花鳥玲愛は、甘さを認めない   作:エーアイ

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第8話 花鳥玲愛は、新人パティシエの菓子を認める

 その日の朝、キュリオの厨房から聞こえる音は、いつもより静かだった。

 

 迷っていない。

 

 急いでいない。

 

 かといって、自信に満ちすぎてもいない。

 

 必要なものを、必要な順番で置いていく音。

 

 花鳥玲愛は、ホールのテーブルを整えながら、その音を聞いていた。

 

 相沢湊の音だった。

 

 以前の彼は、もっと皿の上で焦っていた。

 

 香りを立てようとしすぎた音。

 

 整えようとして止まる音。

 

 何かを足そうとして迷う音。

 

 何かを消しすぎて、もう一度考え直す音。

 

 そのどれもが、厨房から聞こえていた。

 

 だが、今日の音は違う。

 

 まだ若い。

 

 まだ不慣れ。

 

 けれど、客席の方を向いている。

 

 少なくとも、そう聞こえる。

 

「花鳥さん」

 

 厨房長の三枝誠司が、ホールの入口から顔を出した。

 

「限定提供分、準備できています」

 

「数は?」

 

「最初は十二。様子を見て追加できるよう、仕込みは少し余裕を持たせています」

 

「分かりました。無理に出し切る必要はありません」

 

「もちろん」

 

 三枝は穏やかに頷いた。

 

 その横から、有坂直人が顔を出す。

 

「今日の限定提供、予定通りでいいかな」

 

「店長が最終判断されたのでしょう」

 

「うん。三枝さんの厨房判断と、花鳥さんのホール判断が一致したからね」

 

「一致した、というほどではありません」

 

「でも、出してもいいとは言った」

 

「限定提供なら、です」

 

「十分だよ」

 

 有坂は、いつもの柔らかい表情で笑った。

 

 玲愛は予約表を確認した。

 

 平日の午後。

 

 客数は極端には多くない。

 

 だが、静かな時間を目的に来る客が多い日でもある。

 

 湊の菓子を試すには、悪くない。

 

 悪くないが、甘く見てよい日ではない。

 

 むしろ、こういう日こそ誤魔化しがきかない。

 

 にぎやかさで隠せない。

 

 客席の声で流せない。

 

 菓子の重さも、香りの強さも、皿の置き方も、そのまま空気に出る。

 

 玲愛は、メニュー用の小さな案内カードを手に取った。

 

 紅茶に寄り添う小さな焼き菓子。

 

 派手ではない。

 

 説明も控えめ。

 

 湊が最後まで悩んでいた言葉だ。

 

 キュリオらしく整えすぎれば、彼の菓子ではなくなる。

 

 彼らしく書きすぎれば、客に押しつける。

 

 その間に置いた言葉。

 

 悪くない。

 

 少なくとも、店に出す言葉としては過剰ではない。

 

「相沢さんは?」

 

 三枝が答えた。

 

「奥で最終確認中。緊張してるよ」

 

「当然です」

 

 玲愛は短く答えた。

 

「緊張しない方が問題です」

 

 有坂が少し笑う。

 

「花鳥さんも少し緊張してる?」

 

「していません」

 

「そう?」

 

「客席に出す以上、確認すべきことが多いだけです」

 

「うん。そういうことにしておくよ」

 

「店長」

 

「余計だったね」

 

 有坂は軽く手を上げて、奥へ戻っていった。

 

 玲愛はホールへ戻る。

 

 客席にカップを置く。

 

 テーブルクロスの端を整える。

 

 窓際の席を確認する。

 

 今日、湊の菓子がここに置かれる。

 

 そのことに、玲愛は少しだけ意識を向けた。

 

 少しだけ。

 

 それ以上ではない。

 

 これは仕事だ。

 

 新人パティシエの試作品を、限定商品として客席に出せるかどうか確認する日。

 

 それだけだ。

 

