つまらなくなりましたね。
その言葉は、最初の「店に出せるものではありません」よりも、別の場所に刺さった。
店に出せない。
それは、分かる。
悔しいが、分かる。
自分のタルトは、キュリオの商品としては不安定だった。
香りが強い。
酸味に頼っている。
皿単体で完結しすぎている。
客席の時間まで見えていない。
だから、直した。
香りを抑えた。
酸味も引いた。
皿の余白も整えた。
ホールが持ちやすい位置も考えた。
紅茶とぶつからないようにした。
キュリオに合わせた。
そのはずだった。
なのに、花鳥玲愛は言った。
前より整っています。
ですが、つまらなくなりましたね。
相沢湊は、厨房の作業台の前で、焼き上がった生地を見つめていた。
朝の仕込みは終わっている。
定番商品の準備も済んでいる。
開店前の厨房には、少しだけ余白があった。
湊はその余白を使って、昨日のタルトの配合を書き直していた。
香りを足せば、また強すぎる。
香りを引けば、つまらない。
酸味を立てれば、説明しすぎる。
酸味を引けば、輪郭がぼやける。
皿の外側を見る。
それは分かる。
客席に届くまでが仕事。
それも、少しだけ分かってきた。
だが。
では、自分は何を残せばいいのか。
そこが分からない。
作業台の隅には、昨日から続くメモが開かれていた。
店に嫌われないための皿では足りない。
あなたが作る理由がない。
最初の方が、香りは残った。
その三行を、湊は何度も見返した。
花鳥玲愛は厳しい。
だが、適当に言っているわけではない。
あの人は、店に不要なものを置きたくない。
それだけなのだと思っていた。
けれど昨日、彼女は違うことを言った。
店に合わせただけの皿を、つまらないと言った。
なら、花鳥玲愛が認める甘さとは、何なのか。
キュリオにふさわしい菓子とは、何なのか。
それを、聞きたいと思った。
聞くべきかは、迷った。
花鳥に聞くと、たぶん怒られる。
それはもう、かなり高い確率で分かっている。
だが、自分だけで考えても、同じ場所を回っている気がした。
「相沢くん」
三枝誠司に呼ばれ、湊は顔を上げた。
「はい」
「今日の焼き菓子、ホールに確認してきてくれる? 新しい皿に変わったから、運びやすさを見てもらいたい」
「分かりました」
「森崎さんにまず見てもらって。その後、花鳥さんにも確認を取って」
「はい」
三枝は、湊のノートにちらりと視線を落とした。
「昨日のこと、まだ考えてる?」
「はい」
「考えるのはいいけど、焼きすぎるなよ」
「焼きすぎる、ですか」
「菓子も考えも、火を入れすぎると硬くなる」
湊は少しだけ苦笑した。
「気をつけます」
「まあ、気をつけても焦げる時は焦げるけどね」
「三枝さん」
「焦げたら削ればいい。持っていきな」
「はい」
湊は皿を持った。
焼き菓子を三つ。
小さな皿に、余白を残して置く。
以前なら、もっと綺麗に見える配置を優先していた。
今は、持つ場所を先に考える。
皿の端に指がかかるか。
運ぶ時、菓子が滑らないか。
テーブルに置いた時、客が最初にどこを見るか。
少しずつだが、考える順番が変わってきている。
湊はホールの入口へ向かった。
花鳥玲愛は、窓際のテーブルを確認していた。
椅子の角度を直し、カップの向きを揃え、予約席の配置を見ている。
その動きは、相変わらず無駄がない。
客がいない時間でも、彼女の所作は崩れない。
湊は一瞬だけ立ち止まった。
あの人の基準は、どこから来ているのだろう。
店としての正しさ。
客席を見る目。
紅茶の温度。
皿の位置。
それは分かる。
だが、花鳥玲愛自身は、どんな甘さを好きだと思うのだろう。
考えてから、湊は首を振った。
好き、ではない。
今聞きたいのは、仕事の話だ。
自分の菓子を店に置くための話。
余計な意味はない。
まずは、森崎乃々香に声をかけた。
「森崎さん」
「あ、相沢さん。新しい皿ですか?」
「はい。三枝さんから、運びやすさを確認してもらうように言われました」
「見ます」
森崎は皿を受け取った。
持ち上げる。
少し歩く。
テーブルに置く動きを試す。
「前より持ちやすいです」
