巡る獣暦   作:ギガマツタケ

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第12話 クウハク×ヒトリ×ゴウカク

 門が閉じた。

 

 重い音が、背中の向こうで鳴る。

 

 ユズルは振り返った。

 

 そこには、白い壁のようになった門があった。

 

 さっきまで確かに通ってきた入口は、内側から見ると継ぎ目の少ない白い石板になっている。取っ手もない。押す場所も、引く場所もない。

 

 消えたわけではない。

 

 ただ、戻るための扉ではなくなっていた。

 

 カイルが壁に近づき、指先で表面をなぞった。

 

「……なるほど」

 

 彼は白い石板を軽く叩いた。

 

 乾いた音が返る。

 

「消えたわけじゃない。内側が白い石で覆われているだけだ。継ぎ目もある。かなり薄いが」

 

 少女が不安そうに言った。

 

「開けられないんですか」

 

 カイルは石板の端を探るように見た。

 

「少なくとも、こちら側から開ける構造ではない。試験用の仕掛けだろう」

 

 ユズルは白い壁のような門を見つめた。

 

 念能力で空間が消えたわけではない。

 

 ただ、戻れない。

 

 その事実だけは変わらなかった。

 

 逃げ道が、閉じられた。

 

 そう思った瞬間、喉が細くなる。

 

 空白の門。

 

 その内側は、本当に白かった。

 

 天井も、壁も、床も、同じ白い石でできている。

 

 装飾はない。

 文字もない。

 傷もない。

 

 まっすぐな通路が、前方へ伸びている。

 

 音もほとんどなかった。

 

 自分の呼吸。

 靴底が床を擦る小さな音。

 隣で少女が息を呑む音。

 

 それだけだった。

 

 冷静そうな長身の男が、改めて二人を見た。

 

「確認しておく。私はカイル。受験番号三百七番だ」

 

 ユズルは少し遅れて答える。

 

「ユズルです。二百四十一番です」

 

 少女も小さく言った。

 

「リノ……です。百六十六番」

 

 リノ。

 

 ユズルはその名前を覚えた。

 

 カイルは二人の顔を順に見てから、通路の先へ視線を戻した。

 

「この門で合格できるのは一人だけだ」

 

 その言葉で、空気が少し冷えた。

 

 分かっている。

 

 それでも、改めて言葉にされると重い。

 

 カイルは続けた。

 

「協力は可能だ。だが、最後には競争になる」

 

 リノの顔が青くなる。

 

「最後には……」

 

「そうだ」

 

 カイルは淡々と言う。

 

「だから、協力するなら条件を決めるべきだ。情報は共有する。危険も共有する。ただし、最後の判断は各自。互いに足を引っ張らない」

 

 合理的な言葉だった。

 

 間違ってはいない。

 

 だが、ユズルは少しだけ胸の奥がざわついた。

 

 足を引っ張らない。

 

 その言葉は正しい。

 

 でも、正しすぎる気がした。

 

 リノがユズルを見た。

 

 助けを求めるような目だった。

 

 ユズルは息を吸った。

 

 ここで言えることは、限られている。

 

「途中までは、協力します」

 

 ユズルは言った。

 

「でも、カイルさんの言う通り、最後の判断は自分でするしかないと思います」

 

 リノは唇を噛んだ。

 

「私、ちゃんと判断できるか分かりません」

 

 ユズルは、すぐに大丈夫とは言えなかった。

 

 言ってしまえば、嘘になる。

 

「僕も、分かりません」

 

「え」

 

「怖いですし、間違えると思います」

 

 リノは驚いた顔をした。

 

 ユズルは続けた。

 

「でも、決めないと進めない場所なんだと思います」

 

 黒い子牛は、隣に立っている。

 

 隠で姿を伏せたまま、白い通路を見ていた。

 

 ユズルは小さく言った。

 

「行きましょう」

 

 三人は歩き始めた。

 

 先頭はカイル。

 

 彼は床や壁を観察しながら進む。

 

 数歩ごとに立ち止まり、足元を確かめる。

 壁を叩く。

 天井を見る。

 

 リノは中央を歩いていた。

 

 不安そうに杖を握りしめ、何度も後ろを振り返る。

 

 ユズルは最後尾についた。

 

