その電話は、午後四時を過ぎた頃にかかってきた。
「クマを見たんです 」
年配の男性の声だった。
私は受話器を肩と耳の間に挟みながら、パソコンの画面から目を離さなかった。
今年に入って、この手の相談が何件になったのか覚えていない。 少なくとも二十件は超えているだろう。
この手の通報は珍しくない。
イノシシ、シカ、猿。そして最近はクマ。
ニュースになるような被害は少ないが、住民にとっては十分恐ろしい存在だった。
「場所を教えてください」
「御影沢 の裏山です」
その名前を聞いて少しだけ手が止まった。
御影沢。
町の地図の端にある山間部だ。
人はほとんど住んでいない。畑を手放せない老人と、昔からそこに住んでいる人間が数軒いるだけだった。
「担当が現地を確認します」
そう答えて電話を切る。
隣の席の先輩が顔を上げた。
「クマか?」
「そのようです」
「どうせ黒い犬かタヌキだろ」
私は曖昧に笑った。
実際、そういうことも多い。
見間違い。
足跡だけ。
噂だけ。
それでも確認しなければならない。
何もなければ、それでいい。
御影沢へ着いた頃には日が傾いていた。
谷間には冷たい影が落ちている。
通報者の男性は軽トラックの脇で待っていた。
「こっちです」
案内された先には細い獣道があった。
畑の脇を横切り、そのまま森へ続いている。
足跡はすぐに見つかった。
泥の上に残された大きな跡。
私はしゃがみ込む。
大きい。
犬ではない。
イノシシでもない。
クマだ。
それもかなり大きい。
「最近のものですか」
男性が聞く。
「そうだと思います」
そう答えたが、本当のところ確信はなかった。
私は専門家ではない。ただ役場で鳥獣関係の仕事を任されているだけだ。
それでも何年か続ければ嫌でも覚える。
足跡。
糞。
爪痕。
知らなくても良かったことばかりだ。
足跡は森の奥へ続いていた。
私は少しだけ追った。
十数メートル。
二十メートル。
そこで足を止めた。
違和感があった。
足跡が消えている。
土は柔らかい。
落ち葉も積もっている。
痕跡が消えるような場所ではない。
なのに足跡は途切れていた。
まるで、そこから先だけ存在しないみたいに。
「駆除できるんですか?」
男性の声で我に返る。
私は立ち上がった。
「まずは状況を確認します」
結局、それしか言えなかった。
男性は納得したような、していないような顔で頷いた。
帰り際、男性は不意に言った。
「奥には行かない方がいいですよ」
「なぜです?」
「昔から言うんです」
男性は森を見た。
「山の向こうへ行くなって」
帰庁しても、その言葉が頭に残った。
足跡が消えた場所。
山の向こう。
くだらない。
そう思った。
思ったのだが。
仕事を終え、車に乗っても気になった。
結局私は、もう一度御影沢へ向かっていた。
森は静かだった。
鳥の声が聞こえない。
風もない。
妙に静かだった。
静かすぎた。
私は足跡が消えた場所まで来た。
そして見つけた。
黒い影。
木々の間に立っている。
私は思わず足を止めた。
大きい。
異様なほど大きい。
二本足で立てば三メートルはあるだろう。
クマだった。
だが私の知っているクマではなかった。
肩幅が広すぎる。
腕が長すぎる。
そして、目が赤かった。
いや、赤いのではない。暗闇の中で、それだけが光っていた。
獣がこちらを見た。
背筋が凍る。
まずい、そう思った。
だが体が動かない。
獣が一歩踏み出す。
地面が鈍く震えた。
その時だった。
霧が出た。
どこから現れたのか分からない。
白い霧だった。
森を埋め尽くすように広がり、あっという間に視界を奪う。
私は我に返った。
逃げろ。
頭の中で何かが叫んでいた。
私は走った。
枝が顔を叩く。
足元が見えない。
何度も転びそうになる。
それでも走った。
背後から何かが追ってきている気がした。
どれほど走っただろう。
気付くと霧は消えていた。
私は木にもたれかかり、荒い息を吐く。
そして違和感に気付いた。
森が違う。
木の形が違う。
匂いが違う。
聞いたことのない鳥の声がする。
私はしばらくその場に立ち尽くした。
何度も周囲を見回す。
だが景色に見覚えはなかった。
深い森だった。
どこまでも木々が続いている。
私はポケットからスマートフォンを取り出した。
画面を点灯させる。
時刻は午後六時二十二分。
電波表示は圏外だった。
私は眉をひそめる。
御影沢でも圏外になる場所はある。
だがGPSまで反応しないことは珍しい。
地図アプリを開く。
現在地を示す青い点は表示されなかった。
何度やっても同じだった。
私は小さく舌打ちした。
遭難。
まずその言葉が浮かんだ。
クマから逃げるうちに方向感覚を失ったのだろう。
そう考えるのが自然だった。
だが、どうしても腑に落ちない。
木々の種類が違う。
見たこともない葉がある。
幹の色も違う。
何より、空気そのものが違っていた。
山の匂いではない。
湿っている。
だが重い。
初めて来た場所なのに、なぜか懐かしいような。
そんな妙な感覚があった。
私は首を振った。
疲れているだけだ。
そうに違いない。
そう思いたかった。
日が沈み始めていた。
森の中はすでに薄暗い。
まずい。
私は空を見上げた。
あと一時間もない。
完全に日が落ちる。
私はポケットの中身を確認した。
スマートフォン。
財布。
車の鍵。
ボールペン。
メモ帳。
それだけだった。
食料はない。
ライトもない。
ナイフもない。
私は苦笑した。
実際に山へ入る仕事など滅多にない。
普段やっていることと言えば、電話対応、書類作成、会議、住民説明。その程度だった。
本物の猟師なら鼻で笑うだろう。
私はもう一度周囲を見回した。
森は静かだった。
静かすぎた。
鳥の声が聞こえない。
虫の声も聞こえない。
自分の呼吸だけがやけに大きく聞こえる。
その時だった。
どこか遠くで。
何かが鳴いた。
獣の声だった。
だが私は、その鳴き声を知らなかった。