『デーモンを殺す者』の帰還 ~SAO・偽伝~ 作:ネイキッド無駄八
懐かしい夢を、見た気がする。
――初めてあの神殿に喚ばれた日。
――打ち捨てられた鉱山の頂で見た夕焼け。目を焼くような溶岩の赤。竜の神。
――監獄と化した象牙の塔。女王の偶像。狂気の翁。
――腐りきった谷。底なしの毒沼。最も尊き聖女。
――打ち捨てられた祭祀場。彷徨う骸骨。嵐の顕現。
――三柱の英雄。刃を向けざるを得なかった友。王の似姿。
――――古き獣―――――
ああ、誰かが呼んでいる。
この身を呼ぶ声が、聞こえる。
できればこのまま、永遠に微睡んでいたい。
だけどその声は暖かくて。
この微睡みよりも、ずっと恋しくて。
だから、目覚めなければならない。
この懐かしき夢から、目覚めなければならない。
そう、我が身は御身のためだけに。
あなただけの、ためだけに。
――――――――――
『Welcome to Sword Art Online!』
まず目に入ったのは、抜けるような青空。
次に感じたのは、頬を撫でるそよ風。
最後に手に触れたのは、青々と茂る草原。
浮遊城アインクラッド、第1層・はじまりの街・西フィールド。
広がる草原の片隅で、ひとりの男が目を覚ました。
身の丈おおよそ1mと80の後半と、かなりの長身の持ち主である。
無駄なく鍛え上げられた肉体は筋骨逞しく引き締まっており、戦場に身を置く兵士のそれを彷彿とさせる。
年の頃は判然とせず、若いようにも老いさらばえているようにも見える。
その理由は男の顔立ちにあった。
彫りの深い横顔にはこれまでいったいどんな人生を送ってきたのだろうか、重く苦しい痛みと憂愁が深く刻み込まれており、尋常ならざる超然たる雰囲気――それはまるで、人間ではないもっと別の『ナニカ』であるかのような――を漂わせている。
どちらかと強いて言えば、老成しているように見える比率の方が高い容貌だろう。
今はその相貌を眠りから覚めた直後の浅い微睡みによって、眠たげなどこか茫洋としたものとさせていた。
大の字の姿勢で仰向けに寝そべっていた彼は、しばらくの間そのままぼんやりと空を眺めていた。
やがて意識がはっきりしてきたのか、はたまた空模様を見続けるのに飽きたのか。男はのそりと上体を起こして辺りを見回し始めた。
左手、遠くの方で何人かの人間が手に手に刀剣を携え、己が得物を振り回してみては何が面白いのか声を立ててはしゃいでいる。
右手、これまた遠くの方で二人の男がイノシシと向き合っており、赤毛の男がイノシシに体当たりをかまされ盛大に吹っ飛ばされていた。
そこまで見て後ろを振り返った男の視界には、ひとりの女性の姿があった。
「お目覚めになりましたか? デーモンを殺す方」
真っ黒。
第一にその女を見て受ける印象を、大半の人間が間違いなくそう答えるだろう。
全身にはまるでそのようなデザインの服を着ているかのように、隙間なく黒い布をまきつけており、ぼさぼさで手入れもしていないであろう黒髪は短めのボブカット気味で、長い後ろ髪は無造作に三つ編みで結えられている。
手には長い灯火杖を捧げ持っており、纏った黒衣も相まって、後ろ暗き魔導の徒である『魔女』のような印象に拍車をかける。
その顔の上半分。
黒い蝋のようなもので、彼女の目元は無惨に潰されていた。
靴の類を履いていない素足の所以は、光を拝することが叶わないであろうその眼のためか。
異形な風体の真っ黒なその女性―――『黒衣の火防女』の姿を見とめた男は、刹那、なんとも形容しがたい複雑な表情を浮かべた。
嬉しいような、悲しいような。
笑っているかのような、泣き出す寸前のような。
再会を懐かしむかのような、二度と逢いたくなかったかのような。
抑えきれない恋慕の情か、荒れ狂う殺意の念か。
男の表情が見えない火防女は返答が返ってこないことに対し、不思議そうに首を傾げている。
「デーモンを殺す方、どこか良くないのですか? もしかしたら、召喚の仕方が悪かったのかもしれません。よろしければ、具合を診させて………」
「ああ、いや、結構。オレは極めて健常そのものだ。問題ない」
慌てて返事をした男の貌からは先ほどまでの凄惨な表情は既に消えており、元の巌の如きそれに戻っていた。
