私を理由に菓子を作らないでください。
その言葉は、厨房の音が消えた後も、相沢湊の中に残っていた。
怒鳴られたわけではない。
突き放された、というほどでもない。
花鳥玲愛の声は、いつも通り静かだった。
静かで、正しくて、逃げ場がなかった。
だから、残った。
湊は、作業台の前に立っていた。
夜の厨房。
営業は終わっている。
片付けも済んでいる。
明日の仕込み表も確認した。
本来なら、帰るだけだった。
だが、湊は動けずにいた。
作業台の上には、昨日の試作品のメモが残っている。
蜂蜜。
焦がしバター。
柑橘。
紅茶。
花鳥さんがよく合わせる香り。
花鳥さんに認められるための菓子。
そう書いた覚えはない。
けれど、そういう皿になっていた。
言われて初めて分かった。
自分は、客席を見ていなかった。
店を見ていなかった。
花鳥玲愛を見ていた。
厳しい人。
正しい人。
キュリオを一番見ている人。
その人に認められれば、店に近づけると思っていた。
だが、それは違った。
花鳥さんは、店そのものではない。
どれだけ店を見ていても、どれだけ客席を整えていても、花鳥玲愛一人を理由にした菓子は、客席には置けない。
そんな当たり前のことに、湊は気づけていなかった。
「……誰のために、作ってたんだろうな」
呟いた声は、厨房の壁に小さく吸われた。
返事はない。
当たり前だ。
答えは、自分で出すしかない。
「相沢くん」
声がして、湊は顔を上げた。
厨房長の三枝誠司が、入口近くに立っていた。
帰ったと思っていた。
だが、三枝はコックコートの袖を軽くまくったまま、こちらを見ていた。
「まだいたの」
「すみません。すぐ帰ります」
「謝るところじゃないよ。ただ、手を動かすなら止めようと思って」
湊は、作業台の上のメモに視線を落とした。
「今日は、作りません」
「うん。それがいい」
三枝は近づいて、湊のノートを覗き込むことはしなかった。
ただ、作業台の端に軽く手を置いた。
「花鳥さんに言われたこと、きつかった?」
「きつかったです」
「正直だね」
「でも、間違っていなかったです」
「それも正直だ」
三枝は少しだけ笑った。
その笑いは、茶化すものではなかった。
「相沢くん。花鳥さんは、店そのものじゃない」
「……はい」
「でも、花鳥さんが見ているものを見れば、店のことは少し分かる」
「はい」
「そこを間違えると、花鳥さんを見ることが近道に見える」
湊は、言葉を返せなかった。
その通りだった。
自分は近道をしようとした。
客席を見るよりも先に、花鳥玲愛の好みを知ろうとした。
キュリオを知るために、花鳥玲愛一人を答えにしようとした。
「今日は帰りな」
三枝は言った。
「考えるのはいい。でも、夜の厨房で一人で考え続けると、だいたい焦げる」
「……焦げますか」
「焦げるね」
「分かりました」
湊はノートを閉じた。
そのまま鞄に入れようとして、ふと、別のものを思い出した。
鞄の奥に入れていた、古いメモ帳。
製菓学校に通いながら、放課後と休日に手伝っていた町の小さな洋菓子店で使っていたものだ。
キュリオに来る時、もう必要ないと思っていた。
だが、捨てられなかった。
湊は鞄からそれを取り出した。
角が少し擦れている。
表紙には、昔の店の名前が薄く残っていた。
「それ、昔の?」
三枝が聞いた。
「はい。学生の頃に手伝っていた店のメモです」
「じゃあ、今日はそれを読んで帰るといい」
「ここで読んでもいいですか」
三枝は少しだけ考え、それから頷いた。
「火もオーブンも使わないなら」
「使いません」
「じゃあ、十分だけ。俺も鍵を確認してから帰る」
「ありがとうございます」
「褒めても許可でもないよ。火を使わせないため」
「はい」
三枝はそう言って、奥へ戻った。
湊は作業台の端に立ったまま、古いメモ帳を開いた。
派手な店ではなかった。
