。
湊は、一瞬だけ言葉に迷った。
「遅れてはいません」
花鳥が先に言った。
「集合時間の五分前です」
「はい」
「入口で立ち止まると、後ろの方の邪魔になります」
「あ、すみません」
「謝罪ではなく、席へ移動してください」
「はい」
いつも通りだった。
店の外でも、花鳥は花鳥だった。
そのことに、少し安心する。
湊は案内された席へ向かった。
席へ向かう途中、有坂が軽く説明してくれた。
「ほかのスタッフにも共有はしてあるんだけどね。今日はシフトと明日の営業の都合もあって、参加者はこの顔ぶれに落ち着いたよ」
「そうなんですね」
「うん。相沢くんの菓子に直接関わってきた面々で、まずは小さく、かな」
湊は頷いた。
キュリオには、ここにいる人たち以外にもスタッフがいる。
ホールにも、厨房にも、時間帯によって顔を合わせる人たちがいる。
だが、今日の席は、店全体を一度に動かす大きな宴会ではなかった。
湊の菓子に直接関わってきた人たちが、無理のない範囲で集まった、小さな歓迎の席。
その方が、少しだけ受け取りやすい気がした。
そして同時に、逃げ場も少ない気がした。
大勢に紛れることができない。
礼を言って、流して、終わらせることもできない。
この顔ぶれだからこそ、ちゃんと受け取らなければならない。
湊は、そう思った。
席順は、すでに決まっていた。
有坂が場全体を見られる位置。
三枝が厨房側の人間として湊の近くにいながら、料理に意識を持っていかれすぎない位置。
森崎が話しかけやすい位置。
花鳥は、端。
注文や店員への声かけがしやすく、参加者の様子を見られる位置。
湊は、中央すぎない。
でも、主役として話を振られた時には皆から見える。
見えている。
けれど、囲まれすぎない。
そういう位置だった。
湊は、座ってから気づいた。
自分が過度に主役扱いされすぎないように、最初から調整されている。
「相沢くん」
有坂が柔らかく笑った。
「今日は改めて、歓迎会ということで」
「ありがとうございます」
「入ってすぐにやれなくてごめんね」
「いえ。むしろ、今でよかったと思います」
三枝が頷いた。
「俺もそう思うよ」
湊が見ると、三枝は小さく笑っていた。
「最初の頃にやっても、相沢くん、たぶん歓迎されてる場合じゃないって顔をしてたと思う」
「否定できません」
「今は?」
湊は、少しだけ考えた。
「今も少し落ち着きません」
「正直でよろしい」
「でも、前よりは受け取れると思います」
三枝は、満足そうに頷いた。
「ようやく店の一員って感じだね」
その言葉は、思っていたより胸に来た。
店の一員。
湊は、すぐには返事ができなかった。
森崎が隣で明るく言った。
「相沢さん、ほんとに歓迎されていますよ」
「ありがとうございます」
「相沢さんの焼き菓子、お客様にもだいぶ説明しやすくなってきましたし」
「森崎さんたちが説明してくださるおかげです」
「そこは、相沢さんの菓子がちゃんと説明できる形になったからですよ」
森崎の言葉は素直だった。
素直すぎて、少し照れる。
湊は頭を下げかけた。
そこで花鳥の声が飛んだ。
「相沢さん」
「はい」
「今夜は頭を下げる回数を減らしてください」
「……はい」
「歓迎会の主役が、何度も頭を下げると、周囲がかえって気を遣います」
「分かりました」
「本当に?」
「努力します」
「実行してください」
森崎が楽しそうに笑った。
三枝も少し笑っている。
有坂は、穏やかにグラスを持ち上げた。
「じゃあ、花鳥さんに怒られる前に始めようか」
「店長」
「はいはい」
有坂は笑った。
「相沢くん、改めてキュリオへようこそ。これからもよろしく」
「よろしくお願いします」
