金曜日の夕方、アサギリマーチは私の上着の袖を噛んでいた。噛むといっても、歯を立てているわけではない。唇で器用に布をつまみ、こちらが引っ張ると一緒になって首を伸ばす。明日のレースを控えた競走馬のすることとしては、ずいぶん暢気な遊びだった。
「マーチ、離して。これから中山に行くんだから。ほら、そんな顔しても何も出ないよ。昨日も言ったけど、ポケットにおやつを入れてるわけじゃないんだからね」
ようやく袖が返ってきたところで、私は馬房の柵に肘をつき、馬の顔を眺めた。長い睫毛の下の目はいつも通り穏やかで、私の初騎乗については何の関心もなさそうだ。もっとも、競走馬が人間の事情を察してくれるようでは、厩務員という仕事は今よりずっと楽になっているに違いない。
「河瀬、お前はもう荷物を積んだのか。そろそろ出ないと調整ルームに遅れるぞ」
通路から声を掛けてきたのは、マーチの担当厩務員、五十嵐さんだった。作業着の袖をまくり、手にはブラシを持っている。私はさっき取り返した袖の皺を伸ばし、ちゃんと準備が済んでいることを伝えた。
「荷物も時間も大丈夫です。マーチの様子を最後に見ておこうと思って。今日の運動では少し右の口が硬かったんですけど、そのあと変わったことありませんでした?」
「ねえよ。歩様も食いもいつも通りだ。夕暮れに馬体を見たがピンピンしてる。それより自分のケツに火がつかねえ心配をしとけ。すました顔して、初陣前夜で遠足前の小学生みたいにソワソワしてんだろ」
「それは、ちょっとありそうです。前に馬が二頭来たらどうしようとか、考えだすと止まらなくて。マーチなら大丈夫だと思ってるんですけど、他の馬のことはわからないですから」
「前が詰まるのもレースの内だろうが。お前、学科も実技もちゃんと通ったのか?」
「本物の合格通知、今から見せに行きましょうか」
五十嵐さんはブラシの毛先で私の背中をぽんと押した。格子の隙間からマーチが上着を目掛けて鼻息を吹きかけてくる。「明日、頼むからね」と鼻先をそっと押さえ、私は小走りで厩舎の詰所へ向かった。
河瀬奈央、十八歳。身長百四十八センチ。競馬学校を卒業したばかりで、明日の中山第一レースが中央競馬での初騎乗になる。これだけなら単に珍しい女性新人騎手の自己紹介だが、私には一つ、人に話しにくい事情があった。
前世の私は男で、トレセンで競走馬の世話を焼く厩務員だった。
どうやって生涯を閉じたのかは思い出せない。神様から何かを託されたわけでもなく、目が覚めたら産着に包まれていた。百八十を超えていた巨体は小さな女の子の肉体に代わり、ならばと鞍上からの景色を夢見た。厩舎の仕事が好きだったからこそ、あの舞台の風を自分の肌で感じてみたかったのだ。反対するかと思った両親があっさり許してくれたのは、本当に運がよかった。
だが、競馬学校は甘くなかった。
『おい河瀬! 手入れや馬房掃除は一級品だがな、お前は騎手になりに来たんじゃないのか!』
『騎手になりに来ました!』
『なら模擬レースで馬の顔色ばかり伺うな! 他を見る目が遅れてるぞ!』
『だって、ハミを嫌がって口を割ってましたから。馬群にねじ込むより、外へ出して気分よく……』
『ここは実戦だ、お前の過保護で距離をロスしてどうする!』
馬が不快そうにすると、つい庇って外を回してしまう。前世の職業病は最後まで治らなかった。それでも匙を投げずに付き合ってくれた教官たちには、頭が上がらない。宿舎からお礼の電話でも入れようかと思ったが、調整ルームに入る前に通信機器を回収されるのを思い出した。感謝を告げるのは、デビュー戦を終えてからにしよう。
事務所に入ると、所属先の深町調教師が新聞を広げて待っていた。六十歳を過ぎても姿勢のいい人で、私が椅子に座る前に出馬表をこちらへ向けてくれる。マーチは四戦して二着一回、三着二回。未勝利戦なら十分に勝負になる馬だし、その鞍が新人の初騎乗に用意されたのだから、何度出馬表を見ても少し申し訳なくなる。
