花鳥玲愛は、甘さを認めない   作:エーアイ

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第25話 森崎乃々香は、甘やかしではないと言われる

 森崎乃々香は、最近分かってきたことがある。

 

 花鳥玲愛は、甘やかさない。

 

 それは本当だ。

 

 ホールでの立ち位置。

 お客様への声のかけ方。

 メニューを差し出す角度。

 紅茶を置くタイミング。

 皿を下げる順番。

 少しでも曖昧になれば、すぐに指摘が入る。

 

「森崎さん、今の説明は少し長いです」

 

「はい」

 

「お客様が選ぶ前に、こちらが答えを押しつけています」

 

「はい」

 

「相沢さんの焼き菓子を説明する時ほど、言葉を軽くしてください」

 

「はい」

 

 そういう時の花鳥は、いつも通りだった。

 

 厳しい。

 正しい。

 逃げ道がない。

 

 だから、花鳥が「甘やかしません」と言ったなら、それはたぶん本当なのだと思う。

 

 ただし。

 森崎乃々香は、もう一つ気づいていた。

 

 花鳥玲愛は、甘やかさない。

 けれど、相沢湊のことを、ものすごく見ている。

 

 そしてそれは、たぶん。

 甘やかしているように見える。

 

 少なくとも、森崎にはそう見える。

 

 その日の朝も、キュリオはいつも通り始まった。

 ホールでは椅子の位置を整え、メニューカードを確認し、窓際席の光の入り方を見る。

 厨房からは、三枝誠司の声と、相沢湊の返事が聞こえてくる。

 

「相沢くん、今日の一回目、昨日より少し早めに見ようか」

 

「はい」

 

「ただし、早く止めるって決めつけないで。香りを見てから」

 

「分かりました」

 

 森崎は、ナプキンを揃えながら、厨房の方へ目を向けた。

 

 相沢は、以前より返事がはっきりしている。

 でも、少しだけ肩に力が入っている。

 店の一員として数えられるようになった。

 そういうことなのだろう。

 

 昨日、花鳥が言っていた。

 

「甘やかしません。店の一員として扱います」

 

 森崎はその場に直接いたわけではない。

 けれど、ホール側に戻ってきた花鳥の雰囲気と、厨房でノートに向かっていた相沢の顔を見れば、何か言われたのだろうとは分かった。

 

 相沢は嬉しそうだった。

 ただし、浮かれてはいなかった。

 嬉しそうなのに、いつもより記録が増えていた。

 それが相沢らしい。

 

 花鳥がホールの確認を終え、提供表を見た。

 

「森崎さん」

 

「はい」

 

「午後の紅茶セットですが、今日も焼き菓子の説明が必要になる可能性があります」

 

「はい」

 

「相沢さんに確認する場合は、焼成直後を避けてください」

 

「焼成直後、ですか?」

 

「香りの確認と記録が入ります。そこで話しかけると、判断が乱れます」

 

「分かりました」

 

 森崎は頷いた。

 

 そこまでは普通の指示だった。

 作り手の判断を邪魔しない。

 ホールと厨房の連携として、とても正しい。

 ただ、花鳥は続けた。

 

「一回目の焼成後、三枝さんの確認が終わって、相沢さんが記録を一度閉じた後にしてください」

 

「はい」

 

「それと、質問は一度にまとめてください」

 

「はい」

 

「相沢さんは、聞かれたことに全部答えようとします。説明が長くなる前に、必要な範囲をこちらで絞ってください」

 

「はい」

 

 森崎は瞬きをした。

 

 業務上は、正しい。

 正しいのだが。

 今のは、かなり相沢のことを見ていないと言えない指示ではないだろうか。

 

 質問されると全部答えようとする。

 説明が長くなる。

 記録前に話しかけると判断が乱れる。

 

 そういうところまで、花鳥は把握している。

 

「森崎さん」

 

「はい」

 

「何か」

 

「いえ」

 

 森崎は首を振った。

 

「分かりました。焼成直後は避けます」

 

「お願いします」

 

 花鳥は、何事もなかったように提供表へ視線を戻した。

 

 甘やかしてはいない。

 たぶん。

 けれど、森崎には少しだけ、相沢の周りに見えない柵を立てているように見えた。

 

 午前の営業が始まった。

 

 客足は穏やかだったが、紅茶セットの注文はいつもより少し多い。

 森崎は、花鳥に言われた通り、焼成直後を避けた。

 厨房の入口から様子を見て、三枝が一度頷き、相沢がノートに何かを書いて、ペンを置いたところで声をかける。

 

