花鳥玲愛は、甘さを認めない   作:エーアイ

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第4話 花鳥玲愛は、厨房の音を聞いている

 朝のキュリオには、音がある。

 

 客席にはまだ誰もいない。

 

 けれど、店は無音ではない。

 

 磨かれるグラスの音。

 

 伏せられたカップが、棚に戻される音。

 

 床を掃く柔らかな音。

 

 予約表をめくる紙の音。

 

 そして、厨房の奥から聞こえる音。

 

 金属が触れる音。

 

 粉をふるう音。

 

 ボウルの底を擦る音。

 

 オーブンの扉が閉じる音。

 

 花鳥玲愛は、その音を聞いていた。

 

 聞こうとしていたわけではない。

 

 ただ、聞こえる。

 

 キュリオの朝は、そういう音で始まる。

 

 だから、いつもと違う音も分かる。

 

 少しだけ早い。

 

 少しだけ慎重。

 

 そして、何度も止まる。

 

 迷っている音だった。

 

「……また、早いのですね」

 

 玲愛はホールの入口から、厨房の奥を見た。

 

 作業台の前に、相沢湊がいた。

 

 白いコックコート。

 

 袖口は、初日より少しだけ馴染んでいる。

 

 手元には、前日に焼いたらしい生地の切れ端が並んでいた。

 

 その横に、小さなノート。

 

 湊は、生地を割って、断面を見て、指で崩して、何かを書き込んでいた。

 

 失敗した生地を、ただ捨てているのではない。

 

 残している。

 

 記録している。

 

 そのことに、玲愛は気づいた。

 

 気づいただけだ。

 

 評価したわけではない。

 

 厨房長の三枝誠司が、少し離れた作業台で仕込みの確認をしていた。

 

 湊を止めてはいない。

 

 放置しているわけでもない。

 

 必要な距離で見ている。

 

 三枝は玲愛に気づくと、軽く会釈した。

 

「おはよう、花鳥さん」

 

「おはようございます、三枝さん」

 

「相沢くん、今朝も早いよ」

 

「そのようですね」

 

「失敗分を見直したいって言うから、作業台を一部だけ使わせてる。開店準備前には片付けさせるよ」

 

「お願いします」

 

 三枝は、それ以上は言わなかった。

 

 湊の努力を必要以上に褒めない。

 

 だが、止めるべきものとも見ていない。

 

 厨房側の責任者として、適切な距離だった。

 

「おはようございます、花鳥さん」

 

 湊が顔を上げた。

 

 少し驚いた顔をして、それから頭を下げる。

 

「おはようございます、相沢さん」

 

 玲愛は一礼を返した。

 

「始業時間には、まだ少しあります」

 

「はい。昨日の生地を確認していました」

 

「昨日の失敗ですか」

 

「はい」

 

 即答だった。

 

 言葉が逃げなかった。

 

 そこは良い。

 

 だが、それは褒めるほどのことではない。

 

「失敗を確認するのは結構ですが、厨房の作業導線を塞がないようにしてください」

 

「分かっています。開店準備の前には片付けます」

 

「なら結構です」

 

 玲愛はそう言って、視線を落とした。

 

 湊のノートが、少しだけ見えた。

 

 香り、強すぎ。

 

 紅茶とぶつかる。

 

 皿の温度。

 

 森崎さんが持ちにくい。

 

 提供遅れ。客席の会話が止まる。

 

 そして、太く囲まれた一文。

 

 客席に届くまでが仕事。

 

 玲愛は、視線を戻した。

 

 見なかったことにした。

 

 見てしまったが、見なかったことにした。

 

「その言葉を覚えているなら、今日は同じ失敗をしないことです」

 

 つい、言ってしまった。

 

 湊が、ほんの少しだけ目を丸くした。

 

「はい」

 

 その返事が、少しだけ嬉しそうに聞こえた。

 

 気のせいだ。

 

 玲愛は厨房に背を向けた。

 

「勘違いしないでください。客席に影響するものを確認しているだけです」

 

「はい」

 

「厨房から出るものは、客席に影響しますので」

 

「分かっています」

 

「本当に?」

 

「……半分くらいは」

 

 玲愛は足を止めた。

 

 振り返る。

 

 湊は少し緊張した顔で立っていた。

 

 前なら、その返答に呆れたかもしれない。

 

