門が閉じた。
重い音が、背中の向こうで鳴る。
ユズルは振り返った。
そこには、白い壁のようになった門があった。
さっきまで確かに通ってきた入口は、内側から見ると継ぎ目の少ない白い石板になっている。取っ手もない。押す場所も、引く場所もない。
消えたわけではない。
ただ、戻るための扉ではなくなっていた。
カイルが壁に近づき、指先で表面をなぞった。
「……なるほど」
彼は白い石板を軽く叩いた。
乾いた音が返る。
「消えたわけじゃない。内側が白い石で覆われているだけだ。継ぎ目もある。かなり薄いが」
少女が不安そうに言った。
「開けられないんですか」
カイルは石板の端を探るように見た。
「少なくとも、こちら側から開ける構造ではない。試験用の仕掛けだろう」
ユズルは白い壁のような門を見つめた。
念能力で空間が消えたわけではない。
ただ、戻れない。
その事実だけは変わらなかった。
逃げ道が、閉じられた。
そう思った瞬間、喉が細くなる。
空白の門。
その内側は、本当に白かった。
天井も、壁も、床も、同じ白い石でできている。
装飾はない。
文字もない。
傷もない。
まっすぐな通路が、前方へ伸びている。
音もほとんどなかった。
自分の呼吸。
靴底が床を擦る小さな音。
隣で少女が息を呑む音。
それだけだった。
冷静そうな長身の男が、改めて二人を見た。
「確認しておく。私はカイル。受験番号三百七番だ」
ユズルは少し遅れて答える。
「ユズルです。二百四十一番です」
少女も小さく言った。
「リノ……です。百六十六番」
リノ。
ユズルはその名前を覚えた。
カイルは二人の顔を順に見てから、通路の先へ視線を戻した。
「この門で合格できるのは一人だけだ」
その言葉で、空気が少し冷えた。
分かっている。
それでも、改めて言葉にされると重い。
カイルは続けた。
「協力は可能だ。だが、最後には競争になる」
リノの顔が青くなる。
「最後には……」
「そうだ」
カイルは淡々と言う。
「だから、協力するなら条件を決めるべきだ。情報は共有する。危険も共有する。ただし、最後の判断は各自。互いに足を引っ張らない」
合理的な言葉だった。
間違ってはいない。
だが、ユズルは少しだけ胸の奥がざわついた。
足を引っ張らない。
その言葉は正しい。
でも、正しすぎる気がした。
リノがユズルを見た。
助けを求めるような目だった。
ユズルは息を吸った。
ここで言えることは、限られている。
「途中までは、協力します」
ユズルは言った。
「でも、カイルさんの言う通り、最後の判断は自分でするしかないと思います」
リノは唇を噛んだ。
「私、ちゃんと判断できるか分かりません」
ユズルは、すぐに大丈夫とは言えなかった。
言ってしまえば、嘘になる。
「僕も、分かりません」
「え」
「怖いですし、間違えると思います」
リノは驚いた顔をした。
ユズルは続けた。
「でも、決めないと進めない場所なんだと思います」
黒い子牛は、隣に立っている。
隠で姿を伏せたまま、白い通路を見ていた。
ユズルは小さく言った。
「行きましょう」
三人は歩き始めた。
先頭はカイル。
彼は床や壁を観察しながら進む。
数歩ごとに立ち止まり、足元を確かめる。
壁を叩く。
天井を見る。
リノは中央を歩いていた。
不安そうに杖を握りしめ、何度も後ろを振り返る。
ユズルは最後尾についた。
背後に何もないことを確認しながら歩く。
何も起きない。
十歩。
二十歩。
三十歩。
ただ白い通路が続く。
分岐もない。
罠もない。
扉もない。
何もない。
それが、だんだん怖くなってきた。
ユズルは、自分の鼓動が少しずつ速くなっているのを感じた。
何を警戒すればいいのか分からない。
地面か。
壁か。
天井か。
自分の後ろか。
前を歩くカイルか。
