【てえてえ注意!】ホロライブ怪文書短編集です。 作:夏目陽光
「ふにゃ〜……。やっと、今日の配信もぉ、終わったぞぉ……。みんなもぉ、お疲れ様でしたぁ……っ、んふふ」
配信環境の電源を落とし、百鬼あやめは椅子の背もたれに、んぐ、と体重を預けた。
モニターの光が消えた部屋は、一気に深夜の静寂に包まれる。冷房の風が、汗ばんだ首元をかすめていった。
立ち上がろうとして、足をもつれさせて一瞬よろける。
「おっとっと……」と呟くと、背負った大刀の重みが肩にずしりと返ってきた。人間様たちと過ごしたお祭りのような時間の余韻を頭の片隅に残しながら、パタパタと素足でベッドへと向かった。
シーツの真ん中には、白い長毛の塊が埋まっている。愛猫のジル助だ。
あやめはベッドのへりにどさりと倒れ込み、スマホを握ったまま、その不機嫌そうな寝顔を覗き込んだ。
「……ジル助ぇ? おまたせぇ……。……ん? 寂しかったぁ……?」
ちょっと鼻にかかった、とびきりゆったりとした声で語りかける。
だが、ジルはピクリと耳の後ろを動かしただけだった。薄目を開けてこちらを忌々しそうに見つめると、ふいっと長毛のなかに鼻先をうずめて寝直してしまう。
「あ、あれぇ……? ジル助さん……? 余が戻ってきたんだぞー? おーい、きいてるぅ……?」
めげずに身を乗り出し、シーツの上を這うようにして、横向きのままじりじりと距離を詰めていく。
指先でフワフワの脇腹をつんつんと突っつくと、ジルは「フンスッ」と重い鼻息を漏らし、完全に背を向けるようにしてコロンと寝返りを打った。
「うう〜……つれないなぁ……。配信中、ぜったい寂しかったはずなのに、ねぇ? なんでぇ……?」
さっきまでの配信の勢いはどこへやら、今のあやめは完全に、猫の塩対応に振り回されて限界化している。
だが、ここで引き下がるわけにはいかない。
あやめはニヤリと悪戯っぽく笑うと、和服の袖をガサガサとまくり上げ、ジルの胴体を両手で包み込むようにホールドした。狙うは、至高の癒やしである。
「よし、ジルのもふもふ成分を吸うぞぉ。すー、はー、すーーー……っ」
幸せそうに目を閉じ、真っ白な腹毛へと顔を埋めようとした、まさにその時だった。
「ふぎゃっ!?」
ジルの短い悲鳴と同時に、目の前が真っ暗になる。
肉球の柔らかい感触――ではなく、容赦のない4本の後ろ足が、あやめの顔面を力任せに押し返してきた。猫特有の、液体のようにぐにゃりと曲がる柔軟さで、お嬢の拘束を完全に無効化していく。
「うぐっ!? じ、ジル助……顔、かおっ……! 突っ張らないでぇ……っ」
「にゃあーーーんっ!!」
渾身の力で腕からすり抜けたジルは、ベッドのシーツを蹴り飛ばす勢いで大ジャンプを決め、そのまま開いたままのドアの向こうへと猛ダッシュで消えていった。
「あ、待ってぇー! ジル助ぇーーー!!」
ベッドの上に一人残され、呆然と暗い廊下を見つめる。
自分の完敗を悟ると、ぽすんと枕に顔を埋めた。
「ひゃははははは! 逃げ足早すぎじゃんかぁ! もう〜……っ、ひゃははは!」
ひとしきりベッドの上でのたうち回って笑い転げたあと、ふぅと満足げに息をつく。吸うことこそ失敗したけれど、手のひらに残ったジルのフワフワな温もりだけで、胸の奥がじんわりと満たされていくのが分かった。
……と同時に、急激なアラートが胃袋から鳴り響く。
時計の針はとうに深夜を回っている。けれど、一度火がついた食欲は止められない。
あやめはベッドの上でゴロゴロと寝返りを打ちながら、頭の中で夜食のラインナップを爆速で品定めし始めた。
「う〜ん、今からとんこつラーメン食べたら、またマネージャーさんに怒られるかなぁ……。……ん? でも、高菜とニンニク入れたら絶対に美味しいしなぁ。……よし、食べちゃお! んふふ」
悪魔の誘惑に身を委ね、おやつとストックが詰まった棚へ向こうと部屋を出る。
その瞬間、廊下の暗がりのなかで、緑色の瞳がふたつ、じっとこちらを凝視しているのが見えた。
お嬢の「獲物を狙う目」を敏感に察知したジルが、再び身構える。
「あ!!! ジル助、そこにいたなぁー!? ラーメンの前に、やっぱりもう一回吸わせろぉ〜〜〜っ!!」
「しゃーっ!?」
深夜の廊下に、ドタバタと賑やかな足音が響き渡る。
ラーメンのこともマネージャーの小言もすべて頭から消し飛んだあやめは、両腕を大きく広げたまま、夜の闇へと滑り込んでいく白い毛玉を全力で追いかけた。
