GW明け最初の土曜日。だんだんと日差しが強くなり、「春の陽気」という言葉を使うにはあまりにも気温が高い季節になっていた。急な気温上昇にも負けず、北宇治高校の校庭には運動部の掛け声が響き渡り、校舎のあちこちからは、吹奏楽部をはじめとした音楽系が練習している音が聞こえてくる。
その吹奏楽部の午前中は、サンフェスに向けたパート練習だ。動きを伴う練習は、暑さのピークを過ぎた夕方に校庭で行う予定だった。その前にパート単位で演奏の粗をさらに削り、午後一には音楽室で合奏のクオリティを上げるという算段だ。
そんな中、滝、美知恵、久美子の3人は会議室に集まっていた。机の上には3つの楽譜。そして滝が用意したノートPCとスピーカーがある。音の反響しない静けさが、かえって久美子を落ち着かなくさせていた。
これから、コンクール自由曲の選曲の打合せを行うのだ。
「お二人とも、今日はお集りいただきありがとうございます。事前にお伝えした通り、今年のコンクール自由曲の候補について、ご意見をいただきたいと思いまして」
そう言いながら、滝は机の上にある3つの楽譜を指し示した。久美子の座った位置からだと、ちょうど譜面は逆向きに置いてあるので、ぱっと見では何の曲かはわからない。
――これまでも、事前に美知恵先生と選曲について話をしていたことがあったのだろうか。
当然ながら過去のことを知らない久美子は、今回その用件で呼ばれたのだから、きっと今までもそうだったのだ、と推測した。しかし、ちらっと目線を向けた先にいた美知恵が、不思議そうな表情を浮かべていることに気が付いた。もしかしたら、今回が初めてのことなのかもしれない。そのことに、久美子は思っていたよりも小さくない違和感を覚えた。
「滝先生。今までコンクールの選曲について意見を求められたことはありませんでしたが、今年はなぜこのような場を?」
美知恵の質問に対して、滝は柔和な表情を浮かべて答える。
「私も今年で北宇治に来て8年目です。北宇治は公立高校ですので、そろそろ私も異動の辞令が出てもおかしくありません」
「……まぁ、私のような例外がいないわけでもないですが」
美知恵の言葉に、そうでしたね、と滝が相槌を打つ。彼女は、滝の父が北宇治高校で吹奏楽部の顧問をしていたころから、北宇治高校に勤務しているのだ。そろそろ勤続20年に達していたとしてもおかしくない。
「松本先生のような場合もあるかもしれませんが、かなり例外ではないかと。なので、基本的にそろそろ私は異動があるものと思っています」
――そうか。そういうこともあるのか。
久美子は、自分が北宇治に赴任してからもずっと滝がいるものだと思っていたが、この時初めて、滝がいなくなるという可能性に気が付いた。彼女が北宇治に入学したのと同じタイミングではあったが、久美子にとって滝は北宇治にいて「当たり前」の存在だ。そんな彼が北宇治からいなくなることは想像できなかった。
まだそれが現実になるのがいつかはわからない。それでも、当たり前だと思っていた風景が、音もなく揺らいだ気がした。
「ということで、今まで私一人で決めることが多かったものも、今年は皆さんと意見交換しながら決めていきたいと思います。その最初の一歩が、コンクール選曲というわけです」
滝が順番に、3つの楽譜を指し示しながら曲名を読み上げた。どれも、久美子もよく知っている曲名だった。
一曲目は、『ブリュッセル・レクイエム』。ベルト・アッペルモント作曲。最近作曲された曲で、編曲されて吹奏楽コンクールでよく演奏される人気曲だ。高校を卒業して吹奏楽奏者から離れた久美子も、全国大会に出場した学校が数多く演奏していたので、知っている。
二曲目は、『宇宙の音楽』。フィリップ・スパーク作曲。よく難曲と言われる曲ではある。しかしだからこそ、演奏技量の上達のために挑戦する価値のある楽曲ともとれるし、うまく演奏できるようになった時の達成感も並大抵のものではないだろう。
