第24話 相沢湊は、店の一員として数えられる
歓迎会から数日が過ぎても、相沢湊の立ち位置が大きく変わったわけではなかった。
厨房に入る時間は同じ。
白いコックコートに袖を通す手順も同じ。
作業台の位置も同じ。
粉の量り方も、バターの温度の見方も、焼成記録の書き方も、何かが急に簡単になるわけではない。
森崎乃々香が、急に特別に優しくなったわけでもない。
三枝誠司が、急に全部を任せてくれるようになったわけでもない。
有坂直人が、湊を店の中心に置いたわけでもない。
花鳥玲愛は、相変わらず厳しい。
先日の歓迎会など、もう終了した話だと言わんばかりに、いつもの姿勢でホールに立っている。
だから、表面上は何も変わっていない。
けれど。
湊は、少しずつ気づき始めていた。
変わったのは、優しさの量ではない。
任される範囲だった。
「相沢くん」
三枝に呼ばれて、湊は顔を上げた。
「はい」
「今日の午後分、二回目の焼成、相沢くんの判断で止めてみて」
湊は、一瞬だけ手を止めた。
「俺の判断で、ですか」
「うん」
三枝は、いつも通りの穏やかな顔で頷いた。
「もちろん、最終確認はするよ。でも、今日は俺が先に止めるんじゃなくて、相沢くんが止め時を出して」
「はい」
「焼き色だけじゃなくて、紅茶と合わせた時の香りの戻りも見て」
「分かりました」
「本当に?」
その言い方が、どこか花鳥に似ていた。
湊は苦笑しそうになったが、こらえた。
「はい。焼き色、香り、紅茶との戻りまで見ます」
「よろしい」
三枝は少し笑った。
「歓迎会が終わったからって、急に一人前扱いするわけじゃないけどね」
「はい」
「でも、店の一員として数える場面は増えるよ」
湊は、すぐには返事ができなかった。
店の一員として数える。
その言葉は、歓迎会の余韻とは違う重さで胸に残った。
歓迎された。
だから嬉しい。
それだけでは終わらない。
歓迎されたなら、その分だけ、次の判断も求められる。
「……はい」
湊は、少し遅れて答えた。
「やってみます」
「やってみる、じゃなくて、判断して」
三枝は、柔らかい声のまま言った。
「はい。判断します」
「うん。それでいい」
作業台に戻る。
生地を確認する。
焼き色を見る。
オーブンの中の香りを拾う。
今までなら、三枝の一言を待っていた。
もう少し。
そこまで。
止めよう。
そう言われてから動くことが多かった。
だが、今日は違う。
湊が見る。
湊が考える。
湊が止める。
責任というほど大げさなものではない。
それでも、今までより自分の手元が重く感じた。
焼き色は、まだ浅い。
香りは立ち始めている。
けれど、紅茶に合わせた時の戻りを考えるなら、もう半拍待ってもいい。
湊は、息を整えた。
「三枝さん」
「うん」
「あと二十秒で止めます」
三枝は、すぐには答えなかった。
オーブンを見る。
香りを見る。
それから頷く。
「いいと思う」
その一言で、湊の肩から少し力が抜けた。
だが、抜けすぎないようにする。
これは褒められたのではない。
判断が通っただけだ。
二十秒後、湊は焼成を止めた。
取り出した焼き菓子は、いつもよりほんの少しだけ輪郭がはっきりしていた。
三枝が一つを割る。
香りを確認する。
「悪くない」
「ありがとうございます」
「ただし、記録して。今日は相沢くんの判断で止めたんだから」
「はい」
「責任を持って、状態まで残すこと」
「分かりました」
湊はノートを開いた。
焼成停止判断、自分。
焼き色、通常より半拍深い。
香り、紅茶と合わせる前提なら許容範囲。
甘さの戻り、要確認。
書きながら、湊は思った。
任されるというのは、自由になることではない。
記録することが増えるということだった。
午後に入る前、森崎が厨房の入口に顔を出した。
「相沢さん、少し確認してもいいですか」
「はい」
湊は手を止めた。
森崎が手にしているのは、ホール用の案内カードだった。
昨日までなら、森崎はまず花鳥に確認していた。
湊の菓子についてでも、最終的な言葉の整え方は花鳥が見ることが多かった。
もちろん、今もそれは変わらない。
だが、今日の森崎は、先に湊へ来た。
「午後のお客様に説明する時なんですけど」