「ああ、よかった……あなたの身になにかあったら、どうしようかと……」
余計な心労をかけまいと発された男の声を聞いた彼女は、ほっとしたように顔を綻ばせた。
目元が潰されてしまっている彼女の顔は、ともすれば『醜悪』とそう捉えられても仕方が無いかもしれないほどに残酷な様相である。
そんな彼女に、男はただ慈しむように静かに肩に手を置くだけだった。
男の瞳に浮かぶ感情の色には、怪物じみた容貌に対する嫌悪など微塵も存在しなかった。
隠し様も無い思慕と、それと同等の深い哀れみの色。
あえて表現するなら、そんな思いが湛えられた視線。
「なんにもないさ……オレのことなんか、心配いらないよ……」
男は、独り言のようにそう静かに呟くのみだった。
――――――――――
「さて、大事なことを聞かなきゃならん。火防女(メイデン)?」
彼の他には誰も呼ぶことのない変わった呼び方をして、男は火防女に改まった様子で尋ねた。
「はい、なんでしょうか」
「まずひとつ目。この世界は、なんだ?」
それは彼が意識を得てからこっち、ずっと気に掛かり続けていたことだった。
彼がかつて身を置いていた世界と、今立っているこことでは、何もかもがまるで違うのだ。
穏やかな陽の光も、伸びやかな青空も、頬をくすぐる風も、生い茂る植物も。
何もかもが生き生きとして、何もかもが平和そのもので。
遍くすべてが荒廃しきって終わりきっていたあの世界とは、何もかもが違いすぎている。
男の問いに、火防女は極めて簡潔に答えを返した。
「浮遊城アインクラッド、です」
「………ふむ?」
質問の仕方が悪かったか、と問い直そうとした直後に火防女は話の接穂を繋げた。
「そう名付けられた世界のようです。具体的なことは私にも分かりません。少なくとも言えるのは、ここはボーレタリアとは全く異なる世界ということです」
「まぁ、そうだろうな。この世界は何というか、かなり元気な世界だ。あっちほど枯れ果ててはいない」
「付け加えるならば、この世界にはソウルが存在しないようです」
火防女の口から出た一言に、男は目を剥いて驚きを露わにした。
「ソウルが存在しない? そんなことが有り得るのか?」
「考え難いことですが、事実のようです。わたしの呼びかけにソウルが応じる気配が無いのです」
「ふむ……言われてみれば、たしかに感じないな。根こそぎ食い尽くされた……というのとは違う。これはやはり、元から存在しないと言ったほうが適切か」
『ソウル』
それは『魂』の力であり、『世界を認識する』力。
生きとし生けるもの全てに備わっているそれは、使役する者に強大な力をもたらす存在。
されど、一度ソウルに魅入られた者はその力への誘惑に逆らうこと能わずソウルの奴隷と化す。
また、ソウルを奪われた者は世界を認識できなくなり、ソウルを無差別に他者から貪るだけの畜生へと成り下がってしまう。
男が火防女の発言に驚いた理由、それはソウルを本来内包しているはずの人間がたしかにそこかしこに存在しているにも関わらず、ソウルが全く感じられないということだった。
そんなことは本来起こりえない。生きて思考を持っている人間である以上、ソウルを備えていないわけがないのだ。そんな人間が仮に存在するとすれば、それはもはや『人間』とは呼べない別の何かだ。
バリバリと頭を掻き回してしばらく唸っていた男は、不意に顔を上げて火防女を見つめた。なにかまた、妙な発見をしたような様子で彼は意気込んで尋ねる。
「待ってくれ。それじゃ、どうやってオレをこの世界に呼んだんだ? オレをここに呼んだのはおそらくあんたなんだろう、メイデン」
「はい、おっしゃるとおりです。わたしが、あなたを引き上げました」
「ソウルが使えないというのに、いったいどうやって?」
彼が抱えた違和感はそれだった。
黒衣の火防女は、魂の力そのものであり異形の力である『ソウル』の業を操ることができる存在である。
それもソウルの中でも異形中の異形、『デーモン』のソウルを自在に操ることが可能な、彼の知る唯一の存在だ。
そんな彼女の業によって男は幾度となく助けられてきた。
以前にも似たような経験をした身から言うと、魂の引き上げ、『召喚』は事実上実行可能な現象だ。
彼はたしかにその魂を火防女により掬い上げられ、あの『神殿』に繋ぎ留められていたのだから。
