花鳥玲愛は、甘さを認めない   作:エーアイ

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第28話 相沢湊は、花鳥玲愛に甘やかされていない

 相沢湊は、花鳥玲愛に甘やかされていない。

 答えを教えてもらえるわけではない。

 判断に迷っても、代わりに決めてもらえるわけではない。

 試作に問題があれば、はっきり指摘される。

 自分で確認できることを玲愛に尋ねれば、先に自分の意見を求められる。

 店の商品に関わる以上、新人だからという理由で責任を外してもらえることもない。

 だから湊は、自分が玲愛に甘やかされているとは思っていなかった。

 

 朝の厨房で、湊は前日の試作記録を開いていた。

 

 開店前のキュリオには、まだ客の声がない。

 ホールでは椅子を整える音がする。

 別のスタッフがカトラリーを確認し、森崎乃々香が案内カードを一枚ずつ並べている。

 厨房ではオーブンの予熱音と、器具が作業台へ置かれる乾いた音が重なっていた。

 湊のノートには、前日の試作について書かれている。

 

 柑橘の香りは一呼吸で切れる。

 蜂蜜の甘さは短いが、作業へ戻る用途としては十分。

 時間経過後の変化は未確認。

 誰が、どの作業の途中に食べるのかを、もう一段具体化する必要あり。

 

 以前なら、そこに玲愛の言葉をそのまま残していた。

 

 香りを残しすぎない。

 用途を広くしすぎない。

 自分で確認する。

 言葉ではなく、状態を記録する。

 

 だが今は、そのままでは書かない。

 

 自分で食べた時に、何が起きたか。

 どの程度残ったか。

 どこから作業へ戻りやすいと感じたか。

 玲愛から言われたことを、自分の判断として書き直す。

 

 それが、店の一員として扱われるということなのだと、湊は理解していた。

 

「相沢くん」

 

「はい」

 

 三枝誠司に呼ばれ、湊は顔を上げた。

 三枝は仕込み用の材料を確認しながら、湊のノートへ視線を向けている。

 

「昨日、花鳥さんにずいぶん見てもらってたね」

 

「はい」

 

 湊は頷いた。

 

「でも、甘やかされてはいません」

 

 三枝の手が一度止まった。

 それから、少しだけ笑う。

 

「そう思う?」

 

「はい」

 

「ずいぶん即答だね」

 

「花鳥さんは、問題があれば明確に指摘します」

 

「うん」

 

「答えを教えるのではなく、自分で確認するように言います」

 

「そうだね」

 

「店の一員として判断を求められます。不調だからといって、必要な責任を外されることもありません」

 

 三枝は何も挟まず、続きを待っている。

 

「花鳥さんは、俺を楽にしようとしているわけではありません」

 

「うん」

 

「自分で立てるように見てくれています」

 

 三枝が、ほんの少しだけ目を細めた。

 

「それ、十分だと思うけどね」

 

「何がでしょうか」

 

「いや」

 

 三枝は首を振った。

 

「相沢くんがそう受け取ってるなら、それでいいよ」

 

「はい」

 

「ただ、本人にそのまま言う時は気をつけた方がいいかも」

 

「なぜですか」

 

「言葉が少し危ないから」

 

 湊は考えた。

 玲愛にも、同じことを何度か言われている。

 湊自身には、どの部分が危険なのか、まだ完全には分からない。

 製菓の話は、できるだけ正確に伝えているつもりだった。

 

「表現を具体的にした方がいいということでしょうか」

 

「うん。まあ、そういうことにしておこうか」

 

 三枝は、それ以上説明しなかった。

 

 湊はノートへ視線を戻した。

 自分で立てるように見てもらっている。

 その表現のどこが危険なのだろう。

 少し考えたが、答えは出なかった。

 ただ、玲愛が言葉の誤解を嫌うことは分かっている。

 こちらも、できるだけ状態と事実を明確に伝えなければならない。

 