「では、乾杯」
グラスが軽く触れ合う。
大きすぎない音。
騒がしすぎない声。
湊は、グラスを置きながら、少しだけ息を吐いた。
歓迎会が始まった。
料理が運ばれてくる。
花鳥は、そのたびにさりげなく位置を見ている。
誰の前に何が置かれたか。
森崎が取りやすいか。
三枝が料理に意識を持っていかれすぎていないか。
有坂が会話を回しやすいか。
湊の前に、極端に辛い料理や匂いの強い料理が集中していないか。
湊は、それに気づいてしまう。
花鳥は、店の外でも場を整えている。
キュリオのホールではない。
客席でもない。
それでも、花鳥は場の流れを見ている。
誰かが話しすぎていないか。
誰かが黙りすぎていないか。
湊に質問が集中しすぎていないか。
森崎が遠慮していないか。
有坂が話を拾いやすいか。
三枝が厨房の話で湊を助けられるか。
全部、見ている。
「相沢さん」
森崎が言った。
「最初、花鳥さんに菓子を認めてもらえなかった時、どう思いました?」
「森崎さん」
花鳥の声が、すぐに入った。
強すぎない。
だが、会話の流れを切るには十分な声だった。
「歓迎会で、初日の傷を掘り返す必要はありません」
「あ、すみません」
「謝罪ではなく、話題を選んでください」
「はい」
湊は、少し笑いそうになった。
森崎は悪気があったわけではない。
ただ素直に聞いただけだ。
だが、確かにその話題は、湊が少し構えてしまうものだった。
花鳥は、それを先に止めた。
森崎を責めすぎず。
湊を過度に守りすぎず。
自然に話を別へ流した。
有坂が柔らかく続ける。
「じゃあ、最近お客様から言われて嬉しかった言葉とかある?」
助け舟だった。
湊は少し考えた。
「紅茶と一緒に頼むと、ちょうどよかったと言っていただいたことです」
「ちょうどよかった、か」
三枝が頷いた。
「相沢くんの今の菓子には、かなりいい言葉だね」
「はい」
森崎も笑った。
「私、そのお客様覚えています。すごく自然に食べてくださっていました」
「はい」
湊は頷いた。
「自然に、というのが嬉しかったです」
有坂が小さく笑った。
「前はもっと、印象に残る方を目指していた?」
「そうだと思います」
「今は?」
「邪魔しないで残る方が、難しいと思っています」
三枝が「いいね」と言った。
花鳥は黙っていた。
だが、湊には分かる。
今の答えは、おそらく悪くなかった。
料理が進む。
会話も進む。
森崎は明るく場を温める。
三枝は厨房側の話を、重くなりすぎないように挟む。
有坂は全体を見ながら、湊が答えやすい話題を選ぶ。
花鳥は、進行を乱さない。
目立たない。
だが、全て見ている。
飲み物が空きそうになる前に確認する。
料理の皿が偏る前に声をかける。
時間が押しすぎないように、さりげなく次の流れを作る。
会計の段取りも、すでに有坂と確認済みらしい。
帰りの電車の時間まで、森崎に確認している。
湊は、主役なのに、ずっと見られている気がした。
見張られているのではない。
整えられている。
自分が歓迎会の主役として疲れすぎないように。
気を遣いすぎないように。
礼を言いすぎないように。
過度にいじられすぎないように。
湊は、そのことに少しずつ気づいていった。
会の中盤。
三枝が湊の方を見た。
「そういえば、相沢くん。花鳥さんに幹事用の菓子、出したんだって?」
湊は、少しだけ固まった。
花鳥の視線が三枝へ向く。
「三枝さん」
「いや、悪くない話だと思って」
「歓迎会の場で話す必要はありません」
「相沢くんが、ちゃんと礼を皿にできるようになったって話だよ」
有坂が興味深そうに聞いた。
「幹事用の菓子?」
森崎も身を乗り出す。
