花鳥玲愛は、甘さを認めない   作:エーアイ

29 / 29
第26話 相沢湊は、花鳥玲愛の言葉を皿に戻しすぎる

 三枝誠司は、最近、相沢湊のノートを見る機会が増えていた。

 

 焼成記録。

 材料の配合。

 気温と湿度。

 焼き色。

 香りの立ち方。

 紅茶と合わせた時の戻り方。

 客席に出た後の反応。

 森崎乃々香が説明しやすかった言葉。

 花鳥玲愛に修正された言葉。

 

 記録の量は、以前より明らかに増えている。

 店の一員として数えられるようになった。

 任される範囲が増えた。

 だから、残すべきことも増えた。

 

 そこまではいい。

 真面目な新人なら、よくあることだ。

 

 ただ。

 三枝には、気になることがあった。

 

「相沢くん」

 

「はい」

 

「そのノート、ちょっと見せてもらってもいい?」

 

「はい」

 

 湊は作業台の上にノートを置いた。

 三枝は、開かれていたページへ目を落とす。

 

 焼成記録。

 提供数。

 追加判断。

 

 そこに交じって、短い言葉がいくつも書かれていた。

 

 判断精度維持。

 香りの説明は短く。

 お客様が香りを探しに行かない表現。

 歓迎されたことを皿の言い訳にしない。

 店の一員として扱います。

 甘やかしません。

 

 三枝は、しばらく黙って文字を見た。

 

 どれも見覚えがある。

 正確には、聞き覚えがある。

 

「相沢くん」

 

「はい」

 

「これ、花鳥さん語録みたいになってるよ」

 

 湊は目を瞬かせた。

 

「必要な指摘なので」

 

「うん」

 

「記録しておいた方が、次の判断に使えます」

 

「うん」

 

「何か問題がありますか」

 

 三枝は、ノートを返しながら少し笑った。

 

「問題はないよ」

 

「では」

 

「ただ、花鳥さんに言われたこと、かなり残してるなと思って」

 

 湊はノートを見た。

 

 考える。

 本当に考えている顔だった。

 

「花鳥さんの指摘は、客席まで含めたものが多いので」

 

「そうだね」

 

「俺だけでは見落とす部分があります」

 

「うん」

 

「だから、残しています」

 

 三枝は頷いた。

 予想通りの答えだった。

 

 相沢湊は、花鳥玲愛に惚れているのだろうか。

 そう聞かれたら、今の三枝は、簡単には頷かない。

 

 少なくとも本人には、その自覚はなさそうだった。

 

 花鳥の顔を見ているというより、花鳥の言葉を見ている。

 花鳥の美しさに見惚れているというより、花鳥の判断を拾っている。

 花鳥の声を思い出しているというより、その声が指した客席の状態を考えている。

 

 恋をしているというより。

 素材にしている。

 しかも、菓子の。

 

 三枝は可笑しくなった。

 

 相沢湊は、やはり菓子馬鹿なのだと思う。

 

 人から受け取ったものを、まず菓子へ戻す。

 感謝も。

 悔しさも。

 歓迎されたことも。

 花鳥玲愛の言葉も。

 

 全部、焼き色と香りと皿の上へ戻して考える。

 

「三枝さん」

 

「うん?」

 

「何かおかしいでしょうか」

 

「いや」

 

 三枝は首を振った。

 

「相沢くんらしいなと思って」

 

「そうでしょうか」

 

「かなりね」

 

 湊は、まだ納得していない顔だった。

 だが、追及はしなかった。

 ノートを閉じ、作業台へ戻る。

 

 三枝は、その横に小さな生地が置かれていることに気づいた。

 通常メニュー候補の焼き菓子とは違う。

 もっと小さい。

 一口半より、さらに少しだけ薄い。

 

「それ、何?」

 

 湊の手が止まった。

 

「試作です」

 

「見れば分かる」

 

「はい」

 

「どういう試作?」

 

 湊は、生地を見た。

 少し考えてから答える。

 

「作業中の思考を切らず、無理なく作業へ戻れる菓子です」

 

 三枝は、また少し黙った。

 聞き覚えのある言葉だった。

 

 判断を鈍らせない。

 状態を戻す。

 前日、花鳥が湊へ紅茶と小さな焼き菓子を置いた。

 

 判断精度維持のための確認。

 差し入れではない。

 甘やかしでもない。

 そういうことになっていた。

 

「それ、誰のため?」

 