「よかったです」
「ただ、右側が少し空きすぎているかも。お客様の前に置いた時、焼き菓子が端に寄って見えそうです」
「持ちやすさを優先したんですが」
「たぶん、花鳥さんも同じことを言うと思います」
森崎は少し笑った。
「持ちやすいだけだと、置いた時に寂しいです」
その言葉は、分かりやすかった。
ホールで実際に皿を運ぶ人の言葉だった。
「ありがとうございます。位置を直します」
「はい」
湊は皿の位置を少し直した。
その時、玲愛がこちらに気づいた。
「相沢さん」
「はい」
「三枝さんからの確認ですか」
「はい。新しい皿で、焼き菓子の運びやすさを見ていただきたいと」
「分かりました」
花鳥は皿を受け取った。
持ち上げる。
少し傾ける。
歩く時の角度を確認する。
皿の余白を見る。
「前よりは良いです」
「ありがとうございます」
「褒めてはいません」
「はい」
「ただし、右側の余白が少し広すぎます。客席で置いた時に、菓子が端に寄って見えます」
森崎と同じ指摘だった。
湊は少しだけ背筋を伸ばした。
「森崎さんにも、同じことを言われました」
「そうですか」
花鳥は、森崎の方を一度見た。
「森崎さん」
「はい」
「今の確認は良いです。持った時と置いた時の両方を見てください」
「はい」
森崎は少し嬉しそうに頷いた。
花鳥はすぐに湊へ視線を戻した。
「持ちやすさは必要です。ですが、客の前に置かれた瞬間に、皿は客のものになります」
「あ……はい」
「ホールが運びやすく、客が見た時にも不自然ではない位置を探してください」
「分かりました」
湊は皿の位置を直した。
花鳥はそれを見ていた。
無駄のない視線だった。
菓子そのもの。
皿。
運ぶ手。
置いた時の見え方。
彼女は全部をまとめて見ている。
湊は、思わず聞いていた。
「花鳥さんなら、どんな菓子を客に出したいですか」
花鳥の視線が、皿から湊へ移った。
その動きは静かだった。
だが、ほんの少しだけ、空気が変わった。
「質問の意図は?」
「昨日のタルトのことを考えていました」
「まだ考えていたのですか」
「はい」
「それは結構です」
結構。
その言葉だけで、少しだけ救われる。
だが、湊はそこに甘えてはいけないと思った。
「店に合わせるだけだと、つまらなくなると言われました」
「言いました」
「でも、合わせないと、店には出せない」
「はい」
「だから、花鳥さんが出したいと思う菓子を知りたいと思いました」
花鳥は、すぐに答えた。
「キュリオにふさわしいものです」
予想していた答えだった。
それは正しい。
正しいが、それだけでは掴めない。
「それは分かります」
湊は言った。
「でも、もう少し聞きたいです」
「何をですか」
「花鳥さん自身は、どんな甘さを認めますか」
その瞬間、花鳥玲愛の表情が動いた。
ほんの少し。
普通なら見逃す程度。
だが、湊には分かった。
彼女が、一瞬だけ答えに詰まった。
森崎が近くで息をのむ気配がした。
今の質問は、踏み込みすぎただろうか。
けれど湊は、恋愛の話をしているつもりではなかった。
甘いものが好きかどうかを聞いたつもりでもない。
自分の菓子を、どういう方向へ持っていけばいいのか。
そのために聞いた。
花鳥は、静かに皿を作業台に置いた。
「私の好みは関係ありません」
声は低くない。
怒鳴ってもいない。
だが、明らかに線を引く声だった。
「関係ない、ですか」
「はい」
「でも、花鳥さんはこの店を一番見ています」
「それは職務です」
「花鳥さんが客席で何を良いと思うかは、店の基準と関係していると思います」
「店の基準は、私個人の好みではありません」
「それは分かります」
「分かっているなら、聞く必要はありません」
そこで止めるべきだった。
後から考えれば、湊にも分かる。
花鳥は、もう十分に拒否していた。
だが、その時の湊は、まだ止まれなかった。
なぜなら、昨日の言葉が残っていたからだ。
あなたが作る理由がない。
最初の方が、香りは残った。
彼女は、自分に何かを残せと言った。
なら、何を残せばいいのか。
それを知りたかった。