「はい」
「今日の焼き菓子、昨日と少し香りが違いますか?」
湊は、少し驚いた。
「分かりますか」
「分かる、というほどではないんですけど、少しだけ印象が違う気がして」
森崎は、案内カードを見ながら続けた。
「いつもの説明でいいのか、少し迷いました」
湊は、作業台の上の焼き菓子を見た。
今日の焼成は、湊の判断で少しだけ止め時を変えている。
大きく変えたわけではない。
だが、香りの輪郭はほんの少し違う。
森崎は、それに気づいた。
ホール側で、客に説明する人として。
「少しだけ、紅茶と合わせた時の香りの戻りを見ています」
「香りの戻り」
「はい。ただ、説明として出すなら、そこまで言わない方がいいと思います」
「ですよね」
森崎は、少し安心したように笑った。
「お客様にそのまま言うと、たぶん難しいですよね」
「はい」
湊は考えた。
厨房の言葉ではなく、ホールの言葉。
作った側の説明ではなく、客が受け取る言葉。
以前なら、材料や焼成の話をそのまま出していたかもしれない。
でも、今は少し違う。
「いつもより少しだけ、紅茶の後に香りが残ります、くらいでしょうか」
森崎は案内カードに目を落とす。
「紅茶の後に、少しだけ香りが残ります」
「強すぎますか?」
「いえ、分かりやすいです」
森崎は頷いた。
「でも、花鳥さんなら、もう少し短くしそうです」
「たぶん、します」
湊がそう言うと、森崎は笑った。
「では、花鳥さんに確認してきます」
「お願いします」
「あ、でも」
森崎は立ち止まった。
「先に相沢さんに聞いてよかったです。作った人の意図を聞いてから、言葉を短くした方が、たぶん説明しやすいので」
湊は、言葉に詰まりかけた。
作った人の意図。
それを、森崎が先に聞きに来た。
自分の菓子だから。
そして、自分が店の一員として、その説明にも関わるべきだから。
「ありがとうございます」
「花鳥さんに言われますよ」
森崎が楽しそうに言った。
「礼は一度で十分です、って」
「今のは一度目です」
「では、大丈夫ですね」
森崎は笑って、ホールへ戻っていった。
その少し後、ホール側から玲愛の声が聞こえた。
「森崎さん、その表現なら問題ありません。ただし、“少しだけ”を強調しすぎないでください。お客様が香りを探しに行ってしまいます」
「はい」
「自然に添える程度で」
「分かりました」
湊は、厨房の中でその声を聞いていた。
最終的には、やはり花鳥が整える。
けれど、最初から全部を花鳥に預けるのではない。
湊が意図を出し、森崎が運ぶ言葉に直し、花鳥が客席に置ける形へ整える。
その流れの中に、自分も入っている。
そのことに、湊は背筋を伸ばした。
午後の営業前、有坂が厨房へ顔を出した。
「相沢くん、少しいいかな」
「はい」
有坂は提供表を手にしていた。
「今日の午後、紅茶セットの予約が増えてるんだけど、焼き菓子はどのくらいまで出せそう?」
湊は、一瞬だけ三枝を見そうになった。
だが、有坂は湊に聞いている。
湊は残数と追加焼成に必要な時間を確認した。
「今の仕込みなら、通常提供分に加えて六個まで焼けます」
「六個まで焼けるんだね」
「はい」
「今の予約数と、持ち帰りの見込みは見た?」
湊の手が止まった。
「……まだです」
「森崎さんが持っている数字も必要そうだね」
「はい」
有坂は責めなかった。
ただ、六個という答えを提供表へは書かなかった。
そこへ、案内カードを持った森崎が通りかかった。
「森崎さん、午後の予約と持ち帰りの見込み、今どのくらい?」
「予約分が三つです。持ち帰りは、今の流れだと二件くらい入るかもしれません」
湊は、もう一度ノートを見る。
焼ける数だけでは足りない。
すでに決まっている注文。
これから入る可能性のある注文。
ホールが説明を止めるタイミング。
追加で焼いた場合に、確認時間を確保できるか。
厨房の中だけでは見えない条件が増えていく。
「相沢さん」
玲愛の声がした。
厨房の入口に立ち、提供表と森崎の案内カードを見比べている。
「六個というのは、焼ける数ですね」
「はい」
「店に出せる数とは限りません」
「……はい」
「予約分を除いた残数は」
湊は計算し直した。
「三個です」