 開店前の仕込みを終えた頃、玲愛が厨房の入口に現れた。

 手には今日の提供予定表がある。

 姿勢はいつも通り崩れていない。

 ホールの状況を確認してから厨房へ来たのだろう。

 玲愛が入口へ立つ前、ホール側で椅子を引く音が一度止まり、すぐにまた動き始めた。

 

「相沢さん」

 

「はい」

 

「昨日の試作について、記録は整理できましたか」

 

「できています」

 

「見せてください」

 

 湊はノートを開き、玲愛が見やすい方向へ向けた。

 

 以前なら、言われたことを一字ずつ残していた。

 今は、自分で確認した状態と、次に直す項目だけを書いている。

 玲愛はページを上から下まで確認した。

 文章を読む時、玲愛はほとんど表情を変えない。

 ただ、必要な情報が不足している時だけ、視線が少し戻る。

 前日の湊なら、その動きを見た時点で、どこか書き漏らしたのだと思っていた。

 

 今日は、玲愛の視線が一度も戻らなかった。

 

「昨日の確認で、自分の判断が足りなかったところが分かりました」

 

 湊が言うと、玲愛はノートから顔を上げた。

 

「それを自分で修正できたなら、確認した意味はあります」

 

「はい」

 

「ただし、私の指摘を正解として残すのではありません」

 

「分かっています」

 

「では、自分の言葉で説明してください」

 

「はい」

 

 湊は、前日の試作と記録を思い返した。

 

「花鳥さんは、俺に答えをくれるのではなく、自分で答えを出せるところまで見てくれています」

 

 玲愛の動きが、わずかに止まった。

 湊は、理由が分からなかった。

 玲愛は返答の前に一拍置くことがある。

 

 説明が不正確な時。

 言葉の範囲が広すぎる時。

 あるいは、こちらの意図を確認している時だ。

 

「必要な範囲を確認しているだけです」

 

「分かっています」

 

 湊がすぐに答えると、玲愛の肩から、ほんの少しだけ力が抜けたように見えた。

 安心したのかもしれない。

 湊が特別な意味に取っていないと分かったからだろう。

 ならば、より正確に説明した方がいい。

 

「必要な範囲を、俺より先に分かってくれているんだと思います」

 

 玲愛が再び止まった。

 今度は、前より少し長い。

 

「相沢さん」

 

「はい」

 

「念のため言っておきますが、私はあなたを甘やかしているわけではありません」

 

「はい。分かっています」

 

 湊は迷わず答えた。

 玲愛の表情が、またわずかに緩んだ。

 やはり、誤解を警戒していたらしい。

 

「花鳥さんは、俺ができないことを代わりにやってくれるわけではありません」

 

「その通りです」

 

「できるようになるまで、見落とした場所を示してくれます」

 

 玲愛は黙っている。

 

「それは、甘やかすことではないと思います」

 

「……そうですね」

 

「だから、ありがたいです」

 

 玲愛の目が、少しだけ大きくなった。

 湊には、その理由が分からない。

 評価されるべき仕事だと思ったから、礼を伝えただけだった。

 

「その礼は、今の確認作業についてだけ受け取ります」

 

「はい」

 

「説明の範囲を広げないでください」

 

「どの部分でしょうか」

 

「最後です」

 

「ありがたい、ですか」

 

「繰り返さないでください」

 

「はい」

 

 玲愛の声が、少しだけ硬くなった。

 三枝が近くにいる時や、森崎がこちらを見ている時、玲愛の声は時々こうなる。

 仕事への集中を戻すためだろう。

 

「それより、今日確認する試作はありますか」

 

「あります」

 

 湊は、用意していた小さな容器を取り出した。

 中には同じ配合の試作が二つ入っている。

 一つは焼成直後に近い状態。

 もう一つは少し時間を置き、香りの変化を比較するためのものだ。

 どちらも一口で食べ切る大きさではなく、玲愛が半分ずつ比較できる形に分けてある。

 

「二つですか」

 

「時間経過による香りの変化を比較できるようにしました」

 

「誰が確認しても同じ条件になりますか」

 