「でも」
湊は言った。
「花鳥さんがこの店を一番見ているなら、花鳥さんの好きも、店の一部じゃないんですか」
言った瞬間、失敗したと思った。
花鳥の顔から、温度が引いた。
怒り、というより。
閉じた。
それまで皿を見ていた人が、急に扉を閉めるように。
「相沢さん」
「はい」
「仕事と私情を混同しないでください」
湊は、息を止めた。
「私は、そういうつもりでは」
「では、どういうつもりですか」
花鳥の声は、まだ静かだった。
だからこそ、痛かった。
「あなたは今、私個人の好みを、店の基準に混ぜようとしました」
「違います。俺は、菓子を作るために」
「同じです」
花鳥は、湊の言葉を切った。
「客に出す菓子を作るために、誰か一人の好みを理由にしてはいけません」
「……はい」
「まして、私を理由にする必要はありません」
その言葉に、湊は返せなかった。
自分は、花鳥のために作ろうとしたわけではない。
少なくとも、そのつもりはなかった。
でも、そう聞こえたのなら。
そう見えたのなら。
自分の聞き方が間違っていたのだ。
「すみません」
湊は頭を下げた。
「踏み込みすぎました」
「謝罪は受け取ります」
花鳥は、すぐに言った。
ただし、許された気はしなかった。
「ですが、次から質問の境界を考えてください」
「はい」
「私は、あなたの菓子を評価します。キュリオの商品として必要かどうかを見ます」
「はい」
「それ以上を、勝手に求めないでください」
それ以上。
湊は、その言葉を胸の中で繰り返した。
自分は、何を求めていたのだろう。
評価基準。
店の基準。
客席の基準。
それだけのつもりだった。
けれど、花鳥の言葉は、もっと深いところに刺さった。
勝手に求めないでください。
彼女は、そう言った。
「……分かりました」
湊は言った。
全部分かったわけではない。
だが、今ここで半分くらいですとは言えなかった。
言っていい場面ではなかった。
「皿は、三枝さんに戻してください」
「はい」
「位置は、先ほど伝えた通りで」
「分かりました」
花鳥はそれ以上何も言わず、ホールの奥へ戻っていった。
背筋は伸びていた。
歩く速度も変わらない。
だが、湊は分かった。
距離が、少し開いた。
物理的な距離ではない。
昨日まで、仕事の厳しさとして向けられていたものとは違う。
境界線を引かれた。
森崎が、皿を持つ湊の横にそっと立った。
「あの、相沢さん」
「はい」
「今のは、花鳥さん、怒ってるというより……たぶん、線を引いたんだと思います」
「線」
「すみません。私が言うことじゃないですね」
「いえ。ありがとうございます」
森崎は少し困ったように笑った。
「花鳥さん、店のことになるとすごく厳しいです。でも、自分のことになると、もっと厳しい気がします」
湊は、その言葉をすぐには飲み込めなかった。
自分のことになると、もっと厳しい。
たしかに、そう見えた。
「……覚えておきます」
「はい」
湊は、皿を持って厨房へ戻った。
三枝に皿の位置を伝える。
作業に戻る。
手は動いた。
だが、頭の中では、さっきの会話が繰り返されていた。
花鳥さん自身は、どんな甘さを認めますか。
私の好みは関係ありません。
花鳥さんの好きも、店の一部じゃないんですか。
仕事と私情を混同しないでください。
自分は何を間違えたのか。
聞き方か。
タイミングか。
それとも、聞こうとしたこと自体か。
「焦げた?」
三枝が横から声をかけた。
湊は顔を上げる。
「え?」
「考え。さっき言っただろ。考えも焼きすぎると硬くなるって」
「……焦げたかもしれません」
「なら、少し冷ませ」
三枝は作業台の上の皿を確認しながら言った。
「花鳥さんに何か聞いた?」
「聞き方を間違えました」
「そっか」
「花鳥さん自身が、どんな甘さを認めるのかを聞きました」
三枝は少しだけ手を止めた。
「ああ。それは怒られるかもね」
「怒られました」
「正確には、怒ったというより、線を引かれたんじゃない?」
「森崎さんにも同じようなことを言われました」
「じゃあ、たぶんそうだ」
三枝は軽く頷いた。