そして三曲目は、『リズと青い鳥』。卯田百合子作曲。久美子にとっても思い入れの深い曲だ。オーボエとフルートのソリが印象的だが、楽曲全体で一つの物語を奏でていることも魅力的だ。ただ、演奏時間が長いため、その大半を編曲して省略しなければ、コンクールの規定時間に入らないのがまた、悩みどころにもなる曲である。
そして『リズと青い鳥』は、久美子が高校2年生の時のコンクール曲でもある。残念ながら、当時の北宇治高校のコンクールは関西大会止まり。懐かしさもありつつ、悔しい思い出も残っている曲だった。
「この三曲を、黄前先生が部長だった代から続けているように、幹部の生徒に提示して、どのように選曲するかまで毎年決めてもらいます。幹部だけで選ぶこともありますし、黄前先生の次の年のように、部員全員で意見出しをして決めたこともあります。また、やはり私に決めてほしい、とお願いされた年もありましたね」
滝が過去の経緯を含めて、この三曲をどう扱うか、簡単に説明した。
そこまでやり方が決まっているなら、今回はどんな意見交換をしたいのだろうか。久美子のそんな考えが表情に出たのか、滝は言葉を続ける。
「今回はすでに私が三曲に絞りましたが、来年がもしあれば、黄前先生にも三曲に絞る段階からご協力いただこうとは思っています。そして今回私がお二人の意見を伺いたいのは、この曲についてです」
そう言って、滝は『リズと青い鳥』の楽譜を手に取った。そして、用意していたノートPCを使用して音源を再生する。流れ出したのは、あの後久美子も何度も聴いた音源だった。
「これ――関西大会の――」
「はい。私が北宇治に赴任して2年目。関西大会で金賞は受賞できましたが、全国大会へは進めなかったときの演奏です」
話している最中も、演奏は続いていく。久美子は目を閉じ、当時のことを思い出していた。スピーカー越しの音色が、あの時の空気ごと連れてくるようだった。
雨の降っていた日のオーディションのこと。
合宿でのオーボエの覚醒。
そして、涙を流せなかった結果発表。
今思い起こせば、どれもいい思い出だったと感じることもできる。
「今年のコンクール自由曲候補で再びリズを選んだのは、少なからず私の私情が入っています。もちろん、今の北宇治の演奏技術に見合った曲ではありますし、最終的にどの曲を選ぶかは幹部の判断もあるのですが」
「私情とは、どのようなものなのですか?」
「端的に言えば、指導者として未熟だった2年目のリベンジを、北宇治にいる間にできればと思い、この曲を候補にしました。1年目は生徒の演奏技術を高めることに奔走し、皆さんのポテンシャルが高かったこともあり、無事に全国大会に出場できました。ある程度技術力も見についたと思い、2年目はより表現力が試される曲に挑戦しました。特にあの年は、鎧塚さんと、1年吹奏楽部から離れていたブランクを感じさせない技量のある傘木さんがいましたから、オーボエとフルートのソロが大事となるこの曲で挑むことも可能だと考えていたのです」
そこで滝は一呼吸置いた。眼鏡を取り外し、眼鏡拭きで埃をふき取る。
「もちろん、あの時にできることはすべてしたつもりですし、生徒の皆さんもよく頑張ってくれました。それは間違いありません。それでも、生徒自らが立てた目標である、全国大会金賞は成し遂げられませんでした。やれることはすべてやったのに、です。」
やはり指導者二年目の私が未熟だったということでしょうか、と滝は続けて短くつぶやいた。
「あの頃の未熟な私に再挑戦したい。そういう気持ちがないと言えば嘘になります。そういう気持ちでリズも候補曲にいれました。――指導者としての未練、と言ってしまってもいいかもしれません。そのような気持ちが少しでも含まれている以上、お二人に意見を伺いたいと思っています」
さて、どのような意見をすればよいのだろうか。久美子と美知恵はお互い顔を見合わせた。特に久美子は奏者側の当事者であったため、言葉にしづらい。先に口を開いたのは美知恵だった。
「私は、選択肢に入れるのは構わないと思います。ただ、もし生徒が滝先生に選曲を一任する、という選択をした場合は、リズを選ばないでいただきたいですが。あくまでも主役は生徒。教師は彼らを導く立場ですので」