 個人的な期待ではない。

 

 まして、楽しみにしているわけではない。

 

「……勘違いしないことね」

 

 誰に向けた言葉なのかは、考えなかった。

 

 開店後、最初にその菓子を注文したのは、一人客の女性だった。

 

 窓際の席。

 

 本を一冊持っている。

 

 紅茶はアッサム。

 

 甘いものを大きく食べるというより、紅茶の横に何かを置きたい客だった。

 

 玲愛は注文を受け、厨房へ伝えた。

 

「限定焼き菓子、一つ。アッサムです」

 

 厨房から、短い返事があった。

 

「はい」

 

 相沢湊の声。

 

 緊張している。

 

 だが、初日のような硬さではない。

 

 玲愛は客席へ戻り、紅茶を先に用意した。

 

 湯気。

 

 香り。

 

 カップの位置。

 

 客が本を閉じるか、開いたままにするか。

 

 女性客は本を伏せず、片手でページを押さえたまま紅茶を待っていた。

 

 なら、皿は右側に少し余白を残す。

 

 菓子が主張しすぎると、本の時間を邪魔する。

 

 玲愛はそう判断した。

 

 厨房から皿が出る。

 

 森崎乃々香が受け取った。

 

 その手元を見て、玲愛はまず一つ確認した。

 

 運びやすい。

 

 皿の端に無理がない。

 

 菓子の位置も安定している。

 

 ホールが持ち替える必要はない。

 

 最初の関門は越えている。

 

「森崎さん」

 

「はい」

 

「窓際の一名様へ。紅茶の右側に置いてください。本を開かれています」

 

「はい」

 

 森崎は皿を運んだ。

 

 歩く速度は速すぎない。

 

 皿も揺れない。

 

 成長している。

 

 まだ完全ではないが、今日の皿を任せられる程度には整っている。

 

 森崎が、女性客の前に皿を置いた。

 

「お待たせいたしました」

 

 皿は静かだった。

 

 目を引きすぎない。

 

 けれど、寂しくはない。

 

 香りは、置いた瞬間にだけ立った。

 

 強くない。

 

 だが、確かに届く。

 

 女性客が少しだけ顔を上げた。

 

 それから、紅茶に手を伸ばす。

 

 先に紅茶。

 

 その後、菓子。

 

 順番は自然だった。

 

 一口。

 

 女性客は本を閉じなかった。

 

 会話ではなく、読書の時間を止めすぎない。

 

 そのまま、もう一度紅茶を飲む。

 

 表情が、大きく変わったわけではない。

 

 ただ、肩が少しだけ落ちた。

 

 硬かった呼吸が、少し緩んだ。

 

 玲愛は、それを見た。

 

 見てしまった。

 

 悪くない。

 

 そう思った。

 

 まだ一人目だ。

 

 判断には早い。

 

 けれど、悪くない。

 

 二人目は、年配の男性客だった。

 

 紅茶だけを頼むつもりだったが、案内カードを見て注文を追加した。

 

 皿が置かれる。

 

 一口。

 

 すぐに感想を言うタイプではない。

 

 だが、二口目までが早すぎない。

 

 甘すぎれば、紅茶に逃げる。

 

 重すぎれば、皿から手が遠のく。

 

 だが、彼は紅茶と菓子を交互に取った。

 

 会話はない。

 

 一人で来ている客だ。

 

 沈黙の中に、菓子が置かれている。

 

 沈黙を埋めすぎていない。

 

 それでいて、空白にもなっていない。

 

 玲愛は、客席の端で視線を流した。

 

 厨房は見ない。

 

 湊の顔も見ない。

 

 見るべきは客席だ。

 

 三人目は、二人連れの女性客。

 

 会話が途切れない。

 

 皿が置かれる。

 

 一人が一口食べて、もう一人に何かを小さく言った。

 

 大げさな反応ではない。

 

 店の空気を崩す声でもない。

 