「何ですかそれ、私も知りたいです」
「森崎さん」
花鳥の声が少しだけ硬くなる。
湊は、ここで自分が何か言うべきだと思った。
「小さな試作品です」
「試作品?」
「幹事作業の合間に、紅茶と一緒に食べても邪魔にならないかの確認用です」
森崎は、ぱちぱちと目を瞬かせた。
「それ、花鳥さんに出したんですか?」
「はい」
「すごいですね」
「すごくはありません」
湊と花鳥の声が、少し重なった。
森崎が笑った。
三枝も笑っている。
有坂は楽しそうにグラスを置いた。
「息ぴったりだね」
「店長」
花鳥が即座に止める。
「余計な解釈です」
「うん。そういうことにしておこう」
「そういうこと、ではありません」
湊は、そのやり取りを聞きながら、少しだけ耳が熱くなった。
自分でも、今のは少し合ってしまったと思う。
しかし、花鳥がすぐに場を整えた。
「相沢さん」
「はい」
「その試作品は、現時点で商品候補ではありません」
「はい」
「歓迎会の場で詳細を話す必要はありません」
「分かりました」
「三枝さんも、広げないでください」
「はいはい」
「はい、は一度です」
「はい」
空気が軽くなる。
ただし、湊がいじられすぎる前に止まる。
花鳥は、やはり流れを見ている。
湊は、そのことにまた気づく。
会の終盤。
有坂が、柔らかく言った。
「相沢くん、最後に一言だけもらっていいかな」
来た。
湊はそう思った。
歓迎会の主役としての挨拶。
おそらく避けられない。
だが、有坂の言い方は重くない。
一言だけ。
長くなくていいという逃げ道がある。
花鳥が決めた流れかもしれない。
あるいは有坂の気遣いかもしれない。
たぶん両方だ。
湊は立ち上がった。
参加者の視線が集まる。
落ち着かない。
やはり主役は苦手だ。
だが、今なら受け取れる。
少しは。
「今日は、ありがとうございます」
言ってから、花鳥に言われたことを思い出す。
頭を下げすぎない。
礼を言いすぎない。
周囲が気を遣う。
湊は、頭を下げるのを少しだけ抑えた。
「キュリオに来てから、自分の菓子がどこに置かれるのか、ずっと考えています」
自分の声が、少し硬い。
でも、言う。
「最初は、皿の上しか見えていませんでした」
三枝が静かに頷く。
森崎が真剣に聞いている。
有坂は微笑んでいる。
花鳥は、いつもの姿勢でこちらを見ている。
「今も、全部見えているわけではありません。でも、厨房だけでは見えないものを、少しずつ教えてもらっています」
湊は、一人ずつ見た。
「三枝さんには、作る側として止まることも教えていただきました」
三枝が軽く手を振る。
「森崎さんには、運ぶ側、説明する側の見え方を教えていただきました」
森崎が少し照れる。
「有坂店長には、店全体の中で考えることを教えていただいています」
有坂が「こちらこそ」と小さく言う。
そして、花鳥を見る。
ここで言いすぎてはいけない。
歓迎会の挨拶で、花鳥だけを重くしてはいけない。
湊は、一拍置いた。
「花鳥さんには、客席に届くまでが仕事だと、何度も教えていただきました」
花鳥は表情を変えない。
だが、湊は続けた。
「まだ十分ではありませんが、これからも、皿の上と、その外側を見ていきます」
そこで終える。
それくらいがいい。
「今日は、本当にありがとうございました。これからもよろしくお願いします」
今度は、少しだけ頭を下げた。
深すぎないように。
有坂が拍手する。
森崎が明るく拍手する。
三枝も、柔らかく拍手する。
花鳥も、小さく拍手した。
湊は座った。
胸の奥が、少しだけ熱い。
主役になりきれたかは分からない。
たぶん、なりきれていない。
けれど、受け取ることはできた気がした。