震えているリノか。
分からない。
情報がない。
何もないということは、何も危険がないという意味ではない。
危険がどこにあるのか分からない、という意味だ。
ヤクモの言葉を思い出す。
『怖い奴は、よく見る。よく聞く。逃げ道を探す』
でも、ここには逃げ道がない。
ユズルは足を止めそうになった。
その時、丑が言った。
「見るな」
ユズルは瞬きをした。
「え?」
「選べ」
短い言葉。
ユズルは少し遅れて意味を考えた。
全部を見るのではない。
見る場所を選べ。
グランも、沈黙の回廊で似たことを言っていた。
見すぎると動けなくなる。
見る場所を一つにしろ。
ユズルは足元を見る。
白い床。
滑らかすぎる。
継ぎ目がほとんどない。
だが、完全に同じではない。
わずかに、色が違うところがある。
前方、カイルの数歩先。
床の白が、ほんの少しだけ薄い。
「止まってください」
ユズルは言った。
カイルが足を止める。
「何か見つけたのか」
「あそこの床、少し色が違います」
カイルは目を細めた。
「どこだ」
「あなたの二歩先です」
カイルはしゃがみ、床を見る。
しばらく黙った。
「……確かに、色が違う」
彼は小さな金属片を取り出し、床へ投げた。
金属片が落ちる。
軽い音。
何も起きない。
リノが息を吐きかけた。
その瞬間、床が消えた。
金属片が落ちた場所を中心に、白い床が音もなく抜ける。
下は暗い穴だった。
深さは分からない。
音も遅れて返ってこない。
リノが小さく悲鳴を上げた。
カイルは穴を見下ろし、顔を強張らせた。
「無音の落とし穴か」
ユズルの背中に冷たい汗が流れる。
もし止めていなければ、カイルは落ちていた。
いや、カイルが先頭でなければ、自分かリノが落ちていたかもしれない。
カイルはユズルを見た。
「助かった」
「いえ」
「礼は言う。だが、これで君が有利になったとは思わない」
ユズルは一瞬、言葉に詰まった。
カイルの声に悪意はない。
ただ、線を引いている。
協力はする。
感謝もする。
でも競争相手であることは変わらない。
それだけだ。
「分かっています」
ユズルは答えた。
三人は穴を避けて進んだ。
通路はまだ続いている。
そこから先は、何度も小さな異変があった。
壁の一部が、近づくとわずかに膨らむ。
天井から白い粉が落ちる。
床がわずかに柔らかい。
空気の流れが急に止まる。
どれも小さな変化だった。
だが、一つ見落とせば危険だった。
白い壁が突然押し出され、通路の半分を塞いだ。
天井から落ちた粉は、触れた布を硬くした。
柔らかい床は踏み抜けば足を取られる仕掛けだった。
ユズルは何度も息を詰めた。
リノは次第に言葉が少なくなっていく。
カイルは観察を続けていたが、顔には少しずつ焦りが浮かび始めた。
「情報が少なすぎる」
カイルが呟く。
「予兆があるにはある。だが、規則性が読めない」
彼は壁に手を当てた。
「罠の配置も、反応条件も統一されていない。ここは、情報を集めて法則化するための門ではないのかもしれない」
ユズルはその言葉を聞いた。
情報を集めて法則化する門ではない。
では、何を試しているのか。
その時、リノが立ち止まった。
「もう、無理です」
小さな声だった。
ユズルは振り返る。
リノの顔は真っ青だった。
「どこを歩いても怖いです。何を見ても罠に見えます。何もないのも怖いです」
杖を握る手が震えている。
「お願いです。私、ユズルさんの後ろを歩きます。言われた通りにします。だから、出口まで連れて行ってください」
ユズルの胸が痛んだ。
その言葉を、拒めなかった。
連れて行きたいと思った。
この子を守りたい。
安心させたい。
大丈夫だと言ってあげたい。
でも、この門で合格できるのは一人だけ。
そして、それ以前に。
ユズルはシアンのことを思い出した。