 ただ、皿を少し相手の方へ寄せる。

 

 もう一人が食べる。

 

 紅茶に手が伸びる。

 

 会話が、菓子を中心に回りすぎない。

 

 けれど、少しだけ柔らかくなる。

 

 玲愛は、心の中で一つ印をつけた。

 

 会話を邪魔していない。

 

 それは大事だった。

 

 菓子は、主役になりすぎてはいけない時がある。

 

 客は菓子だけを食べに来るわけではない。

 

 誰かと話すため。

 

 一人で休むため。

 

 いつもの紅茶を飲むため。

 

 その時間の中に入る菓子なら、強すぎてはいけない。

 

 湊は、それを以前より分かっている。

 

 昼過ぎになると、限定提供分は半分以上出ていた。

 

 皿の戻りも悪くない。

 

 食べ残しはない。

 

 ただし、勢いよく売れるタイプではない。

 

 それでいい。

 

 この菓子は、派手な新作ではない。

 

 客席の隙間に置くものだ。

 

 だから、静かに選ばれるくらいでいい。

 

 玲愛は戻ってきた皿を確認した。

 

 汚れ方。

 

 フォークの跡。

 

 クリームの残り。

 

 皿の端についた欠片。

 

 食べにくさはない。

 

 形は崩れすぎていない。

 

 客が最後まで扱いやすい。

 

 それも合格点だった。

 

「花鳥さん」

 

 森崎が、戻ってきた皿を持って小さく言った。

 

「この焼き菓子、お客様に説明しやすいです」

 

「そうですか」

 

「はい。派手ではないんですけど、紅茶に合わせる小さな焼き菓子です、って言うと伝わります」

 

「案内カードのおかげでしょう」

 

「それもあります。でも、皿を見せると、お客様が納得してくれる感じがあります」

 

 玲愛は皿を見た。

 

 確かに、言葉と皿が大きくずれていない。

 

 それは商品として重要だった。

 

「記録しておいてください」

 

「はい」

 

 午後の後半。

 

 最初の女性客が会計に来た。

 

 玲愛が対応する。

 

「ごゆっくりお過ごしいただけましたか」

 

「ええ。今日の焼き菓子、あれ、またありますか?」

 

 玲愛は、すぐには答えなかった。

 

 感想を求めたわけではない。

 

 だが、返ってきた。

 

 またありますか。

 

 強い言葉ではない。

 

 絶賛でもない。

 

 けれど、客の中に残った言葉だった。

 

「本日は限定でのご提供です。今後については、検討中でございます」

 

「そうなんですね。紅茶に合っていて、ちょうどよかったです」

 

「ありがとうございます」

 

 玲愛は一礼した。

 

 客が店を出る。

 

 扉のベルが鳴る。

 

 その音を聞きながら、玲愛は胸の中で、静かに認めた。

 

 ちょうどよかった。

 

 その言葉は、派手な褒め言葉より重い時がある。

 

 キュリオの客席において、ちょうどよい。

 

 それは、簡単ではない。

 

 営業終了までに、限定分はすべて出た。

 

 完売。

 

 ただし、それだけで判断はしない。

 

 数が少なければ完売はする。

 

 物珍しさもある。

 

 新しい案内カードも効いたかもしれない。

 

 見るべきは、売れたかどうかではない。

 

 客席に置けたかどうか。

 

 店の空気を壊さなかったか。

 

 また食べたいと思う余白を残したか。

 

 玲愛は、戻ってきた皿の状態と、客の表情と、ホールスタッフの動きを思い返した。

 

 運びにくさはない。

 

 紅茶とぶつからない。

 

 会話を止めすぎない。

 

 一人客の沈黙にも置ける。

 

 甘さは残りすぎない。

 

 だが、食べ終わった後に、少しだけ記憶に残る。

 

 初日の未完成な香り。

 

 整えすぎて消えた香り。

 