駅から少し離れた、細い通りにある小さな洋菓子店。
ショーケースも大きくない。
広告もほとんど出していない。
けれど、常連客は多かった。
学校帰りの子ども。
仕事帰りの会社員。
散歩の途中に寄る老婦人。
誕生日ケーキを注文する家族。
特別な日だけではない。
何でもない日に、少しだけ甘いものを買いに来る人たち。
湊は、そこで菓子の基礎を教わった。
もちろん、まだ学生だった。
一人前の職人だったわけではない。
仕込みの補助。
焼き上がった菓子の包装。
ショーケースの入れ替え。
閉店後の片付け。
できることは限られていた。
それでも店主は、湊に何度も言った。
菓子だけを見るな。
買っていく客の顔を見ろ。
その人が、どんな顔で入ってきて、どんな顔で帰るのか。
そこまで見て、ようやく菓子屋の仕事だ。
最初は、分かったような気になっていただけだった。
湊は、菓子を作るのが楽しかった。
焼き色が綺麗に出る。
クリームが滑らかに立つ。
香りが思った通りに残る。
それだけで嬉しかった。
だが、その店で手伝ううちに、別のものを見るようになった。
学校帰りの子どもが、百円玉を握りしめて焼き菓子を一つ買っていく。
仕事帰りの人が、疲れた顔で小さな箱を受け取る。
老婦人が、買い物のついでに店主と少しだけ話して帰る。
ケーキを買った家族が、帰り道で少し急ぎ足になる。
あの人たちは、湊の技術を食べに来ていたわけではない。
コンテストの評価を見に来ていたわけでもない。
完璧な皿を求めていたわけでもない。
ただ、少しだけ軽くなりたかったのだと思う。
今日が終わる前に。
明日に行く前に。
誰かに会う前に。
自分に戻る前に。
小さな甘さで、少しだけ息をつきたかった。
卒業前後、その店で長く働く道はなくなった。
店主の体調が思わしくなかったこと。
店を続けることが難しくなっていたこと。
湊にとっては悔しいことだったが、仕方のないことでもあった。
店主は最後まで、湊に謝らなかった。
代わりに、紹介状を書いてくれた。
お前は、もっと大きな店を見てこい。
自分の菓子がどこまで通用するか、ちゃんと試してこい。
そう言って、湊を送り出した。
それが、キュリオへ来るきっかけだった。
湊は、メモ帳のページをめくった。
昔の字が並んでいる。
バターを焦がしすぎない。
子ども向けは香り弱め。
仕事帰りの人は重すぎない方がいい。
夕方は甘さを少し残す。
雨の日は焼き菓子がよく出る。
自分で書いたはずなのに、今よりずっと素直だった。
そこには、評価されるための言葉が少なかった。
誰かの時間に合わせるための言葉ばかりだった。
湊は、息を吐いた。
忘れていたわけではない。
ただ、見えなくなっていた。
キュリオに来てから、ずっと認められることを考えていた。
店に通用するか。
花鳥玲愛に評価されるか。
自分の香りを残せるか。
自分が作る理由を示せるか。
そればかりだった。
でも、自分が作りたかったのは、評価される菓子ではなかった。
誰か一人に刺すためだけの菓子でもなかった。
食べた人の時間を、少しだけ軽くする菓子だった。
まだ厨房に立つ前、初めて客としてキュリオを訪れた時。
湊は、花鳥玲愛が整えている客席を見た。
菓子だけを作っていてはいけない。
そのことを知った。
なら、今考えるべきなのは、花鳥玲愛に認められる一皿ではない。
キュリオに来る客が、その席で少しだけ楽になる一皿だ。
そこに、自分の香りが少しだけ残ればいい。
強くなくていい。
主張しすぎなくていい。
忘れられない味でなくてもいい。
ただ、帰り道に、ふと思い出すくらいでいい。
「相沢くん」
三枝の声がした。
湊は顔を上げた。
「十分」
「あ、はい。すみません」
「謝るところじゃないって」
三枝は、湊の手元のメモ帳を見た。
「必要そうだね、それ」
「はい」
「じゃあ、なくすなよ」
「はい」
湊はメモ帳を閉じた。