 湊は、すぐには答えなかった。

 生地を見る。

 ノートを見る。

 それから、慎重に言った。

 

「作業中の人のためです」

 

「花鳥さん?」

 

 湊は、わずかに眉を動かした。

 

「花鳥さんのためだけには作りません」

 

 三枝は吹き出しそうになった。

 どうにか抑える。

 

「うん。だいぶ、いつもの答えになってきたね」

 

「事実です」

 

「分かってるよ」

 

「花鳥さん個人だけを理由にすると、菓子が狭くなります」

 

「そうだね」

 

「以前、それで失敗しました」

 

「うん」

 

「だから、作業中の人が無理なく作業へ戻れる菓子として考えています」

 

 三枝は、小さな生地を見た。

 言っていることは正しい。

 商品として考えるなら、特定の誰かだけを理由にしない方がいい。

 用途を広げる。

 状況を考える。

 誰が食べても成立する形にする。

 それは、湊がこれまで学んできたことでもある。

 

 ただ。

 きっかけは、花鳥が置いた紅茶と小さな甘さだった。

 花鳥が見ていた湊の疲れだった。

 花鳥が口にした判断精度維持という言葉だった。

 

 誰のためだけでもない。

 

 だが、最初にそこにいたのは花鳥玲愛だ。

 

「相沢くん」

 

「はい」

 

「君、花鳥さんを見てないようで、かなり見てるよね」

 

 湊は、今度こそ驚いた顔をした。

 

「菓子を見ています」

 

「うん」

 

 三枝は頷いた。

 

「その菓子の向こうに、花鳥さんの言葉があるんだよね」

 

 湊は黙った。

 否定しようとしたのかもしれない。

 だが、言葉が出なかった。

 三枝は追い詰めるつもりはなかった。

 

 湊は、軽くからかえば面白い相手ではある。

 だが、今ここで恋だの何だのと名前をつける必要はない。

 本人がまだ菓子としてしか受け取れないなら、それでいい。

 菓子に戻すことで、湊は人の言葉を理解している。

 それが今の湊のやり方なのだ。

 

「悪いことだとは言ってないよ」

 

 三枝が言うと、湊は視線を上げた。

 

「はい」

 

「ただ、花鳥さんの言葉、よく残るんだね」

 

 湊は、またノートを見た。

 

「残ります」

 

 短い答えだった。

 

「他の人の言葉より?」

 

 湊は、少し考えた。

 

「三枝さんの言葉も残しています」

 

「ありがとう」

 

「店長の言葉も」

 

「うん」

 

「森崎さんの説明も」

 

「うん」

 

「花鳥さんの言葉は」

 

 そこで湊は止まった。

 三枝は待った。

 

「花鳥さんの言葉は、皿の外側まで続くので」

 

「なるほど」

 

「一つ直すと、次に見る場所が増えます」

 

「だから残る?」

 

「はい」

 

 湊は、真面目に答えた。

 たぶん嘘ではない。

 むしろ、かなり正確なのだと思う。

 

 湊にとって玲愛は、自分の菓子の外側を増やし続ける人なのだ。

 

 皿。

 客席。

 説明。

 紅茶。

 提供数。

 店の時間。

 作る人間の状態まで。

 

 だから言葉が残る。

 そして残った言葉を、湊はまた菓子へ戻す。

 

 三枝は、小さく笑った。

 

「やっぱり、菓子馬鹿だね」

 

「まだ試作前です」

 

「そこじゃないよ」

 

 湊は首を傾げた。

 

 午前の仕込みが一段落した後、湊は試作を焼いた。

 

 バターは控えめ。

 香りは短い。

 甘さは、最初だけ少し輪郭がある。

 口の中に長く残さない。

 紅茶を飲んだ時に、少しだけ形が戻る。

 

 ただし、その戻りも長くは続かない。

 作業の途中に食べる。

 思考を切らない。

 でも、食べたことが何も残らないわけではない。

 

 三枝は一つを手に取った。

 

「小さいね」

 

「はい」

 

「前の幹事用より薄い」

 

「作業中に手を止める時間を短くしたいので」

 

「甘さは?」

 

「前より最初に出します」

 

「判断を戻すため?」

 

「はい。ただ、後には残しません」

 

 三枝は食べた。

 

 最初に蜂蜜の甘さが少しだけ来る。

 その後、柑橘が短く抜ける。

 口に残るものは少ない。

 悪くない。

 ただ、少しだけ香りが長い。

 仕事へ戻る菓子というより、菓子の余韻をもう少し見たくなる。

 