 私を理由にしてしまった危うい香り。

 

 それらを越えて、ようやく客席に置ける形になっている。

 

 まだ完璧ではない。

 

 商品として詰めるべき部分はある。

 

 だが。

 

 キュリオの商品として出せる。

 

 玲愛は、そう判断した。

 

 閉店後。

 

 厨房は片付けに入っていた。

 

 相沢湊は、作業台の前でノートを開いている。

 

 今日戻ってきた皿の状態、客の反応、提供のタイミング。

 

 それらを書いているのだろう。

 

 玲愛は、厨房の入口で足を止めた。

 

「相沢さん」

 

 湊が顔を上げる。

 

「はい」

 

「今日の限定提供分について、確認します」

 

「はい」

 

 湊はノートを閉じた。

 

 緊張している。

 

 だが、逃げていない。

 

 初日からそこは変わっていない。

 

 有坂と三枝も、少し離れたところにいた。

 

 有坂は口を挟まない。

 

 三枝も黙っている。

 

 今は、ホール側の判断を玲愛が伝える場面だった。

 

「まず、ホール側から」

 

「はい」

 

「皿は運びやすくなっています。持ち替えも少なく、提供時の不安定さもありません」

 

「はい」

 

「香りは、紅茶に干渉していません。むしろ、紅茶を取る流れを作っています」

 

「はい」

 

「一人客にも、二人客にも、大きな違和感はありませんでした」

 

「はい」

 

「会話を止めすぎず、沈黙にも置ける。そこは、今日の客席には合っていました」

 

 湊は、少しだけ息を止めた。

 

 玲愛は続けた。

 

「ただし、メニューとしての説明はまだ弱いです。今後通常提供を考えるなら、名前と案内文を詰める必要があります」

 

「はい」

 

「紅茶との組み合わせも、すべての種類に合うわけではありません。推奨する組み合わせを絞るべきです」

 

「はい」

 

「提供数を増やす場合、焼き上がりの安定性も確認が必要です」

 

「はい」

 

 湊は、一つずつ受け止めていた。

 

 余計な言い訳はない。

 

 喜びすぎることもない。

 

 それも、以前とは違う。

 

 玲愛は、一拍置いた。

 

 ここから先は、言わなければならない。

 

 言いたいかどうかではなく、必要な評価として。

 

「以上を踏まえて」

 

 湊の背筋が伸びた。

 

 玲愛は、まっすぐ彼を見た。

 

「キュリオの商品として、合格です」

 

 湊は、すぐには反応しなかった。

 

 言葉の意味を確かめるように、少しだけ目を見開いた。

 

 それから、深く頭を下げた。

 

「ありがとうございます」

 

 声が、少しだけ震えていた。

 

 だが、浮ついてはいない。

 

 湊は顔を上げた。

 

「まだ、直すところはあります」

 

「当然です」

 

「でも、客席に置けたんですね」

 

「今日のところは」

 

「はい」

 

「勘違いしないでください。完成ではありません」

 

「はい」

 

「継続して出すには、まだ確認が必要です」

 

「はい」

 

「ですが」

 

 玲愛は、少しだけ言葉を区切った。

 

「今日の客席には、置けました」

 

 湊は、もう一度小さく頭を下げた。

 

 その表情を見て、玲愛は少しだけ視線を外した。

 

 よかった、と言いたくなったからだ。

 

 言う必要はない。

 

 仕事の評価は済んだ。

 

 それ以上は不要だ。

 

 有坂が、そこでようやく口を開いた。

 

「じゃあ、店としては限定継続の方向で検討しようか。三枝さん、厨房側の安定性を見て。花鳥さん、ホール側の案内文をもう少し詰めて」

 

「承知しました」

 

「分かった」

 

 三枝が頷く。

 

 湊は一瞬、有坂を見て、それからもう一度頭を下げた。

 

「よろしくお願いします」

 

「うん。ここからが商品化だからね」

 