「ご意見ありがとうございます。肝に銘じておきます。――黄前先生はいかがですか?」
「えっ、あのっ、えーっと……」
思っていたよりも早く自分の意見を求められた久美子は、動揺が隠せなかった。何か言わねばならない。そう思い、当時のことを思い出しながら話し始めた。
「私も、リズを候補曲にすることは問題ないと思っています。まだ少し、教師・指導者としてどう曲と向き合っていけばいいか、という点は身に染みてはいませんが……」
あの年、久美子も課題曲のソリストに選ばれていた。自分自身、そのソロをどう演奏するかということに向き合うのに、かなり時間がかかった記憶がある。前年、親友である高坂麗奈が見事なソロを演奏していたこともあり、かなり高い演奏を目標にしてしまっていたせいかもしれないが。
「私自身、課題曲でソロをやることになっていたので、奏者としてはそちらを優先してしまっていた記憶があります。でも、あの時はオーボエとフルートのソロにどうしても注目がいってしまっていて、時間に余裕があっても部員全員が曲想などを考え切れていなかったかもしれません」
3年生が少なく、1年生がとても多かったのも影響しているかもしれませんが、と一言付け加える。
「もしリズが選ばれるなら、ソロのある第三楽章の抜粋量を減らした方がいいかもしれません。奏者側も、自分たちが関わる比重が大きいほうが、より曲に真摯に向き合ってくれると思います。抜粋する場所を選ぶ作業が大変になってしまうかもしれないので申し訳ないのですが……」
自分の考えを語るうちに、当時の選曲や練習方針に対して少しケチをつけるような形になってしまっていることに気が付き、声のボリュームが尻つぼみになりながら、それでも久美子は言葉を終えた。そんな久美子を見て、滝は怒ることもなく、優しい笑顔で礼を述べた。
「ありがとうございます、黄前先生。当時の奏者目線の意見も大変助かります。あまり皆さんとそういう話をする機会を持つこともできていませんでしたので」
そういうところも、私の未熟さだったというところでしょうか。そう続けた滝は、広げていた楽譜を片付け、打ち合わせの締めに入る。
「お二人とも、ご意見ありがとうございました。幹部に提示する自由曲候補はこの三曲にしたいと思います。アドバイスいただいた通り、幹部から選曲を一任された場合は、ブリティッシュ・レクイエムか宇宙の音楽から選ぶことにします。その際はまた、お二人のご意見もいただきたいと思います」
「わかりました」
「はい、よろしくお願いします」
合奏の前にお昼ご飯を食べましょうか、と久美子と美知恵が話しながら立ち上がったところを、「そういえば」と滝が声をかけて引き留めた。
「黄前先生が一年の詩を選んだ時、どういう基準で選んだのでしょうか。聴いたことがなかったな、と思いまして」
確かに、話したことはなかったかもしれない。決めたときに一緒にいた麗奈以外では、一緒に幹部をしていた秀一にすら話したことはなかった気がする。あの時、宇治川のほとりのベンチに座り、音源を聴き比べながら曲を選んだ時を思い出しながら、久美子は滝に当時の想いを伝えた。
「ものすごく悩んだんです。北宇治らしい曲ってどれだろうって。そして最終的に、名古屋のあのホールで、演奏する時のイメージをしたら、脳裏に浮かんだのが、一年の詩のクラリネットの音色でした。この音から演奏を始めたい。そう思って私は選びました」
「……そうですか。ありがとうございます。とてもいい選び方だったと思いますよ」
滝は嬉しそうにそう告げて、会議室をあとにした。
久美子は、無意識に会議室を見回していた。
さきほどまで机の上にあった楽譜は、すべて滝が持ち帰っている。それなのに、三つの曲の断片が、頭の中に残って離れなかった。
自分でも驚くほど、言葉が途中で揺らがなかった。それがどんな結果につながるのかは、まだわからない。けれどもう、誰かが決めたことを後から受け止めるだけの立場ではない。
「……お昼、どうします?」
久美子はそう口にしてから、ほんの少しだけ、自分の声が変わったことに気が付いた。