花鳥玲愛は、甘さを認めない   作:エーアイ

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第27話 花鳥玲愛は、相沢湊を甘やかしていない

 花鳥玲愛は、相沢湊を甘やかしていない。

 

 その認識に、間違いはない。

 新人だからと判断を代わってやることもない。

 失敗しそうだからと、先回りして答えを与えることもない。

 焼成の記録が曖昧なら書き直させる。

 説明が厨房側へ寄りすぎていれば、客席へ届く言葉に直させる。

 提供数を決めたなら、その根拠を言わせる。

 自分の菓子なら、ホールへ出た後まで責任を持たせる。

 

 それは甘やかしではない。

 店の一員として扱っているだけだ。

 

 だから、その朝。

 湊が小さな試作品を持ってホールへ現れた時も、玲愛はいつも通りに確認するつもりだった。

 

「花鳥さん」

 

「何ですか」

 

 開店前。

 ホールの最終確認をしていた玲愛は、厨房との境に立つ湊へ視線を向けた。

 

 湊は小さな白い皿を持っていた。

 皿の上には、薄く焼かれた小さな焼き菓子が二つ。

 以前の試作よりもさらに小さい。

 形も少し変わっている。

 丸みを減らし、指でつまみやすい幅に整えられている。

 

「昨日の指摘を、自分で確認し直しました」

 

「昨日の指摘とは」

 

「作業中に食べるには香りが残りすぎることと、用途が広すぎることです」

 

「それで?」

 

「用途を、考える作業の途中で一度手を止める人に絞りました」

 

 湊は皿を少し持ち上げた。

 

「花鳥さんの言葉をそのまま写すのではなく、状態として整理しています」

 

 玲愛は、湊の手元のノートを見た。

 開かれているページには、前回のように玲愛の言葉がそのまま並んではいない。

 

 柑橘の香りが残る時間。

 甘さの輪郭。

 飲み込んだ後、作業へ戻るまでに必要な呼吸。

 食べるために手を止める時間。

 客席ではなく、作業中の小休止に置く場合の条件。

 

 湊自身が確かめた状態として、書き直されていた。

 

「三枝さんの確認は」

 

「受けています」

 

「営業用の仕込みは」

 

「終わっています」

 

「店長への共有は」

 

「商品候補ではないので、試作を続けることだけ伝えています」

 

「では、確認します」

 

「お願いします」

 

 玲愛は、小さな焼き菓子を一つ取った。

 

 一口。

 

 最初に、蜂蜜の甘さが短く触れる。

 柑橘の香りが追う。

 だが、前回ほど長くは残らない。

 

 飲み込む。

 

 一呼吸。

 

 次の呼吸には、香りの輪郭がほぼ消えている。

 甘さも口の中に居座らない。

 作業へ戻ることを邪魔しない。

 

 玲愛は、皿の上に残ったもう一つを見る。

 

「前回よりは良くなっています」

 

「はい」

 

「香りも一呼吸で切れています」

 

 湊がすぐにノートへ手を伸ばした。

 

「記録は後にしてください」

 

「はい」

 

 湊は手を止めた。

 以前よりは早く止まる。

 

 玲愛は続けた。

 

「最初の甘さも、弱すぎません。短い休止としては成立しています」

 

「ありがとうございます」

 

「ただし、用途はまだ狭いです」

 

「はい」

 

「誰にでも必要な菓子ではありません」

 

「分かっています」

 

「商品として考えるなら、置く場面まで整理してください」

 

「はい」

 

 湊は、玲愛の言葉を聞きながら、真剣に頷いている。

 その顔は、いつも通りだった。

 菓子のことしか考えていない顔。

 玲愛の評価を待っているというより、次に直す場所を探している顔。

 

 だから、次の言葉にも特別な意図などなかったのだと思う。

 

「花鳥さんの言葉は、後から何度も残るので、皿に戻しやすいです」

 

 玲愛は、試作皿の縁へ視線を落とした。

 

「……何ですか」

 

