花鳥玲愛は、甘さを認めない   作:エーアイ

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1章エピローグです。


第9話 花鳥玲愛は、特別扱いをしない

 キュリオの午後は、いつも通りに流れていた。

 

 紅茶の香り。

 

 カップの音。

 

 客席に落ちる、柔らかな話し声。

 

 窓際の席では、一人客が本を開いている。

 

 奥の席では、二人連れの客がメニューを覗き込んでいる。

 

 カウンター近くでは、常連客がいつもの紅茶を待っている。

 

 いつも通り。

 

 花鳥玲愛は、そう確認した。

 

 店は、いつも通りでなければならない。

 

 新人パティシエの菓子が限定提供から正式なメニュー候補になったからといって、店の時間が浮ついていい理由にはならない。

 

 相沢湊の焼き菓子は、あれから数日、調整を重ねていた。

 

 紅茶との組み合わせを絞る。

 

 案内文を直す。

 

 提供数を限定する。

 

 焼き上がりの差を確認する。

 

 キュリオの商品として出す以上、感覚だけでは足りない。

 

 安定していること。

 

 運びやすいこと。

 

 客席に置いた時、店の空気を乱さないこと。

 

 そして、食べた客の時間を少しだけ軽くすること。

 

 それらを一つずつ確認する。

 

 その作業は、地味だった。

 

 地味だが、必要だった。

 

 湊は、その地味な作業から逃げなかった。

 

 それは評価している。

 

 評価しているだけだ。

 

 特別扱いではない。

 

「花鳥さん」

 

 森崎乃々香が、小さく声をかけてきた。

 

「限定焼き菓子、今日も出ますか?」

 

「出ます。ただし、午後の紅茶セットのみです」

 

「分かりました。昨日のお客様、また頼みたいって言ってました」

 

「そうですか」

 

 玲愛は伝票を確認しながら答えた。

 

 声は崩さない。

 

 表情も崩さない。

 

 客がまた頼みたいと言った。

 

 それは商品として良い兆候だ。

 

 それだけだ。

 

 それ以上の意味はない。

 

「相沢さん、聞いたら喜びそうですね」

 

「必要があれば伝えてください」

 

「花鳥さんから言わないんですか?」

 

「私から言う必要はありません」

 

「でも、評価されてるって分かった方が」

 

「評価はすでに伝えています」

 

 玲愛は、きっぱりと言った。

 

「必要以上に浮つかせると、仕上がりに影響します」

 

「……はい」

 

 森崎は素直に頷いた。

 

 ただ、その表情には、少しだけ納得しきっていないものが残っている。

 

 玲愛は、少しだけ眉を寄せた。

 

 何か誤解されている気がする。

 

 湊の菓子が客に受け入れられ始めていることは、店にとって良いことだ。

 

 新人が成長していることも、悪くない。

 

 だから、必要な範囲で情報を共有する。

 

 それだけだ。

 

 個人的に知らせたいわけではない。

 

 喜ばせたいわけでもない。

 

 まして、彼がどう反応するかを見たいわけでもない。

 

 そう整理して、玲愛はホールを回った。

 

 午後の注文が入る。

 

「紅茶セット、二つ。焼き菓子付きです」

 

 厨房へ伝える。

 

 少し遅れて、相沢湊の声が返った。

 

「はい」

 

 その声は、初日より落ち着いていた。

 

 まだ新人の声だ。

 

 だが、客席の方を向いている。

 

 以前のように、皿の上だけで完結していない。

 

 玲愛は、ホールの入口近くで皿が出るのを待った。

 

 厨房では、三枝誠司が仕上がりを確認している。

 

 湊は、その横で皿の位置を調整していた。

 

 有坂直人は少し離れた場所で店全体を見ている。

 

 誰も、特別な顔はしていない。

 

 ただ、いつもの仕事として、それぞれの確認をしている。

 

 それでいい。

 

 出てきた皿を、玲愛は受け取った。

 

 小さな焼き菓子。

 

 派手ではない。

 

 だが、寂しくはない。

 

 香りは最初だけ、控えめに立つ。

 

 皿の余白は自然。

 

 ホールスタッフが持ちやすい位置。

 

 悪くない。

 