「どうでしょうか」

 

「悪くない」

 

「ありがとうございます」

 

「でも、香りが少し残るね」

 

 湊はすぐにノートへ手を伸ばした。

 

「柑橘でしょうか」

 

「たぶんね。あと焼き色も少し深い」

 

「浅くします」

 

「うん。ただ、浅くしすぎると甘さだけ先に立つから」

 

「はい」

 

「二回目、そこ見ようか」

 

「お願いします」

 

 湊は記録を始めた。

 三枝は、その横顔を見る。

 

 本当に真面目だ。

 菓子のことになると、聞いた言葉を一つも落としたくない顔になる。

 

 そこへ、厨房の入口から声がした。

 

「何をしているのですか」

 

 花鳥玲愛だった。

 

 いつもの姿勢。

 いつもの仕事の顔。

 手には提供表がある。

 

 三枝は、湊より先に笑った。

 

 来た。

 客席側から、この試作を見る人が。

 

「試作です」

 

 湊が答えた。

 

「営業用の仕込みは」

 

「終わっています」

 

「三枝さんの確認は」

 

「受けています」

 

「店長への共有は」

 

「商品候補ではないので、まだです」

 

 玲愛は小さな試作を見る。

 

「目的は」

 

 湊は答えた。

 

「作業中の思考を切らず、無理なく作業へ戻れる菓子です」

 

 玲愛の動きが、ほんの少し止まった。

 三枝は気づいた。

 昨日の紅茶と小さな甘さを思い出したのだろう。

 だが、玲愛はすぐに仕事の顔へ戻る。

 

「抽象的です」

 

「はい」

 

「誰が、どの作業の途中に食べる想定ですか」

 

「考える作業をしている人です」

 

「広すぎます」

 

「はい」

 

「食べることで、何が戻るのですか」

 

「集中です」

 

「集中を戻す菓子なら、香りを残しすぎない方がいいです」

 

 三枝は、心の中で頷いた。

 同じ指摘だ。

 

 湊はすぐにノートを開いた。

 

 玲愛が続ける。

 

「作業中に食べるには、少し香りが残りすぎます」

 

「はい」

 

「判断を戻す菓子なら、口の中に居座らない方がいいです」

 

 湊のペンが動く。

 

 速い。

 あまりにも速い。

 

 玲愛が眉を寄せた。

 

「記録が早すぎます」

 

「忘れたくないので」

 

 玲愛は提供表の端を揃えた。

 三枝は、心の中で目を閉じた。

 

 それ、言葉の範囲が広すぎるよ、相沢くん。

 

 湊本人は、まったく気づいていない。

 

 玲愛の指摘を忘れたくない。

 ただそれだけの意味なのだろう。

 だが、本人の前で、まっすぐに言えば別の意味まで残ってしまう。

 

「何を忘れたくないのか、範囲を限定してください」

 

 三枝は心の中で頷いた。

 やはり、そこを切る。

 

「はい」

 

 湊は素直に頷く。

 

「今のままでは、指摘内容なのか、別の何かなのか曖昧です」

 

「指摘内容です」

 

「最初からそう言ってください」

 

「はい」

 

「それと、私が言ったから正しいと決めつけないでください」

 

 湊のペンが止まった。

 

「はい」

 

「自分で食べて、状態を確認してください」

 

「分かりました」

 

「三枝さんの指摘とも比べること」

 

「はい」

 

「記録は、言葉ではなく状態を残してください」

 

「はい」

 

 玲愛は、試作をもう一度見た。

 

「確認用はありますか」

 

「あります」

 

 湊は、小さな皿へ一つ置いた。

 三枝は、少し離れて二人を見る。

 

 玲愛が食べる。

 

 一口。

 

 紅茶はない。

 

 口の中だけで確認する。

 

 表情は変わらない。

 

「最初の甘さは悪くありません」

 

「はい」

 

「ただ、柑橘が長いです」

 

「はい」

 

「作業へ戻すなら、もう少し早く切ってください」

 

「はい」

 

「焼き色を浅くするだけでは、香りの輪郭が弱くなります。配合から見直してください」

 

「分かりました」

 

 湊のペンがまた動く。

 玲愛は、それを見て少しだけ目を細めた。

 

「相沢さん」

 

「はい」

 

「全部、そのまま書かないでください」

 

「なぜですか」

 

「私の言葉を写すだけでは、あなたの記録になりません」

 

 湊が黙る。

 三枝は、その言葉を聞いて少しだけ感心した。

 