「逃げるのはこの二頭だろうな。どちらもテンが速い。お互い譲らなければ流れると思うが、マーチはどうだ。調教では折り合っているんだろう?」
「はい。最初に飛ばさなければ最後までよく動きます。前走は少し馬の間に入って、窮屈そうにしてましたよね。明日はできれば周りに余裕のあるところを通したいです。外を回ることになっても、その方が走りやすいと思います」
「外を回すと、その分だけ距離は損するぞ。勝負どころで大外を回って届かなかった、じゃ困るからな。位置は三、四番手を目安に考えておいてくれ。ただ、乗ってるのはお前だし、ゲートを出てみないとわからんこともある。最後は自分で決めていい」
深町先生はペンを置き、私の顔を見た。
「それとな、今日は初騎乗の前日だ。お前に勝ってほしいと思って乗せるんだから、何か失敗する前から謝るなよ。馬主さんも納得してくれているし、五十嵐もお前に任せたいと言ってる。マーチはお前のことをよく知ってるだろう。落ち着いて乗ってこい」
「……はい。ありがとうございます。でも、先生はどうしてマーチを選んだんですか? もっと経験のある人なら、そろそろ勝てそうな馬なのに」
「お前が今その話をするのか。決めたのは俺だよ。それより、明日のレースが終わったら何がよくて何が悪かったか、ちゃんと話を聞かせてくれ。結果がどうでも、それが一番大事だから」
ここまで言われると、重ねて尋ねるのも気が引けた。私は出馬表を畳んで頭を下げ、事務所を出た。廊下の向こうから馬の嘶きが聞こえる。明日の夕方には、マーチも一仕事終えてこの厩舎へ帰ってくるはずだ。そう考えると気が楽になり、私は忘れ物の確認のために自分の荷物のところへ戻った。
◇
その夜は中山競馬場の調整ルームに入った。入室を済ませ、通信機器を預け、翌日の予定を確認する。競馬学校で寮生活を送っていたので、決まった時刻に食事をして寝ること自体は苦にならない。ただ、調整ルームというのは寮とは違うもので、つい周りを見回してしまった。有名騎手が普通にお茶を飲んでいる光景は、なかなか現実味がなく、思わずじっと見つめて不審がられてしまった。
消灯してからも、しばらく寝つけなかった。マーチのスタートが少し遅れたらどうするか、逃げ馬が思ったほど飛ばさなかったらどうするか。布団の中であれこれ考えているうち、最後にはレースと関係のない、出発前に靴下を置き忘れたのではないかということまで気になり始めた。靴下はちゃんと荷物に入っていたのだから、考えるだけ無駄だったのだが。
翌朝、騎手控室へ向かうと、実習で顔を合わせたことのある佐伯騎手に呼び止められた。三十代後半のベテランで、私と同じ第一レースにも乗る予定だ。挨拶すると、佐伯さんは私の勝負服を見て、楽しそうに笑った。
「いよいよだな、河瀬。緊張してるか? そういやマーチに乗るんだってな。あの馬、前走もいいところまで来てたし、初日からいい馬に当たったじゃないか」
「はい。先生には感謝してます。ただ、皆さんと一緒に走るのは初めてなので、ちょっと怖くもあります。学校の模擬レースでは進路をなくして怒られたことがあって。本番で変なところに入ったら、やっぱり怒鳴られますよね?」
「危ない乗り方をすりゃ怒鳴られるよ。でも、怒られたくないからって遠慮してたら競馬にならんぞ。前が空いてるなら入ればいいし、出せるところがあるなら出せばいい。俺らも新人だからって道を譲ってやれないからな」
「そうですよね。マーチは前を塞がれるのを嫌がるので、できるだけ早めに出してあげようと思います。……あ、でも周りの馬に迷惑を掛けないようにします」
「その二つを両方やれりゃ上出来だ。とりあえず最初は馬に教わってこい。初騎乗で全部できる奴なんかいないんだから」
佐伯さんは片手を上げて自分の準備に戻った。私は言われたことを思い返しながら鞍を確認する。初日から先輩に話しかけてもらえたのはありがたかった。