「はい。三枝さんにも同じ形で確認してもらいます」

 

「なら構いません」

 

「紅茶を合わせる確認は、午後の客足が落ち着いてからお願いしたいです」

 

 玲愛が湊を見る。

 

「なぜですか」

 

「午前中は予約席と紅茶セットの確認が重なります」

 

 湊はホールの予定表へ視線を向けた。

 

「その時間に花鳥さんがホールを離れると、森崎さんの確認が一度増えます。午後なら、カウンター側で確認できると思います」

 

 玲愛は、少し黙った。

 

「……よく見ていますね」

 

「昨日、質問する時間を調整するように言われたので」

 

「私の時間を基準にしすぎないでください」

 

「はい」

 

「ホール全体の状態を見て決めてください」

 

「そのつもりです」

 

「本当に?」

 

「はい」

 

 湊は玲愛の顔を見た。

 返答の前に一拍止まる。

 少しだけ目を細める。

 言葉では厳しく確認しているが、試作の評価をする時よりも、湊の礼や配慮について話す時の方が声が硬い。

 おそらく、自分だけを理由に仕事の流れを変えられることを嫌っている。

 だから湊は、玲愛個人ではなく、ホール全体を見ていることを示さなければならない。

 

「午後の状況が変われば、確認は延期します」

 

「それなら結構です」

 

 玲愛の声が少し戻った。

 やはり、考え方は間違っていなかった。

 

「昨日の試作ですが」

 

 湊は、もう一つ確認したかったことを口にした。

 

「時間が経った後の状態はどうでしたか」

 

 玲愛の視線が、ほんの少しだけ横へ動いた。

 

「香りの切れ方に大きな変化はありませんでした」

 

「食感は」

 

「表面の乾燥が少し進んでいました。ただ、作業中に短く食べる用途なら許容範囲です」

 

「分かりました」

 

 湊は、まず自分の記録へ目を落とした。

 前日に予想した状態を書く。

 その下に、玲愛の確認結果を加える。

 玲愛の言葉を書き取る前に、自分の予測を残す。

 それが、前日に教えられた記録の方法だった。

 

「食べて確認してくれたんですね」

 

「品質確認です」

 

「はい」

 

 玲愛の返答は速かった。

 ここで終わるべきなのだろうと、湊は一度思った。

 だが、確認してもらった事実には、礼を伝える必要がある。

 

「店を離れた後まで確認してもらえるとは思っていませんでした」

 

 玲愛が止まった。

 

「そこまで見てもらえるなら、次はもっと正確に返したいです」

 

「相沢さん」

 

「はい」

 

「自宅で確認したことを、特別な意味に取らないでください」

 

「特別な意味には取っていません」

 

 湊は本気で答えた。

 玲愛は、わずかに息を吐いた。

 安心したように見える。

 

「ただ、仕事の時間が終わっても確認してくれたことは忘れません」

 

 玲愛が完全に動かなくなった。

 厨房では、三枝が生地を混ぜる音だけが続いている。

 ホール側からは、森崎が誰かに確認する声が小さく聞こえた。

 

「そこまで、という表現は不要です」

 

「はい」

 

「時間経過後の試作確認に限定してください」

 

「時間経過後の試作確認について、忘れないという意味です」

 

「最初からそう言ってください」

 

「分かりました」

 

「それと、礼は不要です」

 

「はい」

 

「業務上必要な確認です」

 

「分かっています」

 

 玲愛の表情が、また少しだけ緩んだ。

 湊は、玲愛の言葉を正確に受け取れているのだと思った。

 

 特別扱いではない。

 甘やかしでもない。

 店の商品に関わる作り手として、必要なところまで確認されている。

 

 それで十分だった。

 

 午前の営業が始まった。

 ホールの客足は、最初は穏やかだった。

 

 紅茶の注文。

 軽食。

 焼き菓子の持ち帰り。

 湊は厨房からホールのすべてを見ることはできない。

 だが、返ってくる皿の状態と、注文票の増え方で流れを読む。

 