 正しい。

 湊は最近、玲愛の言葉を残しすぎている。

 そのまま保存し、そのまま次の皿へ戻そうとしている。

 だが、それでは湊自身の判断にならない。

 玲愛は、そこまで見ている。

 

「食べてください」

 

 玲愛が言った。

 

「はい」

 

 湊は試作を一つ食べた。

 少し考える。

 目を閉じるほどではない。

 でも、口の中の香りを確かめている。

 

「どうですか」

 

「柑橘が、思ったより長いです」

 

「それを記録してください」

 

「はい」

 

「私が長いと言ったからではなく、あなたがそう感じた状態を」

 

「分かりました」

 

 湊は、先ほどの記録へ線を引いた。

 書き直す。

 柑橘の香りが、飲み込んだ後も二呼吸ほど残る。

 作業へ戻る用途としては長い。

 配合見直し。

 

 玲愛がそれを見た。

 

「その方がいいです」

 

「はい」

 

「私の言葉を、全部そのまま皿に戻さないでください」

 

 湊は、少しだけ驚いた顔をした。

 三枝も、玲愛を見る。

 まるで、湊が今していることをそのまま言い当てたような言葉だった。

 

「必要なものだけ、自分で選んでください」

 

「はい」

 

「店の一員として扱うと言ったはずです」

 

「はい」

 

「私の答えを待つだけなら、新人のままです」

 

 厳しい言葉だった。

 だが、突き放してはいない。

 選べと言っている。

 自分で判断しろと言っている。

 次も見ていることを前提にしている。

 湊は、ゆっくり頷いた。

 

「分かりました」

 

「理解していますか」

 

「はい」

 

 間を置いて、湊は続けた。

 

「花鳥さんの言葉を、そのまま残すのではなく、自分で確認してから皿に戻します」

 

 玲愛が、わずかに眉を動かした。

 

「……皿に戻すこと自体は、やめないのですね」

 

「必要なので」

 

 三枝は、思わず笑った。

 玲愛がこちらを見る。

 

「三枝さん」

 

「ごめん」

 

「何がおかしいのですか」

 

「いや」

 

 三枝は手を振った。

 

「相沢くんらしいなと思って」

 

「説明になっていません」

 

「半分くらいは説明してるよ」

 

「残り半分は?」

 

「閉店後にする」

 

 玲愛は納得していない顔だったが、それ以上は追及しなかった。

 提供表を見直す。

 

「試作は、営業に影響しない範囲で続けてください」

 

「はい」

 

「次回、用途をもう少し具体的にすること」

 

「はい」

 

「誰が、どの場面で、なぜ食べるのか」

 

「分かりました」

 

「花鳥さん」

 

 湊が呼び止めた。

 

「何ですか」

 

「確認、ありがとうございました」

 

「礼は不要です」

 

「はい」

 

「商品候補ですらありません」

 

「分かっています」

 

「その認識で間違いありませんね」

 

「はい」

 

 湊は少し考えてから言った。

 

「でも、花鳥さんの言葉がなければ、見直す場所が分かりませんでした」

 

 玲愛の視線が、湊のノートへ落ちた。

 三枝も、今度は声に出さず息を吐いた。

 また範囲が広い。

 

「その言い方では、確認の主体が逆です」

 

「はい」

 

「私の言葉がなければ、ではありません。確認の視点が不足していた、と記録してください」

 

「分かりました」

 

「それと」

 

「はい」

 

「次は、自分で先に気づいてください」

 

「はい」

 

 玲愛は仕事の顔のまま、厨房を出ていった。

 三枝は、その背中を見送る。

 少しだけ歩く速度が速い。

 たぶん気のせいではない。

 

 湊はすぐにノートへ向き直っていた。

 

 花鳥さんの言葉がなければ。

 その部分に線を引く。

 確認の視点が不足。

 次回、自分で先に確認。

 

 三枝は横から覗いた。

 

「相沢くん」

 

「はい」

 

「また花鳥さんの言葉、記録してるね」

 

 湊は手を止めた。

 

「状態に直しています」

 

「うん。偉い」

 

「褒めていますか」

 

「半分くらい」

 

「残り半分は?」

 

「まだ分かってないなと思って」

 

「何がでしょうか」

 

 三枝は、すぐには答えなかった。

 今ここで言っても、湊にはたぶん分からない。

 

 花鳥の言葉を記録すること。

 花鳥の言葉を忘れたくないと思うこと。

 花鳥が置いた紅茶から、新しい菓子を考えること。

 花鳥の指摘を、自分の皿へ戻し続けること。

 

