森崎乃々香は、最近分かってきたことがある。
花鳥玲愛は、甘やかさない。
それは本当だ。
ホールでの立ち位置。
お客様への声のかけ方。
メニューを差し出す角度。
紅茶を置くタイミング。
皿を下げる順番。
少しでも曖昧になれば、すぐに指摘が入る。
「森崎さん、今の説明は少し長いです」
「はい」
「お客様が選ぶ前に、こちらが答えを押しつけています」
「はい」
「相沢さんの焼き菓子を説明する時ほど、言葉を軽くしてください」
「はい」
そういう時の花鳥は、いつも通りだった。
厳しい。
正しい。
逃げ道がない。
だから、花鳥が「甘やかしません」と言ったなら、それはたぶん本当なのだと思う。
ただし。
森崎乃々香は、もう一つ気づいていた。
花鳥玲愛は、甘やかさない。
けれど、相沢湊のことを、ものすごく見ている。
そしてそれは、たぶん。
甘やかしているように見える。
少なくとも、森崎にはそう見える。
その日の朝も、キュリオはいつも通り始まった。
ホールでは椅子の位置を整え、メニューカードを確認し、窓際席の光の入り方を見る。
厨房からは、三枝誠司の声と、相沢湊の返事が聞こえてくる。
「相沢くん、今日の一回目、昨日より少し早めに見ようか」
「はい」
「ただし、早く止めるって決めつけないで。香りを見てから」
「分かりました」
森崎は、ナプキンを揃えながら、厨房の方へ目を向けた。
相沢は、以前より返事がはっきりしている。
でも、少しだけ肩に力が入っている。
店の一員として数えられるようになった。
そういうことなのだろう。
昨日、花鳥が言っていた。
「甘やかしません。店の一員として扱います」
森崎はその場に直接いたわけではない。
けれど、ホール側に戻ってきた花鳥の雰囲気と、厨房でノートに向かっていた相沢の顔を見れば、何か言われたのだろうとは分かった。
相沢は嬉しそうだった。
ただし、浮かれてはいなかった。
嬉しそうなのに、いつもより記録が増えていた。
それが相沢らしい。
花鳥がホールの確認を終え、提供表を見た。
「森崎さん」
「はい」
「午後の紅茶セットですが、今日も焼き菓子の説明が必要になる可能性があります」
「はい」
「相沢さんに確認する場合は、焼成直後を避けてください」
「焼成直後、ですか?」
「香りの確認と記録が入ります。そこで話しかけると、判断が乱れます」
「分かりました」
森崎は頷いた。
そこまでは普通の指示だった。
作り手の判断を邪魔しない。
ホールと厨房の連携として、とても正しい。
ただ、花鳥は続けた。
「一回目の焼成後、三枝さんの確認が終わって、相沢さんが記録を一度閉じた後にしてください」
「はい」
「それと、質問は一度にまとめてください」
「はい」
「相沢さんは、聞かれたことに全部答えようとします。説明が長くなる前に、必要な範囲をこちらで絞ってください」
「はい」
森崎は瞬きをした。
業務上は、正しい。
正しいのだが。
今のは、かなり相沢のことを見ていないと言えない指示ではないだろうか。
質問されると全部答えようとする。
説明が長くなる。
記録前に話しかけると判断が乱れる。
そういうところまで、花鳥は把握している。
「森崎さん」
「はい」
「何か」
「いえ」
森崎は首を振った。
「分かりました。焼成直後は避けます」
「お願いします」
花鳥は、何事もなかったように提供表へ視線を戻した。
甘やかしてはいない。
たぶん。
けれど、森崎には少しだけ、相沢の周りに見えない柵を立てているように見えた。
午前の営業が始まった。
客足は穏やかだったが、紅茶セットの注文はいつもより少し多い。
森崎は、花鳥に言われた通り、焼成直後を避けた。
厨房の入口から様子を見て、三枝が一度頷き、相沢がノートに何かを書いて、ペンを置いたところで声をかける。