パドックの向こうから五十嵐さんに曳かれたマーチが現れ、普段と変わらない足取りで周回を始めたのをみて、私の緊張は不思議なくらい薄れていった。こちらへ五十嵐さんが目を向けたので、小さく手を振ると、笑いながらマーチを連れてきた。
「どうだ、いいだろ。輸送も問題なし、飼葉も食ってる。俺にできることは全部やったから、あとはお前の仕事だ。……おい、何をにやにやしてる。さっきまで落ち着かなかったくせに」
「マーチを見たら安心したんです。今朝もいつもの顔ですし。昨日はあんなに私の袖を噛んだくせに、今日は知らんぷりして歩いてるんですよ。薄情だと思いません?」
「競馬場でお前の袖を噛んだら、それはそれで困るだろうが。ほら、先生が来たぞ」
深町先生と馬主の青柳さんにも挨拶した。青柳さんは私の初騎乗を面白がってくれているらしく、硬くならずに乗ってほしいと繰り返す。先生からも昨日の指示を簡単に確認されたが、細かな注文は増えなかった。やがて騎乗の合図があり、私は鐙に足を掛けてマーチの背中に跨った。
鞍の下から伝わる体温と呼吸に合わせた背中の上下、調教で馴染んだ感触がマーチから伝わってくる。私は五十嵐さんへ頷き、マーチを前へ進ませる。地下馬道を抜けると、まだ人の少ない観客席とコースが広がった。学校で実習に来たときとは違い、今日は自分の名前が出馬表に載っている。とうとうやってきたのだと、掲示板を目に焼き付ける。
返し馬ではマーチが少し前へ行きたがったが、手綱を軽く握ると落ち着いた。私が腰を浮かせると伸び伸びと脚を使い、戻せば速度を落とす。悪いところは見当たらない。ゲート前では周囲の馬を気にして耳を伏せたものの、係員に誘導されると素直に五番枠へ入った。
後扉が閉まる重い金属音が落ちる。隣枠から荒い鼻息が吹きつけ、私の鼓動がうるさいくらいに聞こえてくる。ハミ受けを確かめる私の前で、マーチの耳はピンと正面を向いていた。
◇
ゲートが開き、マーチが勢いよく飛び出した。芝の上を駆ける最初の数完歩は特に力強く、私は馬の首の動きに合わせて手綱を送り、身体を低く保つ。内から一頭、外から一頭が先頭を取りにいき、二頭がほとんど並んで下り坂へ入っていった。事前に見た出馬表の通りだったが、目の前で見ると随分と速く感じる。
マーチも追いかけたがっていた。軽く抑えると首を上げかけたので、私は強く引くのをやめ、前の二頭との間隔だけを保つことにした。先頭から二馬身ほど後ろ、外側にもう一頭。ここで無理をしなくても、マーチは最後まで走れる。少なくとも、普段の調教で私が知っているこの子ならそのはずだ。
芝からダートに移ると、前の馬の蹄が巻き上げた砂が飛んできた。マーチは一度だけ首を振り、少し外へ寄ろうとする。私は前の馬の真後ろに入らないよう進路を保ち、砂の少ないところへマーチを通した。前の二頭が争っているせいで先行集団は縦に長くなり、私たちの周囲にはまだ十分な余裕がある。
「そんなに急がなくていいよ。前の子たち、ずいぶん頑張ってるから」
マーチには普段からよく話しかけている。こちらが焦らずにいると馬も余計な力を使わないので、馬房でも調教でもつい同じ調子になる。あいにく先頭の騎手には聞こえない距離だったし、聞こえたら聞こえたで、余計なお世話だと言われただろう。
三コーナーへ入る頃、先頭の二頭はまだ競り合っていた。片方の騎手は既に手を動かしており、馬も首を高くしている。私は走りに合わせながら前との距離をハロン棒を頼りに測る。マーチは変わらず軽い手応えで、抑えている指先を少し緩めると、すぐに速度を上げようとする。
外の馬が上がってきた。まずい。このまま並ばれれば、四コーナーで完全に閉じ込められる。私がどう対処すべきか迷ったその一瞬、マーチが先に動いた。
外から被せられるのを察したのか、私の合図を待たずに自ら首を外へ向ける。外の馬が完全に前に出るより早く、空いていた斜め前へと自力で逃げていったのだ。