 背後に何もないことを確認しながら歩く。

 

 何も起きない。

 

 十歩。

 

 二十歩。

 

 三十歩。

 

 ただ白い通路が続く。

 

 分岐もない。

 罠もない。

 扉もない。

 

 何もない。

 

 それが、だんだん怖くなってきた。

 

 ユズルは、自分の鼓動が少しずつ速くなっているのを感じた。

 

 何を警戒すればいいのか分からない。

 

 地面か。

 壁か。

 天井か。

 自分の後ろか。

 前を歩くカイルか。

 震えているリノか。

 

 分からない。

 

 情報がない。

 

 何もないということは、何も危険がないという意味ではない。

 

 危険がどこにあるのか分からない、という意味だ。

 

 ヤクモの言葉を思い出す。

 

『怖い奴は、よく見る。よく聞く。逃げ道を探す』

 

 でも、ここには逃げ道がない。

 

 ユズルは足を止めそうになった。

 

 その時、丑が言った。

 

「見るな」

 

 ユズルは瞬きをした。

 

「え?」

 

「選べ」

 

 短い言葉。

 

 ユズルは少し遅れて意味を考えた。

 

 全部を見るのではない。

 

 見る場所を選べ。

 

 グランも、沈黙の回廊で似たことを言っていた。

 

 見すぎると動けなくなる。

 見る場所を一つにしろ。

 

 ユズルは足元を見る。

 

 白い床。

 

 滑らかすぎる。

 

 継ぎ目がほとんどない。

 

 だが、完全に同じではない。

 

 わずかに、色が違うところがある。

 

 前方、カイルの数歩先。

 

 床の白が、ほんの少しだけ薄い。

 

「止まってください」

 

 ユズルは言った。

 

 カイルが足を止める。

 

「何か見つけたのか」

 

「あそこの床、少し色が違います」

 

 カイルは目を細めた。

 

「どこだ」

 

「あなたの二歩先です」

 

 カイルはしゃがみ、床を見る。

 

 しばらく黙った。

 

「……確かに、色が違う」

 

 彼は小さな金属片を取り出し、床へ投げた。

 

 金属片が落ちる。

 

 軽い音。

 

 何も起きない。

 

 リノが息を吐きかけた。

 

 その瞬間、床が消えた。

 

 金属片が落ちた場所を中心に、白い床が音もなく抜ける。

 

 下は暗い穴だった。

 

 深さは分からない。

 

 音も遅れて返ってこない。

 

 リノが小さく悲鳴を上げた。

 

 カイルは穴を見下ろし、顔を強張らせた。

 

「無音の落とし穴か」

 

 ユズルの背中に冷たい汗が流れる。

 

 もし止めていなければ、カイルは落ちていた。

 

 いや、カイルが先頭でなければ、自分かリノが落ちていたかもしれない。

 

 カイルはユズルを見た。

 

「助かった」

 

「いえ」

 

「礼は言う。だが、これで君が有利になったとは思わない」

 

 ユズルは一瞬、言葉に詰まった。

 

 カイルの声に悪意はない。

 

 ただ、線を引いている。

 

 協力はする。

 感謝もする。

 でも競争相手であることは変わらない。

 

 それだけだ。

 

「分かっています」

 

 ユズルは答えた。

 

 三人は穴を避けて進んだ。

 

 通路はまだ続いている。

 

 そこから先は、何度も小さな異変があった。

 

 壁の一部が、近づくとわずかに膨らむ。

 天井から白い粉が落ちる。

 床がわずかに柔らかい。

 空気の流れが急に止まる。

 

 どれも小さな変化だった。

 

 だが、一つ見落とせば危険だった。

 

 白い壁が突然押し出され、通路の半分を塞いだ。

 天井から落ちた粉は、触れた布を硬くした。

 柔らかい床は踏み抜けば足を取られる仕掛けだった。

 

 ユズルは何度も息を詰めた。

 

 リノは次第に言葉が少なくなっていく。

 

 カイルは観察を続けていたが、顔には少しずつ焦りが浮かび始めた。

 

「情報が少なすぎる」

 

 カイルが呟く。

 

「予兆があるにはある。だが、規則性が読めない」

 