「持ち帰りが二件入った場合は」
「一個分だけ余ります」
「追加焼成の確認時間は」
「十分には取れません」
「では、店内追加と持ち帰りを合わせた追加受付は?」
湊は、すぐには答えられなかった。
六個まで焼ける。
その数字だけを答えた時には見えていなかったものが、今は並んでいる。
「三個までです」
「理由は」
「予約分と、持ち帰りの見込みを含めても、今の品質を維持できる範囲だからです。追加焼成はしません」
玲愛は提供表へ三個と記入した。
「今日のところは、その判断で進めます」
「はい」
「ただし、条件を並べたのは私と店長です」
湊は息を詰めた。
「あなたは最初、厨房で焼ける数だけを答えました」
「はい」
「判断を求められるようになったことと、一人で店全体を見切れることは同じではありません」
「分かりました」
「次は、残数だけでなく、予約、持ち帰り、ホールが案内を止める位置まで先に確認してください」
「はい」
「店の一員として数える以上、厨房の答えだけでは不十分です」
湊はノートへ、最初に見落とした条件を書き加えた。
予約数。
持ち帰り見込み。
案内停止のタイミング。
確認時間。
任されたことが嬉しいだけでは、店の数字にはならない。
午後、森崎から追加の連絡が入った。
「相沢さん、持ち帰りが二件入りそうです」
「対応できます」
答えてから、湊は言葉が足りないことに気づいた。
玲愛が口を挟むより先に、ノートと焼き菓子を確認する。
「追加は二件までです。三件目が入りそうなら、注文を受ける前に連絡してください。追加焼成はしません」
森崎が頷いた。
「分かりました」
玲愛は提供表を持ち直し、湊の返答を確認した。
「先ほどよりは、ホールが次に動ける答えです」
「はい」
「ですが、今の条件は先に示されたものです。次回は自分で拾ってください」
「分かりました」
湊は短く返事をした。
今日は、自分だけで決めたわけではない。
判断を求められた。
そして、自分に見えていない範囲を教えられた。
店の一員になるということは、急に何でもできるようになることではなかった。
見なければならない場所が増えることだった。
閉店後。
湊は、今日の記録をまとめていた。
焼成停止判断。
森崎へ返した香りの説明。
有坂へ最初に答えた、厨房で焼ける数。
その後に見落としていた、予約数、持ち帰り見込み、案内停止の位置。
玲愛に問われて、ようやく拾えた条件。
書くことは、以前より増えている。
だが、今日は成功したことだけを書いて終えるわけにはいかなかった。
三枝が横からノートを覗いた。
「今日はずいぶん増えたね」
「見えていないものが多かったです」
「それに気づけたなら、今日は十分だよ」
「十分でしょうか」
「一人でできた、とは書けないけどね」
「はい」
その通りだった。
焼成を止める判断はできた。
森崎へ説明を返すこともできた。
提供数も考えようとした。
しかし、店全体の条件は玲愛と有坂に並べてもらった。
湊は最後に書き加えた。
判断を任され始めた。
ただし、店全体を見るには不足あり。
次回は、厨房の数字を答える前にホールの条件を確認する。
厨房の入口に玲愛が立った。
「相沢さん」
「はい」
「今日の記録は、明日の朝に確認します」
「分かりました」
「歓迎されたからといって、判断を軽くしてよいわけではありません」
「思っていません」
「今日の提供数も、あなた一人で決めたとは記録しないこと」
「はい」
湊はノートを開いたまま答えた。
「甘やかされないことも、店の一員として扱われることだと思います」
玲愛は提供表の角を揃えた。
「その表現は記録に向きません」
「では、どう直せば」
「今日、誰の確認で何が補われたかを書いてください」
「分かりました」
「店の一員として扱います。だから、明日も通常通りです」
「はい」
通常通り。
その言葉は、優しくするという意味ではない。
明日も判断を求められるという意味だった。
相沢湊は、店の一員として数えられる。
ただし、数えられたその日から、一人で店のすべてが見えるわけではない。
見落とした場所を記録し、次は自分で拾う。
その繰り返しが、いつもの仕事の中で始まっていた。