 有坂の声は柔らかかったが、言葉は軽くなかった。

 

 湊もそれを分かっているらしく、表情を引き締めた。

 

 湊は皿を片付けようとした。

 

「では、残っている分は記録用に保存して、三枝さんにも確認を」

 

「相沢さん」

 

 玲愛は、呼び止めていた。

 

 呼び止める必要はなかった。

 

 評価は終わっている。

 

 商品としての確認も済んでいる。

 

 ホール側の報告もした。

 

 これ以上、何を言う必要があるのか。

 

 自分でも分からない。

 

 だが、言葉は出ていた。

 

「それと……」

 

 湊がこちらを見る。

 

「はい」

 

 玲愛は、少しだけ間を置いた。

 

 言わない選択肢はあった。

 

 むしろ、その方が自然だった。

 

 けれど、今日の客席を見てしまった。

 

 本を読みながら食べた女性客。

 

 疲れた顔で紅茶に手を伸ばした男性客。

 

 会話を止めずに菓子を分けた二人客。

 

 戻ってきた皿。

 

 残っていた香り。

 

 それらを見た後で、玲愛は自分の中の小さな違和感をごまかせなかった。

 

 もう一度、確かめたい。

 

 客席ではなく。

 

 商品としてでもなく。

 

 自分の舌で。

 

 それを認めるのは、非常に不本意だった。

 

「もう一つ、いただけますか」

 

 有坂がわずかに目を細めた。

 

 三枝が少しだけ口元を緩めた。

 

 森崎がホール側で息を止めた気配もした。

 

 玲愛は全員を見なかった。

 

 湊が、ほんの少し驚いた顔をした。

 

 驚いたが、笑わなかった。

 

 茶化さなかった。

 

 それが、救いだった。

 

 玲愛はすぐに続けた。

 

「確認です」

 

「はい」

 

「商品としての再確認です」

 

「はい」

 

「今日の客席での反応を踏まえた上で、もう一度、味の流れを確認する必要があります」

 

「はい」

 

「勘違いしないでください」

 

「しません」

 

「本当に?」

 

 湊は、少しだけ間を置いた。

 

「少しだけ、します」

 

「しないでください」

 

「はい」

 

 いつもの返事だった。

 

 だが、声は柔らかかった。

 

 湊は作業台の奥から、小さな皿を一枚取り出した。

 

「花鳥さんの分、取ってあります」

 

 玲愛は、動きを止めた。

 

 それは、予想していなかった。

 

 いや。

 

 予想できたかもしれない。

 

 相沢湊は、そういうところがある。

 

 こちらが何を確認するか。

 

 何を言い訳にするか。

 

 どこで必要になるか。

 

 そういうことを、少しずつ覚えている。

 

 だが、今日に限っては、その一皿が、妙に重かった。

 

「……なぜ、取ってあるのですか」

 

「必要になるかもしれないと思ったので」

 

「商品確認として?」

 

「はい」

 

 湊は、真面目に答えた。

 

 そして、少しだけ言葉を足した。

 

「それと、花鳥さんにも、今日の客席を見た後で食べてもらいたかったので」

 

 玲愛は、すぐには返せなかった。

 

 責めるべきではない。

 

 今回の菓子は、玲愛のために作られたものではない。

 

 客席のために作られた。

 

 その上で、玲愛にも食べてほしいと言っている。

 

 以前とは違う。

 

 私を理由にしたわけではない。

 

 だが、私を外してもいない。

 

 それが、少しだけ困った。

 

「……そうですか」

 

 玲愛は皿の前に立った。

 

 小さな焼き菓子。

 

 今日、何度も客席で見たもの。

 

 けれど、自分の前に置かれると、少し印象が違う。

 

 客席で見ていた時より、香りが近い。

 

 強くはない。

 

 最初にだけ、ふわりと立つ。

 

 玲愛はフォークを取った。

 