目の前が開けた途端、マーチの耳が前を向き、ぐんと体が沈んだ。
行きたいなら行かせる。手綱の張りを緩め、四コーナーを外から回した。前の二頭は早くも一杯で、鞭が入り始めている。一方、マーチにはまだ有り余る余力があった。何もしなくても差が詰まる。直線まで待つ手もあったが、この勢いにブレーキをかける理由はない。
「じゃあ、行こうか。マーチ」
手綱を前へ出すと、マーチが大きく脚を伸ばした。四コーナーの出口で一頭を抜き、直線へ向いたときにはもう一頭の外に並びかける。内の騎手は腰を落として懸命に追い始めたが、マーチの走りはほとんど変わらない。私は鞍の上でリズムを合わせ、軽く促すと、馬はさらに一完歩、二完歩と前へ出た。
中山の直線は短く、ゴール前には急坂がある。馬が疲れ始める場所でもあるので、私はマーチの呼吸をたしかめる。うん、まだ十分に動けている。呼吸も苦しそうではなく、首を伸ばすたびに手綱が柔らかく引かれる。こういうときのマーチは、こちらが細かく指示するより、自由に走らせてやる方がいい。
坂に差しかかってから、一度だけ後ろの気配が近づいた。私はマーチを真っすぐ走らせることに集中し、腰を使ってもうひと押しする。すると馬はぐんと身体を前へ運び、後ろの蹄音がまた遠ざかっていく。残り百メートルの標識が横を通り、前方にはもうゴール板しかない。
「よし、あと少し! そのまま!」
マーチの首が沈み込むリズムに合わせて前傾を深め、最後まで推進力を逃がさないよう手綱を送り続けた。視界の端を白いゴール板の支柱が鋭く横切っていく。そこを通過したのを見届けてから手綱を引き、固めていた息を吐きながらゆっくりと身体を起こした。と同時に、観客席からどっと広がった拍手と歓声が耳へ届く。視線を向けたターフビジョンには、砂煙をあげ先頭で走り抜けた鹿毛の姿が映し出されていた。画面の中で後続がゴールへ駆け込んでくる。初めてのレースで、私は一着になったのだ。
減速している間もマーチは機嫌がよかった。首筋を撫でると小さく耳を動かし、まだ走れそうな足取りで進もうとする。私は笑いながら手綱を握り直した。
「もう終わりだよ。よく頑張ったね。帰ったら五十嵐さんにいっぱい褒めてもらおう。……それにしても、競馬ってこんなに楽しいんだ」
後ろから馬が近づく音がしたので振り返ると、佐伯さんが並びかけてきた。ゴーグルを上げると、呆れたような、それでいてどこか愉快そうな顔をしている。
「おい河瀬、おめでとう。最初からえらいものを見せてもらったよ。四コーナーで外へ持ち出したの、ずいぶんいいタイミングだったな。こっちはお前の後ろにいたのに、仕掛ける前に離されちまった」
「ありがとうございます! でも、外へ出たのはたまたま外の馬が入ってきそうだったからで。前が空いたら自分でどんどん進んでくれたんです。私、あんまり何もしてなくて……あ、直線ではちゃんと追いましたよ!」
「そこは見てたよ。最後の坂でも馬が真っすぐ走ってた。……まあ、勝ったんだから今は素直に喜んどけ。次はこっちも負けてやらんぞ」
佐伯さんが片手を上げて離れていく。私はその背中へお辞儀をし、またマーチを褒めた。手に残る感触も、坂を駆け上がったときの景色も、今のうちに全部覚えておきたかった。
◇
検量を終えて戻ると、深町先生は私が何か言う前に握手を求めてきた。五十嵐さんはマーチを連れていて、馬主の青柳さんも顔をほころばせている。私は次々にお祝いを言われ、自分が初勝利を挙げた新人騎手として迎えられているのだと実感して笑顔になった。
「おめでとう、河瀬。勝つ力はあると思ってたが、あそこまで余裕のある勝ち方をするとはな。前半も慌てずに運べていたし、外へ出してからが見事だった。直線で馬が伸びていくのを見て、こっちも思わず声が出たよ」
「ありがとうございます。マーチ、今日は手応えがよくて、まだ追っていいのかなって迷うくらいでした。前の馬を嫌がったので外へ出したら、急に走りやすくなったみたいで。坂でも脚が鈍らなかったのは私も驚きました」