そして、その日は厨房を出た。
翌朝。
湊はいつもより早く厨房に入った。
ただし、火はすぐに使わなかった。
昨日のメモを開き、まずは書き出す。
誰のために作るのか。
どんな時間に置くのか。
どの席に似合うのか。
紅茶だけでは足りない時。
会話の邪魔をしないもの。
一人で食べても重くないもの。
その後で、ようやく材料を並べた。
バター。
蜂蜜。
少しだけ柑橘。
アーモンド。
紅茶に合わせるなら、香りは最初だけでいい。
後は、口の中から引いていく。
残すのは、甘さではなく、余白。
もう少し話していたいと思う余白。
もう少し座っていたいと思う余白。
湊は、静かに作業を始めた。
強すぎる。
まだ強い。
柑橘を引く。
蜂蜜を減らす。
バターの焦がしを浅くする。
何度も試す。
途中で三枝が来た。
「早いね、相沢くん」
「おはようございます」
「昨日、遅かったんじゃない?」
「少しだけです」
「無理はしないように」
「はい」
三枝は作業台の上を見た。
「新しいの?」
「試作です。まだ出せるものではありません」
「花鳥さんに?」
湊は、手を止めた。
少し前なら、はい、と言っていたかもしれない。
今は違う。
「いえ」
湊は首を振った。
「客席に出せるかどうかを考えています」
三枝は少し笑った。
「いい答えだね」
「まだ、答えになっているか分かりません」
「分かってないって言えるなら、悪くないよ」
湊は苦笑した。
その言い方は、少し花鳥に似ていた。
褒めているのか、違うのか分からないところが。
「今日、営業中に少し客席を見てもいいですか」
「厨房の仕事に穴を空けないなら」
「はい」
「花鳥さんに見つかったら?」
「客席を見ています、と言います」
「花鳥さんだけを見ていたら?」
「怒られます」
「分かってるならいい」
三枝は軽く頷いた。
「必要な時は、森崎さんにも皿を持ってもらって。あの子はホールの手元で見るから」
「はい」
開店前。
湊は焼き上がった試作品を一つ、端に置いた。
今すぐ花鳥に見せたい気持ちはあった。
だが、見せなかった。
昨日、言われたばかりだ。
私を理由に菓子を作らないでください。
なら、まずは客席を見る。
今日の営業の中で、この菓子がどこに置けるのかを考える。
それからでいい。
午前の客は、一人客が多かった。
窓際に本を読む女性。
奥の席に老婦人。
カウンターに近い席で紅茶を飲む男性。
湊は厨房の入口から、邪魔にならない範囲で見た。
花鳥玲愛は、いつも通りホールに立っている。
ただ、湊は彼女を見すぎないようにした。
客を見る。
席を見る。
カップが置かれるタイミングを見る。
皿が運ばれた時の客の表情を見る。
花鳥だけを見ない。
それは、思ったより難しかった。
花鳥は目立つ。
目立とうとしていないのに、店の動きの中心にいる。
そこを見れば、客席の流れが分かる。
だから見てしまう。
でも、今日はその先を見る。
花鳥が整えた先で、客がどう過ごしているか。
その時間に、自分の菓子が入るなら、どうあるべきか。
昼過ぎ。
仕事帰りというには早い時間に、一人の男性客が来た。
疲れた顔だった。
席について、紅茶だけを注文する。
花鳥が少しだけ様子を見る。
押しつけることはしない。
ただ、声をかける間合いを少し遅らせた。
男性客はメニューを見て、焼き菓子を一つ追加した。
湊は、その動きを見ていた。
重いものはいらない。
でも、何もないのは寂しい。
紅茶だけでは、今日を終えるには少し足りない。
そういう時間。
自分の菓子を置くなら、そこかもしれない。
湊は厨房に戻った。
ノートに書く。
紅茶だけでは足りない時。
会話ではなく、沈黙に置く菓子。
食べた後、甘さが残りすぎない。
でも、席を立つ時に少し軽い。
それを見て、少しだけ方向が定まった。
営業後。
湊は試作品を作り直した。
形は小さい。
一口ではない。
二口か三口。