出口まで歩き、自分の口でリタイアを告げた少年。
ボルドの言葉を思い出す。
最後に進むか降りるかは、自分で決めねばならん。
ユズルはゆっくり言った。
「途中までは、一緒に行けます」
リノの目が揺れる。
「途中まで……?」
「はい」
「最後までは?」
ユズルは唇を噛んだ。
怖かった。
この言葉を言うのが怖かった。
「最後までは、連れて行けません」
リノの顔が歪んだ。
「どうして」
「この門で合格できるのは一人だけです」
「分かってます。でも」
「それだけじゃありません」
ユズルは、自分の声が震えているのを感じた。
「僕があなたの代わりに決めることはできません」
リノは黙った。
「怖いのは、分かります。僕も怖いです」
ユズルは続けた。
「でも、進むか止まるかは、自分で決めてください。僕は助けられるところは助けます。でも、あなたの答えまでは持てません」
リノは、泣きそうな顔でユズルを見た。
「冷たいです」
その言葉は刺さった。
ユズルは何も言えなくなる。
冷たい。
そうかもしれない。
助けたいと言いながら、最後までは背負わない。
それは相手から見れば冷たいのかもしれない。
けれど、ここで「全部助ける」と言えば、それは嘘だ。
嘘で安心させることは、トンパと同じではないのか。
ユズルは目を伏せた。
「そうかもしれません」
リノは涙をこぼした。
カイルが横から言った。
「合理的な判断だ」
ユズルはカイルを見た。
「彼女を背負えば、君の合格確率は下がる。君の言っていることは正しい」
その言い方にも、ユズルは少し違和感を覚えた。
正しい。
でも、それだけで片づけたくなかった。
リノは涙を拭いた。
「少し、考えます」
ユズルは頷いた。
「はい」
三人は再び歩いた。
だが、空気は変わっていた。
リノはもうユズルに近づきすぎなかった。
少し距離を置き、自分の足元を見るようになった。
それが良いことなのか、悪いことなのか、ユズルには分からなかった。
しばらく進むと、通路の先に三つの扉が現れた。
白い壁に、三つだけ黒い扉が並んでいる。
それぞれに文字が書かれていた。
左。
安全。
中央。
近道。
右。
戻れ。
ユズルは足を止めた。
カイルも止まる。
「ようやく明確な選択肢か」
カイルは三つの扉を観察し始めた。
左の「安全」の扉。
中央の「近道」の扉。
右の「戻れ」の扉。
どれも同じ大きさ。
同じ素材。
違うのは文字だけ。
リノは不安そうに言った。
「安全……って書いてあります」
「書いてあるだけだ」
カイルは即答した。
「この門では、文字情報を信じるべきではない可能性が高い」
彼は床の足跡を見る。
「足跡はない。いや、残らない床か」
ユズルも扉を見た。
安全。
近道。
戻れ。
トンパが置いた標識を思い出した。
右、出口。
左、給水所。
奥、採掘場跡。
分かりやすい言葉ほど、怪しかった。
ユズルは扉の前に立つ。
まず左の「安全」。
扉の隙間から、何も感じない。
いや、少しだけ匂う。
金属の匂い。
血ではない。
錆びた鉄のような匂い。
次に中央の「近道」。
扉の前の床に、わずかな擦れ跡がある。
誰かが何度もそこに立ったような跡。
しかし、この門に先に入った者はいないはずだ。
仕掛けの跡かもしれない。
最後に右の「戻れ」。
扉の下から、ほんのわずかに空気が流れていた。
冷たい空気。
通路が続いている証拠。
だが、「戻れ」と書かれている。
ユズルは迷った。
戻れ。
その言葉は、怖かった。
進むために門へ入ったのに、戻れと書かれている。
戻ることは逃げなのか。
それとも、進むための道なのか。
ボルドの言葉がよみがえる。
降りるなら、出口で降りろ。
戻ることと、降りることは違う。
進むことと、突っ込むことも違う。
カイルが言った。