「昨日言われたことも、作業の後で何度か思い出しました」

 

 湊は、本当に製菓の話をしている顔だった。

 

「香りを残しすぎないことも、用途を具体的にすることも、最初に聞いた時より、自分で食べ直した時の方が意味が分かりました」

 

「そうですか」

 

「はい。花鳥さんの言葉は、その場で終わらないので」

 

 その場で終わらない。

 後から何度も残る。

 思い出される。

 皿へ戻される。

 

 玲愛は、一瞬だけ言葉を失った。

 

 だが、すぐに仕事の顔へ戻る。

 

「言葉ではなく、状態を残してください」

 

「はい」

 

「私がどう言ったかではありません。あなたが何を確認したかを記録するんです」

 

「分かっています」

 

「本当に?」

 

「はい」

 

 湊は、少し考えてから続けた。

 

「花鳥さんの言葉を基準にしているわけではありません」

 

「当然です」

 

「ただ、花鳥さんに言われると、自分が見ていなかった場所が分かります」

 

 玲愛は提供表を持ち直した。

 

「だから、忘れたくないです」

 

 次の確認項目を告げようとしたが、言葉がすぐには出てこなかった。

 

 忘れたくない。

 自分が見ていなかった場所を見せてもらえる。

 今の菓子には、その見方が入っている。

 

 湊は続けた。

 

「この菓子にも、花鳥さんに教えてもらった見方が入っています」

 

 やめなさい。

 

 玲愛は、そう言いそうになった。

 

 何をやめろというのか。

 

 湊はただ、仕事の話をしている。

 教わった視点を、菓子に反映したと報告しているだけだ。

 それなのに、どうして一言ごとに、意味が重なるのか。

 

「……私を材料のように扱わないでください」

 

 言ってから、玲愛は少し後悔した。

 

 何を言っているのだ、自分は。

 

 湊は目を瞬かせた。

 

 本気で困っている。

 

「花鳥さんを材料にはしていません」

 

「当然です」

 

「言葉を判断材料にはしています」

 

 悪化した。

 

 玲愛は、ほんの少しだけ目を閉じたくなった。

 

 判断材料。

 必要な言葉。

 忘れたくない。

 後から何度も残る。

 

 全部、仕事の話だ。

 全部、菓子の話だ。

 

 分かっている。

 分かっているのに。

 

「表現を選んでください」

 

「はい」

 

「相手が誤解する可能性があります」

 

「誤解、ですか」

 

「今のような表現は、製菓の話として不必要に広いという意味です」

 

「分かりました」

 

 湊は素直に頷いた。

 

 本当に分かっているのか。

 たぶん分かっていない。

 分かっていないから、この顔で言えるのだ。

 

 玲愛が次の指摘を考えていると、ホールの端から小さな気配を感じた。

 

 森崎乃々香だった。

 案内カードを手にしたまま、こちらを見ている。

 口元が、少しだけ緩んでいる。

 

「森崎さん」

 

「はい」

 

 森崎の背筋が伸びた。

 

「なぜ笑っているのですか」

 

「笑っていません」

 

「口元が笑っています」

 

 森崎は慌てて口元を引き締めた。

 

「試作が良くなったので、よかったなと思って」

 

「それだけですか」

 

「……はい」

 

 間があった。

 短いが、確実な間だった。

 

「何ですか、その間は」

 

「何でもありません」

 

「森崎さん」

 

「本当に、相沢さんの試作が良くなってよかったと思っただけです」

 

 言葉だけなら正しい。

 しかし、目が少し楽しそうだった。

 

 玲愛と湊を交互に見た後の顔だった。

 

「必要な確認があるなら、今してください」

 

「ありません」

 

「では、ホールの準備へ戻ってください」

 

「はい」

 

 森崎は素直に返事をした。

 だが、戻る直前にもう一度だけ、小さく笑った。

 

 玲愛は見逃さなかった。

 

「森崎さん」

 

「戻ります」

 