「相沢さん、今大丈夫ですか」
「はい」
相沢は顔を上げた。
「紅茶セットの説明なんですけど、今日の焼き菓子は昨日と同じ説明で大丈夫ですか?」
相沢は、すぐに答えなかった。
焼き菓子を見る。
記録を見る。
それから、少し考えて言った。
「昨日より、香りの立ち方は通常に近いです。なので、説明は戻して大丈夫だと思います。ただ、紅茶の後に少しだけ香りが残る点はそのままです」
「では、昨日より強調しない方がいいですか?」
「はい。探してもらうより、自然に気づいてもらうくらいがいいと思います」
「分かりました」
森崎は頷いた。
こういうところが、以前と違う。
前の相沢なら、材料や焼成の話をもっと長くしていた気がする。
今は、森崎が運びやすいところまで言葉を落としてくれる。
厨房の言葉と、ホールの言葉の間に、自分で橋をかけようとしている。
「ありがとうございます」
森崎が言うと、相沢は困った顔をした。
「こちらこそ、確認ありがとうございます」
「花鳥さんに言われますよ。礼は一度で十分ですって」
「今のは、何回目でしょうか」
「相沢さんの場合、数え始めると大変そうですね」
「気をつけます」
相沢が真面目に答えるので、森崎は少し笑ってしまった。
その時、横から声が入った。
「森崎さん」
「はいっ」
振り向くと、花鳥が厨房の入口に立っていた。
「会話が長くなっています」
「あ、すみません」
「謝罪ではなく、確認内容を持ち帰ってください」
「はい」
森崎は案内カードを手に、ホールへ戻った。
叱られた。
叱られたのだが。
花鳥の視線は、最後に一瞬だけ相沢の手元にも向いていた。
ノート。
焼き菓子。
オーブン。
相沢の表情。
全部を見てから、花鳥はホールへ戻っていく。
やっぱり、見ている。
森崎は、そう思った。
昼前、店の流れが一度だけ詰まった。
予約席の準備。
窓際席の入れ替え。
紅茶セットの追加。
森崎は相沢へ確認に行こうとして、焼成前の厨房を見て足を止めた。
その動きを、花鳥が先に拾った。
「森崎さん、確認事項を一度まとめてください」
「はい」
「今は焼成前です。個別に持ち込むと、判断が散ります」
森崎は、追加注文の可能性と、ホールで必要な返答だけを短く伝えた。
花鳥はそれを持って厨房へ向かう。
「相沢さん」
「はい」
「追加の可能性が二件あります。現時点の残数と、追加焼成の要否を確認してください」
相沢は焼き菓子と記録を見た。
「追加分はあと二個までです。追加焼成はしません」
花鳥の視線が、記録へ移る。
「理由は」
「今から焼くと、次の仕込みと確認時間に重なります。今ある分を二個出したところで止めます」
「その内容を、森崎さんへ返してください」
「はい」
相沢が厨房の入口から森崎を呼んだ。
「森崎さん。追加は二個までです。それ以上になりそうなら、受ける前に連絡してください」
「分かりました」
短い。
前のように材料や焼成の説明を重ねず、ホールが次に動けるところまで言葉を落としている。
森崎は、花鳥が何も補わなかったことにも気づいた。
昨日教えられたことを、今日は相沢が先に返した。
そのことが、少し嬉しかった。
午後の少し落ち着いた時間。
森崎は、カウンターの端に小さなカップが置かれていることに気づいた。
紅茶だった。
客席用ではない。
スタッフ用の小さなカップ。
隣には、小さく切った焼き菓子の端が一つ。
森崎は一瞬、三枝のものかと思った。
だが、置かれている場所が違う。
厨房の入口に近いが、作業台の邪魔にはならない場所。
相沢が記録を終えて、少し手を空けた時に、自然に目に入る位置。
森崎は、ゆっくり花鳥を見た。
花鳥は、提供表を確認していた。
「花鳥さん」
「何ですか」
「あれは」
「確認用です」
即答だった。
早い。
あまりにも早い。