 森崎が厨房へ来たのは、紅茶セットの注文が少しずつ増え始めた頃だった。

 

「相沢さん」

 

「はい」

 

「今、大丈夫ですか」

 

「大丈夫です」

 

「午後の焼き菓子ですが、あと何個まで出せそうですか?」

 

 湊はすぐに答えなかった。

 

 現在の残数。

 焼成からの経過時間。

 午後の提供予定。

 追加焼成に必要な時間。

 今から焼き足した場合、同じ香りと食感で出せるか。

 以前なら、湊は玲愛の判断を聞いてから答えていた。

 

 だが、今は自分で決める必要がある。

 

「確認します」

 

 湊は焼き菓子の状態を見た。

 

 残っているのは五個。

 そのうち二個は、午後遅くなると表面の香りが弱くなる可能性がある。

 追加焼成はできる。

 ただし、今から仕込めば他の作業に影響する。

 

 三枝が確認する。

 

「相沢くん、どうする?」

 

 答えを求める声ではない。

 判断を促す声だった。

 湊は、もう一度残数と注文票を見る。

 

「あと三個までは、同じ品質で出せます」

 

 森崎が頷く。

 

「三個ですね」

 

「はい。それ以上は止めます」

 

「追加では焼きませんか?」

 

「今から追加すると、焼き上がりが遅くなります。最初の三個と提供条件が変わります」

 

「分かりました」

 

「三個に達した時点で、注文を止めてください」

 

「はい」

 

 森崎がホールへ戻ろうとしたところで、玲愛が厨房の入口に立った。

 すでに会話の一部を聞いていたのだろう。

 

「相沢さん」

 

「はい」

 

「根拠を説明してください」

 

 湊は答えた。

 

「現在の残数は五個です。ただし、二個は午後遅くなると香りが弱くなる可能性があります」

 

「はい」

 

「追加焼成はできますが、今から始めると他の仕込みに影響します。焼き上がり後に十分な確認時間も取れません」

 

「それで?」

 

「同じ品質で出せる三個までにします。それ以上は、今日の提供を止めます」

 

 玲愛は、注文票と焼き菓子を見た。

 

「追加注文の可能性は」

 

 森崎が答える。

 

「今の客席だと、あと二件くらいだと思います。ただ、持ち帰りが入る可能性はあります」

 

 玲愛が湊を見る。

 

「持ち帰りが二件入った場合は?」

 

「先に注文された順で三個まで出します。残りは案内を止めます」

 

「お客様への説明は」

 

「本日の提供分が終了した、と伝えてください。品質を維持できないため、とは説明しなくていいと思います」

 

 玲愛が、ほんのわずかに頷いた。

 

「その判断で構いません」

 

「はい」

 

 湊は返事をした。

 胸の奥に、少しだけ力が戻る。

 正解をもらったわけではない。

 自分の判断を、店の商品として通してよいと認められた。

 

 森崎がホールへ戻る。

 玲愛も続こうとした。

 

「花鳥さん」

 

 湊は呼び止めた。

 

「何ですか」

 

 玲愛が振り返る。

 

 今の判断を、何と伝えるべきか。

 三枝から、言葉には気をつけた方がいいと言われている。

 だから、できるだけ正確に言う。

 

「甘やかされていないから、自分で決められました」

 

 玲愛の目が、わずかに見開かれた。

 湊は、また何か表現を間違えたのかと思った。

 

「それは、あなたが判断した結果です」

 

「はい」

 

「私が決めたわけではありません」

 

「分かっています」

 

「でしたら」

 

「でも、花鳥さんが答えを渡さずに見てくれたからです」

 

 玲愛が止まる。

 湊は続けた。

 

「以前なら、何個まで出せるか聞いていたと思います」

 

「そうでしょうね」

 

「今は、自分で根拠を確認して決めるように言われています」

 

「はい」

 

「見落としていれば、花鳥さんが止めることも分かっています」

 

 玲愛は何も言わない。

 