しかしそれも、ソウルの業ありきの芸当だったはずである。
ソウルが存在しないというこの世界で、全体どんな方法を用いたのか。
その疑問に、わずかなはにかみと共に火防女は答えを返した。
「わたしの中のソウルを使いました。あなたほどの方を引き上げるのには尋常ならざる量が必要でしたが、なんとかやり遂げることができました。本当に、成功して良かった」
「なっ………!?」
絶句。
なんでもないことのようにあっさりと告げられた事実に対し、男は返す言葉が見つからなかった。
そして気づいた。
平常でさえ精気に乏しい彼女の顔は、今やさらに血色が失われてまるで死人さながらなまでに衰弱の相を見せていたことを。
彼女は本来、ソウルを自在に操るその能力に見合った途方もなく強大なソウルの持ち主なのである。
裏を返せばそれは、誰よりもソウルへの依存度が高いということでもある。
平常ならば世界の所々に点在している――例えば、大気、水、土、そんな森羅万象に――ソウルを使って術を行うのが常道なのだ。それを全て自前のソウルのみ で行ったというのだ。いくら強大なソウルの持ち主であるとはいえ、彼女が負ったであろうリスクは、はたしていかほどのものであったのだろうか。
「なんてことを………」
ようやくそれだけ搾り出した男を前に、火防女はあくまでも真摯に答えるのみだった。
「これはわたしの使命なのです。あなたが気にすることは何もありません。私は、大丈夫ですから」
「嘘を言え。どう見ても辛そうじゃないか。いったいどれくらいソウルを使ってしまったんだ?」
「少なくとも、まだ存在を繋ぎ留めていられるだけの力は残っています。ただ、これ以上のソウルの行使は難しいでしょう。力になれなくて、申し訳ありません……」
「悠長なことを言ってる場合か! それに、この先どうするつもりだ? この世界にソウルが無い以上、消滅は時間の問題だろう! クソッ……どうしてこんな……」
苛立ちまぎれに悪態をついたものの、現状、男にはどうすることもできそうになかった。
己のソウルを分け与えれば、という考えも頭をよぎったが、それもその場凌ぎにしかなり得ないだろう。
それに、目の前の彼女がそれを受け入れてくれるとは到底思えない。
彼女にとっては、己の使命に殉じることだけが存在理由なのだ。
その前では万象一切、例え己の命でさえも、彼女は一顧だにしないのだ。
使命のためなら己が身を犠牲にすることすら露とも思わない彼女に、助けられるだけ助けられて何一つ報いることが出来ない。
そんな自分が、男は腹立たしくてならなかった。
「使命使命って……オレにそこまでする価値なんぞ、ないだろうに……オレなんぞ引き揚げる意味が……」
言いさして、彼は唐突にあることを思い出した。
それは彼が火防女に聞こうとしていた、ふたつめの質問。
「なぁ、メイデン。オレを呼んだのがあんただというのは、たしかなんだな?」
「それは先ほどから申し上げているとおりですが」
「じゃあ、そういうあんたはいったいどこから来た? オレより先にこの世界に存在していたあんたをここに呼んだのはいったい……!」
しかし男はその台詞を、最後まで言い切ることが叶わなかった。
リンゴーン、リンゴーン。
詰問する男の声は、唐突な大音によって中途でかき消されてしまったのだ。
「……なんだこの音? いったいどこから……?」
周囲を窺った男は、どうやら音はずいぶんと遠くから聞こえてくるらしいということ、にも関わらずその音はまるで直接頭の中で再生されているかのように力強く響いてくるということが分かった。
やがて男は、音の正体に気づいた。
「これは、鐘……?」
男の目にとまったもの、それは遠くに小さく見えた鐘楼だった。
男が今いる草原からかなりの距離の座標に、ひとつの巨大な街が浮かんでいたのだ。
そう、その街はどういう仕掛けか『宙空に』浮遊していた。
目を疑うような光景に男の脳裏で、浮遊城アインクラッド、という火防女の先の言葉がフラッシュバックする。
彼方に見えるその街の中心部には鐘楼が存在しており、今まさにそれが鳴動しているのだ。
覗いていた『真鍮の遠眼鏡』を懐にしまい込みながら、男は意識せぬまま徐々にその顔を歪めていた。
リンゴーン、リンゴーン。