「確認用、ですか」
「はい」
「誰の」
「相沢さんの判断精度維持のためです」
森崎は、言葉を失いかけた。
判断精度維持。
そう来た。
「……差し入れではなく?」
「違います」
花鳥は、森崎を見た。
「作業中に判断が鈍ると、ホールにも厨房にも影響します。店の一員として働く以上、状態管理も業務の一部です」
「はい」
「したがって、これは甘やかしではありません」
「私、まだ甘やかしとは言っていません」
「顔に出ていました」
「すみません」
「謝罪ではなく、表情を管理してください」
「はい」
森崎は口元を引き締めた。
だが、内心では思っていた。
それは、かなり甘やかしではないでしょうか。
ただし、口には出さない。
森崎乃々香も、少しは学習している。
花鳥は、小さなカップの位置をわずかに動かした。
湊の作業導線に入らない位置。
けれど、視界には入る位置。
温度が下がりすぎない距離。
森崎は、その手元を見てしまった。
細かい。
細かすぎる。
これを甘やかしではないと言うなら、甘やかしとはいったい何なのだろう。
その時、厨房から相沢が出てきた。
「森崎さん、先ほどの追加分ですが」
「あ、はい」
森崎が答えようとしたところで、相沢の視線がカップに止まった。
当然だ。
あんな位置にあれば、気づく。
相沢は目を瞬かせた。
「花鳥さん」
「何ですか」
「これは」
「休憩ではありません」
早い。
やはり早い。
相沢は少し困ったようにカップを見た。
「では、何でしょうか」
「判断精度維持のための確認です」
森崎は、心の中で手を合わせた。
相沢さん、頑張ってください。
その説明を真面目に受け取れるのは、たぶん相沢さんだけです。
相沢は、本当に真面目に頷いた。
「俺への差し入れではないんですね」
「違います」
「分かりました」
「店の一員として働く人間が、途中で判断を鈍らせると困るだけです」
「はい」
相沢は、カップを手に取った。
紅茶を一口飲む。
それから、小さな焼き菓子の端を見る。
「これは、今日の焼き菓子の端ですか」
「形が商品基準に届かなかったものです」
「味は同じですか」
「確認済みです」
「花鳥さんが?」
「三枝さんがです」
間があった。
森崎は、その間に気づいてしまった。
たぶん、三枝が確認したのは本当だ。
でも、この位置に置いたのは花鳥だ。
温度を見たのも花鳥だ。
相沢の作業が一段落するタイミングを見ていたのも、花鳥だ。
相沢は、焼き菓子の端を口に運んだ。
ほんの少しだけ、肩の力が抜けたように見えた。
「助かります」
「礼は不要です」
「はい」
「業務上必要な状態管理です」
「分かっています」
「本当に?」
「半分くらいです」
花鳥の目が細くなった。
「残り半分は」
「ありがたいと思っています」
森崎は、思わず息を止めた。
相沢さん。
それは、かなり危険です。
花鳥の指が、提供表の同じ行に留まった。
本当に一瞬だけ。
けれど森崎には分かった。
今、花鳥は返す言葉を選んでいる。
「その礼は、業務上の確認に限定してください」
「はい」
「私個人への意味を足さないこと」
「すみません」
「謝罪ではなく、作業に戻ってください」
「はい」
相沢はカップを置いた。
すぐには飲み干さない。
半分残した。
作業の合間にもう一度飲むつもりなのだろう。
その判断も、花鳥は見ていた。
「温度が下がりすぎる前に飲んでください」
「はい」
「冷めると、香りの確認に影響します」
「分かりました」
森崎は、もう一度思った。
甘い。
これは、甘い。
ただし、花鳥の言葉は全部仕事の形をしている。
そこがすごい。
午後の営業は、その後も大きく乱れずに進んだ。
紅茶セットは予定より少し多く出たが、相沢の焼き菓子は足りた。
森崎も説明を長くしすぎずに済んだ。
