花鳥玲愛は、甘さを認めない   作:エーアイ

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第23話 相沢湊は、歓迎されたことを忘れない

 翌朝、相沢湊はいつも通りキュリオの厨房に入った。

 

 いつも通りの時間。

 いつも通りの白いコックコート。

 いつも通りの仕込み表。

 いつも通りの作業台。

 

 昨日、歓迎会があったからといって、厨房の位置が変わるわけではない。

 

 粉の重さも。

 バターの温度も。

 焼成時間も。

 紅茶と合わせた時の香りの出方も。

 何かが急に簡単になるわけではない。

 

 湊は手を洗い、作業台の前に立った。

 昨日の夜のことを思い出す。

 

 森崎乃々香の明るい声。

 三枝誠司の「ようやく店の一員って感じだね」という言葉。

 有坂直人の柔らかい乾杯。

 花鳥玲愛が、最後まで場を整えていたこと。

 

 歓迎会の主役。

 その言葉は、最後まで少し落ち着かなかった。

 それでも、湊は受け取った。

 受け取れたと思う。

 

 昨日の席で、キュリオで自分の菓子に関わってきた人たちが迎えてくれたことを。

 自分が、この店の時間の中にいていいと言われた気がしたことを。

 ただ、それは今日の皿が良くなる保証ではない。

 歓迎されたからといって、焼き色は安定しない。

 店の一員と言われたからといって、客席の時間が急に全部見えるわけではない。

 むしろ、歓迎されたからこそ、今日もいつも通りに作らなければいけない。

 

 湊は、ノートを開いた。

 

 昨日の歓迎会については、商品記録には書かない。

 書くべきではない。

 ただ、別のページに一行だけ書いた。

 

 歓迎されたことに甘えない。

 

 書いてから、少しだけ考える。

 もう一行、足す。

 

 でも、忘れない。

 

 それでいいと思った。

 

「おはよう、相沢くん」

 

 三枝の声がした。

 湊は顔を上げた。

 

「おはようございます」

 

 三枝はいつも通りの顔で厨房に入ってきた。

 昨日の歓迎会で少し飲んでいたはずだが、声はいつも通りだった。

 

「昨日、ちゃんと帰れた?」

 

「はい。大丈夫です」

 

「今日はいつも通りね」

 

「はい」

 

「歓迎会の翌日だからって、焼き色は待ってくれないから」

 

「分かっています」

 

 三枝は少し笑った。

 

「いい返事」

 

「褒めていますか?」

 

「半分くらい」

 

「残り半分は?」

 

「今日の皿で確認」

 

「はい」

 

 いつものやり取りだった。

 それが、少し嬉しい。

 昨日は特別な日だった。

 でも、今日こうしていつもの会話がある。

 

 そのことの方が、湊には少し大事に思えた。

 厨房の外から、森崎の声が聞こえた。

 

「おはようございます」

 

 明るい声。

 いつもより少し弾んでいる気がする。

 

 湊が厨房から顔を出すと、森崎がこちらを見た。

 

「あ、相沢さん。おはようございます」

 

「おはようございます」

 

「昨日はお疲れさまでした」

 

「森崎さんも、お疲れさまでした」

 

「楽しかったですね」

 

「はい」

 

 湊は素直に頷いた。

 

「楽しかったです」

 

 言ってから、少しだけ照れた。

 

 楽しかった。

 

 その言葉を、自分の口から自然に言えたことに、湊自身が少し驚いた。

 森崎は嬉しそうに笑った。

 

「よかったです」

 

「ありがとうございます」

 

「花鳥さんに言われますよ。礼は一度で十分ですって」

 

「確かに」

 

 湊は少し笑った。

 森崎も笑う。

 

 それから、すぐにホールの準備へ戻っていった。

 仕事に戻る。

 昨日の余韻を引きずりすぎない。

 それが、森崎にも自然にできている。

 

 キュリオの朝が始まっていた。

 少しして、有坂が顔を出した。

 

「おはよう、相沢くん」

 

「おはようございます」

 

「昨日はお疲れさま」

 

「ありがとうございました」

 

「いい会だったね」

 