「私は中央を選ぶ」
ユズルは顔を上げた。
「近道を?」
「そうだ。罠の可能性は高い。だが、ここまでの構造から考えると、試験は制限時間も評価に含むはずだ。安全に見える道を避け続ければ、時間切れになる」
「でも」
「リスクを取らない者はハンターになれない」
それは正しい。
たぶん、とても正しい。
カイルはリノを見る。
「君はどうする」
リノは震えていた。
「私は……」
彼女は「安全」の扉を見た。
次に、ユズルを見る。
そして、右の「戻れ」の扉を見た。
「分かりません」
ユズルは言った。
「分からないなら、少し見てから決めましょう」
カイルは首を横に振る。
「これ以上、ここに留まるのは無駄だ」
「でも」
「君は観察を言い訳にしている」
カイルの声が鋭くなった。
「判断には時間が必要だ。だが、判断できないことを慎重さと呼ぶのは違う」
ユズルは言葉に詰まった。
その通りかもしれない。
自分は慎重なのか。
ただ怖くて止まっているだけなのか。
カイルは中央の扉に手をかけた。
「私は行く。君たちがどうするかは自由だ」
扉が開く。
奥は暗かった。
カイルは迷わず中へ入った。
扉が閉じる。
数秒。
何も起きない。
リノが息を吐く。
次の瞬間、扉の向こうから鈍い音が響いた。
壁が動くような音。
何かが高速で閉じる音。
そして、カイルの声。
「……違う」
その声は遠かった。
「これは、近道ではない」
扉の下から、白い砂のようなものがこぼれ出した。
リノが後ずさる。
ユズルは扉に駆け寄りかけた。
だが、止まった。
開けるべきか。
開ければ、同じ仕掛けに巻き込まれるかもしれない。
でも、カイルは中にいる。
ユズルは扉に耳を当てた。
音がする。
石が擦れる音。
息を吐く音。
カイルはまだ生きている。
「カイルさん!」
返事はない。
ユズルは拳を握った。
助けたい。
でも、どう助ける。
この扉を開けることが本当に助けになるのか。
それとも、カイルが選んだ道へ自分も巻き込まれるだけなのか。
リノが泣きそうな声で言った。
「助けないんですか」
ユズルは答えられなかった。
助けたい。
でも、助け方が分からない。
丑が言った。
「選べ」
ユズルは息を吸った。
全部は守れない。
でも、今できることはある。
ユズルは扉の前の床を見た。
中央の扉の下から、白い砂が流れ続けている。
それは扉の中からではなく、扉の枠の両脇から出ている。
つまり、扉そのものが罠の一部。
開けると危険かもしれない。
なら。
「カイルさん!」
ユズルは扉に向かって叫んだ。
「床を見てください! 足元の砂が流れてます! たぶん、下が動いてます!」
返事はない。
「壁じゃなくて、床を見てください!」
少し間があった。
そして、扉の向こうから、かすかに声が聞こえた。
「……分かった」
その声は苦しそうだった。
だが、生きていた。
ユズルは扉から離れた。
今はこれ以上できない。
リノがユズルを見ている。
「助けに行かないんですか」
「行けません」
ユズルは言った。
胸が痛かった。
「でも、声は届きます」
リノは何か言いかけて、口を閉じた。
中央の扉の向こうで、また音がした。
今度は先ほどより小さい。
カイルが何かを動かしたのかもしれない。
ユズルは心の中で祈った。
でも、そこに留まることはできない。
自分たちも選ばなければならない。
リノは「安全」の扉を見た。
「私は……安全を選びたいです」
ユズルは彼女を見た。
「本当に?」
「分かりません。でも、私はもう、怖い道を選べません」
「文字が嘘かもしれません」
「はい」
リノは頷いた。
「それでも、私はそうしたいです」
ユズルは何も言わなかった。
リノは少し震えながらも、自分で扉へ向かった。
「ユズルさん」
「はい」