 悪くないが、まだ少しだけ焼き色に揺れがある。

 

 後で指摘する必要がある。

 

 玲愛は皿を受け取り、客席へ運んだ。

 

「お待たせいたしました」

 

 皿を置く。

 

 客の前で、香りがふわりと立つ。

 

 二人連れの客が一口食べる。

 

 会話が止まりすぎない。

 

 片方が紅茶に手を伸ばす。

 

 もう片方が、皿を少し寄せる。

 

 大げさな反応ではない。

 

 だが、穏やかだった。

 

 玲愛は、それを見届けてから次の席へ向かった。

 

 店の時間は、崩れていない。

 

 相沢湊の菓子は、今日もそこに置けている。

 

 それでいい。

 

 それ以上は、まだ必要ない。

 

 営業後。

 

 厨房では、湊が今日の提供分を記録していた。

 

 焼き上がりの差。

 

 注文数。

 

 戻ってきた皿の状態。

 

 紅茶との組み合わせ。

 

 ノートには細かな文字が並んでいる。

 

 玲愛は、厨房の入口で足を止めた。

 

「相沢さん」

 

「はい」

 

 湊が顔を上げた。

 

「今日の提供分について、確認します」

 

「お願いします」

 

「全体としては、大きな問題はありません」

 

「はい」

 

「ただし、焼き色に揺れがあります。午後の二回目に出した分は、わずかに香りが強く出ています」

 

「二回目ですか」

 

「ええ。紅茶セット二名様分です」

 

 湊はすぐにノートを見直した。

 

「オーブンの温度を少し上げたタイミングです。記録しておきます」

 

「記録だけでなく、次回調整してください」

 

「はい」

 

「それと、案内文は今のままで良いでしょう。客への伝わり方に違和感はありません」

 

「分かりました」

 

「提供数はしばらく今のままです。増やす必要はありません」

 

「はい」

 

「焦らないことです」

 

 湊の手が止まった。

 

「焦っているように見えましたか」

 

「少し」

 

「……すみません」

 

「謝罪は不要です。自覚してください」

 

「はい」

 

 湊は小さく頷いた。

 

 それから、少しだけ迷うように言った。

 

「でも、注文が入ると、やっぱり嬉しいです」

 

「当然です」

 

 玲愛は答えた。

 

「作ったものが客席に届いたのですから」

 

「はい」

 

「ただし、嬉しいからといって、皿の上で声を大きくしないでください」

 

「皿の上で声を大きく」

 

「香りや甘さを強めて、客に気づかせようとしない、という意味です」

 

「ああ……はい。気をつけます」

 

「あなたの菓子は、静かに置いた方が向いています」

 

 言ってから、玲愛は少しだけ黙った。

 

 今の言葉は、少し踏み込んだ。

 

 商品としての評価だから問題はない。

 

 問題はないが、湊が顔を上げた。

 

「そう思いますか」

 

「思います」

 

「花鳥さんがそう言うなら、たぶんそうなんだと思います」

 

「私を基準にしすぎないでください」

 

「はい」

 

「客席を見なさい」

 

「見ています」

 

「本当に?」

 

「……前よりは」

 

「なら結構です」

 

 そこで終わらせるつもりだった。

 

 だが、湊がノートを閉じた後、小さな紙袋を一つ取り出した。

 

「花鳥さん」

 

「何ですか」

 

「これ、余った分ではありません」

 

「では何ですか」

 

「今日の調整前の分です。商品には出していません。焼き色が少し違うので、確認用に」

 

 紙袋は小さい。

 

 中身は一つだけだろう。

 

 玲愛は、それを見た。

 

「確認用なら、三枝さんに回してください」

 

「三枝さんには見てもらいました」

 

「では、記録に残してください」

 

「残しました」

 

「なら、私に渡す必要はありません」

 

「……そうですね」

 

 湊は、素直に紙袋を下げかけた。

 

 その動きが、少しだけ引っかかった。

 

 以前なら、もう少し食い下がったかもしれない。

 

 花鳥さんにも確認してほしいです、と。

 

 けれど今は、引く。

 

 こちらが不要と言えば、引く。

 

 その判断は正しい。

 

 正しいのに、なぜか少しだけ気になる。

 