世界中に響いているかの如き遠雷のような鐘の音は、まるで頭の中に直接働きかけるように五月蝿く脳を揺さぶる。ただの鐘の音などではないことは明白だった。
耳を塞ごうとして、果たしてその行動にどれほどの意味があるものかなどと考えていた男は、不意に暖かい感触を掌に覚えた。
「デーモンを殺す方、気をつけてください。なんらかの術が為されているようです」
火防女の他意の無い態度に、男は一瞬跳ね上がった己の鼓動に呆れていた。
何を期待しているというのだ、お前にそんな機会が巡ってくるものか。
火防女の手を握り返し、男は気を引き締めて警戒に努めた。
「術、か。あんたがそう言うくらいなんだ、よっぽど大したモノらしいな」
「規模で言うならば、世界を覆い尽くすほどです。これほど大掛かりな術は、わたそでも難しいでしょう。相当な高位者の御業です」
「あんたをも上回る? そんな存在、いよいよもって信じがたいが」
それこそ『神』くらいなものだろう。
神、と引き合いに出してみて、その響きのくだらなさに男は自嘲するような笑みを浮かべた。
男の世界にも、『神』と呼ばれる存在は居た。
居た、という表現が適切かどうかは置いておくがとにかく人々が崇め奉っていた『神』という存在は、ひどく懐疑的なものだった。
男の周りにもかの存在への熱心な信者が居たが、彼らの信仰心を男は心の中では笑っていたのだった。
特に、その存在にまつわる極めて馬鹿らしい『真実』を目の当たりにしてからは、男には彼らがなお一層滑稽に、哀れに思えた。盲目な信仰は、どんな意味であれそれだけで救い足り得るのだと、見下して分かったようなことを宣った過去の自分に男は失笑を禁じ得なかった。
誰よりも盲目だったのは、どこのどいつだ、と。
「どうやらこの世界の神様は、ちゃんと仕事をする奴らしい。で、どんな術なんだ?」
「転移の法のようです。行き先は、おそらく……」
火防女の応答は最後まで続かなかった。
本当は続いていたのかもしれないが、男にはそれを耳にすることも、その必要もなかった。
リンゴーン、リンゴーン。
今や割れんばかりの響きで最高潮に達した鐘の音が、ついに男の視界をも揺さぶり始めた。
ホワイトアウトしていく視界の端に、己の手を握る黒衣を見ながら男の意識は鐘の音の彼方に漂白されていった。
――――――――――――
「どうなってるの?」
「分からない」
「強制テレポート…?」
まず最初に聞こえてきたのは、そんなざわめき。
耳に続いて利いてきた男の視界には、人がぎっしりひしめく人混みが広がっていた。
男が立っていたのは、石畳が敷き詰められた巨大な広場。
その広大な空間に入れるだけ人を入れたような人口密度に、男は軽くめまいを覚えるようだった。
(こんなに大量の人を見たのは、いつぶりだろうな……)
ひとりごちる男の周囲では、しかし人垣は男を避けるようなやや離れた位置で取り巻きを為していた。
恐ろしげな風貌の巨漢と、顔を醜く潰した黒衣の女の取り合わせに人々は皆一様に得体の知れなさを感じていたのだろう。男が首を巡らせると、ひっと笛の音の ような息と共に視線を逸らす者、気味悪げな様子で露骨に帯びている得物に手を伸ばす者、反応は様々だったが友好的でないことだけは共通していた。
息をひとつ吐いた後、男は状況の把握に努めた。
転移の術の行き先はここ、鐘楼のあった浮遊都市の中枢部であるらしい。
世界規模という火防女の証言に違わず、かなりの面積があるこの広場を埋め尽くさんばかりの人数が転移の対象だったようだ。
男の後にもちらほらと幾人かが転移の光と共に広場に現れ、鐘の音は徐々におさまっていった。
改めて見てみれば、凄まじいまでの人数だ。
軽く千は超えるだろう、下手をすれば一万は居るのかもしれない。とにかく掻き集められるだけ掻き集めて広場に詰め込んだ、という印象を男は受けた。まず間違いなく、何者かの明確な意図による所業だ。
集められた人間に共通しているのは、皆一様に武器を帯びていること。
どうやら戦士を生業としている者たちを狙って転移させたらしい。
(戦士を集めた…か。どっかの要人(かなめびと)を彷彿とさせるな)
記憶を浚って過去に出会ったとある人物のことを思い返しながら、男は胡散臭い感覚を禁じずにはいられなかった。