歓迎会が終わる頃、花鳥はすでに会計と帰りの流れを整えていた。
有坂が店員と話し、三枝が厨房側の荷物を確認し、森崎が忘れ物を見ている。
花鳥は、時間を確認する。
「森崎さん、電車の時間は大丈夫ですか」
「はい、大丈夫です」
「三枝さん、明日の仕込みは通常通りですね」
「うん。無理はないよ」
「店長、会計は確認済みです」
「ありがとう、花鳥さん」
「相沢さん」
「はい」
「主役だからといって、最後まで残って片付けようとしないでください」
湊は、ちょうど立ち上がりかけたところだった。
「……はい」
「今日は歓迎される側です」
「分かりました」
「本当に?」
「努力します」
「実行してください」
その声に、周囲が少し笑った。
湊も笑った。
花鳥は、やはり場を整えている。
最後まで。
店の外でも。
キュリオではない場所でも。
そのことが、湊には分かってしまった。
店を出た後、少しだけ皆の流れがばらけた。
有坂と三枝が会計の確認をする。
森崎が鞄の中を確認している。
花鳥は、出口近くで立っていた。
湊は近づいた。
「花鳥さん」
「何ですか」
「ありがとうございます。俺、少し助かりました」
花鳥は、即座に答えた。
「幹事として場を整えただけです」
「はい」
湊は頷いた。
「だから助かりました」
花鳥の動きが止まった。
本当に一瞬だけ。
その一瞬で、湊は言いすぎたかもしれないと思った。
だが、撤回はしなかった。
花鳥は、幹事として場を整えた。
それは事実だ。
そのおかげで、自分は歓迎会の主役として、過度に疲れず、過度にいじられず、ちゃんと受け取ることができた。
だから助かった。
それも事実だった。
「……礼は、一度で十分です」
花鳥は、少し遅れて言った。
「はい」
「それに、今日は私だけで整えたわけではありません。店長も、三枝さんも、森崎さんもいました」
「分かっています」
「でしたら」
「それでも、花鳥さんが幹事として見てくださっていたことに、助かりました」
花鳥は、少しだけ視線を外した。
「言葉の使い方に注意してください」
「はい」
「今の言い方は、かなり危険です」
「すみません」
「謝罪ではなく、修正してください」
「難しいです」
「では、今後の課題です」
「はい」
いつものやり取りだった。
そのはずなのに、今日は少しだけ違った。
店の外。
歓迎会の後。
主役として受け取った後。
その場所で交わすと、同じ言葉でも少しだけ温度が違う。
森崎がこちらへ来た。
「相沢さん、今日はおめでとうございます」
「ありがとうございます」
「花鳥さん、幹事お疲れさまでした」
「森崎さんも、時間通りに動いてくれて助かりました」
「はい」
森崎は嬉しそうに笑った。
三枝も近づいてくる。
「相沢くん、今日はちゃんと主役してたよ」
「そうでしょうか」
「半分くらい」
「残り半分は?」
「明日の厨房で確認だね」
湊は苦笑した。
「はい」
有坂が最後に来た。
「じゃあ、今日は解散かな。みんな、気をつけて帰ってね」
それぞれが頷く。
歓迎会は終わった。
大きな事件はない。
派手な言葉もない。
ただ、キュリオで湊の菓子に関わってきた人たちが、湊を歓迎してくれた。
そして、花鳥がその場を整えてくれた。
湊は、帰り道の入口で一度だけ振り返った。
花鳥は、まだ皆の帰る方向を確認していた。
最後まで幹事だった。
最後まで、ホールのチーフのようだった。
けれど、今日はそれだけではなかった。
相沢湊は、歓迎会の主役になりきれない。
それでも、歓迎されたことは受け取れた。
受け取れたのは、たぶん。
自分が主役として疲れすぎないように、場を整えてくれた人がいたからだった。