花鳥は、いつも通りホール全体を見ていた。
有坂は、少し離れたところから穏やかにその様子を眺めている。
閉店後、森崎は片付けをしながら、有坂が花鳥に言うのを聞いた。
「花鳥さん、今日は相沢くんの状態管理までしてたね」
「店長」
「うん?」
「必要な業務です」
「そうだね」
有坂は笑っていた。
完全に分かっている顔だった。
「店の一員として扱うなら、状態も見る必要があるものね」
「その通りです」
「甘やかしてるわけじゃない」
「違います」
「うん。違うことにしておこう」
「店長」
森崎は、布巾を畳みながら、笑わないようにした。
有坂は強い。
花鳥の反論を、ちゃんと聞いた上で、逃げ道を残す。
三枝が厨房から出てきた。
「相沢くん、今日は最後まで集中切れなかったね」
「はい。紅茶のおかげもあると思います」
「紅茶?」
三枝がわざとらしく言う。
相沢は真面目に答えた。
「判断精度維持のための確認です」
三枝は一瞬黙った。
それから、肩を震わせた。
「……相沢くん、染まってきたね」
「そうでしょうか」
「うん。かなり」
花鳥がすぐに口を挟む。
「三枝さん、余計な表現です」
「はいはい」
「はい、は一度です」
「はい」
いつものやり取り。
いつものキュリオ。
でも、森崎には違って見えた。
相沢は、もうただの新人ではない。
花鳥は、それを甘やかさないと言う。
実際、甘やかしてはいないのだと思う。
判断は求める。
記録も求める。
説明も直す。
遅ければ指摘する。
曖昧なら切る。
けれど、その一方で。
質問のタイミングを調整する。
疲れを見ている。
紅茶の温度を見ている。
作業導線を邪魔しない場所に、小さな甘さを置く。
それを、甘やかしではないと言う。
森崎乃々香は、片付けを終えて、最後にホールを見渡した。
花鳥は、明日の提供表を確認している。
相沢は、厨房で今日の記録を書いている。
その距離は、近すぎない。
遠すぎもしない。
ただ、以前より、同じ店の中で線がつながっているように見えた。
「森崎さん」
「はい」
花鳥に呼ばれて、森崎は背筋を伸ばした。
「明日の案内カードですが、今日の表現を少しだけ短くします」
「はい」
「相沢さんには、朝の焼成後に確認してください。ただし、焼成直後は避けること」
「分かりました」
「それと」
「はい」
「今日のように、必要な確認は作り手に直接聞いて構いません。店の商品ですから」
「はい」
森崎は頷いた。
それから、迷って言った。
「花鳥さん」
「何ですか」
「相沢さん、今日、少し助かっていたと思います」
花鳥の手が、ほんの少し止まった。
「……それは、業務上望ましいことです」
「はい」
「判断が安定したなら、店にとって良いことです」
「はい」
「それ以上の意味はありません」
「はい」
森崎は、素直に返事をした。
ただし、心の中では思った。
それ以上の意味がない顔ではない気がします。
もちろん、言わない。
言えば、きっと「表情を管理してください」と言われる。
だから森崎は、にこっと笑うだけにした。
「明日も、焼成直後は避けます」
「お願いします」
花鳥は、それで話を終えた。
森崎は、ホールの照明を落とす準備をしながら、もう一度厨房を見た。
相沢がノートを書いている。
花鳥が提供表を確認している。
同じ方向を向いているわけではない。
けれど、同じ店の明日を見ている。
花鳥玲愛は、店の一員を甘やかさない。
それは本当だ。
ただ、店の一員がちゃんと立っていられるように、紅茶の温度と、声をかけるタイミングと、小さな甘さの置き場所くらいは見る。
それも、たぶん本当だった。
森崎乃々香は、今日学んだ。
花鳥玲愛の「甘やかしていない」は、言葉通りに受け取ってはいけない。
少なくとも、相沢湊に関しては。
かなり、注意深く見た方がいい。