 彼は壁に手を当てた。

 

「罠の配置も、反応条件も統一されていない。ここは、情報を集めて法則化するための門ではないのかもしれない」

 

 ユズルはその言葉を聞いた。

 

 情報を集めて法則化する門ではない。

 

 では、何を試しているのか。

 

 その時、リノが立ち止まった。

 

「もう、無理です」

 

 小さな声だった。

 

 ユズルは振り返る。

 

 リノの顔は真っ青だった。

 

「どこを歩いても怖いです。何を見ても罠に見えます。何もないのも怖いです」

 

 杖を握る手が震えている。

 

「お願いです。私、ユズルさんの後ろを歩きます。言われた通りにします。だから、出口まで連れて行ってください」

 

 ユズルの胸が痛んだ。

 

 その言葉を、拒めなかった。

 

 連れて行きたいと思った。

 

 この子を守りたい。

 安心させたい。

 大丈夫だと言ってあげたい。

 

 でも、この門で合格できるのは一人だけ。

 

 そして、それ以前に。

 

 ユズルはシアンのことを思い出した。

 

 出口まで歩き、自分の口でリタイアを告げた少年。

 

 ボルドの言葉を思い出す。

 

 最後に進むか降りるかは、自分で決めねばならん。

 

 ユズルはゆっくり言った。

 

「途中までは、一緒に行けます」

 

 リノの目が揺れる。

 

「途中まで……?」

 

「はい」

 

「最後までは?」

 

 ユズルは唇を噛んだ。

 

 怖かった。

 

 この言葉を言うのが怖かった。

 

「最後までは、連れて行けません」

 

 リノの顔が歪んだ。

 

「どうして」

 

「この門で合格できるのは一人だけです」

 

「分かってます。でも」

 

「それだけじゃありません」

 

 ユズルは、自分の声が震えているのを感じた。

 

「僕があなたの代わりに決めることはできません」

 

 リノは黙った。

 

「怖いのは、分かります。僕も怖いです」

 

 ユズルは続けた。

 

「でも、進むか止まるかは、自分で決めてください。僕は助けられるところは助けます。でも、あなたの答えまでは持てません」

 

 リノは、泣きそうな顔でユズルを見た。

 

「冷たいです」

 

 その言葉は刺さった。

 

 ユズルは何も言えなくなる。

 

 冷たい。

 

 そうかもしれない。

 

 助けたいと言いながら、最後までは背負わない。

 それは相手から見れば冷たいのかもしれない。

 

 けれど、ここで「全部助ける」と言えば、それは嘘だ。

 

 嘘で安心させることは、トンパと同じではないのか。

 

 ユズルは目を伏せた。

 

「そうかもしれません」

 

 リノは涙をこぼした。

 

 カイルが横から言った。

 

「合理的な判断だ」

 

 ユズルはカイルを見た。

 

「彼女を背負えば、君の合格確率は下がる。君の言っていることは正しい」

 

 その言い方にも、ユズルは少し違和感を覚えた。

 

 正しい。

 

 でも、それだけで片づけたくなかった。

 

 リノは涙を拭いた。

 

「少し、考えます」

 

 ユズルは頷いた。

 

「はい」

 

 三人は再び歩いた。

 

 だが、空気は変わっていた。

 

 リノはもうユズルに近づきすぎなかった。

 少し距離を置き、自分の足元を見るようになった。

 

 それが良いことなのか、悪いことなのか、ユズルには分からなかった。

 

 しばらく進むと、通路の先に三つの扉が現れた。

 

 白い壁に、三つだけ黒い扉が並んでいる。

 

 それぞれに文字が書かれていた。

 

 左。

 

 安全。

 

 中央。

 

 近道。

 

 右。

 

 戻れ。

 

 ユズルは足を止めた。

 

 カイルも止まる。

 

「ようやく明確な選択肢か」

 

 カイルは三つの扉を観察し始めた。

 

 左の「安全」の扉。

 中央の「近道」の扉。

 右の「戻れ」の扉。

 

 どれも同じ大きさ。

 同じ素材。

 違うのは文字だけ。

 

 リノは不安そうに言った。

 

「安全……って書いてあります」

 

「書いてあるだけだ」

 

 カイルは即答した。

 