 今も呆れてはいる。

 

 だが、分かったふりをしないという意味なら、悪くない。

 

「では、残り半分を今日の仕事で埋めてください」

 

「はい」

 

 三枝が横で小さく笑った。

 

 玲愛は見なかった。

 

 余計な反応を拾う必要はない。

 

 ホールへ戻ると、森崎乃々香がカップの位置を確認していた。

 

「花鳥さん、窓際の席、これで大丈夫でしょうか」

 

「椅子の角度は良いです。ですが、メニューの位置が少し内側です」

 

「あ、はい」

 

「お客様が座る前に、手が自然に届く位置を考えてください」

 

「分かりました」

 

 森崎は素直に直す。

 

 その動きはまだ少し若い。

 

 だが、前よりも客の手元を想像するようになっている。

 

 湊だけではない。

 

 森崎もまた、毎日少しずつ変わっている。

 

 店は、そうやって整っていく。

 

 開店準備は、滞りなく進んだ。

 

 テーブルの位置。

 

 カップの確認。

 

 予約席の配置。

 

 スタッフへの指示。

 

 やることは多い。

 

 相沢湊一人に構っている時間などない。

 

 ないはずだった。

 

 だが、厨房の音は、どうしても耳に入る。

 

 湊の動きは、初日より少しだけ変わっていた。

 

 皿を出す前に、ホール側を確認するようになった。

 

 受け渡しの時、スタッフに一言添えるようになった。

 

「森崎さん。この皿、持ちにくくないですか」

 

 昼前、玲愛はその声を聞いた。

 

 森崎が少し驚いたように皿を受け取る。

 

「昨日よりは大丈夫です。でも、端が少し狭いかもしれません」

 

「じゃあ、こっちに寄せます」

 

「助かります。お客様の前で置く時、少し余裕がある方が安心なので」

 

「分かりました」

 

 玲愛は、予約表を見ているふりをした。

 

 聞いていない。

 

 聞いていないが、聞こえる。

 

 次の注文では、焼き菓子の香りが少し抑えられていた。

 

 紅茶とぶつからない。

 

 ただし、抑えすぎていた。

 

 香りが奥へ引っ込みすぎている。

 

 店の商品としては安全だ。

 

 安全だが、少し印象が薄い。

 

 玲愛は皿を見た。

 

 きれいだった。

 

 非常にきれいだった。

 

 そして、少し物足りなかった。

 

 それは、まだ口に出さなかった。

 

 午後に入る前、有坂直人がホールに顔を出した。

 

 店全体を見るように客席を見渡し、それから厨房の方へ視線を向ける。

 

「相沢くん、少し馴染んできた?」

 

「馴染んだ、と言うには早すぎます」

 

 玲愛は即答した。

 

 有坂は苦笑する。

 

「花鳥さんらしいね」

 

「事実です」

 

「でも、動きは見ているんだ」

 

「厨房から出る皿は、客席に影響しますので」

 

「うん。そういうことにしておくよ」

 

 その言い方は、少し三枝に似ていた。

 

 玲愛は眉を動かさなかった。

 

「店長」

 

「余計だったね」

 

 有坂は軽く笑って、奥へ戻っていった。

 

 昼の忙しい時間が終わる頃、湊はホールの入口近くに立っていた。

 

 もちろん、客席に出たわけではない。

 

 邪魔にならない位置。

 

 厨房側から、スタッフの動きと皿の流れを見ている。

 

 営業後だけと言ったはずだ。

 

 だが、営業中に見るなとは言っていない。

 

 邪魔にならないなら。

 

 その条件は守っている。

 

 玲愛は客席を回りながら、湊の視線を感じていた。

 

 彼は皿だけを見ていない。

 

 森崎の手元。

 

 客がカップを持つタイミング。

 

 皿が置かれた時の目線。

 

 食べ始めるまでの間。

 

 それを見ようとしている。

 

 まだ分かってはいない。

 

 視線が時々、菓子に戻る。

 

 自分の場所へ戻ってしまう。

 

 だが、戻っていることに気づこうとしている。

 

 それは、初日とは違っていた。

 

「相沢さん」

 

 玲愛は、客席を回った後、厨房の入口で声をかけた。

 

「はい」

 

「今は見る時間ではありません。次の皿の準備は?」

 