「はい」

 

「今日からまた通常営業だけど」

 

「分かっています」

 

 有坂は柔らかく笑った。

 

「分かってる顔だね」

 

「そう見えますか」

 

「うん。昨日より少し、キュリオの人っぽい」

 

 湊は、言葉に詰まりかけた。

 

 キュリオの人。

 昨日、三枝にも似たようなことを言われた。

 

 店の一員。

 その言葉は、何度聞いても少し重い。

 

 でも、嫌な重さではない。

 

「ありがとうございます」

 

「うん。でも、花鳥さんが来たら、今日も通常通りって言うと思うよ」

 

「言いそうです」

 

「たぶん、かなり言うね」

 

 有坂は楽しそうにそう言って、ホールへ戻っていった。

 

 湊は厨房に戻る。

 仕込みを始める。

 粉を量る。

 バターを見る。

 焼き菓子の生地を確認する。

 

 いつも通りの作業。

 けれど、店の音が少しだけ違って聞こえた。

 

 三枝の声。

 森崎の挨拶。

 有坂の「おはよう」。

 ホールの奥で、別のスタッフが椅子を整える音。

 

 昨日までと大きく変わったわけではない。

 誰かが急に優しくなったわけでもない。

 湊の扱いが劇的に変わったわけでもない。

 

 それでも、少しだけ違う。

 歓迎されたことを、湊が知っているからかもしれない。

 歓迎してくれた人たちと、今日も同じ店で働いているからかもしれない。

 そして、昨日の席にはいなかった人たちの音も含めて、ここがキュリオの日常だからかもしれない。

 歓迎会は、特別な日だった。

 でも、その翌日にいつも通り働けることの方が、たぶんもっと大事だ。

 

 湊はそう思った。

 

「相沢さん」

 

 背筋の伸びる声がした。

 湊は顔を上げた。

 花鳥玲愛が厨房の入口に立っていた。

 

 いつもの姿勢。

 いつもの表情。

 昨日、歓迎会の場を整えていた人。

 会計も、席順も、帰りの導線も、湊が過度にいじられない流れも、全部見ていた人。

 だが今は、いつものホールチーフの顔だった。

 

「おはようございます、花鳥さん」

 

「おはようございます」

 

 玲愛は、手元の提供表を見る。

 

「今日も通常通りです」

 

 有坂の予想通りだった。

 湊は、少しだけ笑いそうになった。

 だが、笑わなかった。

 

「はい」

 

「昨日の歓迎会は終了しています」

 

「はい」

 

「今日の焼き菓子は、昨日の会とは関係ありません」

 

「分かっています」

 

「本当に?」

 

「はい」

 

「でしたら、焼成記録をいつも通り提出してください」

 

「分かりました」

 

 いつも通り。

 厳しい。

 正しい。

 逃げ道がない。

 

 それが、少し嬉しかった。

 昨日の歓迎会があったからといって、花鳥が甘くなるわけではない。

 

 それでいい。

 むしろ、それがいい。

 

 湊は、手元のノートを閉じて、玲愛を見た。

 

「花鳥さん」

 

「何ですか」

 

「昨日はありがとうございました」

 

 玲愛は、すぐに答えた。

 

「昨日の件は終了しています」

 

「はい。でも、今日もちゃんと働きます」

 

 玲愛の動きが、ほんの少しだけ止まった。

 

 湊は続けなかった。

 これ以上言うと、重くなる。

 

 昨日の礼を、今日の皿で返す。

 そのくらいでいい。

 

 玲愛は、一拍置いてから言った。

 

「当然です」

 

「はい」

 

「歓迎されたからといって、作業が軽くなるわけではありません」

 

「分かっています」

 

「店の一員として扱われたなら、店の一員として働いてください」

 

 その言葉は、思っていたよりも強く届いた。

 

 店の一員として働く。

 歓迎会の続きは、たぶんそこにある。

 特別な場で礼を言うことではなく。

 翌朝、いつも通り作業台に立つこと。

 いつも通り焼くこと。

 いつも通り確認されること。

 そして、昨日より少しだけ、責任を持つこと。

 