「この門では、文字情報を信じるべきではない可能性が高い」

 

 彼は床の足跡を見る。

 

「足跡はない。いや、残らない床か」

 

 ユズルも扉を見た。

 

 安全。

 

 近道。

 

 戻れ。

 

 トンパが置いた標識を思い出した。

 

 右、出口。

 左、給水所。

 奥、採掘場跡。

 

 分かりやすい言葉ほど、怪しかった。

 

 ユズルは扉の前に立つ。

 

 まず左の「安全」。

 

 扉の隙間から、何も感じない。

 

 いや、少しだけ匂う。

 

 金属の匂い。

 

 血ではない。

 錆びた鉄のような匂い。

 

 次に中央の「近道」。

 

 扉の前の床に、わずかな擦れ跡がある。

 誰かが何度もそこに立ったような跡。

 

 しかし、この門に先に入った者はいないはずだ。

 

 仕掛けの跡かもしれない。

 

 最後に右の「戻れ」。

 

 扉の下から、ほんのわずかに空気が流れていた。

 

 冷たい空気。

 

 通路が続いている証拠。

 

 だが、「戻れ」と書かれている。

 

 ユズルは迷った。

 

 戻れ。

 

 その言葉は、怖かった。

 

 進むために門へ入ったのに、戻れと書かれている。

 

 戻ることは逃げなのか。

 それとも、進むための道なのか。

 

 ボルドの言葉がよみがえる。

 

 降りるなら、出口で降りろ。

 

 戻ることと、降りることは違う。

 

 進むことと、突っ込むことも違う。

 

 カイルが言った。

 

「私は中央を選ぶ」

 

 ユズルは顔を上げた。

 

「近道を?」

 

「そうだ。罠の可能性は高い。だが、ここまでの構造から考えると、試験は制限時間も評価に含むはずだ。安全に見える道を避け続ければ、時間切れになる」

 

「でも」

 

「リスクを取らない者はハンターになれない」

 

 それは正しい。

 

 たぶん、とても正しい。

 

 カイルはリノを見る。

 

「君はどうする」

 

 リノは震えていた。

 

「私は……」

 

 彼女は「安全」の扉を見た。

 

 次に、ユズルを見る。

 

 そして、右の「戻れ」の扉を見た。

 

「分かりません」

 

 ユズルは言った。

 

「分からないなら、少し見てから決めましょう」

 

 カイルは首を横に振る。

 

「これ以上、ここに留まるのは無駄だ」

 

「でも」

 

「君は観察を言い訳にしている」

 

 カイルの声が鋭くなった。

 

「判断には時間が必要だ。だが、判断できないことを慎重さと呼ぶのは違う」

 

 ユズルは言葉に詰まった。

 

 その通りかもしれない。

 

 自分は慎重なのか。

 ただ怖くて止まっているだけなのか。

 

 カイルは中央の扉に手をかけた。

 

「私は行く。君たちがどうするかは自由だ」

 

 扉が開く。

 

 奥は暗かった。

 

 カイルは迷わず中へ入った。

 

 扉が閉じる。

 

 数秒。

 

 何も起きない。

 

 リノが息を吐く。

 

 次の瞬間、扉の向こうから鈍い音が響いた。

 

 壁が動くような音。

 何かが高速で閉じる音。

 

 そして、カイルの声。

 

「……違う」

 

 その声は遠かった。

 

「これは、近道ではない」

 

 扉の下から、白い砂のようなものがこぼれ出した。

 

 リノが後ずさる。

 

 ユズルは扉に駆け寄りかけた。

 

 だが、止まった。

 

 開けるべきか。

 

 開ければ、同じ仕掛けに巻き込まれるかもしれない。

 

 でも、カイルは中にいる。

 

 ユズルは扉に耳を当てた。

 

 音がする。

 

 石が擦れる音。

 息を吐く音。

 カイルはまだ生きている。

 

「カイルさん!」

 

 返事はない。

 

 ユズルは拳を握った。

 

 助けたい。

 

 でも、どう助ける。

 

 この扉を開けることが本当に助けになるのか。

 

 それとも、カイルが選んだ道へ自分も巻き込まれるだけなのか。

 

 リノが泣きそうな声で言った。

 