「そうか。なら、その感触はよく覚えておけ。どんな馬でも同じ乗り方ができるわけじゃないが、馬の力を残して運ぶのは大事なことだ。」
「はい。今回は、マーチに勝たせてもらいました。」
先生は眼鏡を直し、何か言いかけてやめた。その代わり、五十嵐さんの方へ向き直って笑った。
「聞いたか。こいつ、マーチに勝たせてもらいましたで済ませるんだぞ。学校じゃレース自体は苦手だったと聞いてたから、俺も少し心配してたんだがな」
「先生、何だって構いませんよ。マーチはこの通りぴんぴんしてるし、未勝利も抜けた。俺はそれで満足です。……ほら、河瀬。お前も突っ立ってねえで、一回くらい自分が勝ったことを喜べ。いつまで馬の様子ばっかり見てるんだ」
「だってマーチ、レースが終わってもまだ元気なんですよ。いつもより張り切ってたから、少し心配だったんですけど……。でも、はい。嬉しいです。すごく!」
青柳さんは声を立てて笑い、記念写真を撮ろうと声を掛けてくれた。マーチは私たちの事情などお構いなしに五十嵐さんの袖を引っ張り、五十嵐さんが「今度は俺かよ」とぼやいたので、写真の中の私はひどく楽しそうな顔になっていたと思う。
そのあと短い取材を受けた。初勝利の気持ちや騎乗の工夫を尋ねられたので、前の馬の後ろでは走りにくそうだったこと、外へ出してから反応がよくなったことを話した。記者はその説明を何度か聞き返していたが、私はほかに難しい作戦を立てたわけでもない。最後に「これからどんな騎手になりたいですか」と聞かれ、少しだけ考えて答えた。
「いろんな馬に乗ってみたいです。速い子も、ちょっと気難しい子も。それぞれ違うところがあるでしょうから、まずはちゃんと知ってあげられる騎手になりたいですね。もちろん、乗せてもらったからには勝ちたいですけど」
記者は笑って礼を言い、私も頭を下げた。控室へ戻って次の騎乗の準備を始めたところで、じわじわと喜びが込み上げてくる。レースが終わった直後はマーチの身体のことばかり気にしていたが、さっきの直線を思い返すと、自然に笑みが浮かんだ。
今まで、たくさんの馬が勝つところを見てきた。厩務員だった頃には担当馬を勝たせてもらったこともある。けれども、自分が手綱を持ち、ゴールまで一緒に走り抜けるのは初めてだった。
まだ一勝。今日の馬が強かったのは確かだし、次に乗る馬で同じようにいく保証もない。それでも、もう一度あの景色を見たいという気持ちは、朝よりずっと強くなっていた。
◇
その夜、競馬新聞の記者が第一レースの原稿を締め切りに回していた。見出しは「新人・河瀬、初騎乗初勝利」。逃げ争いから一歩引いて脚を温存したこと、四コーナーで巧みに進路を確保したことを並べ、記者は取材メモの末尾に書き留めた言葉を短く添えた。
――馬のことを、まず知ってあげられる騎手になりたい。
完成した記事を読み返し、記者は不思議そうに首を傾げた。初勝利を挙げた直後だというのに、自分の手柄を誇るでもなく、馬の様子ばかりを気にしていた少女。勝負の世界に身を置く者らしからぬ欲の薄さに拍子抜けしつつも、既存の騎手像に収まらない妙な引っかかりが残る。深町厩舎は、なんとも変わった子を見つけてきたものだ。
◇
一方、中山の調整ルームにいる私は、机の上に出馬表を広げていた。初勝利の余韻が完全に消えたわけではなかったが、頭の大半は明日乗る馬のことで占められている。少し気難しい気性だと聞いていた。どうやって手綱を運べば機嫌よく走ってくれるだろうかと、前走の様子を思い出しながら考えを巡らせていた。
机に置いた出馬表を閉じ、私はようやく明かりを消した。初騎乗の前夜は寝つくまで随分と掛かったのに、今夜は目を閉じるとすぐに眠ってしまった。
この日の勝利が、私の騎手人生を少しばかり面倒な方向へ導くことになるとは露知らず……。