 一口切る。

 

 口に運ぶ。

 

 甘さは控えめだった。

 

 後に残りすぎない。

 

 けれど、消え方が早すぎない。

 

 紅茶を飲むと、輪郭が少しだけ戻ってくる。

 

 香りは、初日のように強くない。

 

 前回のように、玲愛へ向けられすぎてもいない。

 

 客席を向いている。

 

 それなのに、なぜかこちらにも届く。

 

 玲愛は、二口目を食べた。

 

 確認のため。

 

 商品としての再確認のため。

 

 そう自分に言い聞かせる。

 

 だが、二口目を食べる理由が、それだけではないことも分かっていた。

 

 湊は何も言わなかった。

 

 見すぎない。

 

 急かさない。

 

 評価を求めてこない。

 

 ただ、待っている。

 

 その待ち方も、以前とは違う。

 

 彼は、自分の菓子を客席に置いた。

 

 だから、食べる側に重さを預けなくなった。

 

 それも、変化だった。

 

 玲愛はフォークを置いた。

 

「……あなたの菓子は」

 

「はい」

 

「まだ少し甘いです」

 

 湊は頷いた。

 

「はい」

 

「引きは早くなりましたが、紅茶によっては甘さが戻りすぎます」

 

「はい」

 

「提供する紅茶は、やはり絞るべきです」

 

「はい」

 

「形も、もう少し整える必要があります。日によって差が出ると、商品としては弱い」

 

「はい」

 

「ですが」

 

 玲愛は皿を見た。

 

 空になった皿。

 

 きれいに食べ終えた皿。

 

 自分が、最後まで食べた皿。

 

 その事実を、仕事の評価の中へしまい込む。

 

 しまい込めたことにする。

 

「今日のところは、認めます」

 

 湊は、深く頭を下げた。

 

「ありがとうございます」

 

「今日のところは、です」

 

「はい」

 

「完成ではありません」

 

「はい」

 

「今後も確認します」

 

「はい」

 

「勘違いしないでください」

 

「しません」

 

「本当に?」

 

 湊は、ほんの少しだけ笑った。

 

 だが、茶化す笑みではなかった。

 

 安心したような、少しだけ嬉しそうな笑み。

 

「少しだけ、します」

 

「しないでください」

 

「努力します」

 

「実行してください」

 

「はい」

 

 玲愛は、空になった皿から視線を外した。

 

 厨房の奥では、明日の仕込みの準備が始まっている。

 

 ホールには、閉店後の静けさが戻っている。

 

 今日も店は終わった。

 

 そして、相沢湊の菓子は、今日初めて客席に置かれた。

 

 店の空気を壊さなかった。

 

 客の時間を止めすぎなかった。

 

 紅茶に寄り添った。

 

 少しだけ記憶に残った。

 

 それを、玲愛は見た。

 

 見てしまった。

 

「相沢さん」

 

「はい」

 

「明日、今日の反応をまとめておいてください」

 

「分かりました」

 

「ホール側でも記録します」

 

「はい」

 

「次の試作では、紅茶の組み合わせを三種類に絞りましょう」

 

「三種類ですね」

 

「ええ」

 

「また見ていただけますか」

 

「必要であれば」

 

「はい」

 

「必要であれば、です」

 

「はい」

 

 湊は、皿を下げた。

 

 その背中を見ながら、玲愛は思った。

 

 最初に彼のタルトを食べた日。

 

 店に出せるものではないと思った。

 

 未完成で、不安定で、客席を見ていない皿。

 

 けれど、香りだけは残った。

 

 その香りを、完全に消してほしいとは思えなかった。

 

 今、その香りは少しだけ形を変えて、客席に置かれている。

 

 まだ弱い。

 

 まだ甘い。

 

 まだ直すところはある。

 

 それでも。

 

 花鳥玲愛は、新人パティシエの菓子を認める。

 

 少なくとも、今日のところは。

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