「私、あなたに連れて行ってもらうのはやめます」
ユズルは黙って聞いた。
「でも、あなたが言ったからです。自分で決めろって」
「僕は」
「冷たいと思いました」
リノは少しだけ笑った。
「でも、たぶん、必要でした」
ユズルは言葉が出なかった。
リノは「安全」の扉を開ける。
奥には、穏やかな光があった。
暖かそうな光。
彼女はその中へ入っていった。
扉が閉じる。
ユズルは一人になった。
いや。
隣には丑がいる。
でも、受験者は自分だけだった。
中央にはカイル。
左にはリノ。
右には「戻れ」の扉。
ユズルは右の扉の前に立った。
戻れ。
その文字を見る。
怖い。
安全ではない。
近道でもない。
戻れ。
それは負けのように見える。
でも、扉の下から風が流れている。
生きている道の匂いがする。
ユズルは手をかけた。
扉は軽かった。
開けると、奥には下り坂があった。
白い通路ではない。
石の階段。
暗い。
どこか、地下迷宮を思い出す道だった。
ユズルは息を吸う。
「行く」
丑は答える。
「進め」
ユズルは「戻れ」の扉をくぐった。
階段を下る。
一段。
また一段。
空気が変わる。
白い通路の無音とは違い、ここには音があった。
水が滴る音。
遠くで石が軋む音。
自分の呼吸。
それだけで少し安心する。
だが、安心した瞬間、足元が崩れた。
階段の一部が抜ける。
ユズルは咄嗟に壁へ手を伸ばす。
届かない。
体が落ちる。
黒い子牛が前に出た。
「ここは、落とさせません!」
不動の牛歩。
ユズルの足元、崩れかけた階段の一点だけが重くなる。
落下が止まる。
足先がかろうじて石に引っかかる。
ユズルは腕を伸ばし、壁の突起を掴んだ。
全身に力を込める。
足元は崩れ続けようとしている。
丑が押さえている。
だが、長くは保たない。
ユズルは歯を食いしばった。
立つ。
でも、立っているだけでは駄目だ。
このまま踏ん張れば、オーラが尽きる。
進まなければ。
ユズルは壁を掴み、体を横へずらした。
崩れた階段の先、わずかに残った段差へ手を伸ばす。
届かない。
もう少し。
丑の重さが足元から消えかける。
体の内側の熱が抜けていく。
ユズルは叫んだ。
「まだ!」
丑が低く唸る。
ほんの一瞬、足場が止まる。
その一瞬で、ユズルは体を投げ出した。
指先が段差にかかる。
爪が痛む。
腕が裂けそうになる。
それでも、落ちない。
ユズルは必死に体を引き上げた。
崩れた階段が、背後で暗闇へ落ちていく。
石が落ちる音が、深く遠ざかる。
ユズルは階段の上に転がり、息を荒げた。
丑の姿が少し薄くなっている。
隠の奥で、輪郭が揺れている。
ユズルは胸を押さえた。
苦しい。
また、内側が削れた。
不動の牛歩は強い。
でも、それだけでこの門は越えられない。
立つ力は、足場を作るだけ。
そこから進むのは、自分の体だ。
ユズルはゆっくり起き上がった。
「……分かったよ」
丑を見る。
「立つだけじゃ、駄目なんだ」
丑は短く言った。
「進め」
「うん」
階段の先には、また扉があった。
今度は白い扉。
文字はない。
ユズルは扉を開けた。
そこは、小さな白い部屋だった。
中央に、石の台がある。
その上に、黒い札が置かれていた。
札には一文だけ刻まれている。
――なぜ、この門を選んだ。
ユズルは息を整えた。
部屋には誰もいない。
試験官もいない。
カイルもリノもいない。
ただ、問いだけがある。
なぜ、この門を選んだ。
ユズルは石台の前に立った。
最初の答えは、すぐに浮かんだ。
怖かったから。
何も書かれていない門が、一番自分に近い気がしたから。
他の門を選ぶ理由がなかったから。
でも、それだけでは足りない気がした。
ユズルは考える。
ここまで来た道を。
船で前に立った。
受付で自分の目的を言った。
案内人を選んだ。