 それが仕事だけなのか。

 それとも、少しずつ別のものが混じっているのか。

 三枝にも、まだ断定はできない。

 

 ただ、湊は花鳥を見ていないわけではない。

 むしろ、かなり見ている。

 

 顔立ちではなく。

 服装でもなく。

 言葉。

 所作。

 判断。

 紅茶の温度。

 声をかけるタイミング。

 自分を止める時の一拍。

 湊は、それらを全部菓子の材料にしている。

 

 本人だけが、それを特別だと思っていない。

 

「まあ、いいよ」

 

 三枝は言った。

 

「今は、二回目を焼こうか」

 

「はい」

 

 二回目は、柑橘を少し減らした。

 蜂蜜の甘さもわずかに調整した。

 焼き色ではなく、配合で香りの長さを切る。

 口に入れた時の輪郭は残す。

 だが、飲み込んだ後は一呼吸で消えるようにする。

 

 三枝が食べる。

 湊も食べる。

 

「どう?」

 

「一回目より、戻りやすいです」

 

「うん」

 

「甘さが少し短い気もします」

 

「そこは用途次第だね」

 

「作業中なら、このくらいでしょうか」

 

「悪くないと思う」

 

 湊は記録する。

 今度は玲愛の言葉をそのまま書かない。

 自分が感じた状態を書く。

 

 一呼吸後、柑橘はほぼ消える。

 甘さの輪郭は短い。

 作業へ戻る用途としては一回目より適切。

 ただし、休憩用としては弱い。

 

 三枝は、それを見て頷いた。

 

「いい記録だね」

 

「ありがとうございます」

 

「花鳥さんに見せる?」

 

 湊は少し考えた。

 

「今は見せません」

 

 三枝は少し意外だった。

 

「どうして?」

 

「次は自分で先に気づいてください、と言われたので」

 

「うん」

 

「もう一度、自分で用途を整理します」

 

「うん」

 

「その後、必要なら確認をお願いします」

 

 三枝は笑った。

 

「成長したね」

 

「そうでしょうか」

 

「少なくとも、さっきよりは」

 

「ありがとうございます」

 

「礼は一度で十分だよ」

 

「それは花鳥さんの言葉です」

 

「もう店の共通語になってるよ」

 

 湊は、少しだけ考えていた。

 本気で、そうなのか確認しているらしい。

 

 閉店後。

 

 三枝は、片付けを終えた湊の隣に立った。

 ノートには、今日の試作記録が残っている。

 

 一回目。

 二回目。

 玲愛の指摘。

 そこから湊自身が確認した状態。

 そして次回の課題。

 

 用途を具体化する。

 誰が、どの場面で、なぜ食べるのか。

 湊は最後の行を書き終え、ペンを置いた。

 

 三枝は言った。

 

「相沢くん」

 

「はい」

 

「君は菓子馬鹿だね」

 

 湊は、すぐには答えなかった。

 真面目に意味を考えている。

 

「悪い意味でしょうか」

 

「半分くらい」

 

「残り半分は?」

 

 三枝は、ノートを指した。

 

「花鳥さんの言葉まで菓子にしてるところ」

 

 湊は黙った。

 ノートを見る。

 今日の試作を見る。

 花鳥の言葉を思い出しているのかもしれない。

 

「それは、悪いことでしょうか」

 

「悪くないよ」

 

 三枝は答えた。

 

「ただ、いつか菓子以外の言葉でも返せるといいね」

 

 湊は、少し困った顔をした。

 

「どういう意味でしょうか」

 

「今は分からなくていいよ」

 

「そうですか」

 

「うん」

 

 湊は、もう一度ノートを見た。

 それから、小さな試作を見る。

 

「今は、皿で返します」

 

 三枝は笑った。

 

「うん。今はそれでいいと思う」

 

 湊は、試作を一つだけ小さな容器へ入れた。

 三枝は気づいたが、すぐには聞かなかった。

 

「それ、どうするの?」

 

「明日、用途を整理した上で、確認してもらいます」

 

「誰に?」

 

 湊は、一瞬だけ止まった。

 

「三枝さんと」

 

「うん」

 

「花鳥さんに」

 

 三枝は、また笑った。

 

「やっぱり、かなり見てるよね」

 

「菓子をです」

 

「はいはい」

 

「はい、は一度です」

 

 三枝は、今度こそ声を出して笑った。

 