 逃げられた。

 

 玲愛は、わずかに眉を寄せた。

 

 背後で、三枝の声がした。

 

「よかったね、相沢くん」

 

「はい」

 

「ちゃんと届いてるみたいで」

 

 玲愛は反射的に振り返った。

 

「何がですか」

 

 三枝は穏やかな顔で、小さな試作を指した。

 

「菓子が」

 

「……そうでしょうね」

 

「うん」

 

 三枝はそれ以上言わなかった。

 言わないことが、かえって気になる。

 

 玲愛は、三枝の表情を見た。

 

 笑っている。

 からかうほどではない。

 しかし、何か分かっている者の顔だ。

 

「三枝さん」

 

「うん?」

 

「何か言いたいことがあるなら、明確にしてください」

 

「特にないよ」

 

「でしたら、その顔をやめてください」

 

「どの顔?」

 

「相沢さんの試作以外の何かまで確認したような顔です」

 

 三枝は少しだけ目を細めた。

 

「花鳥さんの言葉、相沢くんにはよく残るね」

 

「必要な指摘だからです」

 

 玲愛は即答した。

 

「うん。そういうことにしておこう」

 

「そういうことです」

 

「はいはい」

 

「はい、は一度です」

 

「はい」

 

 いつものやり取りだった。

 ただ、三枝の目はまだ温かい。

 森崎も、ホールの奥から時々こちらを見ている。

 どうして皆、同じような目をしているのか。

 

 玲愛には理解できなかった。

 

 理解する必要もない。

 これは仕事だ。

 湊が試作を直した。

 玲愛が確認した。

 必要な指摘をした。

 

 それだけだ。

 

「花鳥さん」

 

 有坂直人の声がした。

 店の奥から、予約表を持って歩いてくる。

 

「試作の確認、終わった?」

 

「はい」

 

「どうだった?」

 

「前回より改善されています。ただし、用途をもう少し明確にする必要があります」

 

「そう」

 

 有坂は、湊を見る。

 

「相沢くん、よかったね」

 

「はい」

 

「また一つ、花鳥さんの言葉を自分の菓子にできたみたいだね」

 

「店長」

 

 玲愛の声が少し強くなった。

 

「何かな」

 

「その表現は不正確です」

 

「そう?」

 

「相沢さんは、私の言葉をそのまま菓子にしたわけではありません。自身で状態を確認し、必要な修正を加えています」

 

「うん」

 

 有坂は穏やかに頷いた。

 

「ちゃんと店の一員として、自分で考えたんだね」

 

「その通りです」

 

「花鳥さんが、ちゃんと店の一員を見ているなと思って」

 

「チーフとして当然です」

 

「うん」

 

 有坂は笑った。

 

「相沢くんも、ちゃんとそれを受け取ってるね」

 

「仕事の指摘としてです」

 

「そうだね」

 

 否定しない。

 肯定もしない。

 ただ笑っている。

 

 玲愛は、少しだけ居心地が悪くなった。

 

 三枝も穏やかに見ている。

 森崎も、今度は隠そうとしながら見ている。

 有坂も、いつもの柔らかい顔で見ている。

 

 皆、何なのだ。

 

「皆さん、先ほどから何なのですか」

 

 玲愛は、ついに聞いた。

 

 三枝は首を傾げた。

 

「何が?」

 

「その目は何ですか」

 

「温かい目?」

 

 森崎が小さく口を挟んだ。

 玲愛は森崎を見る。

 

「自覚があるのですね」

 

「あ」

 

 森崎が口を押さえた。

 有坂は苦笑した。

 

「誰も悪い意味では見ていないよ」

 

「悪い意味かどうかではありません」

 

 玲愛は、仕事の顔を維持したまま言った。

 

「私は相沢さんを甘やかしていません」

 

 少しだけ、空気が止まった。

 誰も、そこまで聞いていなかった。

 そのことに、言ってから気づいた。

 だが、もう遅い。

 

「店の商品を作る人間として、必要な確認をしているだけです」

 