「三枝さんに確認を取りました。次の注文までは、ここで流れを見ていて構わないと」

 

「三枝さんが?」

 

「はい」

 

 玲愛が厨房を見ると、三枝が軽く手を上げた。

 

「俺が許可したよ。邪魔にならない範囲で、だけどね」

 

「そうですか」

 

「必要なら戻す」

 

「いえ。邪魔にならないなら構いません」

 

 湊は少しだけ背筋を伸ばした。

 

「ありがとうございます」

 

「礼を言うことではありません。見るなら、見たものを仕事に戻してください」

 

「はい」

 

 その後、湊はすぐに厨房へ戻った。

 

 皿の置き方を少し変える。

 

 森崎が受け取りやすい位置に直す。

 

 香りを抑える。

 

 提供タイミングを確認する。

 

 やろうとしていることは分かる。

 

 ただ、まだ全体が安全側に寄りすぎている。

 

 店に迷惑をかけないこと。

 

 ホールを困らせないこと。

 

 紅茶とぶつからないこと。

 

 客席を乱さないこと。

 

 それらを優先しすぎて、彼自身の菓子の輪郭が消え始めている。

 

 玲愛は、そのことに気づいていた。

 

 気づいていたが、まだ言わなかった。

 

 昼の合間。

 

 森崎が皿を下げながら、厨房の入口で湊に声をかけていた。

 

「相沢さん、今日の焼き菓子、運びやすかったです」

 

「本当ですか」

 

「はい。でも、お客様に説明する時、少し言葉に迷いました」

 

「説明、ですか」

 

「ええと……優しい味です、だけだと弱い気がして」

 

 湊がノートを開く。

 

「ありがとうございます。書いておきます」

 

「いえ、そんな大したことじゃ」

 

「大事です。たぶん」

 

 森崎は少し笑った。

 

「たぶん、なんですね」

 

「まだ分かっていないので」

 

 玲愛はその会話を聞いていた。

 

 聞こうとしていたわけではない。

 

 ただ、聞こえた。

 

 湊は、ホールの言葉を拾おうとしている。

 

 それは良い。

 

 だが、拾いすぎると自分の菓子が消える。

 

 厄介だった。

 

「花鳥さん」

 

 午後の合間に、湊が声をかけてきた。

 

「何ですか」

 

「昨日のタルト、もう一度作り直しました」

 

「今ですか」

 

「営業後で構いません。見ていただけないでしょうか」

 

 玲愛は、すぐには答えなかった。

 

 見ない、という選択肢もある。

 

 まだ早い。

 

 既存商品の補助も十分ではない。

 

 新作に関わる以前の段階だ。

 

 そう言うことはできる。

 

 だが。

 

 湊は朝から、昨日の失敗を拾い直していた。

 

 皿の外側を見ようとしていた。

 

 ホールに聞き、香りを抑え、タイミングを気にしていた。

 

 それが正しい方向かどうかは、見なければ分からない。

 

「三分です」

 

 玲愛は言った。

 

 湊の表情が少しだけ明るくなった。

 

「ありがとうございます」

 

「褒めてはいません」

 

「はい」

 

「期待もしないでください」

 

「はい」

 

「本当に?」

 

「……少しだけ、しています」

 

「しないでください」

 

「はい」

 

 営業後。

 

 客席から人の気配が消えた後、湊は改良版のタルトを出した。

 

 三枝も少し離れて立っている。

 

 有坂は奥に下がったままだ。

 

 森崎はホール側の片付けをしながら、少しだけこちらを気にしている。

 

 白い皿の中央。

 

 前よりも、配置は控えめだった。

 

 果物の角度は自然になっている。

 

 クリームの絞りも力が抜けている。

 

 生地の厚さも調整されていた。

 

 皿の余白も、ホールが持ちやすいように残されている。

 

 湊は確かに直してきた。

 

 玲愛は、そこを認めた。

 

 口には出さない。

 

 まだ、出す段階ではない。

 

「どうぞ」

 

 湊がフォークを添えた。

 

 その目は、前より静かだった。

 

 期待はある。

 

 不安もある。

 

 だが、前のように、食べる側へ重さを預けてくる目ではない。

 

 そこも変わっている。

 

 玲愛はタルトを切った。

 

 生地の入りは軽くなっていた。

 