ざわつく彼らの様子を見ても、やはり強制的に連行されたのは自分だけでは無いらしいことが分かる。転移という方法を用いた集団拉致、とそう断言していいだろう。
まず間違いなく、まともな用件である筈がない。十中八九そうだ。
あなたには従うほかないのですよ、という要人の不愉快な台詞が木霊するようで、男は気分まで不快になるようだった。
そんな折り、ざわめきの中でひとつの声が上がる。
「おい、上…!」
思考の檻に囚われて俯いていた男は、群衆からやや遅れて天を仰ぎその異変を目の当たりにした。
空が、赤い。
先までの夕焼けとは違う、まるで血のようにべったりとした敵愾心を煽るような紅。
そんな悪趣味な色に、空は一面染まりきっていた。
これまで様々な経験を、それこそありとあらゆる魑魅魍魎と渡り合ってきた経験を持つ男にあっても、眼前の状況にはただただ驚愕するしかなかった。
それは彼を取り巻く群衆にしても同じことだったが、彼が彼らと違ったのは、ただ慄いているだけではないところにあった。
その紅い全天の、その奥に潜む何かに男は勘付いていた。
「何か、来る………!」
そして、空は血を流した。
赤い空の間隙、赤に染まった雲の合間から赤い雫が落涙しはじめたのだ。
紅がどろどろと零れ落ち、どろどろはやがて形を得て空にその身を固定した。
群衆が見上げる中、形を得た”ソレ”は広場に響き渡る声で、彼らに語りかけた。
託宣と啓示と、迷える子羊への導きを込めたその声で、語りかける。
「プレイヤーの諸君。私の世界へ、ようこそ」
空に浮かぶのは、赤外套を纏った巨大な人型。
というよりも、いっそそのまま『巨大な赤外套』と、そう言ってしまってもいいかもしれない。
目深に被られているのであろうそのフードの奥に在るべき筈の顔面は存在せず、虚空がぽっかりと洞を開けるのみだった。長く広がる外套の裾の奥にも、やはり 伸びていて然るべき脚の二本も見えない。主も居ない赤外套が幽鬼の如くに漂っているその光景に、男は不思議と既視感を覚えた。
(主の無い衣。黄色の翁、か……)
「私の名前は茅場晶彦。今やこの世界をコントロールできる、唯一の人間だ」
赤外套の発言に今までとは種類の異なるざわめきが生まれる。
彼らは皆、そのカヤバという名前に心当たりがあるのだろう。
ざわめきの様子を鑑みるに、そこそこ人口に膾炙している人物らしい。
異邦人である自分たちだけがその名前に聞き覚えがないようだった。
「諸君らも既に、メニュー画面からログアウトのボタンが消滅していることには気づいているだろう。しかし、これはゲームの不具合などではない。あくまで、『ソードアート・オンライン』本来の仕様だ」
ところで、男にはずっと気に掛かっている事があった。
それは、群衆の様子。
先程から彼らにはこの異常な状況に対する緊張感、警戒心のようなものがどうも著しく欠けているように見受けられるのだ。
場数を踏んだことによる練達の余裕とは趣が違う。そんな、血の滲む修羅の果ての強さによるものではない。
これは、平和ボケによる無警戒の匂いだ。戦と死と血煙に縁のない、愚かな温室の匂いだ。
「諸君らは、この世界から自発的に抜け出すことはできない。また、外部からのナーヴギアの停止あるいは解除も有り得ない」
彼らは揃って眉目美しく、帯びた得物とは対照的に肉体も頑健さとはほど遠い。
戦士としての風格などまるでない、言うなれば戦士の格好だけの仮装大会だ。
「もしもそれらが試みられた場合、ナーヴギアの信号素子が発する高出力マイクロウェーブが諸君らの脳を焼き、生命活動を……停止させる」
戦士もどきの彼らには、聞こえていないのだろうか。
男の中でうるさいほどに鳴り響いている目の前の事態に対する警鐘が、彼らの中の誰か一人でも聴こえているのだろうか。
カヤバとやらが何を言っているのか、言葉の意味は男には半分も分からない。
だが、カヤバがいったい何を言わんとしているのか、集めた人間たちに何を告げようとしているのかはこの場に居る誰よりも男は直感し、理解していた。
「現時点で213名のプレイヤーが、アインクラッドおよび現実世界から永久退場している。この現状は各メディアが大々的に報道を開始しており、世間並びに関係各位には周知の事実だ。ナーヴギアの強制的な解除の可能性は低くなるだろう。諸君らには、安心してゲームの攻略に臨んで欲しい」