「はい」

 

 森崎が素直に返事をした。

 

「紅茶を置いたのも、質問の時間を調整したのも、相沢さんの判断精度を維持するためです」

 

「分かってるよ」

 

 三枝が笑った。

 

「試作を確認するのも業務です」

 

「誰も責めてないよ、花鳥さん」

 

 有坂が柔らかく言う。

 

「それ以上の意味はありません」

 

 言い切った。

 静かになった。

 三人は何も言わない。

 玲愛は、自分だけが必死に弁明していることに気づいた。

 

「……何ですか」

 

「いや」

 

 三枝が言う。

 

「花鳥さんがそう言うなら、そうなんだと思うよ」

 

「最初からそう言っています」

 

「うん」

 

「何ですか、その返事は」

 

「普通の返事だよ」

 

 玲愛は三枝を睨みかけた。

 そこへ、試作の記録を厨房へ戻していた湊が戻ってきた。

 

「何の話ですか」

 

「あなたには関係ありません」

 

 玲愛は即答した。

 湊は少しだけ考えた。

 

「俺を甘やかしていないという話なら、分かっています」

 

 玲愛は、ほんの少し安心した。

 そうだ。

 本人が分かっているなら、それでいい。

 湊は余計な誤解をしていない。

 店の一員として扱われ、必要な指摘を受けていると理解している。

 

「分かっているなら結構です」

 

「はい」

 

 湊は頷いた。

 

「花鳥さんは、俺を店の一員として見てくれています」

 

 玲愛の安心は、すぐに消えた。

 

「だから、必要なところまで見てくれているんだと思います」

 

 玲愛は提供表の角を揃え直した。

 

 次の指示を返すはずが、言葉が出てこない。

 必要なところまで見ている。

 自分のことを、店の一員として見てくれている。

 

 ありがたい。

 

 湊は、真面目な顔で続けた。

 

「ありがたいです」

 

 やめなさい。

 心の中で、玲愛はもう一度思った。

 

 それ以上、何も言うな。

 

 湊は何も分かっていない。

 

 菓子の話しかしていない。

 

 仕事の話しかしていない。

 

 それなのに、どうしてこんなにも、言葉がまっすぐなのか。

 

「その説明は、仕事の範囲に限定してください」

 

「はい」

 

「今のままでは、必要以上の意味が残ります」

 

「どの部分でしょうか」

 

「全部です」

 

「全部」

 

 湊は、本気で困っている。

 三枝は視線を外しているが、口元がわずかに笑っている。

 森崎は、今度こそ完全に嬉しそうな顔をしている。

 有坂は、何も言わずに穏やかに見ている。

 

「皆さんも、仕事へ戻ってください」

 

 玲愛は言った。

 

「開店前です。確認すべきことがあります」

 

「はい」

 

 森崎が返事をする。

 

「分かったよ」

 

 三枝が厨房へ戻る。

 

「じゃあ、予約表を確認しようか」

 

 有坂も仕事へ戻る。

 

 湊だけが少し残った。

 

「花鳥さん」

 

「何ですか」

 

「試作の残りですが」

 

「翌日確認用として一つ預かります」

 

 玲愛は反射的に答えた。

 湊が頷く。

 

「お願いします」

 

「持ち帰るとは言っていません。時間経過後の確認用として保管します」

 

「はい」

 

 三枝が厨房から声をかけた。

 

「じゃあ、販売分とは分けて、評価用サンプルとして包んでおくよ」

 

 有坂も提供表へ目を落とす。

 

「持ち帰り確認にするなら、試作記録へ残しておこうか。店の在庫とは別扱いで」

 

 玲愛は包みを見た。

 店内へ置いておくより、自宅で時間経過後の状態を確認した方が条件は明確になる。

 

「……お願いします」

 

 玲愛は業務上必要な手続きを先に答えた。

 湊は小さな包みを差し出した。

 評価用、と短く記された紙が添えられている。

 玲愛はそれを受け取った。

 紙越しに、まだ温度が残っていた。

 