「助けないんですか」

 

 ユズルは答えられなかった。

 

 助けたい。

 

 でも、助け方が分からない。

 

 丑が言った。

 

「選べ」

 

 ユズルは息を吸った。

 

 全部は守れない。

 

 でも、今できることはある。

 

 ユズルは扉の前の床を見た。

 

 中央の扉の下から、白い砂が流れ続けている。

 それは扉の中からではなく、扉の枠の両脇から出ている。

 

 つまり、扉そのものが罠の一部。

 

 開けると危険かもしれない。

 

 なら。

 

「カイルさん!」

 

 ユズルは扉に向かって叫んだ。

 

「床を見てください! 足元の砂が流れてます! たぶん、下が動いてます!」

 

 返事はない。

 

「壁じゃなくて、床を見てください!」

 

 少し間があった。

 

 そして、扉の向こうから、かすかに声が聞こえた。

 

「……分かった」

 

 その声は苦しそうだった。

 

 だが、生きていた。

 

 ユズルは扉から離れた。

 

 今はこれ以上できない。

 

 リノがユズルを見ている。

 

「助けに行かないんですか」

 

「行けません」

 

 ユズルは言った。

 

 胸が痛かった。

 

「でも、声は届きます」

 

 リノは何か言いかけて、口を閉じた。

 

 中央の扉の向こうで、また音がした。

 

 今度は先ほどより小さい。

 

 カイルが何かを動かしたのかもしれない。

 

 ユズルは心の中で祈った。

 

 でも、そこに留まることはできない。

 

 自分たちも選ばなければならない。

 

 リノは「安全」の扉を見た。

 

「私は……安全を選びたいです」

 

 ユズルは彼女を見た。

 

「本当に?」

 

「分かりません。でも、私はもう、怖い道を選べません」

 

「文字が嘘かもしれません」

 

「はい」

 

 リノは頷いた。

 

「それでも、私はそうしたいです」

 

 ユズルは何も言わなかった。

 

 リノは少し震えながらも、自分で扉へ向かった。

 

「ユズルさん」

 

「はい」

 

「私、あなたに連れて行ってもらうのはやめます」

 

 ユズルは黙って聞いた。

 

「でも、あなたが言ったからです。自分で決めろって」

 

「僕は」

 

「冷たいと思いました」

 

 リノは少しだけ笑った。

 

「でも、たぶん、必要でした」

 

 ユズルは言葉が出なかった。

 

 リノは「安全」の扉を開ける。

 

 奥には、穏やかな光があった。

 

 暖かそうな光。

 

 彼女はその中へ入っていった。

 

 扉が閉じる。

 

 ユズルは一人になった。

 

 いや。

 

 隣には丑がいる。

 

 でも、受験者は自分だけだった。

 

 中央にはカイル。

 左にはリノ。

 右には「戻れ」の扉。

 

 ユズルは右の扉の前に立った。

 

 戻れ。

 

 その文字を見る。

 

 怖い。

 

 安全ではない。

 近道でもない。

 

 戻れ。

 

 それは負けのように見える。

 

 でも、扉の下から風が流れている。

 

 生きている道の匂いがする。

 

 ユズルは手をかけた。

 

 扉は軽かった。

 

 開けると、奥には下り坂があった。

 

 白い通路ではない。

 

 石の階段。

 

 暗い。

 

 どこか、地下迷宮を思い出す道だった。

 

 ユズルは息を吸う。

 

「行く」

 

 丑は答える。

 

「進め」

 

 ユズルは「戻れ」の扉をくぐった。

 

 階段を下る。

 

 一段。

 

 また一段。

 

 空気が変わる。

 

 白い通路の無音とは違い、ここには音があった。

 

 水が滴る音。

 遠くで石が軋む音。

 自分の呼吸。

 

 それだけで少し安心する。

 

 だが、安心した瞬間、足元が崩れた。

 

 階段の一部が抜ける。

 

 ユズルは咄嗟に壁へ手を伸ばす。

 

 届かない。

 

 体が落ちる。

 

 黒い子牛が前に出た。

 

「ここは、落とさせません!」

 

 不動の牛歩。

 

 ユズルの足元、崩れかけた階段の一点だけが重くなる。

 

 落下が止まる。

 