カヤバは、『ゲーム』という言葉を繰り返し用いている。
彼は、ここに集められた人間たちを巻き込んでなんらかの遊戯を始めようとしているのだ。
それも、おそらくただのゲームなどではない。
「しかし、十分に留意してもらいたい。今後、ゲーム内ではあらゆる蘇生手段は機能しない。HPが0(ゼロ)になった瞬間、諸君らのアバターは消滅し―――」
力への妄執に囚われた狂気の老人を思い起こし、そういえば彼もまたこの赤外套と同じように己が囲った世界の支配者を気取っていた、ということも頭をよぎった。
この世界の支配者が、虜囚と化した人間たちに何を課そうとしているのか。
カヤバは、閉じ込めた人間たちに何を下そうとしているのか。
「――諸君らの脳は、ナーヴギアによって破壊される」
静寂が、場を満たした。
もはやざわめきなど欠片も聞こえない。誰もが息を呑み、己が置かれた状況を理解したのだ。
囚人たちに与えられた枷、否、奪われた自由は、己の生命の天秤の重りだったのだ。
「諸君らが解放される条件はただひとつのみ。それはこのゲームのクリアだ。この浮遊城アインクラッドを第一層から百層まで踏破すれば、それでゲームクリアとなる……!」
囚人に負された労役は、血塗られたバベルの塔の登攀。
茨を踏みしめ進む、ゴルゴダの丘への道。
無理だろ。
できっこない。
絶望の息吹が、あちこちで生まれ始める。
「最後に、私から君たちに贈り物をひとつ与えよう。手に取って、確認してくれたまえ」
カヤバの声に、人々が一様に右手を振り下げる動作を行い宙に何かを現出させた。
男もそれに倣い、右手を振り下げてみた。
すると男の眼前には、何やら文字入りの方陣のようなものが浮かび上がった。
勝手が分からずあちこちを弄りまわしていたその時、周囲から驚愕の声が次々と飛び交い始めた。
その驚天の声は、カヤバに告げられたあらゆる台詞よりも何よりも、雄弁に現実を見せつけられた群衆の悲鳴。
見れば人々が次々と光に包まれ、その身を続々と変容させていたのだ。
彼らが手にしていたのは、一枚の手鏡。
その鏡が写し出したのは、彼らの本当の姿。
ある者は身長がずっと縮み。ある者は横幅がぐっと膨らみ。
ある者は人形のように整ったその理想の顔を、醜い本物の顔に変えて。
ある者は、性別すら変わった。女物の服を身につけた男、男同士で睦まじく身体を密着させたカップル。広場に集まった人口比率は、幻想が剥がれる前とはすっかり様相を異にした。年若い女性ばかりだった広場に、もはや女性は数えるほどしか見当たらなかった。
ここに、かりそめの虚飾は剥がされ、真実の光景が広がる。
現実を覆い隠し、プレイヤーたちを守っていたアバターという目隠しはもう存在しない。
彼らは己がこの世界に、現実に、本当に囚われてしまったことを遅まきながらようやく理解しようとしていた。
「諸君らは大いに疑問していることだろう。何故、と。ナーヴギアとソードアート・オンラインを創り出した茅場晶彦は、どうしてこんな真似をしでかしたの か、と。私の目的は既に達成されつつある。この世界を創り出し、鑑賞すること。全ては、このためのプロセス。全ては、このために創られたのだ」
創造主は、今高らかに託宣する。
この世界の開闢を。
『これはゲームであっても、遊びではない』
このゲームの、起動を。
「全ては、達成せしめられし。以上でソードアート・オンライン、正式サービスチュートリアルの一切を終了する。プレイヤー諸君、健闘を…………」
言葉が切れ、赤外套はその身を宙に爆散させた。
それがきっかけだったように紅の空はその色を元の夕焼けの赤、斜陽の光に変じた。
いつしか誰もが口を閉ざし、再び沈黙が場を満たしていた。
始まりは、おそらくひとりの少女の悲鳴。
それが決壊のしるし。
それを皮切りに、広場を悲鳴と怒号と狂騒が覆った。
もう誰が何を叫んでいたのかも定かではない。
誰もが恐慌し、誰もが恐怖していた。
ふざけるな。
ここから出せ。
殺す気かよ。
出してくれよ。
嘘だと言ってくれ。
帰してくれ。
この世界の虜囚となった人々の悲鳴が、茜空に溶けて消えていく。
慟哭と、災厄と、理不尽と、現実。