 クリームとの一体感も改善している。

 

 果物の酸味も、前より説明しすぎていない。

 

 香りは抑えられている。

 

 かなり、抑えられている。

 

 口に運ぶ。

 

 甘さ。

 

 酸味。

 

 生地。

 

 クリーム。

 

 どれも大きく外していない。

 

 前より整っている。

 

 キュリオに近づいている。

 

 店の商品として、安全になっている。

 

 だが。

 

 玲愛は、フォークを置いた。

 

「前より整っています」

 

 湊の肩が、わずかに下がった。

 

 安心しかけたのだろう。

 

 だから、玲愛は続けた。

 

「ですが、つまらなくなりましたね」

 

 湊の表情が止まった。

 

 厨房の空気も、止まった。

 

 森崎がホール側で小さく動きを止めたのが分かった。

 

 三枝も、何か言いかけたようだったが、すぐに黙った。

 

 湊は皿を見た。

 

「……つまらない、ですか」

 

「はい」

 

「前より、店に合わせたつもりでした」

 

「その通りです」

 

「香りも抑えました。酸味も前に出しすぎないようにしました。皿も持ちやすくしました。紅茶とぶつからないように」

 

「ええ」

 

「それでも、駄目ですか」

 

「駄目とは言っていません」

 

 玲愛は皿を見た。

 

 整ったタルト。

 

 綺麗な皿。

 

 安全な香り。

 

 客席に出しても、大きな問題は起こらないだろう。

 

 だが、食べ終わった後、残らない。

 

 最初のタルトには、未熟さがあった。

 

 主張が強かった。

 

 説明しすぎていた。

 

 店の商品としては不安定だった。

 

 それでも、最初の香りだけは残った。

 

 困ったことに、記憶に残った。

 

 このタルトには、それがない。

 

 玲愛は、静かに言った。

 

「店に合わせようとしたことは分かります」

 

「はい」

 

「皿の外側を見ようとしていることも、分かります」

 

「はい」

 

「ですが、今のあなたの皿は、店に嫌われないための皿です」

 

 湊は顔を上げた。

 

「嫌われないため……」

 

「キュリオの邪魔をしない。紅茶とぶつからない。ホールが運びやすい。客席の流れを止めない。どれも必要です」

 

「はい」

 

「ですが、それだけでは、あなたが作る理由がありません」

 

 言ってから、玲愛は少しだけ息を止めた。

 

 自分でも、少し踏み込んだと思った。

 

 相沢湊の菓子を、ただ安全に直せばよい。

 

 そう思っていたはずだ。

 

 店に不要なものを置きたくない。

 

 それだけだったはずだ。

 

 なのに今、自分は彼に「あなたが作る理由」を求めている。

 

 何を言っているのか。

 

 玲愛自身が、一瞬分からなかった。

 

 湊は黙っていた。

 

 皿を見る。

 

 自分のタルトを見る。

 

 悔しそうだった。

 

 だが、今度の悔しさは、前とは違う。

 

 前は否定された悔しさだった。

 

 今は、直したはずなのに届かなかった悔しさだ。

 

「……分かりません」

 

 湊が言った。

 

「何を残せばいいのか、分かりません」

 

 玲愛は、すぐには答えなかった。

 

 答えはない。

 

 少なくとも、玲愛が渡すべきものではない。

 

 彼の菓子の中に残すべきものを、玲愛が決めることはできない。

 

 できないはずなのに。

 

 最初の香りだけは、消してほしくないと思っている自分がいた。

 

 それが、少しだけ不愉快だった。

 

「それを、私に聞くのですか」

 

「……いいえ」

 

 湊は首を振った。

 

「たぶん、自分で考えることです」

 

「そうですね」

 

「でも、花鳥さんが今の皿をつまらないと言った理由は、覚えておきます」

 

「覚えるだけでは足りません」

 

「はい」

 

 湊は、皿を下げようとした。

 

 玲愛は、それを止めなかった。

 

 止める理由はない。

 

 評価は終わった。

 

 終わったはずだった。

 

 だが、湊が皿を持ち上げる直前、玲愛は言った。

 

「相沢さん」

 

「はい」

 

「最初のタルトは、店に出せるものではありませんでした」

 

「はい」

 

「今日のタルトは、前より店に近づいています」

 

「はい」

 