「確認をお願いします」

 

「品質確認として預かります」

 

「はい」

 

 湊は厨房へ戻っていった。

 玲愛は包みを見た。

 それから、視線を感じて顔を上げる。

 森崎が、ホールの奥からこちらを見ていた。

 

「森崎さん」

 

「準備に戻ります」

 

 今度は呼ぶ前に逃げられた。

 その日の営業は、いつも通り進んだ。

 

 玲愛はホールを見た。

 客席を見た。

 森崎の説明を直した。

 有坂と予約の流れを確認した。

 厨房から出てくる菓子の状態を見た。

 湊の判断が遅れていないかも見た。

 

 いつも通りだ。

 何も特別なことはしていない。

 それなのに、ふとした瞬間に言葉が戻ってきた。

 

 花鳥さんの言葉は、後から何度も残る。

 忘れたくない。

 自分が見ていなかった場所が分かる。

 店の一員として見てくれている。

 必要なところまで見てくれている。

 

 ありがたい。

 

 玲愛は、そのたびに仕事へ意識を戻した。

 

 今は営業中だ。

 考える必要はない。

 全部、仕事の話だ。

 

 湊は菓子のことしか考えていない。

 あの男は、言葉がどう聞こえるかを理解していないだけだ。

 

 閉店後も、三人の視線が少し気になった。

 三枝は何も言わなかった。

 森崎も何も言わなかった。

 有坂も、いつも通りだった。

 

 それがかえって腹立たしい。

 

 何か言われた方が、仕事の理屈で切れる。

 何も言わず、温かい目で見られる方が対応に困る。

 

「花鳥さん」

 

 有坂に呼ばれ、玲愛は顔を上げた。

 

「何ですか」

 

「今日もお疲れさま」

 

「お疲れさまです」

 

「相沢くんの試作、よくなってたね」

 

「はい」

 

「花鳥さんの言葉、ちゃんと届いてたみたいだ」

 

「店長」

 

「菓子に、だよ」

 

「……分かっています」

 

「うん」

 

 有坂は、それだけ言って店の奥へ戻った。

 また、逃げ道だけ残された。

 

 玲愛は、小さく息を吐いた。

 

 帰宅後。

 部屋の明かりをつける。

 

 鞄を置く。

 仕事用の服を脱ぎ、部屋着へ着替える。

 

 鏡の前に立つ。

 

 店ではない。

 客席もない。

 提供表もない。

 判断を求めるスタッフもいない。

 

 だからこそ、抑えていた言葉が一斉に戻ってきた。

 

 花鳥さんの言葉は、後から何度も残るので。

 

「違うわ」

 

 玲愛は鏡の中の自分へ言った。

 

 忘れたくないです。

 

「全部、仕事の話よ」

 

 自分が見ていなかった場所が分かります。

 

「あの人は菓子のことしか考えていないの」

 

 今の菓子にも、花鳥さんに教えてもらった見方が入っています。

 

「私のことを言っているんじゃないわ」

 

 言葉を判断材料にはしています。

 

「私の言葉を、菓子の材料にしているだけ」

 

 言ってから、玲愛は鏡の中の自分を見た。

 

「……それもどうなのよ」

 

 問いかけた声だけが、静かな部屋に残った。

 湊は、玲愛の顔立ちについて何も言わない。

 服装についても言わない。

 髪についても、目についても、容姿についても何も言わない。

 玲愛を見ていないわけではない。

 

 仕事の時の姿勢は見ている。

 言葉を切る一拍も見ている。

 判断の順番も見ている。

 紅茶の温度も覚えている。

 声をかけるタイミングも、菓子へ戻している。

 

 だが、それは玲愛自身を見ていることになるのだろうか。

 

 仕事を見ているだけではないのか。

 言葉を見ているだけではないのか。

 湊にとって玲愛は、菓子を改善するための視点でしかないのではないか。

 

