【てえてえ注意!】ホロライブ怪文書短編集です。 作:夏目陽光
まだ街もネットの海も静まり返った午前4時。目覚まし時計が鳴るよりも前に、カザマ・イロハはパチリと目を覚ます。
「ふぁ……。おっと、のんびりはしていられません。今日も立派な侍になるための修行、開始でござる!」
小さなあくびを一つ、すぐにいつものポニーテールをきゅっと結び直し、彼女のストイックな一日が始まる。それはホロライブのアイドルとしての姿の裏に隠された、秘密結社holoXの用心棒としての過酷なルーティンであった。
冷気。暗黒。白木の桶にたっぷりと張られた水は、まだ明けない夜の闇を映して鏡のように静まり返っている。その前に、白装束に身を包んだカザマが静かに佇んでいた。
意を決して衣服を脱ぎ捨てると、そこには配信での可憐な姿からは想像もつかない、鍛え上げられた本物の「武人の肉体」があった。それは現代的なフィットネスで整えられた、見せるための肉体ではない。戦国・江戸の世を生き抜いた古流のサムライが持つ、実戦本位の身体構造であった。
すらりと伸びた四肢は無駄な贅肉を削ぎ落とされた鉄幹のごとき密度を誇る。衣服の擦れに耐え、強靭な甲冑を支え、一撃で敵の脳天を叩き割るための「広背筋」と「大円筋」が、まるで絡み合う大蛇のように不気味な陰影を描く。小さく引き締まったウエストから繋がる臀部、そして太ももは、骨盤を前傾させ、一瞬の踏み込みで間合いを盗むための強靭なインナーマッスル(腸腰筋)で満ちていた。これは、少女の皮を被った、いつでも人を屠れる野生の豹の機能美である。
「ふぅ……吸って、吐いて……。いざ!」
手桶ですくい上げた冷水が、その緊密な肌へと容赦なく浴びせられる。
バシャーーーン!
「くぅーーーーっ!! づ、冷たいでござる……!」
激しい冷気の衝撃に、カザマの全身の細胞が粟立つ。しかし、彼女は震えない。冷水を浴びた瞬間、防衛本能で内臓を守るように腹直筋が板のごとく強固に硬直、縦に割れた美しい筋肉の筋がカチリと浮き上がった。肌を伝い落ちる水滴が、容赦のない冷気で引き締まった胸元や大腿部の筋肉のラインをなぞり、朝の薄闇の中で研ぎ澄まされた日本刀の刃紋のごとく、妖しく、冷たく輝く。
これは単なる洗浄ではない。冷水の衝撃によって交感神経を限界まで跳ね上げ、脳内にアドレナリンを充満させる「戦時への移行儀式」なのだ。何度も水をかぶるうち、冷たさは心地よい殺気へと変わっていく。赤みを帯びた肌からうっすらと湯気が立ち上り、彼女の瞳に用心棒としての鋭い光が宿った。
それから彼女はゆっくりと息を吐きながら和室へと移動し、畳の上に座禅を組んだ。
夜明け前の濃密な混沌を孕んだ大気が、障子の一枚を隔てて彼女の項をひそかに脅かしている。カザマは瞑目し、己の輪郭が暗闇のなかに融解していくのを拒むかのように、背筋を一本の厳格な理性の如く直立させた。呼気は冷徹な論理の歩みにも似て、吸う息は己の肉体という神殿を充たす至高の純血を呼び戻す。生と死がまだ名付けられぬ混沌として畳の上に沈殿するなか、彼女の精神は、自らの内に秘められた獰猛な若さと、それを統御せんとする鋼の意志との、華麗にして凄惨な結晶へと昇華されてゆく。
この深層意識の奈落において、冷酷なるイメージの殺戮空間が今、幕を開けたのだ!
彼女の脳裏に顕現せしは、実体を持たぬ仮想敵……暗黒サムライ。
しかし、これはただのチャンバラではない。幕末の京都をも震撼させた、初太刀の絶対的な破壊力に全てを賭ける実戦剣術――脳内イマジナリー薩摩藩流(ジゲン流)のセッションなのだ!
