キュリオの午後は、いつも通りに流れていた。
紅茶の香り。
カップの音。
客席に落ちる、柔らかな話し声。
窓際の席では、一人客が本を開いている。
奥の席では、二人連れの客がメニューを覗き込んでいる。
カウンター近くでは、常連客がいつもの紅茶を待っている。
いつも通り。
花鳥玲愛は、そう確認した。
店は、いつも通りでなければならない。
新人パティシエの菓子が限定提供から正式なメニュー候補になったからといって、店の時間が浮ついていい理由にはならない。
相沢湊の焼き菓子は、あれから数日、調整を重ねていた。
紅茶との組み合わせを絞る。
案内文を直す。
提供数を限定する。
焼き上がりの差を確認する。
キュリオの商品として出す以上、感覚だけでは足りない。
安定していること。
運びやすいこと。
客席に置いた時、店の空気を乱さないこと。
そして、食べた客の時間を少しだけ軽くすること。
それらを一つずつ確認する。
その作業は、地味だった。
地味だが、必要だった。
湊は、その地味な作業から逃げなかった。
それは評価している。
評価しているだけだ。
特別扱いではない。
「花鳥さん」
森崎乃々香が、小さく声をかけてきた。
「限定焼き菓子、今日も出ますか?」
「出ます。ただし、午後の紅茶セットのみです」
「分かりました。昨日のお客様、また頼みたいって言ってました」
「そうですか」
玲愛は伝票を確認しながら答えた。
声は崩さない。
表情も崩さない。
客がまた頼みたいと言った。
それは商品として良い兆候だ。
それだけだ。
それ以上の意味はない。
「相沢さん、聞いたら喜びそうですね」
「必要があれば伝えてください」
「花鳥さんから言わないんですか?」
「私から言う必要はありません」
「でも、評価されてるって分かった方が」
「評価はすでに伝えています」
玲愛は、きっぱりと言った。
「必要以上に浮つかせると、仕上がりに影響します」
「……はい」
森崎は素直に頷いた。
ただ、その表情には、少しだけ納得しきっていないものが残っている。
玲愛は、少しだけ眉を寄せた。
何か誤解されている気がする。
湊の菓子が客に受け入れられ始めていることは、店にとって良いことだ。
新人が成長していることも、悪くない。
だから、必要な範囲で情報を共有する。
それだけだ。
個人的に知らせたいわけではない。
喜ばせたいわけでもない。
まして、彼がどう反応するかを見たいわけでもない。
そう整理して、玲愛はホールを回った。
午後の注文が入る。
「紅茶セット、二つ。焼き菓子付きです」
厨房へ伝える。
少し遅れて、相沢湊の声が返った。
「はい」
その声は、初日より落ち着いていた。
まだ新人の声だ。
だが、客席の方を向いている。
以前のように、皿の上だけで完結していない。
玲愛は、ホールの入口近くで皿が出るのを待った。
厨房では、三枝誠司が仕上がりを確認している。
湊は、その横で皿の位置を調整していた。
有坂直人は少し離れた場所で店全体を見ている。
誰も、特別な顔はしていない。
ただ、いつもの仕事として、それぞれの確認をしている。
それでいい。
出てきた皿を、玲愛は受け取った。
小さな焼き菓子。
派手ではない。
だが、寂しくはない。
香りは最初だけ、控えめに立つ。
皿の余白は自然。
ホールスタッフが持ちやすい位置。
悪くない。
悪くないが、まだ少しだけ焼き色に揺れがある。
後で指摘する必要がある。
玲愛は皿を受け取り、客席へ運んだ。
「お待たせいたしました」
皿を置く。
客の前で、香りがふわりと立つ。
二人連れの客が一口食べる。
会話が止まりすぎない。
片方が紅茶に手を伸ばす。
もう片方が、皿を少し寄せる。
大げさな反応ではない。
だが、穏やかだった。
玲愛は、それを見届けてから次の席へ向かった。
店の時間は、崩れていない。
相沢湊の菓子は、今日もそこに置けている。
それでいい。
それ以上は、まだ必要ない。
営業後。
厨房では、湊が今日の提供分を記録していた。
焼き上がりの差。
注文数。
戻ってきた皿の状態。
紅茶との組み合わせ。
ノートには細かな文字が並んでいる。
玲愛は、厨房の入口で足を止めた。
「相沢さん」
「はい」
湊が顔を上げた。
「今日の提供分について、確認します」
「お願いします」
「全体としては、大きな問題はありません」
「はい」
「ただし、焼き色に揺れがあります。午後の二回目に出した分は、わずかに香りが強く出ています」
「二回目ですか」
「ええ。紅茶セット二名様分です」
湊はすぐにノートを見直した。
「オーブンの温度を少し上げたタイミングです。記録しておきます」
「記録だけでなく、次回調整してください」
「はい」
「それと、案内文は今のままで良いでしょう。客への伝わり方に違和感はありません」
「分かりました」
「提供数はしばらく今のままです。増やす必要はありません」
「はい」
「焦らないことです」
湊の手が止まった。
「焦っているように見えましたか」
「少し」
「……すみません」
「謝罪は不要です。自覚してください」
「はい」
湊は小さく頷いた。
それから、少しだけ迷うように言った。