 足先がかろうじて石に引っかかる。

 

 ユズルは腕を伸ばし、壁の突起を掴んだ。

 

 全身に力を込める。

 

 足元は崩れ続けようとしている。

 

 丑が押さえている。

 

 だが、長くは保たない。

 

 ユズルは歯を食いしばった。

 

 立つ。

 

 でも、立っているだけでは駄目だ。

 

 このまま踏ん張れば、オーラが尽きる。

 

 進まなければ。

 

 ユズルは壁を掴み、体を横へずらした。

 

 崩れた階段の先、わずかに残った段差へ手を伸ばす。

 

 届かない。

 

 もう少し。

 

 丑の重さが足元から消えかける。

 

 体の内側の熱が抜けていく。

 

 ユズルは叫んだ。

 

「まだ!」

 

 丑が低く唸る。

 

 ほんの一瞬、足場が止まる。

 

 その一瞬で、ユズルは体を投げ出した。

 

 指先が段差にかかる。

 

 爪が痛む。

 

 腕が裂けそうになる。

 

 それでも、落ちない。

 

 ユズルは必死に体を引き上げた。

 

 崩れた階段が、背後で暗闇へ落ちていく。

 

 石が落ちる音が、深く遠ざかる。

 

 ユズルは階段の上に転がり、息を荒げた。

 

 丑の姿が少し薄くなっている。

 

 隠の奥で、輪郭が揺れている。

 

 ユズルは胸を押さえた。

 

 苦しい。

 

 また、内側が削れた。

 

 不動の牛歩は強い。

 

 でも、それだけでこの門は越えられない。

 

 立つ力は、足場を作るだけ。

 

 そこから進むのは、自分の体だ。

 

 ユズルはゆっくり起き上がった。

 

「……分かったよ」

 

 丑を見る。

 

「立つだけじゃ、駄目なんだ」

 

 丑は短く言った。

 

「進め」

 

「うん」

 

 階段の先には、また扉があった。

 

 今度は白い扉。

 

 文字はない。

 

 ユズルは扉を開けた。

 

 そこは、小さな白い部屋だった。

 

 中央に、石の台がある。

 

 その上に、黒い札が置かれていた。

 

 札には一文だけ刻まれている。

 

 ――なぜ、この門を選んだ。

 

 ユズルは息を整えた。

 

 部屋には誰もいない。

 

 試験官もいない。

 カイルもリノもいない。

 

 ただ、問いだけがある。

 

 なぜ、この門を選んだ。

 

 ユズルは石台の前に立った。

 

 最初の答えは、すぐに浮かんだ。

 

 怖かったから。

 

 何も書かれていない門が、一番自分に近い気がしたから。

 

 他の門を選ぶ理由がなかったから。

 

 でも、それだけでは足りない気がした。

 

 ユズルは考える。

 

 ここまで来た道を。

 

 船で前に立った。

 受付で自分の目的を言った。

 案内人を選んだ。

 地下迷宮で道を選んだ。

 鎧鹿の逃げ道を塞いだ。

 グランと同じ出口を目指した。

 ヒソカの前には立たず、シアンの前に立った。

 トンパへの怒りで動かなかった。

 ボルドとシアンを置いて、託されて進んだ。

 

 ずっと、誰かに助けられてきた。

 

 ずっと、誰かの言葉に背中を押されてきた。

 

 でも、この門は何も言わなかった。

 

 何も書いていなかった。

 

 だから、ユズルは選んだのだ。

 

 誰かに選ばされたのではなく。

 

 誰かを助けるためだけでもなく。

 

 誰かに褒められるためでもなく。

 

 自分で決めるために。

 

 ユズルは、石台の前で言った。

 

「何も書かれていなかったからです」

 

 声が白い部屋に吸い込まれる。

 

「何も分からなかったから、怖かったです」

 

 少し間を置く。

 

「でも、何も書かれていないなら、自分で決めるしかないと思いました」

 

 丑が隣に立っている。

 

 ユズルは続けた。

 

「僕は、ずっと助けられてきました。ヤクモにも、ニカさんにも、ボルドさんにも、グランにも。シアンにも、教えられました」

 

 言葉が少し詰まる。

 