「ですが」

 

 玲愛は、少しだけ視線を逸らした。

 

「最初の方が、香りは残りました」

 

 湊の手が止まった。

 

 玲愛は、すぐに続けた。

 

「勘違いしないでください。評価ではありません」

 

「はい」

 

「商品として認めたわけでもありません」

 

「はい」

 

「ただの事実です」

 

「はい」

 

 湊は、静かに頷いた。

 

 今度は、嬉しそうにはしなかった。

 

 むしろ、真剣に受け取った顔だった。

 

 それでいい。

 

 茶化されるよりは、ずっといい。

 

「ありがとうございます」

 

「礼を言うところではありません」

 

「でも、言います」

 

「そうですか」

 

 玲愛は、それ以上は何も言わなかった。

 

 湊は皿を下げた。

 

 厨房の奥で、皿が置かれる音がした。

 

 軽い音。

 

 迷っている音ではない。

 

 考え始めた音だった。

 

 三枝が湊に短く声をかける。

 

「相沢くん。今のは、メモだけして終わらせない方がいい」

 

「はい」

 

「安全に寄せるのは悪くない。でも、安全だけだと商品にはなっても、君の皿にはならない」

 

「……はい」

 

「そこは、俺も一緒に見る。ただ、答えは君が持ってきて」

 

「分かりました」

 

 玲愛はその会話を聞いていた。

 

 三枝の言葉は、厨房側の言葉だった。

 

 玲愛が言いすぎた部分を、職人側の言葉に戻している。

 

 それは助かった。

 

 助かった、と思ったことに気づき、玲愛は少しだけ眉を寄せた。

 

 助けを求めた覚えはない。

 

 だが、三枝は必要なところで入った。

 

 それだけだ。

 

 玲愛はホールへ戻った。

 

 閉店後のテーブルを確認する。

 

 カップの位置。

 

 椅子の角度。

 

 照明。

 

 明日の予約表。

 

 やることはある。

 

 相沢湊一人に構っている時間などない。

 

 ないはずだった。

 

 それでも、厨房の音が耳に残る。

 

 生地を割る音。

 

 ノートを開く音。

 

 ペンが紙を走る音。

 

 皿の上を直そうとしている音。

 

 皿の外側を見ようとしている音。

 

 玲愛は、ふと足を止めた。

 

 自分は、相沢湊の菓子をただ矯正したいのだろうか。

 

 キュリオに合わせ、紅茶に合わせ、客席に合わせ、扱いやすい商品に直せば、それでいいのだろうか。

 

 そのはずだった。

 

 店に出せるかどうか。

 

 キュリオの商品としてふさわしいかどうか。

 

 それがすべてのはずだった。

 

 なのに。

 

 最初の、未完成な香りを思い出している。

 

 主張が強く、説明しすぎで、店に出せないタルト。

 

 あの中にあった、困った香り。

 

 それを、完全に消してほしいとは思えなかった。

 

「……面倒ですね」

 

 誰に向けた言葉なのかは、考えなかった。

 

「花鳥さん?」

 

 声に顔を上げると、森崎がトレーを抱えて立っていた。

 

「何でもありません」

 

「そうですか」

 

 森崎は、それ以上踏み込まなかった。

 

 ただ、厨房の方を少し見てから、小さく言った。

 

「相沢さんのタルト、前よりきれいでした」

 

「ええ」

 

「でも、最初に食べた時の方が、花鳥さん、少し長く見ていた気がします」

 

 玲愛は森崎を見た。

 

 森崎は慌てて首を振った。

 

「あ、すみません。余計なことを言いました」

 

「余計ですね」

 

「はい」

 

「ですが」

 

 玲愛は、厨房の方を見た。

 

 相沢湊が、失敗した生地を捨てずに、もう一度割っている音がした。

 

「見るところは、悪くありません」

 

 森崎が目を丸くした。

 

「ありがとうございます」

 

「褒めてはいません」

 

「はい」

 

「明日のカップ確認、忘れないように」

 

「はい」

 

 森崎は少し嬉しそうにホールへ戻っていった。

 

 玲愛は背筋を伸ばした。

 

 明日も、店は始まる。

 

 その時、厨房からどんな音が聞こえるのか。

 

 ほんの少しだけ気にしている自分には、まだ名前をつけないことにした。

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