会話の合間にも食べられる。
一人で黙っていても、負担にならない。
香りは最初にだけ立つ。
その後、紅茶に渡す。
皿の余白は持ちやすく、置いた時に寂しくない程度。
湊は、森崎乃々香に一度、皿を持ってもらった。
「森崎さん、これ、運びやすいですか」
「はい。これなら大丈夫です。前より自然です」
「置いた時、寂しくないですか」
「寂しくはないかな。派手でもないですけど」
「派手じゃない方がいいので」
「そうなんですか?」
「たぶん」
たぶん。
まだ断言はできない。
でも、前よりは近い気がした。
森崎は皿を置く動作をもう一度試した。
「一人のお客様に出すなら、これくらい静かな方がいいかもしれません」
「一人のお客様」
「はい。誰かと話している時より、一人で紅茶を飲んでいる時の方が、派手な皿って少し気になるので」
湊はノートに書き込んだ。
「ありがとうございます」
「いえ。私もまだ分かっているわけじゃないですけど」
「俺もです」
森崎は少し笑った。
その後、湊は三枝に味を見てもらった。
「味見してもらえますか」
「いいよ」
三枝は一口食べた。
少し考えて、紅茶を飲む。
「……地味だね」
「はい」
「でも、悪くない。食べ終わった後に、重くない」
「そこを狙いました」
「形はもう少し詰められる。あと、香りの立ち上がりが少しだけ早いかな」
「早いですか」
「口に入れる前に少し来る。置いた時に客席へ広がるほどじゃないけど、紅茶と合わせるならもう半歩遅くてもいい」
「分かりました」
「花鳥さんは何て言うかな」
湊は、少しだけ笑った。
「分かりません」
「見せるんでしょ?」
「はい。でも、花鳥さんのために作ったわけではないです」
三枝は湊を見た。
「そう」
「はい」
その返事だけは、迷わなかった。
その日の閉店後。
湊は皿を一枚、作業台に置いた。
花鳥玲愛は、いつものように予約表を確認してから、厨房へ来た。
「相沢さん」
「はい」
「昨日、私は一度止まりなさいと言いました」
「はい」
「止まりましたか」
「少しだけ」
「少しだけ?」
「完全には止まれませんでした。でも、花鳥さんに見せる前に、客席を見ました」
花鳥の表情は変わらなかった。
だが、視線が少しだけ皿に向いた。
「これは?」
「試作品です」
「私を理由にしたものですか」
まっすぐな問いだった。
湊は首を振った。
「違います」
「では、誰のためですか」
湊は、少し考えた。
格好つけた答えを言うこともできた。
キュリオのお客様のためです。
店の時間のためです。
そう言えば、正しい答えに聞こえる。
だが、まだそこまで大きなことは言えない。
湊は、今日見た男性客を思い出した。
紅茶だけでは少し足りなかった人。
疲れた顔で席に座り、焼き菓子を一つ追加した人。
「紅茶だけでは、少し足りない人のためです」
花鳥が、わずかに目を細めた。
「具体的ですね」
「今日、そういうお客様がいました」
「見ていたのですか」
「はい。邪魔にならない範囲で」
「そうですか」
花鳥は皿を見た。
湊は説明を続けた。
「会話を邪魔しないようにしました。一人で食べても重くないように。香りは最初だけ立つようにしています。甘さは後に残りすぎないようにしました。紅茶と合わせると、少し輪郭が出ます」
「あなたの香りは?」
湊は、少しだけ息を止めた。
その問いは、予想していなかった。
「残しました」
「消さなかったのですね」
「はい」
「なぜですか」
湊は皿を見た。
小さな焼き菓子。
派手ではない。
強くもない。
でも、自分の手で作ったものだ。
「全部消すと、自分が作る理由がなくなると言われたので」
「私が言ったからですか」
「いえ」
湊は首を振った。
「自分でも、そう思ったからです」
花鳥は、少し黙った。
それからフォークを取った。
湊は、その動きを見ていた。
前のように、食べる側へ重さを預けないように。