「相沢くん、花鳥さんの見方を知りたいのは分かる。でも、花鳥さん個人を近道にしちゃ駄目だよ」
「近道」
「キュリオに合う菓子を作るために、花鳥さんの好みを答えにする。それは近道に見えるけど、たぶん違う」
「はい」
「君が見るべきなのは、まず客席。花鳥さんが見ている客席。本人そのものじゃない」
湊は、ゆっくり頷いた。
「……はい」
「まあ、知りたくなるのは分かるけどね」
「三枝さん」
「仕事の話だよ」
三枝は笑った。
その笑いは軽いが、茶化してはいなかった。
「まずは手を動かそう。考えるのは、焦がさない程度に」
「はい」
午後の営業が始まると、湊は余計なことを考える暇をなくした。
注文が入る。
皿を出す。
ホールとタイミングを合わせる。
香りを抑える。
温度を見る。
運びやすさを確認する。
手順としては、昨日よりは少しだけましだった。
だが、花鳥は必要なこと以外、湊に声をかけなかった。
指摘はある。
修正もある。
仕事としての会話はある。
けれど、昨日までのように、ほんの少しだけ余白のある言葉はなかった。
それは当然だ。
自分が境界を踏み越えた。
だから、彼女は距離を戻した。
湊は、その距離を受け入れるしかなかった。
閉店後。
厨房の片付けを終えた後、湊は一人でノートを開いた。
今日の失敗を書く。
皿の位置。
焼き菓子の配置。
ホールへの共有。
そして、最後に、書くかどうか迷ってから一行を加えた。
花鳥さんの好みを、店の基準と同じものとして扱ってはいけない。
書いてから、湊はペンを止めた。
同じものではない。
それは分かる。
だが、完全に別のものなのだろうか。
あの人は、この店を見ている。
この店を整えている。
客席の時間を守っている。
それは仕事だ。
でも、ただ命令されたからやっているようには見えない。
あの人の中にある何かが、この店の形になっている。
そう感じる。
感じるが、今は聞いてはいけない。
少なくとも、今の自分には。
「相沢さん」
声がした。
湊は顔を上げた。
厨房の入口に花鳥が立っていた。
「はい」
「明日の焼き菓子の提供タイミングについて、三枝さんから共有がありました」
「分かりました。確認します」
「それと」
花鳥は、一拍置いた。
湊は、少し身構えた。
「今日の質問についてですが」
「……はい」
「あなたが菓子を作るために聞いたことは、理解しています」
湊は、返事が遅れた。
「はい」
「ですが、聞き方が悪いです」
「すみません」
「私を理由にしないでください」
「はい」
「私の好みを探る前に、客席を見てください」
「はい」
「それでも必要だと思うなら」
花鳥は、少しだけ視線を逸らした。
「質問の仕方を考え直しなさい」
湊は、思わず顔を上げた。
完全に閉じられたわけではない。
そう思った。
いや。
そう思いたかった。
「……分かりました」
「本当に?」
いつもの確認だった。
だが、今日はいつものように返せなかった。
半分くらいです。
そう言えば、少しだけ空気が戻る気もした。
けれど、今は違う。
「分かるように、考えます」
湊は言った。
花鳥は、しばらく湊を見ていた。
それから、小さく頷いた。
「では、明日」
「はい。明日、よろしくお願いします」
花鳥は踵を返した。
その背中を見ながら、湊は思った。
自分は、花鳥玲愛の評価基準を知りたいと思っていた。
店に出せるかどうか。
キュリオにふさわしいかどうか。
そのために、彼女の言葉を追っていた。
けれど今日、少しだけ違うものを見た。
花鳥玲愛は、自分の好みを持っていない人ではない。
持っていないふりをしている人でもない。
たぶん、持っている。
ただ、それを仕事に混ぜないように、ずっと線を引いている。
その線の向こうに、何があるのか。
湊はまだ知らない。
知りたいと思った。
菓子を作るために。
そう自分に言い聞かせた。
けれど、その言い訳が少しだけ弱くなっていることにも、湊は気づいていた。
相沢湊は、花鳥玲愛の好みを知らない。
そして今日、自分が知ろうとしたものが、ただの評価基準ではなかったことを、少しだけ知ってしまった。