「だから、自分で決められました」

 

 しばらくして、玲愛が小さく息を吐いた。

 

「……今は営業中です」

 

「はい」

 

「その話は後にしてください」

 

「後で話す必要がありますか」

 

「ありません」

 

「分かりました」

 

 玲愛はホールへ戻っていった。

 歩く速度が、いつもより少しだけ速い。

 湊は、その背中を見送った。

 

「相沢くん」

 

 三枝に呼ばれる。

 

「はい」

 

「今の、本人に言ったね」

 

「何か問題がありましたか」

 

「いや」

 

 三枝は少し笑った。

 

「花鳥さん、また止まってたなと思って」

 

「説明が不正確だったでしょうか」

 

「たぶん、正確すぎたんじゃないかな」

 

 湊には意味が分からなかった。

 ただ、自分が甘やかされていないことは、正確に伝えられたと思う。

 昼を過ぎた頃、提供可能と決めた三個はすべて注文された。

 森崎が厨房へ戻り、提供を止めたことを確認する。

 

「相沢さん、さっきの判断、花鳥さんも認めていましたね」

 

「はい」

 

「うれしいですか?」

 

 湊は考えてから答えた。

 

「はい。甘やかされていないことが、うれしいです」

 

 森崎の口元から笑みが消え、代わりに困ったような表情が浮かんだ。

 

「それ、花鳥さんに直接言わない方がいいかもしれません」

 

「もう言いました」

 

「……そうですか」

 

 三枝が奥から笑う。

 

「相沢くんは、甘やかされないことまで花鳥さんから受け取るんだね」

 

「店の一員として扱ってもらったので」

 

 そこへ有坂が、提供停止の報告を聞いて厨房へ来た。

 

「花鳥さんの厳しさが、ちゃんと安心になってるんだね」

 

 安心。

 湊はその言葉を確かめる。

 

「はい。花鳥さんが見ているなら、曖昧なまま店には出ないと思えます」

 

「それは、いい信頼だね」

 

 有坂はそれ以上、答えを求めなかった。

 湊にも、信頼という言葉はまだ少し大きい。

 ただ、自分の感覚に近いことは分かった。

 午後、客足が落ち着いたところで、湊は比較用の試作をカウンター近くへ出した。

 玲愛がホールを長く離れなくて済む時間を選び、焼成直後に近いものと、時間を置いたものを半分ずつ用意している。

 

「五分以内なら確認します」

 

「お願いします」

 

 玲愛は二つを食べ比べ、紅茶を一口飲んだ。

 

「時間を置いた方は、表面の乾燥が進んでいます。ただし、この用途なら許容範囲です」

 

 湊は先に自分の感想を書き、その後へ玲愛の評価を加えた。

 

「記録の順番は、それで構いません」

 

「はい」

 

「作り置きを前提にするなら、次は乾燥を抑えてください」

 

「分かりました」

 

 前日の言葉を写すのではなく、自分の確認と比べて残す。

 短い確認だったが、湊には十分だった。

 

 閉店後。

 店内の照明が、一つずつ落とされていく。

 ホールでは椅子を戻す音がする。

 厨房では三枝が翌日の仕込みを確認し、別のスタッフが洗浄を終えた器具を棚へ戻していた。

 

 湊は、今日の記録をまとめていた。

 

 午後の提供判断。

 残数五個。

 同品質で提供可能な数は三個。

 追加焼成は行わない。

 提供停止判断後、在庫ロス二個。

 品質維持を優先。

 玲愛からの確認結果。

 

 その下に、湊は今日の自分の状態を書いた。

 

 甘やかされていない。

 判断を任されている。

 見落とせば指摘される。

 自分で決めれば、確認してもらえる。

 

 そこまで書き、湊は少し考えた。

 

 製菓記録として必要かどうか。

 だが、自分が判断した時の状態は、残しておく意味がある。

 次に同じ状況になった時、今日と比較できる。

 

 湊は最後の一行を書いた。

 