 そこまで考えて、玲愛は胸の奥に小さな不満が生まれたことに気づいた。

 

「……私のことは、どう見ているのよ」

 

 口から出た。

 

 玲愛は鏡を見た。

 

 誰もいない。

 

 自分しかいない。

 

「何を考えているのよ、私は」

 

 両手で頬を押さえる。

 

 少し熱い。

 違う。

 これは仕事終わりだからだ。

 一日中ホールに立っていたから。

 室温が少し高いから。

 

 別に、湊の言葉を思い出したからではない。

 

 玲愛は机の前に座った。

 

 論理的に整理する。

 

 私はホールチーフ。

 相沢さんは店の商品を作る人。

 彼の判断が乱れれば、客席に影響する。

 だから見る。

 だから紅茶を置く。

 だから森崎が質問する時間を調整する。

 だから試作を確認する。

 だから言葉を直す。

 

 完璧だ。

 

 何もおかしくない。

 

 すべて仕事として説明できる。

 

 では、なぜ。

 

 なぜ、紅茶の温度まで覚えているのか。

 なぜ、湊が一口目を飲んだ後に肩の力を抜いたことまで覚えているのか。

 なぜ、「ありがたい」という言葉が何度も戻ってくるのか。

 なぜ、三枝と森崎と有坂の目が気になるのか。

 

 玲愛は、机に両手を置いた。

 

「私は相沢さんを甘やかしていないわ!」

 

 誰もいない部屋に、声が響いた。

 

 静かになった。

 

 玲愛は、自分の声の大きさに少しだけ後悔した。

 隣室に聞こえていないだろうか。

 しばらく待つ。

 何も聞こえない。

 

 玲愛は、小さく息を吐いた。

 

「……少し、見ているだけよ」

 

 言い直す。

 

 店の一員として。

 必要な範囲を。

 仕事に支障が出ないように。

 少しだけ。

 

 それだけだ。

 

 玲愛は鞄を片付けようとして、小さな白い包みに気づいた。

 

 湊の試作。

 店で預かった、評価用サンプル。

 持ち帰ること自体は、試作記録にも残してある。

 問題はない。

 ただし、今夜すぐ確認するつもりはなかった。

 

 明日、店で確認すればいい。

 そう思っていた。

 しかし、状態が変わる前に確認した方が正確だ。

 

 湿度。

 香りの抜け方。

 時間経過後の食感。

 

 確認項目はある。

 

「品質確認よ」

 

 誰にともなく言った。

 

 包みを開く。

 小さな焼き菓子を皿へ置く。

 紅茶を淹れる必要はない。

 単体で香りがどう切れるかを確認する。

 

 一口。

 

 最初に甘さ。

 柑橘。

 

 飲み込む。

 

 一呼吸。

 

 香りは消える。

 作業へ戻りやすい。

 昨日より、確かに良くなっている。

 玲愛の言葉をそのまま写しただけではない。

 

 湊自身が食べ、考え、選び直した味だった。

 

「……悪くないわ」

 

 小さく言う。

 そして気づく。

 自宅でまで確認している。

 

「これは持ち帰り確認よ」

 

 言い直す。

 

「甘やかしではないわ」

 

 もう一度言う。

 

「品質確認なの」

 

 誰も聞いていない。

 皿の上は空になった。

 玲愛は、空になった皿を見た。

 全部食べる必要はなかった。

 

 一口で確認はできた。

 

 残りは明日に回してもよかった。

 だが、もう残っていない。

 

「……確認には必要だったのよ」

 

 玲愛は、小さく付け足した。

 

 湊の言葉が、また戻ってくる。

 

 花鳥さんの言葉は、後から何度も残るので、皿に戻しやすいです。

 

 玲愛は、空になった皿から目をそらした。

 

 花鳥玲愛は、相沢湊を甘やかしていない。

 

 ただ、彼が自分の言葉をどんな皿にして返してくるのか、少し気になっているだけだった。

 

 少しだけ。

 

 たぶん。

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