「待てぇー! 待つんだぞぉーーー! ジル〜〜〜っっっ!!!」
キッチンまで逃げ込んだジルは、冷蔵庫の隙間に隠れて完全に防衛体制に入っていた。
あやめは一歩手前で足を止め、ふと思いついて、その隣にある棚の引き出しをカサリと開けた。取り出したのは、赤くて細長パッケージ。
わざとらしくビニールをカサカサと鳴らして見せる。
「ジル助ぇ〜? ほーら、ちゅーるだぞぉ〜……?」
すると、冷蔵庫の陰からすっと白い耳が立ち上がった。一秒前までの警戒心はどこへやら、ジルは音もなく隙間から這い出てくると、お嬢の足元へすり寄って「にゃ〜ん」と甘い声をあげる。
床に膝をつき、ちゅーるの封を切るあやめ。ジルの緑色の瞳がその手元に釘付けになったのを見て、お嬢のなかの悪戯心がピクッと頭をもたげた。
「はい、どーぞっ」
差し出したのは、ちゅーるではなく、ちゅーるのペーストをちょこんと先端につけた、あやめ自身のひとさし指だった。
一瞬の匂いに釣られたジルは、疑うこともなくその指先をパクリと小さな口で咥え込む。
「んふふふ!」
作戦成功に、お嬢の肩が小さく揺れる。温かくて湿った口内の感触。
だが、次の瞬間、ジルはそれがちゅーるの本体ではなく、ただの「騙しパーツ」であることに気がついた。
「にゃ、にゃあ……っ」
ジルはあからさまに嫌そうな顔をして、ハッと口を開けて指を吐き出すと、お嬢の爪のあたりをペシッと小さな前足で叩いた。完全に「何してくれてんだ」というプロの抗議の目だ。
「ひゃはははは! 騙されたぁ〜! ジル助、お口がちゅーるの形になってたぞぉ! ひゃははははは、ケラケラケラ! ほんとにぇ……っ、おなか痛いっ!」
深夜のキッチンに、お嬢の脳を溶かすような高い笑い声が果てしなく響き渡る。一人でツボに入ってしばらく息が苦しそうだったが、怒り心頭で今にもまた逃げ出しそうなジルを見て、あやめは慌てて「ごめんごめん!」と手を振った。
「もー、怒るなってぇ、んふふ。今度こそ本当にあげるからさぁ」
ペーストを少しだけ押し出して、今度こそジルの口元へ差し出す。
ジルはフンスと不満げに鼻を鳴らしつつも、背に腹は変えられないとばかりに夢中でペロペロと舐め始めた。
小さな舌が動くたびに、フニフニとした温かい額が、お嬢の手のひらにぴったりと押し当てられる。
この小さな頭のなかに詰まった我が儘なマイペースさも、部屋中を舞う白い抜け毛も、さっきお嬢の顔を狙った生意気な肉球も、そのすべてが愛おしい。猫という、理不尽で完璧な生き物を手のひらで感じながら、あやめは「あ〜、もう本当に可愛いなぁ……」と、胸の奥からじゅわっと溢れる幸福感にただただ身を委ねていた。
「美味しい? よかったなぁ。……んふふ、やっぱりジル助は最高じゃん」
夢中で貪るジルの背中を、お嬢はここぞとばかりに優しく撫でさする。長毛の極上の柔らかさが指先をすり抜けていく。
悪戯の楽しさと、愛おしい温もり。深夜の静かなキッチンで、二人の間にはいつもの穏やかで、少し騒がしい時間が流れていた。
「よし、ジル助も満足したみたいだし、次は余のラーメンの時間だな!」
最後のひと舐めを終えて、満足げに毛繕いを始めたジルを見つめながら、あやめは夜食のお湯を沸かすべく、嬉そうに立ち上がった。
やがてシュンシュンと小気味よい音を立ててケトルがお湯の沸騰を知らせる。カップ麺の蓋を開け、かやくと粉末スープを落とそうとして――粉末スープの袋を破るのに少し手こずり、勢い余って中身を少しだけキッチンの床にこぼしてしまった。
「あ、あっちゃー……ぽんこつ出たぁ……」と一人でボソリと呟き、ケラケラと笑いながら軽く拭き取る。気を取り直して、熱湯を注ぎ入れた。
蓋の上に箸を乗せ、待ち時間は三分。あやめはキッチンのカウンターに腰掛け、ご機嫌に小さく足を揺らしながら、おっとりとしたハミングを漏らし始めた。
「〜〜♪ 舞い踊るぅ、花吹雪ぃ、にぃ……♪」
お気に入りの自分のメロディ。鼻にかかった高くて心地よい歌声が、深夜の誰もいないキッチンへと、とろけるように響いていく。
ラストのサビを口ずさむ頃、電子タイマーがピピピと小気味よく鳴った。蓋を開ければ、ニンニクの効いた濃厚なとんこつの香りが、湯気とともに一気に広がる。
いつの間にか足元まで戻ってきて、おねだりするように見上げてくるジルを薄目で見下ろし、あやめは箸を割りながら、最高に幸せそうな笑みを浮かべた。
「んふふ、お待たせなのじゃ。余の夜食、かんせーい!」