評価を求めすぎないように。
ただ、皿がどう届くのかを見る。
そう思った。
花鳥は小さく切り、口に運んだ。
表情は変わらない。
いつも通りだ。
だが、紅茶を飲むまでの間が、少しだけ長かった。
湊はそれを見た。
不安になる。
でも、言葉を待った。
花鳥は紅茶を一口飲んだ。
そして、皿を見た。
「……前より、静かですね」
「はい」
「香りも、強くありません」
「はい」
「甘さも、引きが早い」
「はい」
「客席の邪魔はしにくいでしょう」
湊は、息を止めた。
これは褒め言葉なのか。
いや、まだ分からない。
花鳥の評価は、いつも途中で反転する。
店に出せるものではありません。
つまらなくなりましたね。
私を理由に菓子を作らないでください。
そのどれもが、まだ記憶に残っている。
花鳥はフォークを置いた。
「ただし、まだ商品としては弱いです」
「はい」
「形が少し曖昧です。何のための菓子かは見えてきましたが、メニューとして客に説明する言葉が足りません」
「はい」
「紅茶との合わせ方も、もう少し詰める必要があります」
「はい」
「ですが」
湊は顔を上げた。
花鳥は、皿を見たまま言った。
「昨日よりは、客席を見ています」
胸の奥が、少しだけ軽くなった。
大きな承認ではない。
合格でもない。
認められたわけでもない。
それでも、今の湊には十分すぎる言葉だった。
「ありがとうございます」
「褒めてはいません」
「はい」
「勘違いしないでください」
「しません」
「本当に?」
湊は少しだけ考えた。
そして、正直に答えた。
「少しだけ、しました」
「しないでください」
「はい」
花鳥は、小さく息を吐いた。
いつものやり取りだった。
少しだけ戻った。
そう思った。
だが、完全に戻ったわけではない。
戻る必要もないのかもしれない。
昨日の距離は、間違えた結果だった。
今日の距離は、見直した結果だ。
同じではない。
「相沢さん」
「はい」
「この菓子は、もう一度調整してください」
「はい」
「客席に出すかどうかは、それから判断します」
「分かりました」
「それと」
「はい」
花鳥は、少しだけ皿から視線を外した。
「私のために作ったものではない、ということは分かりました」
湊は、返事が少し遅れた。
「はい」
「だから、評価します」
それだけ言って、花鳥はフォークを置いた。
湊は、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「礼を言う段階ではありません」
「はい」
「まだ、店に出すとは言っていません」
「はい」
「ですが」
花鳥は一拍置いた。
「方向は、前より悪くありません」
湊は顔を上げた。
花鳥はもう、こちらを見ていなかった。
皿を見ている。
菓子を見ている。
客席に置かれるかもしれない時間を見ている。
そのことが、なぜか嬉しかった。
その夜、湊はノートを開いた。
新しいページに、今日の菓子のことを書く。
紅茶だけでは足りない人のため。
会話を邪魔しない。
一人の沈黙にも置ける。
香りは最初だけ。
甘さは残りすぎない。
紅茶で輪郭が出る。
森崎さん曰く、一人客には静かな皿の方がよい。
三枝さん曰く、香りの立ち上がりは半歩遅く。
そして最後に、一行を加えた。
花鳥さんのためではない。
でも、花鳥さんにも届くなら、それは悪くない。
書いてから、湊は少しだけ苦笑した。
また怒られそうな一文だった。
だが、消さなかった。
誰か一人のためだけに作るのではない。
評価されるためだけに作るのでもない。
でも、食べた人の中に少しだけ残るなら。
それが花鳥玲愛の中にも残るなら。
それは、菓子として悪いことではないと思った。
相沢湊は、誰のために菓子を作るのか。
答えは、まだ完全には出ていない。
けれど、少なくとも今は。
客席の時間を、少しだけ軽くするために。
そう書ける気がした。