それが、剣の世界のはじまりの日。
デスゲームの、幕開けだった。
――――その日、剣の世界は始まった――――
黒の剣士は、ひたすらに駆けた。
吼えて、駆けた。
この世界で、生き延びてみせる。
誓いを胸に、誰よりも速く。
閃光は、立ち尽くしていた。
彼女は、気づいてしまったのだ。
自分が踏み外してしまったレールの先、これから落ち行く奈落の冥さに。
投剣使いは、悔いていた。
ゲームであって遊びではないこの世界で、己が犯してしまったどうしようもない選択を。
戦乙女は、歓喜していた。
彼女は見出したのだ。
己の前に拓かれた、唯一無二にして願ってもみなかった最高の戦場を。
それぞれのプレイヤーの思惑の下、運命は動きだす。
ここに、『ソードアート・オンライン』は開始された。
―――――――――――――
それに気づいたのは、おそらく三人。
一人は、ボーレタリアの英雄、『デーモンを殺す者』
一人は、魂の業を手繰る者、『黒の火防女』
そしてもう一人は、この剣の世界の創造主、『茅場晶彦』
現時点では、彼らだけが気づいていた。
この剣の世界が、密かに堕ちゆき始めていることを。
「なっ………!? おい、メイデン! これは……!!」
「ええ。たった今です。今まさに、ここから……」
男と火防女は姿を変じさせるプレイヤーたちの中、その現象に驚きを隠せていなかった。
「ソウルが……! ソウルが、現れた……!?」
つい先程まで全く感知が叶わなかったソウルが、そこかしこで現出し始めていたのだ。
あらゆる者に魂のこもっていないこの世界に、ソウルは存在しないのではなかったのか。
そして、その発生源は、まぎれもなく――
「戦士たち………ここに居る、人間たちからです……」
男の眼前、幻が解けたかのように群衆は、光に包まれて次々と人形のようなその外見を崩れさせていた。
その変遷の光と共に、今まで全く感じられなかったソウルが、人間たちの身体に宿り始めていったのだ。
「どういうことだ……!? どうして急に、それも一斉に……!?」
「彼らは、確かにソウルを備えた人間だった。しかし、彼らの肉体は、おそらくこの世界には存在しないのです。あの赤外套の術によるものか、ここには無い彼らの肉体と魂が、今繋ぎ合わされたのでしょう……」
「なんだと? この世界には無い肉体? では、いったいどこに………ッ!?」
詰問の言葉を、男は続けることが出来なかった。
男は思わず言葉を呑み込んだ。
何かが、来る。
どうしようもない何かが、取り返しのつかない何かが、この世界に現れる。
「そんな……これは……まさか、どうして………」
破滅の凶兆を前に、男は呆然と呟いた。
「デーモンが、この世界に……?」
身も凍るような禍々しいソウル。
吐き気を催すような醜いソウル。
破壊と暴虐と殺戮をもたらす恐ろしいソウル。
信じられない。
信じたくない。
しかしそれは、もはや疑いようもない事実。
終わらせたはずの過去から、それは現れた。
封じたはずの霧の底から、それは這い出てきた。
デーモンが、アインクラッドに現出したのだ。
男の脳裏には、かつての戦いの記憶が走馬灯を巡らせる。
それは、長く、辛く、忌まわしい最悪の記憶。
そして、言葉を失した男の前でそれは責め立てるように続けざまに起こった。
「あ………」
ふらりと、揺らめくように音も立てず。
黒の火防女は、その場に静かに崩れ落ちた。
「お、おい!! しっかりしろ!! 大丈夫か!! おい!!」
どうにか火防女を抱きとめた男の腕の中で、弱々しい声が発せられる。
「すみません……どうやら、限界です。この身を繋ぎ留められるだけのソウルが、もう残っていない、ようです……」
今やもう衰弱の極み、風前の灯の有様で、火防女は心底申し訳なさそうに弱りきった微笑みを浮かべた。
触れれば消えてしまいそうな儚い笑みを前に、男は叫び続ける。
「ふざけるな!! 気をしっかりもて!! 消えるなんて許さんぞ!! あんたに消えられたら、オレはどうすればいい!! 何か、何か手は無いのか!!」
「ソウルを補給する手立てが、もうありません……私のことは、もう……」
「ソウルがあればいいんだろう!? だったら、今まさに目の前に……!!」
喚く男の頬に、暖かさが触れる。
火防女は、静かにかぶりを振った。