「相沢さん、今大丈夫ですか」

 

「はい」

 

 相沢は顔を上げた。

 

「紅茶セットの説明なんですけど、今日の焼き菓子は昨日と同じ説明で大丈夫ですか?」

 

 相沢は、すぐに答えなかった。

 

 焼き菓子を見る。

 記録を見る。

 それから、少し考えて言った。

 

「昨日より、香りの立ち方は通常に近いです。なので、説明は戻して大丈夫だと思います。ただ、紅茶の後に少しだけ香りが残る点はそのままです」

 

「では、昨日より強調しない方がいいですか?」

 

「はい。探してもらうより、自然に気づいてもらうくらいがいいと思います」

 

「分かりました」

 

 森崎は頷いた。

 

 こういうところが、以前と違う。

 前の相沢なら、材料や焼成の話をもっと長くしていた気がする。

 

 今は、森崎が運びやすいところまで言葉を落としてくれる。

 厨房の言葉と、ホールの言葉の間に、自分で橋をかけようとしている。

 

「ありがとうございます」

 

 森崎が言うと、相沢は困った顔をした。

 

「こちらこそ、確認ありがとうございます」

 

「花鳥さんに言われますよ。礼は一度で十分ですって」

 

「今のは、何回目でしょうか」

 

「相沢さんの場合、数え始めると大変そうですね」

 

「気をつけます」

 

 相沢が真面目に答えるので、森崎は少し笑ってしまった。

 その時、横から声が入った。

 

「森崎さん」

 

「はいっ」

 

 振り向くと、花鳥が厨房の入口に立っていた。

 

「会話が長くなっています」

 

「あ、すみません」

 

「謝罪ではなく、確認内容を持ち帰ってください」

 

「はい」

 

 森崎は案内カードを手に、ホールへ戻った。

 

 叱られた。

 叱られたのだが。

 

 花鳥の視線は、最後に一瞬だけ相沢の手元にも向いていた。

 

 ノート。

 焼き菓子。

 オーブン。

 相沢の表情。

 全部を見てから、花鳥はホールへ戻っていく。

 

 やっぱり、見ている。

 

 森崎は、そう思った。

 

 昼前、店の流れが一度だけ詰まった。

 

 予約席の準備。

 窓際席の入れ替え。

 紅茶セットの追加。

 

 森崎は相沢へ確認に行こうとして、焼成前の厨房を見て足を止めた。

 その動きを、花鳥が先に拾った。

 

「森崎さん、確認事項を一度まとめてください」

 

「はい」

 

「今は焼成前です。個別に持ち込むと、判断が散ります」

 

 森崎は、追加注文の可能性と、ホールで必要な返答だけを短く伝えた。

 花鳥はそれを持って厨房へ向かう。

 

「相沢さん」

 

「はい」

 

「追加の可能性が二件あります。現時点の残数と、追加焼成の要否を確認してください」

 

 相沢は焼き菓子と記録を見た。

 

「追加分はあと二個までです。追加焼成はしません」

 

 花鳥の視線が、記録へ移る。

 

「理由は」

 

「今から焼くと、次の仕込みと確認時間に重なります。今ある分を二個出したところで止めます」

 

「その内容を、森崎さんへ返してください」

 

「はい」

 

 相沢が厨房の入口から森崎を呼んだ。

 

「森崎さん。追加は二個までです。それ以上になりそうなら、受ける前に連絡してください」

 

「分かりました」

 

 短い。

 

 前のように材料や焼成の説明を重ねず、ホールが次に動けるところまで言葉を落としている。

 森崎は、花鳥が何も補わなかったことにも気づいた。

 昨日教えられたことを、今日は相沢が先に返した。

 そのことが、少し嬉しかった。

 

 午後の少し落ち着いた時間。

 

 森崎は、カウンターの端に小さなカップが置かれていることに気づいた。

 

 紅茶だった。

 

 客席用ではない。

 スタッフ用の小さなカップ。

 隣には、小さく切った焼き菓子の端が一つ。

 森崎は一瞬、三枝のものかと思った。

 だが、置かれている場所が違う。

 

 厨房の入口に近いが、作業台の邪魔にはならない場所。

 相沢が記録を終えて、少し手を空けた時に、自然に目に入る位置。

 

 森崎は、ゆっくり花鳥を見た。

 

 花鳥は、提供表を確認していた。

 

「花鳥さん」

 

「何ですか」

 

「あれは」

 

「確認用です」

 

 即答だった。

 