 花鳥さんに見られていることは、以前より怖くない。

 書いてから、少し違うと思った。

 以前も、玲愛に見られることが怖かったわけではない。

 ただ、何を見られているのか分からなかった。

 

 菓子を否定されるのか。

 自分の不足を指摘されるのか。

 店に置けないと言われるのか。

 

 今は違う。

 玲愛が何を確認しているのか、少しずつ分かる。

 

 湊は、先ほどの一行に線を引いた。

 その下へ書き直す。

 

 むしろ、助かる。

 

「……その記録は必要ですか」

 

 声がして、湊は顔を上げた。

 玲愛が立っていた。

 ホールの確認を終え、厨房を通りかかったらしい。

 視線は、湊のノートに向いている。

 

「はい」

 

「なぜですか」

 

「判断する時の状態なので」

 

「状態」

 

「花鳥さんに確認されることを、以前より負担に感じなくなっています」

 

 玲愛の視線が、ノートの一行へ落ちた。

 湊は、言葉が広すぎたのだと気づいた。

 

「品質や提供数について、根拠を確認されることに慣れたという意味です」

 

「……そうですか」

 

「はい」

 

 玲愛が、もう一度ノートを見る。

 

「削除してください」

 

「なぜですか」

 

「製菓記録に不要です」

 

「判断時の精神状態も、結果に影響すると思います」

 

「表現が不適切です」

 

「事実ですが」

 

「表現を変えてください」

 

 湊は考えた。

 

 見られている。

 助かる。

 どちらも事実だ。

 ただし玲愛は、言葉の範囲が広いことを問題にしている。

 ならば、より具体的にする。

 

 湊は書き直した。

 花鳥さんの確認があることで、判断を曖昧にしなくて済む。

 

 玲愛はノートの余白を指で押さえた。

 

「これなら具体的だと思います」

 

「……言葉の使い方に注意してください」

 

「はい」

 

「業務記録としては具体的です。ですが、必要以上に私を主語へ置かないこと」

 

「問題はありませんか」

 

「ありません」

 

「では、残します」

 

「好きにしてください」

 

 玲愛は、わずかに顔を横へ向けた。

 声が少し硬い。

 また言葉を間違えたのかもしれない。

 

「花鳥さん」

 

「何ですか」

 

「今日の判断を認めてもらえて、助かりました」

 

「それは、あなたが根拠を示したからです」

 

「はい」

 

「私が決めたのではありません」

 

「分かっています」

 

「なら、結構です」

 

 玲愛は、厨房を出ようとした。

 湊は、その背中へもう一度言う。

 

「明日も、自分で確認します」

 

 玲愛が足を止める。

 

「当然です」

 

「はい」

 

「店の一員なのですから」

 

「分かっています」

 

 玲愛は振り返らなかった。

 だが、少しだけ声が柔らかくなっていた。

 

「記録が終わったら、早く帰宅してください」

 

「はい」

 

「状態管理も業務の一部です」

 

「分かりました」

 

 玲愛はホールへ戻っていった。

 湊はノートを見る。

 

 花鳥さんの確認があることで、判断を曖昧にしなくて済む。

 それは、甘やかされているということではない。

 答えを与えられてはいない。

 自分で決めることを求められている。

 責任も外されない。

 だが、判断するまで見てもらえる。

 間違っていれば止めてもらえる。

 自分で決めたことには、きちんと答えが返ってくる。

 

 有坂は、それを信頼と言った。

 湊には、まだ少し大きな言葉に思えた。

 ただ、玲愛に見られることが、以前より怖くないのは確かだった。

 

 むしろ、助かる。

 その部分だけは、書き直さなくてもよかったのかもしれない。

 

 相沢湊は、花鳥玲愛に甘やかされていない。

 

 答えを与えられず、自分で決めることを求められている。

 ただ、決めるまで見ていてくれる人がいることを、湊は少しずつ安心と呼び始めていた。

 少なくとも、今の自分の言葉では、まだ本人へ伝えない方がよさそうだった。

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