「いけません……誓いを、お忘れですか…?」
「…………!!」
「デーモンを殺す方。忘れては、なりません……他者のソウルを、己の欲のために身勝手に使役しないと……ソウルの業に囚われないと、そう誓ったでは、ありませんか……」
「それはそうだが……! そ、そうだ! デーモンが現れている!! デーモンの強大なソウルなら!! デモンズソウルなら!!」
「無理です……間に合いません……デーモンを殺す方、どうか、はやまったことはなさらないでください……」
「しかし……! しかし……ッ!!」
「どうか、誇りを捨てないでください…気高く、あってください……そして、どうか…この世界の…人々を……」
「……ちくしょう……ちくしょう……! ちく、しょう……!!」
男はその巌の如き表情を、どうしようもない苦痛に歪めて打ちひしがれていた。
男は、恐ろしかった。耐えられなかった。
また、こんな思いをするのか。
また、自分は助けられないのか。
また、自分は、彼女を――――――
――――否。
もう二度と。
もう二度と、あんなことは、御免だ。
もう二度と、繰り返して、なるものか。
もう二度と。
そう、誓ったではないか。
「………があああッ!!!!!! ああああああああああああああ!!!!!!!!!」
突如、男は天を衝かんばかりに吼えた。
喉も枯れよと、あらん限りに叫んだ。
叫んで、吠えて、男は頬に伸ばされた火防女の手をがっしりと握り締めた。
「メイデン! 消える前に、まだやるべきことがある!! 聞け!!」
「は……はい……?」
「”吸魂”だ!! あんたの魂の業だ!! できるだろう!! できないとは言わせんぞ!! 早くしろ!!」
「し…しかし、いったいどこから吸魂を……? 対象は、いったい……?」
「四の五の言わずにさっさと構えろ!! オレの命令が聞けないのか!! やれと言ったらやれ!!」
「デーモンを殺す方、あなた、まさか……!?」
「うるさい!! 楔に囚われし最古のデーモンよ!! 今ここに、見せろ!! その業を、その力を!!」
火防女は、男の腕の中で不意にその身を硬直させた。
ついに、躊躇い続けていたその手を、諦めるように差し出した。
「分かり、ました……」
火防女の掌が、淡い光を放ち始める。
震えた声で、火防女は誓いの言葉を紡いだ。
「あなたが、世界の寄る辺となりますように………」
掌の輝きは、今や目も眩まんばかりに強さを増していた。
それは、獰猛に魂を欲する貪欲な光。
ソウルを寄越せと、ぎらつく光。
男は、貪欲な光輝を纏った火防女の手を取り、ゆっくりと腰を上げた。
あたりには、恐慌する人々。
彼らの悲鳴は実に生命に満ち溢れ、生きていることを身体中で体現していた。
男の眼前では、魂が犇めいていた。
迷える魂が、視界いっぱいに暴れていた。
ひとりふたり消えても誰も気づかないであろうほどに、魂が犇めいていた。
男は、静かに目を閉じた。
口の中で、呟いた。
「すまない……悪く、思わないでくれ……」
火防女はか細く訴えを続けていた。
泣きじゃくるかのように、哀願し続けていた。
「ああ……どうか、デーモンを殺す方……どうか……」
男はそれに答えなかった。
「………!!」
ただ光輝を纏った火防女の手を、無情に突き出しただけだった。
喧騒の中、貫手が肉を抉る音が誰の耳にも届かないままひとつ、確かに響いた。
誰にも気取られないままに、魂がひとつ。
確かに抉り取られて、貪られ、散らしていったのだ。
―――――――――――――――
ここに、剣の世界は始まった。
同時に、剣の世界は堕ち始めた。
創造主の意図を外れ、底の見えない絶望へ。
哀れなソウルと、それを貪るデーモンと共に。
その日、剣の世界は堕ちた。
はい。
以上、原作で言う『はじまりの日』でした。
なんかいろいろヤバイ奴らがログインしましたが、いったいどうなってしまうのでしょうか。
ところで、今回からちらっと登場し始めているのですが、次回はSAOの中でも異端中の異端、『投剣使い』にスポットを当てたお話になります。
このキャラは創作キャラなのですが、自分が作ったキャラではありません。
自分が愛してやまない、とある方の作品からお借りしたキャラなのです。
詳しくは次回で。
お楽しみに!