 早い。

 あまりにも早い。

 

「確認用、ですか」

 

「はい」

 

「誰の」

 

「相沢さんの判断精度維持のためです」

 

 森崎は、言葉を失いかけた。

 

 判断精度維持。

 

 そう来た。

 

「……差し入れではなく?」

 

「違います」

 

 花鳥は、森崎を見た。

 

「作業中に判断が鈍ると、ホールにも厨房にも影響します。店の一員として働く以上、状態管理も業務の一部です」

 

「はい」

 

「したがって、これは甘やかしではありません」

 

「私、まだ甘やかしとは言っていません」

 

「顔に出ていました」

 

「すみません」

 

「謝罪ではなく、表情を管理してください」

 

「はい」

 

 森崎は口元を引き締めた。

 

 だが、内心では思っていた。

 それは、かなり甘やかしではないでしょうか。

 

 ただし、口には出さない。

 森崎乃々香も、少しは学習している。

 

 花鳥は、小さなカップの位置をわずかに動かした。

 

 湊の作業導線に入らない位置。

 けれど、視界には入る位置。

 温度が下がりすぎない距離。

 

 森崎は、その手元を見てしまった。

 

 細かい。

 細かすぎる。

 これを甘やかしではないと言うなら、甘やかしとはいったい何なのだろう。

 

 その時、厨房から相沢が出てきた。

 

「森崎さん、先ほどの追加分ですが」

 

「あ、はい」

 

 森崎が答えようとしたところで、相沢の視線がカップに止まった。

 

 当然だ。

 あんな位置にあれば、気づく。

 

 相沢は目を瞬かせた。

 

「花鳥さん」

 

「何ですか」

 

「これは」

 

「休憩ではありません」

 

 早い。

 やはり早い。

 

 相沢は少し困ったようにカップを見た。

 

「では、何でしょうか」

 

「判断精度維持のための確認です」

 

 森崎は、心の中で手を合わせた。

 

 相沢さん、頑張ってください。

 その説明を真面目に受け取れるのは、たぶん相沢さんだけです。

 

 相沢は、本当に真面目に頷いた。

 

「俺への差し入れではないんですね」

 

「違います」

 

「分かりました」

 

「店の一員として働く人間が、途中で判断を鈍らせると困るだけです」

 

「はい」

 

 相沢は、カップを手に取った。

 紅茶を一口飲む。

 それから、小さな焼き菓子の端を見る。

 

「これは、今日の焼き菓子の端ですか」

 

「形が商品基準に届かなかったものです」

 

「味は同じですか」

 

「確認済みです」

 

「花鳥さんが?」

 

「三枝さんがです」

 

 間があった。

 

 森崎は、その間に気づいてしまった。

 たぶん、三枝が確認したのは本当だ。

 でも、この位置に置いたのは花鳥だ。

 温度を見たのも花鳥だ。

 相沢の作業が一段落するタイミングを見ていたのも、花鳥だ。

 

 相沢は、焼き菓子の端を口に運んだ。

 

 ほんの少しだけ、肩の力が抜けたように見えた。

 

「助かります」

 

「礼は不要です」

 

「はい」

 

「業務上必要な状態管理です」

 

「分かっています」

 

「本当に?」

 

「半分くらいです」

 

 花鳥の目が細くなった。

 

「残り半分は」

 

「ありがたいと思っています」

 

 森崎は、思わず息を止めた。

 

 相沢さん。

 それは、かなり危険です。

 

 花鳥の指が、提供表の同じ行に留まった。

 本当に一瞬だけ。

 けれど森崎には分かった。

 今、花鳥は返す言葉を選んでいる。

 

「その礼は、業務上の確認に限定してください」

 

「はい」

 

「私個人への意味を足さないこと」

 

「すみません」

 

「謝罪ではなく、作業に戻ってください」

 

「はい」

 

 相沢はカップを置いた。

 すぐには飲み干さない。

 半分残した。

 作業の合間にもう一度飲むつもりなのだろう。

 

 その判断も、花鳥は見ていた。

 

「温度が下がりすぎる前に飲んでください」

 

「はい」

 

「冷めると、香りの確認に影響します」

 

「分かりました」

 

 森崎は、もう一度思った。

 

 甘い。

 これは、甘い。

 ただし、花鳥の言葉は全部仕事の形をしている。

 そこがすごい。

 

 午後の営業は、その後も大きく乱れずに進んだ。

 