「だから、最後は、自分で選ばなきゃいけないと思いました」

 

 白い部屋は静かだった。

 

「誰かを助けたいです。でも、誰かの答えまでは背負えません」

 

 リノの顔が浮かぶ。

 

 カイルの声が浮かぶ。

 

「誰かに助けられたいです。でも、誰かに決めてもらった道を歩き続けるわけにもいきません」

 

 ボルドの言葉が浮かぶ。

 

 託されて進むんじゃ。

 

「だから、僕はこの門を選びました」

 

 ユズルは息を吸った。

 

「怖いまま、自分で進むためです」

 

 沈黙。

 

 長い沈黙だった。

 

 失敗したのかと思った。

 

 答えが違ったのか。

 言葉が足りなかったのか。

 もっと立派なことを言うべきだったのか。

 

 不安が胸を満たす。

 

 だが、石台の向こうの壁に、細い線が入った。

 

 白い壁が左右に開いていく。

 

 光が差し込んだ。

 

 外の光だった。

 

 風が入る。

 

 乾いた岩場の匂い。

 

 ユズルは立ち尽くした。

 

 壁の向こうに、ガドルが立っていた。

 

 その後ろには、協会スタッフがいる。

 

 さらに少し離れた場所に、他の受験者の姿もあった。

 

 ニカ。

 

 グラン。

 

 老練な女受験者。

 

 ユズルは瞬きをした。

 

 ニカは壁にもたれ、腕を組んでいる。

 服は少し汚れているが、大きな怪我はない。

 

 グランは肩で息をしていた。

 顔に傷が増えている。

 だが、しっかり立っていた。

 

 老練な女受験者は静かに座り、目を閉じていた。

 

 それ以外の姿はない。

 

 ガドルがユズルを見る。

 

「二百四十一番」

 

 ユズルは背筋を伸ばした。

 

「はい」

 

「空白の門、通過」

 

 その言葉が、静かに落ちた。

 

 通過。

 

 ユズルは、すぐには理解できなかった。

 

 ガドルは続ける。

 

「最終試験、合格だ」

 

 合格。

 

 その言葉が、胸の奥にゆっくり沈んでいく。

 

 ユズルは息を止めた。

 

 そして、少し遅れて、息を吐いた。

 

「……ありがとうございます」

 

 声が震えていた。

 

 ガドルは表情を変えない。

 

「礼を言う相手は、私ではない」

 

 ユズルは目を伏せた。

 

 そうだと思った。

 

 礼を言う相手は、たくさんいる。

 

 ここにいない人たちも含めて。

 

 ユズルは隣を見た。

 

 黒い子牛が立っている。

 

 丑は、いつも通り無口だった。

 

「ありがとう」

 

 小さく言う。

 

 丑は短く答えた。

 

「進んだな」

 

 ユズルは頷いた。

 

「うん」

 

 ニカが近づいてきた。

 

「二百四十一番」

 

「はい」

 

「遅い」

 

「すみま……」

 

 言いかけて、止めた。

 

 ニカは少し笑った。

 

「まあ、通ったならいいけど」

 

「ニカさんも、合格ですか」

 

「うん。静寂の門、通過」

 

 彼女は軽く肩を回した。

 

「二度と入りたくないけどね」

 

「何があったんですか」

 

「聞かない方がいいよ」

 

 その顔は本気だった。

 

 ユズルは頷いた。

 

 グランも近づいてきた。

 

「生きてたか」

 

「はい」

 

「白い門なんて、よく入ったな」

 

「グランこそ、鋼の門は」

 

「面倒だった」

 

 グランは腕を鳴らした。

 

「力だけで押したら潰れる門だった。腹立つくらい性格悪い」

 

「でも、通ったんですね」

 

「ああ」

 

 グランは少しだけ口元を歪めた。

 

「潰す側だって言っただろ」

 

 それから、少し間を置いて言う。

 

「……まあ、潰さない方が通れたけどな」

 

 ユズルは少し笑った。

 

 グランが照れたように顔を背ける。

 

「笑うな」

 

「すみません」

 

「だから謝るな」

 

 そのやり取りが、少し懐かしく感じた。

 

 老練な女受験者も目を開けた。

 

 彼女は何も言わず、ユズルに軽く頷いた。

 