「相沢くん、本当に染まったね」

 

「そうでしょうか」

 

「かなりね」

 

 厨房の外から、玲愛の声が聞こえた。

 

「三枝さん、片付けが終わったなら照明を落としてください」

 

「はい」

 

「相沢さんも、記録が終わったなら帰宅準備を」

 

「はい」

 

 二人は返事をした。

 三枝は照明へ向かう。

 湊はノートを閉じる。

 小さな試作を、大切そうにではなく、確認用として丁寧に置く。

 

 本人にとっては、たぶん本当にそれだけなのだ。

 

 花鳥玲愛の言葉を受け取る。

 自分で確認する。

 皿に戻す。

 そしてまた、花鳥玲愛に見てもらう。

 

 相沢湊は、花鳥玲愛の言葉を皿に戻しすぎる。

 本人は、それを菓子のためだと思っている。

 たぶん、今は。

 

 三枝誠司は、それ以上は言わないことにした。

 

 菓子馬鹿には、菓子馬鹿なりの速度がある。

 皿の外側にいる人へ、自分の言葉で返せるようになるまで。

 今はまだ、焼き上がるのを待てばいい。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。


  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

読者層が似ている作品 総合 二次 オリ

自分の事をNTRエロゲの竿役だと思っているおじさんVS幼少期から光源氏(動詞)されたが嫌いになるわけないシスター(作者:心理的継続性を持つおじさん)(オリジナルファンタジー/コメディ)

今更転生自覚おじさん「やべぇ…NTRエロゲの竿役おじさんじゃん。作品としては楽しめるけど、現実はNGなんだよね。主人公君と結ばれて幸せにおなり。ってことで身を引くね」▼幼少期の頃から光源氏(動詞)されたが生活のほとんどを握られていたり、欲しいものは言えば買ってくれたり、ちょっかい掛けても怒らない為に嫌いではないし、なんなら結婚するんだろうなと思ってそれなりに…


総合評価:7317/評価:8.53/連載:27話/更新日時:2026年05月12日(火) 13:47 小説情報

技術試験隊斯ク戦ヘリ(作者:ザクスキー2世)(原作:ガンダム)

もしも第603技術試験隊にニュータイプのパイロットが居たら、テストパイロットたちはもう少しマシな活躍が出来たかもしれないーーと言うお話▼オリ主はニュータイプ能力が高い割に、感受性が強くて残留思念の影響を受けてしまう系女子です。▼原作で死亡するキャラは、そのまま死んだり生き残ったりする予定です。▼基本的にMSIGLOO準拠ですが、一部ジオリジンの設定を持って来…


総合評価:1773/評価:8.84/連載:21話/更新日時:2026年07月27日(月) 11:00 小説情報

クラス転移したけど俺だけステータス表記が違った(作者:星野林(旧ゆっくり霊沙))(オリジナルファンタジー/冒険・バトル)

学校で進路を悩んでいた斎藤隆史(サイトウ タカシ)はクラスに馴染めずに居た。▼そんな最中、突如異世界にクラスごと召喚もとい拉致され、魔王と戦えと言われる。▼そして各自に役職と能力が付与されているからとステータスを開くように言われてステータス画面を見ると……皆が普通のRPG表記なのに、俺だけポケ◯ンみたいにレベル形式だし、技ってのが見える。▼そして始まる異世界…


総合評価:2590/評価:8.24/連載:72話/更新日時:2026年07月27日(月) 17:18 小説情報

魔法科高校の異端魔術師(作者:もやしになりたい)(原作:魔法科高校の劣等生)

死の間際、佐藤雄馬は他人を庇って命を落とした。▼その死は、本来あるはずのないものだった。▼神の手違いにより、『魔法科高校の劣等生』の世界へ転生した雄馬は、英霊たちとの縁を与えられ、新たな人生を歩み始める。▼そこで彼が触れたのは、魔法が技術として完成された世界と、英霊たちが語る神秘としての魔術だった。▼想子によって情報体へ干渉する“魔法”。▼魔術回路と魔力によ…


総合評価:2459/評価:7.12/連載:37話/更新日時:2026年05月14日(木) 16:46 小説情報

竜神王でダイ大世界(作者:色々残念)(原作:ダイの大冒険)

ドラクエ8の竜神王になっていた誰かがダイの大冒険世界で、生きていく話


総合評価:1487/評価:8.03/完結:12話/更新日時:2026年07月25日(土) 10:30 小説情報


小説検索で他の候補を表示>>