 紅茶セットは予定より少し多く出たが、相沢の焼き菓子は足りた。

 森崎も説明を長くしすぎずに済んだ。

 花鳥は、いつも通りホール全体を見ていた。

 有坂は、少し離れたところから穏やかにその様子を眺めている。

 閉店後、森崎は片付けをしながら、有坂が花鳥に言うのを聞いた。

 

「花鳥さん、今日は相沢くんの状態管理までしてたね」

 

「店長」

 

「うん?」

 

「必要な業務です」

 

「そうだね」

 

 有坂は笑っていた。

 完全に分かっている顔だった。

 

「店の一員として扱うなら、状態も見る必要があるものね」

 

「その通りです」

 

「甘やかしてるわけじゃない」

 

「違います」

 

「うん。違うことにしておこう」

 

「店長」

 

 森崎は、布巾を畳みながら、笑わないようにした。

 有坂は強い。

 花鳥の反論を、ちゃんと聞いた上で、逃げ道を残す。

 三枝が厨房から出てきた。

 

「相沢くん、今日は最後まで集中切れなかったね」

 

「はい。紅茶のおかげもあると思います」

 

「紅茶?」

 

 三枝がわざとらしく言う。

 相沢は真面目に答えた。

 

「判断精度維持のための確認です」

 

 三枝は一瞬黙った。

 それから、肩を震わせた。

 

「……相沢くん、染まってきたね」

 

「そうでしょうか」

 

「うん。かなり」

 

 花鳥がすぐに口を挟む。

 

「三枝さん、余計な表現です」

 

「はいはい」

 

「はい、は一度です」

 

「はい」

 

 いつものやり取り。

 いつものキュリオ。

 でも、森崎には違って見えた。

 

 相沢は、もうただの新人ではない。

 花鳥は、それを甘やかさないと言う。

 実際、甘やかしてはいないのだと思う。

 

 判断は求める。

 記録も求める。

 説明も直す。

 遅ければ指摘する。

 曖昧なら切る。

 

 けれど、その一方で。

 

 質問のタイミングを調整する。

 疲れを見ている。

 紅茶の温度を見ている。

 作業導線を邪魔しない場所に、小さな甘さを置く。

 それを、甘やかしではないと言う。

 

 森崎乃々香は、片付けを終えて、最後にホールを見渡した。

 

 花鳥は、明日の提供表を確認している。

 相沢は、厨房で今日の記録を書いている。

 その距離は、近すぎない。

 遠すぎもしない。

 

 ただ、以前より、同じ店の中で線がつながっているように見えた。

 

「森崎さん」

 

「はい」

 

 花鳥に呼ばれて、森崎は背筋を伸ばした。

 

「明日の案内カードですが、今日の表現を少しだけ短くします」

 

「はい」

 

「相沢さんには、朝の焼成後に確認してください。ただし、焼成直後は避けること」

 

「分かりました」

 

「それと」

 

「はい」

 

「今日のように、必要な確認は作り手に直接聞いて構いません。店の商品ですから」

 

「はい」

 

 森崎は頷いた。

 それから、迷って言った。

 

「花鳥さん」

 

「何ですか」

 

「相沢さん、今日、少し助かっていたと思います」

 

 花鳥の手が、ほんの少し止まった。

 

「……それは、業務上望ましいことです」

 

「はい」

 

「判断が安定したなら、店にとって良いことです」

 

「はい」

 

「それ以上の意味はありません」

 

「はい」

 

 森崎は、素直に返事をした。

 ただし、心の中では思った。

 

 それ以上の意味がない顔ではない気がします。

 

 もちろん、言わない。

 言えば、きっと「表情を管理してください」と言われる。

 だから森崎は、にこっと笑うだけにした。

 

「明日も、焼成直後は避けます」

 

「お願いします」

 

 花鳥は、それで話を終えた。

 森崎は、ホールの照明を落とす準備をしながら、もう一度厨房を見た。

 相沢がノートを書いている。

 花鳥が提供表を確認している。

 

 同じ方向を向いているわけではない。

 けれど、同じ店の明日を見ている。

 

 花鳥玲愛は、店の一員を甘やかさない。

 それは本当だ。

 

 ただ、店の一員がちゃんと立っていられるように、紅茶の温度と、声をかけるタイミングと、小さな甘さの置き場所くらいは見る。

 それも、たぶん本当だった。

 

 森崎乃々香は、今日学んだ。

 

 花鳥玲愛の「甘やかしていない」は、言葉通りに受け取ってはいけない。

 少なくとも、相沢湊に関しては。

 かなり、注意深く見た方がいい。

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