対峙する二人の間に、無駄な駆け引きや様式美などは存在せぬ。「二の太刀要らず」と謳われる一撃必殺の精神が、カザマの五感を限界まで研ぎ澄まさせる。
互いの視線が交錯する。戦闘前のアイサツは絶対の作法だ。古事記にもそう書かれている。
「ドーモ、カザマ・イロハ=サン。暗黒サムライです」
「ドーモ、暗黒サムライ=サン。カザマ・イロハです」
アイサツが終了した直後!
「チェストーーーッ!」
カザマが裂帛の気合いとともに動いた! 刀を右肩の横に垂直に立てる特異な構え「八相(蜻蛉の型)」から、大地を踏みしめる轟音とともに突進! 狙うは相手の防御ごと脳天を叩き割る、神速の真っ向唐竹割りだ!
「イヤーッ!」
対する暗黒サムライは恐怖に目を見張りながらも、辛うじてその凶刃を刀で受け流そうとする!
これぞ実戦剣術の最短距離を通る、無慈悲なまでに直線的な刃筋!
「グワーーーッ!」
ナムアミダブツ! なんたる怪力、なんたる圧壊か! 刀での受け流しなど完全に無意味! カザマの放った初太刀は、暗黒サムライの防御ごと、その胸中を深く、深く一刀両断に粉砕していた! だが、敵もただでは死なぬ! 暗黒サムライは苦悶に喘ぎながらも、最期の力を振り絞り、刺し違えの低い突きを放つ!
「イヤーッ!」
「ふんっ!」
カザマは冷静であった。彼女は踏み込んだ右足を軸に、コマめいた速度で身体を鋭くサイド・スピン! 突き出された敵の刃を、紙一重のカタセツで回避! そのまま体幹の回転力を殺さず、流れるような動作で『翠風』を再び「蜻蛉」の位置へと引き絞る!
「チェストーーーッ!」
「サヨナラ!」
間髪入れずに放たれた二の太刀が、暗黒サムライの首幹へと容赦なく叩き込まれる!
暗黒サムライは爆発四散! 脳内イメージであろうともインガオホー、サツバツ・ナイトメアの幻影は文字通り粉々に吹き飛ぶ運命にあるのだ! おお、見よ! カザマの衣服には、滴る敵の返り血すら一滴も付着していない! これぞ、ノーブレード・ノーサムライ。刃を持たぬ者に、侍の明日はないのだ! カチャリ。ワザマエ!
(……ふぅ。吸う息、吐く息に集中でござる……)
現実の和室。座禅を組むカザマの額から、タラリと一筋の汗が流れる。彼女の肉体はピクリとも動いていない。しかし、その内なる戦闘精神は、完全に限界を超えて研ぎ澄まされていた。
まさにその時である。障子の隙間から、モフモフとした謎の未確認生物、すなわちカザマの相棒たる『ぽこべぇ』が、寝ぼけ眼で部屋へと這い入ってきた。
「ぽこ……?」
何も知らぬぽこべぇは、いつものようにカザマの膝へ飛び乗ろうと、無邪気にその足元へと擦り寄る。
だが、今のカザマは脳内サツバツ・バトルの残光をその身に纏う、歩く大量破壊兵器! 意識が現実へと帰還するその刹那、残存していた獰猛な殺気が、無意識のうちに全方位へと文字通り爆発放散されたのだ!
ドゴォォォン!
見えざる覇気の波動が和室を震わせる! 直撃。なんたる無慈悲な殺意の奔流か!
「ぽ、ぽこ反乱……ッ!?」
ぽこべぇの全感覚器官が「即座の死」を検知した。あまりの恐るべき精神的重圧に耐えかね、ぽこべぇは白目を剥き、短い手足をピーンと硬直させたまま、畳の上へとコテンと横倒しに卒倒した! ナムアミダブツ!
「……はっ!?」
ぽこべぇが倒れる微かな音で、カザマは完全に覚醒した。凄まじい殺気は霧散し、いつもの澄んだ瞳に戻る。足元を見れば、ピクリとも動かぬ愛すべきモフモフの姿。
「ぽ、ぽこべぇーーーッ!? しっかりするでござる! 拙者です、拙者でござるよーーーッ!」
慌てて抱き起こし、激しく揺さぶる。やがて「ぽこ……」と小さく正気を取り戻した相棒を懐に抱え、カザマは冷や汗を拭った。昨日配信でやらかしたポンコツな場面を思い出すよりも早く、現実の不祥事を起こすところであった。危うし、ぽこべぇ!