 湊は、ゆっくり頷いた。

 

「はい」

 

 玲愛は、提供表を差し出した。

 

「午後の紅茶セットは、昨日と同じ数です」

 

「はい」

 

「ただし、昨日の会の翌日です。あなた自身の判断が浮いていないか確認してください」

 

「浮いていないか、ですか」

 

「歓迎されたことで、無意識に菓子の声が大きくなることがあります」

 

 湊は、少しだけ目を見開いた。

 

 それは、あり得ると思った。

 

 昨日、受け取った言葉。

 歓迎されたこと。

 店の一員と言われたこと。

 その嬉しさが、菓子に出るかもしれない。

 香りを少し強くする。

 甘さを少し残しすぎる。

 皿を少しだけ主張させる。

 無意識に、そうしてしまうかもしれない。

 

 玲愛は、そこを見ている。

 やはり、見ている。

 

「気をつけます」

 

「気をつけるだけでは不十分です。記録してください」

 

「はい」

 

「今日の一回目と二回目、香りの立ち方をいつもより細かく確認します」

 

「お願いします」

 

「礼ではありません」

 

「はい」

 

「商品確認です」

 

「分かっています」

 

「本当に?」

 

「はい」

 

 湊は、まっすぐ頷いた。

 玲愛は、少しだけ目を細めた。

 

「なら結構です」

 

 それだけ言って、ホールへ戻っていく。

 

 湊は、その背中を見送った。

 見送りすぎないようにして、すぐ作業台へ向き直る。

 

 今日の菓子。

 昨日の歓迎会を乗せない。

 でも、忘れない。

 

 難しい。

 かなり難しい。

 

 けれど、それが今日の仕事だった。

 三枝が横から言った。

 

「花鳥さん、やっぱり今日も通常通りだったね」

 

「はい」

 

「でも、いい指摘だった」

 

「はい」

 

「嬉しさが皿に出ること、あるからね」

 

「気をつけます」

 

「気をつけるだけじゃ不十分って、今言われてたよ」

 

「記録します」

 

「よろしい」

 

 三枝は少し笑った。

 

 湊は、生地を整えた。

 昨日より、少しだけ手が軽い。

 それを自覚する。

 軽いこと自体は悪くない。

 だが、浮いてはいけない。

 手が軽いなら、なぜ軽いのかを見る。

 香りを強くしすぎていないか。

 甘さを残しすぎていないか。

 焼き色が深くなっていないか。

 いつもより慎重に、いつも通りを作る。

 

 午前の準備が進む。

 

 ホールから、森崎の声が聞こえる。

 

「花鳥さん、窓際席のメニュー位置、これで大丈夫ですか」

 

「少し内側です。お客様が座った時、自然に手が届く位置にしてください」

 

「はい」

 

 有坂の声も聞こえる。

 

「今日もいい朝だね」

 

「店長、予約表の確認をお願いします」

 

「はいはい」

 

 誰かが椅子を引く音。

 カトラリーを整える音。

 キュリオの朝の音が重なっていく。

 

 三枝が笑う。

 

 湊は、焼成前の生地を見た。

 

 店の音がある。

 その中に、自分の作業音も混ざっている。

 昨日、歓迎された。

 でも、今日も混ざれているかは、自分の作業で決まる。

 

 湊は一回目の焼成を始めた。

 

 香りは、少しだけ立つ。

 強すぎない。

 甘さは、いつも通り。

 焼き色も、許容範囲。

 

 ただ、いつもより少しだけ、確認の目が多い気がした。

 

 三枝。

 花鳥。

 森崎。

 有坂。

 

 いや、実際に見られているわけではない。

 湊自身が、昨日の歓迎会を思い出しているだけかもしれない。

 それでも、悪くない緊張だった。

 

 昼前。

 

 玲愛が厨房へ来た。

 

「一回目の焼成記録を見せてください」

 

「はい」

 

 湊はノートを差し出した。

 玲愛は目を通す。

 

「香りの立ち方は、通常範囲です」

 

「はい」

 

「焼き色も、問題ありません」

 

「はい」

 

「ただし、記録の言葉が少し前向きすぎます」

 