 玲愛は、自分の中の違和感を無視しようとした。

 

 無視するべきだった。

 

 だが、口が先に動いた。

 

「待ちなさい」

 

 湊が手を止める。

 

「はい」

 

「確認用、と言いましたね」

 

「はい」

 

「焼き色の差を見る必要はあります」

 

「……はい」

 

「ですから」

 

 玲愛は、視線を紙袋から外した。

 

「置いていきなさい」

 

 湊は少しだけ目を丸くした。

 

 だが、笑わなかった。

 

 茶化さなかった。

 

「分かりました」

 

「勘違いしないでください」

 

「はい」

 

「商品確認です」

 

「はい」

 

「余り物をもらうわけではありません」

 

「はい」

 

「特別扱いでもありません」

 

 湊は、その言葉に一瞬だけ沈黙した。

 

 それから、真面目に頷いた。

 

「分かっています」

 

 本当に分かっているのだろうか。

 

 玲愛は疑った。

 

 だが、今の湊の顔は、からかうものではなかった。

 

 むしろ、こちらの言葉をそのまま受け止めようとしている顔だった。

 

 それが少しだけ、調子を狂わせる。

 

 三枝が奥で何か言いたそうにしたが、何も言わなかった。

 

 有坂が少し笑っている気配もしたが、玲愛は見なかった。

 

 余計な反応を拾う必要はない。

 

 湊は紙袋を作業台の端に置いた。

 

「では、明日の仕込みに戻ります」

 

「ええ」

 

「お疲れさまでした、花鳥さん」

 

「お疲れさまです」

 

 湊は厨房の奥へ戻った。

 

 玲愛は、しばらくその紙袋を見ていた。

 

 持ち帰る必要はない。

 

 ここで確認すればいい。

 

 仕事だ。

 

 商品確認だ。

 

 焼き色の差を見るだけだ。

 

 そう思いながら、紙袋を手に取る。

 

 ほんのりと、香りがした。

 

 強くない。

 

 けれど、もう知っている香り。

 

 店の時間を邪魔しないために抑えられた、相沢湊の香り。

 

 玲愛は小さく息を吐いた。

 

「……特別扱いではありません」

 

 誰も聞いていない。

 

 それでも、言わなければならない気がした。

 

「花鳥さん」

 

 声がした。

 

 振り返ると、森崎がトレーを抱えて立っていた。

 

「何ですか」

 

「いえ、その……確認用、ですよね」

 

「そうです」

 

「はい。確認用ですね」

 

「何か言いたいことがありますか」

 

「ありません」

 

 森崎はすぐに首を振った。

 

 だが、少しだけ口元が緩んでいる。

 

「森崎さん」

 

「はい」

 

「明日の窓際二名席、椅子の角度を確認してください」

 

「はい。すぐ確認します」

 

 森崎は、少し嬉しそうにホールへ戻っていった。

 

 玲愛は紙袋を持ったまま、ホールへ向かった。

 

 客席はすでに暗くなりかけていた。

 

 椅子は整えられている。

 

 カップは片付けられている。

 

 今日の店は終わった。

 

 明日もまた始まる。

 

 そこに、相沢湊の菓子が少しだけ置かれる。

 

 それはもう、異物ではない。

 

 完全に馴染んだわけでもない。

 

 けれど、キュリオの時間の中に、置き場所を見つけ始めている。

 

 玲愛は、紙袋を手にしたまま、窓際の席を見た。

 

 最初に彼の菓子を出した席。

 

 本を読んでいた女性客が、また頼みたいと言った席。

 

 あの時の皿を思い出す。

 

 客席を壊さず、けれど少しだけ残った甘さ。

 

 新人パティシエの菓子。

 

 認めた。

 

 今日のところは。

 

 そして明日も確認する。

 

 それだけだ。

 

 玲愛は、紙袋を鞄にしまった。

 

 確認用である。

 

 持ち帰るのは、明日の開店前に落ち着いて確認するため。

 

 決して、帰ってから紅茶を淹れて食べるためではない。

 

 そういうことにした。

 

 花鳥玲愛は、特別扱いをしない。

 

 ただ、相沢湊の菓子を確認する機会が、明日から少し増えるだけだった。

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