 ユズルも頭を下げる。

 

 ガドルが全員の前へ立った。

 

「最終試験、終了」

 

 その声に、広場が静まる。

 

「合格者は四名」

 

 ガドルは順に名前を呼ぶ。

 

「二百四十一番、ユズル」

 

 ユズルは顔を上げる。

 

「七十六番、ニカ」

 

 ニカが軽く手を上げる。

 

「百十番、グラン」

 

 グランが鼻を鳴らす。

 

「二百九番、サザ」

 

 老練な女受験者が静かに頷いた。

 

 サザ。

 

 ユズルはその名を覚えた。

 

 ガドルは続けた。

 

「以上四名を、第286期ハンター試験合格者とする」

 

 合格者。

 

 第286期ハンター試験。

 

 その言葉が、現実になった。

 

 ユズルは自分の手を見た。

 

 手は震えていた。

 

 怖さが消えたわけではない。

 

 たぶん、これからも怖い。

 

 世界は広い。

 

 ヤクモが言った通り、未知なるものに満ちている。

 

 その世界へ出る資格を、自分は得た。

 

 ガドルが協会スタッフに合図する。

 

 小さな箱が運ばれてきた。

 

 中には、カードのようなものが収められている。

 

 ハンターライセンス。

 

 ユズルはそれを見た瞬間、胸が詰まった。

 

 ずっと遠いものだと思っていた。

 

 村から見上げた空の向こうにあるものだと思っていた。

 

 でも今、それが目の前にある。

 

 ガドルが一枚を取り、ユズルへ差し出した。

 

「ユズル。これより、お前はプロハンターだ」

 

 ユズルは両手で受け取った。

 

 小さく、硬いカード。

 

 驚くほど軽かった。

 

 だが、手の中では何よりも重かった。

 

「ありがとうございます」

 

 今度は、ちゃんと言えた。

 

 ガドルは合格者たちを見渡した。

 

「ライセンス取得者として、協会の施設利用、情報照会、各種申請が可能になる。必要がある者は、この後、手続き室へ向かえ」

 

 情報照会。

 

 その言葉に、ユズルの心臓が跳ねた。

 

 ヤクモ。

 

 ずっと追いかけてきた名前が、胸の奥で熱を持つ。

 

 民俗ハンター、ヤクモ。

 

 協会に正式な登録があるなら。

 過去の活動記録が残っているなら。

 最後に向かった場所が、どこかに記されているなら。

 

 ここから、探せるかもしれない。

 

 ユズルはライセンスを握った。

 

 やっと。

 

 ここからだ。

 

 ハンター試験は終わった。

 

 でも、ヤクモを探す旅は、まだ始まったばかりだ。

 

 ニカが隣で言った。

 

「よかったね、二百四十一番」

 

 ユズルはそちらを見る。

 

 ニカは少しだけ笑っていた。

 

「いや」

 

 彼女は言い直す。

 

「ユズル」

 

 初めてだった。

 

 彼女が、番号ではなく名前で呼んだ。

 

 ユズルは少し驚いて、それから頷いた。

 

「はい」

 

 ニカは視線を逸らす。

 

「一回だけね」

 

「え」

 

「次からどう呼ぶかは気分」

 

 それがニカらしくて、ユズルは少し笑った。

 

 グランが横から言う。

 

「番号呼びの方が楽だろ」

 

「うるさい、百十番」

 

「お前も番号で呼ぶな」

 

 二人のやり取りを聞きながら、ユズルはライセンスを見つめた。

 

 黒い子牛が隣に立っている。

 

 一月。

 

 丑の月。

 

 ここまでずっと、一緒に立ってきた獣。

 

 ユズルは小さく言った。

 

「終わったね」

 

 丑は答えた。

 

「始まる」

 

 短い言葉だった。

 

 でも、その通りだった。

 

 試験は終わった。

 

 けれど、ここから始まる。

 

 ヤクモを探す旅。

 

 十二の月を巡る旅。

 

 自分の意思で進む旅。

 

 ユズルはライセンスを握りしめ、顔を上げた。

 

 怖さはまだある。

 

 それでも、一歩踏み出せる。

 

 ユズルは、手続き室へ向かって歩き出した。

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