「前向きすぎる?」

 

「『良い香り』ではなく、『焦がしバターの香りが通常より半拍早く立つ』と書いてください」

 

「あ……はい」

 

「感想ではなく、状態を書いてください」

 

「分かりました」

 

「歓迎会の翌日だからといって、記録まで浮かせないこと」

 

 湊は少しだけ苦笑しそうになった。

 

 その通りだった。

 

 自分では普通に書いたつもりだった。

 だが、確かにいつもより少しだけ言葉が柔らかい。

 嬉しさが、記録に出ていたのかもしれない。

 

「修正します」

 

「そうしてください」

 

「ありがとうございます」

 

「礼は不要です」

 

「はい」

 

 玲愛はノートを返した。

 

「午後も通常通りに」

 

「はい」

 

「相沢さん」

 

「はい」

 

「昨日、歓迎されたこと自体は、否定する必要はありません」

 

 湊は、顔を上げた。

 玲愛は、少しだけ視線を外していた。

 

「ですが、それを皿の言い訳にしないこと」

 

 湊は、しばらく言葉を探した。

 

 否定する必要はない。

 玲愛が、そう言った。

 歓迎されたことを。

 それを、否定しなくていいと。

 

「はい」

 

 湊は、ゆっくり答えた。

 

「忘れません。でも、甘えません」

 

 玲愛は、こちらを見た。

 

「……言葉の使い方に注意してください」

 

「はい」

 

「今の言い方も、少し危険です」

 

「すみません」

 

「謝罪ではなく、修正してください」

 

「難しいです」

 

「では、今後の課題です」

 

「はい」

 

 いつものやり取り。

 だが、今日の湊にはそれがとてもありがたかった。

 

 歓迎会の翌日。

 

 特別だった昨日の後。

 いつも通りに指摘される。

 いつも通りに修正を求められる。

 

 それは、ちゃんと店の一員として扱われているということでもあった。

 

 玲愛はホールへ戻った。

 湊は、ノートの「良い香り」という言葉に線を引き、状態に書き直した。

 

 焦がしバターの香りが通常より半拍早く立つ。

 甘さの戻りは通常範囲。

 焼き色は許容範囲。

 

 記録を整えると、手元も少し落ち着いた。

 

 午後の営業が始まる。

 

 焼き菓子は、いつも通り客席へ出ていった。

 

 森崎が運ぶ。

 玲愛が流れを見る。

 有坂が店全体を見ている。

 三枝が厨房で焼成を確認している。

 湊は、皿の上と、その外側を考える。

 昨日の歓迎会は、そこに直接乗せない。

 けれど、心のどこかには残しておく。

 

 この店で働いていること。

 昨日の席で迎えてくれた人たちがいること。

 その席にいなかった人たちも含めて、今日もキュリオの時間が動いていること。

 その中で、自分の皿も出ていくこと。

 湊は、そのことを忘れたくなかった。

 

 閉店後。

 

 湊は最後の記録をまとめた。

 

 大きな乱れはない。

 午前一回目の香りだけ少し早かった。

 午後には安定した。

 歓迎会翌日の作業としては、通常範囲。

 ただし、記録表現に感想が混ざりやすい。

 次回注意。

 

 そう書いたところで、三枝が覗き込んだ。

 

「いい記録だね」

 

「ありがとうございます」

 

「歓迎会の翌日としては?」

 

「浮きすぎなかったと思います」

 

「それ、花鳥さんに言ったらまた注意されるよ」

 

「状態で言い直します」

 

「うん」

 

 三枝は笑った。

 湊も少し笑った。

 ホール側から、玲愛の声が聞こえる。

 

「森崎さん、明日の案内カードは今日と同じ位置で構いません」

 

「はい」

 

「店長、明日の予約表を確認しました」

 

「ありがとう」

 

 いつもの音。

 昨日とは違う。

 でも、昨日があったから、少し違って聞こえる。

 

 湊はノートを閉じた。

 

 相沢湊は、歓迎されたことを忘れない。

 ただ、その歓迎に甘えないように。

 今日も、明日も。

 

 皿の上と、その外側を整えることにした。

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