「でも、注文が入ると、やっぱり嬉しいです」
「当然です」
玲愛は答えた。
「作ったものが客席に届いたのですから」
「はい」
「ただし、嬉しいからといって、皿の上で声を大きくしないでください」
「皿の上で声を大きく」
「香りや甘さを強めて、客に気づかせようとしない、という意味です」
「ああ……はい。気をつけます」
「あなたの菓子は、静かに置いた方が向いています」
言ってから、玲愛は少しだけ黙った。
今の言葉は、少し踏み込んだ。
商品としての評価だから問題はない。
問題はないが、湊が顔を上げた。
「そう思いますか」
「思います」
「花鳥さんがそう言うなら、たぶんそうなんだと思います」
「私を基準にしすぎないでください」
「はい」
「客席を見なさい」
「見ています」
「本当に?」
「……前よりは」
「なら結構です」
そこで終わらせるつもりだった。
だが、湊がノートを閉じた後、小さな紙袋を一つ取り出した。
「花鳥さん」
「何ですか」
「これ、余った分ではありません」
「では何ですか」
「今日の調整前の分です。商品には出していません。焼き色が少し違うので、確認用に」
紙袋は小さい。
中身は一つだけだろう。
玲愛は、それを見た。
「確認用なら、三枝さんに回してください」
「三枝さんには見てもらいました」
「では、記録に残してください」
「残しました」
「なら、私に渡す必要はありません」
「……そうですね」
湊は、素直に紙袋を下げかけた。
その動きが、少しだけ引っかかった。
以前なら、もう少し食い下がったかもしれない。
花鳥さんにも確認してほしいです、と。
けれど今は、引く。
こちらが不要と言えば、引く。
その判断は正しい。
正しいのに、なぜか少しだけ気になる。
玲愛は、自分の中の違和感を無視しようとした。
無視するべきだった。
だが、口が先に動いた。
「待ちなさい」
湊が手を止める。
「はい」
「確認用、と言いましたね」
「はい」
「焼き色の差を見る必要はあります」
「……はい」
「ですから」
玲愛は、視線を紙袋から外した。
「置いていきなさい」
湊は少しだけ目を丸くした。
だが、笑わなかった。
茶化さなかった。
「分かりました」
「勘違いしないでください」
「はい」
「商品確認です」
「はい」
「余り物をもらうわけではありません」
「はい」
「特別扱いでもありません」
湊は、その言葉に一瞬だけ沈黙した。
それから、真面目に頷いた。
「分かっています」
本当に分かっているのだろうか。
玲愛は疑った。
だが、今の湊の顔は、からかうものではなかった。
むしろ、こちらの言葉をそのまま受け止めようとしている顔だった。
それが少しだけ、調子を狂わせる。
三枝が奥で何か言いたそうにしたが、何も言わなかった。
有坂が少し笑っている気配もしたが、玲愛は見なかった。
余計な反応を拾う必要はない。
湊は紙袋を作業台の端に置いた。
「では、明日の仕込みに戻ります」
「ええ」
「お疲れさまでした、花鳥さん」
「お疲れさまです」
湊は厨房の奥へ戻った。
玲愛は、しばらくその紙袋を見ていた。
持ち帰る必要はない。
ここで確認すればいい。
仕事だ。
商品確認だ。
焼き色の差を見るだけだ。
そう思いながら、紙袋を手に取る。
ほんのりと、香りがした。
強くない。
けれど、もう知っている香り。
店の時間を邪魔しないために抑えられた、相沢湊の香り。
玲愛は小さく息を吐いた。
「……特別扱いではありません」
誰も聞いていない。
それでも、言わなければならない気がした。
「花鳥さん」
声がした。
振り返ると、森崎がトレーを抱えて立っていた。
「何ですか」
「いえ、その……確認用、ですよね」
「そうです」
「はい。確認用ですね」
「何か言いたいことがありますか」
「ありません」
森崎はすぐに首を振った。
だが、少しだけ口元が緩んでいる。
「森崎さん」
「はい」
「明日の窓際二名席、椅子の角度を確認してください」
「はい。すぐ確認します」
森崎は、少し嬉しそうにホールへ戻っていった。
玲愛は紙袋を持ったまま、ホールへ向かった。
客席はすでに暗くなりかけていた。
椅子は整えられている。
カップは片付けられている。
今日の店は終わった。
明日もまた始まる。
そこに、相沢湊の菓子が少しだけ置かれる。
それはもう、異物ではない。
完全に馴染んだわけでもない。
けれど、キュリオの時間の中に、置き場所を見つけ始めている。
玲愛は、紙袋を手にしたまま、窓際の席を見た。
最初に彼の菓子を出した席。
本を読んでいた女性客が、また頼みたいと言った席。
あの時の皿を思い出す。
客席を壊さず、けれど少しだけ残った甘さ。
新人パティシエの菓子。
認めた。
今日のところは。
そして明日も確認する。
それだけだ。
玲愛は、紙袋を鞄にしまった。
確認用である。
持ち帰るのは、明日の開店前に落ち着いて確認するため。
決して、帰ってから紅茶を淹れて食べるためではない。
そういうことにした。
花鳥玲愛は、特別扱いをしない。
ただ、相沢湊の菓子を確認する機会が、明日から少し増えるだけだった。