「ごめんでござる、驚かせてしまって……もう大丈夫ですからね」と、少しバツの悪そうな顔でぽこべぇの頭を撫でて宥めつつも、彼女の血はすでに修行の熱量で滾り始めていた。時計の針が5時半を回る頃、カザマはゆっくりと立ち上がり、静の修行から一転して動の修行へと意識を切り替える。
「よし、心は整いました! 次は体でござる!」
ぽこべぇを安全な座布団の上へと避難させ、道着の袖をまくり上げ幕を開けると、彼女はそのままの勢いで庭へと飛び出した。ここからは剥き出しの肉体破壊セッションである。
まずは自重トレーニング。3Dの地平で見せる、あの軸の全くブレない美しい腕立て伏せだ。顎が地面につく寸前まで深く、しかし体幹は一本の鋼鉄の槍のごとく直線を維持したまま、超高速でピストン運動を繰り返す。
「ふんっ! はっ! funっ! はっ!」
100回、200回……回数を重ねるごとに、先ほど行水で露わになった機能美あふれる古流の筋肉が、一回ごとに恐るべき躍動を見せる。額からは大粒の汗が流れ落ち、地面を濡らす。
続いて、腹筋。通常の方法ではない。自らの脚を空中に固定し、V字を維持したまま文字通り「腹筋の力だけで」上半身を爆発的に折り曲げる。1回ごとに「フッ!」「フッ!」と短い呼気が爆音じみて吐き出される。すでにその限界領域において、配信時のあのふわふわとした「ござる口調」は完全に消失していた。
「……ッ、んの、野郎……ッ!」
出た! 限界を迎えたカザマが、ガチの筋トレ配信や耐久動画でふと漏らす、あの低音の、ガチのトーンの呟きである! 普段の清楚なアイドル像を自ら破壊するほどの負荷が、彼女の美しい大腿四頭筋と腹直筋を極限まで苛め抜く!
だが彼女の目は死んでいない。むしろ、総帥を、秘密結社を、工程を、そして何より己の掲げる武士道を全うせんとする狂気的なまでの意志が、その瞳の奥でギラギラと狂暴に燃え盛っていた。
「まだまだぁ! これくらいでへばっていては、総帥やみんなを守る用心棒は務まり地獄なんだよぉーーーッ!」
限界の脳内で「務まりませぬ」と「地獄」が混ざり合い、ガチギレ気味の叫びとなって虚空に響き渡る。仕上げの空気椅子へと移行したカザマの足は、怒張した血管とともに激しく震えているが、その腰の位置は1ミリたりとも上下しない。なんたる超人的体幹のホールド力か! ワザマエ!
午前6時30分。すべてのメニューを終え、大の字になって庭の芝生に寝転ぶカザマ. 空はすっかり綺麗な青空に変わっていた。
しばらくの間、ただ荒い呼吸の音だけが庭に響く。カザマは自分の荒れ狂う心拍数を感じながら、じわじわと現実の感覚を取り戻していった。
(……あ、危うかったでござる。拙者、またしても配信でもないのに『んの野郎』などと……総帥やみんなに聞かれたら、今度こそ大目玉を食らうところでござるよ……)
じわじわと押し寄せる羞恥心と自己嫌悪。彼女は顔を真っ赤に染め、両手で顔を覆ってゴロゴロと芝生の上を転がった。
「はぁー……終わったでござる……。今日もいい修行ができたでござるなぁ」
ようやくいつものトーンで呟き、起き上がる。見れば、縁側からぽこべぇがまだ少し怯えた目で、しかし心配そうにこちらを窺っている。カザマは「もう変な声は出さないでござるよ」と言い訳するように、へらりと苦笑いを浮かべた。
お腹がグゥゥゥと大きな音を立てる。先ほどの狂暴なまでの武人は完全に鳴りを潜め、一瞬でいつもの、ちょっとポンコツで愛らしい「風間いろは」へと戻っていく。
「ふふ、お腹ペコペコです。さて! シャワーを浴びて、美味しい朝ごはんをぽこべぇと一緒に食べたら、今日も元気に配信の準備でござる!」
ハキハキとした笑顔で立ち上がった彼女は、また一歩、最強の侍へと近づいたのだった。