地下迷宮で道を選んだ。
鎧鹿の逃げ道を塞いだ。
グランと同じ出口を目指した。
ヒソカの前には立たず、シアンの前に立った。
トンパへの怒りで動かなかった。
ボルドとシアンを置いて、託されて進んだ。
ずっと、誰かに助けられてきた。
ずっと、誰かの言葉に背中を押されてきた。
でも、この門は何も言わなかった。
何も書いていなかった。
だから、ユズルは選んだのだ。
誰かに選ばされたのではなく。
誰かを助けるためだけでもなく。
誰かに褒められるためでもなく。
自分で決めるために。
ユズルは、石台の前で言った。
「何も書かれていなかったからです」
声が白い部屋に吸い込まれる。
「何も分からなかったから、怖かったです」
少し間を置く。
「でも、何も書かれていないなら、自分で決めるしかないと思いました」
丑が隣に立っている。
ユズルは続けた。
「僕は、ずっと助けられてきました。ヤクモにも、ニカさんにも、ボルドさんにも、グランにも。シアンにも、教えられました」
言葉が少し詰まる。
「だから、最後は、自分で選ばなきゃいけないと思いました」
白い部屋は静かだった。
「誰かを助けたいです。でも、誰かの答えまでは背負えません」
リノの顔が浮かぶ。
カイルの声が浮かぶ。
「誰かに助けられたいです。でも、誰かに決めてもらった道を歩き続けるわけにもいきません」
ボルドの言葉が浮かぶ。
託されて進むんじゃ。
「だから、僕はこの門を選びました」
ユズルは息を吸った。
「怖いまま、自分で進むためです」
沈黙。
長い沈黙だった。
失敗したのかと思った。
答えが違ったのか。
言葉が足りなかったのか。
もっと立派なことを言うべきだったのか。
不安が胸を満たす。
だが、石台の向こうの壁に、細い線が入った。
白い壁が左右に開いていく。
光が差し込んだ。
外の光だった。
風が入る。
乾いた岩場の匂い。
ユズルは立ち尽くした。
壁の向こうに、ガドルが立っていた。
その後ろには、協会スタッフがいる。
さらに少し離れた場所に、他の受験者の姿もあった。
ニカ。
グラン。
老練な女受験者。
ユズルは瞬きをした。
ニカは壁にもたれ、腕を組んでいる。
服は少し汚れているが、大きな怪我はない。
グランは肩で息をしていた。
顔に傷が増えている。
だが、しっかり立っていた。
老練な女受験者は静かに座り、目を閉じていた。
それ以外の姿はない。
ガドルがユズルを見る。
「二百四十一番」
ユズルは背筋を伸ばした。
「はい」
「空白の門、通過」
その言葉が、静かに落ちた。
通過。
ユズルは、すぐには理解できなかった。
ガドルは続ける。
「最終試験、合格だ」
合格。
その言葉が、胸の奥にゆっくり沈んでいく。
ユズルは息を止めた。
そして、少し遅れて、息を吐いた。
「……ありがとうございます」
声が震えていた。
ガドルは表情を変えない。
「礼を言う相手は、私ではない」
ユズルは目を伏せた。
そうだと思った。
礼を言う相手は、たくさんいる。
ここにいない人たちも含めて。
ユズルは隣を見た。
黒い子牛が立っている。
丑は、いつも通り無口だった。
「ありがとう」
小さく言う。
丑は短く答えた。
「進んだな」
ユズルは頷いた。
「うん」
ニカが近づいてきた。
「二百四十一番」
「はい」
「遅い」
「すみま……」
言いかけて、止めた。
ニカは少し笑った。
「まあ、通ったならいいけど」
「ニカさんも、合格ですか」
「うん。静寂の門、通過」
彼女は軽く肩を回した。
「二度と入りたくないけどね」
「何があったんですか」
「聞かない方がいいよ」
その顔は本気だった。
ユズルは頷いた。
グランも近づいてきた。
「生きてたか」
「はい」
「白い門なんて、よく入ったな」
「グランこそ、鋼の門は」
「面倒だった」
グランは腕を鳴らした。
「力だけで押したら潰れる門だった。腹立つくらい性格悪い」
「でも、通ったんですね」
「ああ」
グランは少しだけ口元を歪めた。
「潰す側だって言っただろ」
それから、少し間を置いて言う。
「……まあ、潰さない方が通れたけどな」
ユズルは少し笑った。
グランが照れたように顔を背ける。
「笑うな」
「すみません」
「だから謝るな」
そのやり取りが、少し懐かしく感じた。
老練な女受験者も目を開けた。
彼女は何も言わず、ユズルに軽く頷いた。
ユズルも頭を下げる。
ガドルが全員の前へ立った。
「最終試験、終了」
その声に、広場が静まる。
「合格者は四名」
ガドルは順に名前を呼ぶ。
「二百四十一番、ユズル」
ユズルは顔を上げる。
「七十六番、ニカ」
ニカが軽く手を上げる。
「百十番、グラン」
グランが鼻を鳴らす。
「二百九番、サザ」
老練な女受験者が静かに頷いた。
サザ。
ユズルはその名を覚えた。
ガドルは続けた。
「以上四名を、第286期ハンター試験合格者とする」
合格者。
第286期ハンター試験。
その言葉が、現実になった。
ユズルは自分の手を見た。
手は震えていた。
怖さが消えたわけではない。
たぶん、これからも怖い。
世界は広い。
ヤクモが言った通り、未知なるものに満ちている。
その世界へ出る資格を、自分は得た。
ガドルが協会スタッフに合図する。
小さな箱が運ばれてきた。
中には、カードのようなものが収められている。
ハンターライセンス。
ユズルはそれを見た瞬間、胸が詰まった。
ずっと遠いものだと思っていた。
村から見上げた空の向こうにあるものだと思っていた。
でも今、それが目の前にある。
ガドルが一枚を取り、ユズルへ差し出した。
「ユズル。これより、お前はプロハンターだ」
ユズルは両手で受け取った。
小さく、硬いカード。
驚くほど軽かった。
だが、手の中では何よりも重かった。
「ありがとうございます」
今度は、ちゃんと言えた。
ガドルは合格者たちを見渡した。
「ライセンス取得者として、協会の施設利用、情報照会、各種申請が可能になる。必要がある者は、この後、手続き室へ向かえ」
情報照会。
その言葉に、ユズルの心臓が跳ねた。
ヤクモ。
ずっと追いかけてきた名前が、胸の奥で熱を持つ。
民俗ハンター、ヤクモ。
協会に正式な登録があるなら。
過去の活動記録が残っているなら。
最後に向かった場所が、どこかに記されているなら。
ここから、探せるかもしれない。
ユズルはライセンスを握った。
やっと。
ここからだ。
ハンター試験は終わった。
でも、ヤクモを探す旅は、まだ始まったばかりだ。
ニカが隣で言った。
「よかったね、二百四十一番」
ユズルはそちらを見る。
ニカは少しだけ笑っていた。
「いや」
彼女は言い直す。
「ユズル」
初めてだった。
彼女が、番号ではなく名前で呼んだ。
ユズルは少し驚いて、それから頷いた。
「はい」
ニカは視線を逸らす。
「一回だけね」
「え」
「次からどう呼ぶかは気分」
それがニカらしくて、ユズルは少し笑った。
グランが横から言う。
「番号呼びの方が楽だろ」
「うるさい、百十番」
「お前も番号で呼ぶな」
二人のやり取りを聞きながら、ユズルはライセンスを見つめた。
黒い子牛が隣に立っている。
一月。
丑の月。
ここまでずっと、一緒に立ってきた獣。
ユズルは小さく言った。
「終わったね」
丑は答えた。
「始まる」
短い言葉だった。
でも、その通りだった。
試験は終わった。
けれど、ここから始まる。
ヤクモを探す旅。
十二の月を巡る旅。
自分の意思で進む旅。
ユズルはライセンスを握りしめ、顔を上げた。
怖さはまだある。
それでも、一歩踏み出せる。
ユズルは、手続き室へ向かって歩き出した。