向こう側の獣   作:深山 悠

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第二話 森の夜

私はしばらく耳を澄ませていた。

もう鳴き声は聞こえない。

先ほどから風一つ吹かない。

静寂だけが森を満たしていた。

 

私はスマートフォンをポケットへ戻した。

考えろ。

まずは落ち着け。

クマから逃げるうちに方向感覚を失った。

ただそれだけだ。

私は歩き出した。

立ち止まっていても仕方がない。

どこかへ下れば道路くらいある。

林道でもいい。

人の痕跡さえ見つかれば何とかなる。

 

歩きながら周囲を見回す。

だが違和感は消えなかった。

道路がない。

林道もない。

人の手が入った痕跡が見当たらない。

電柱でもいい。

ガードレールでもいい。

だが何もなかった。

 

見渡す限り森だった。

それも見たことのない木ばかりだ。

葉は妙に大きかった。

幹の色も違う。

見上げるほど高い木ばかりだった。

森というより、巨大な柱が並んでいるように見えた。

「……なんだよ、ここ」

思わず声が漏れた。

自分の声が妙に大きく聞こえた。

 

歩く。

歩く。

歩く。

だが景色は変わらない。

人工物が何一つ見つからない。

私は額の汗を拭った。

疲労ではない。

焦りだった。

その時だった。

ガサッ。

私は反射的に振り返った。

右手の藪が揺れている。

何かいる。

私は目を凝らした。

だが見えない。

ガサ。

また鳴る。

近い。

十メートルか。

二十メートルか。

距離が分からない。

獣だ。

姿が見えなくても。

いる。

その感覚だけは分かる。

私は動かなかった。

いや、動けなかった。

イノシシかもしれない。

シカかもしれない。

野犬かもしれない。

問題は、どれでも困るということだった。

私はゆっくり周囲を見回した。

登れそうな木はない。

逃げ場もない。

手に持っているのはスマートフォンだけだ。

ガサ。

音がする。

止まる。

また音がする。

こちらの様子を窺っているようにも思えた。

私は無意識に唾を飲み込んだ。

喉が乾いていた。

どれほどそうしていただろう。

ガサガサッ。

突然。

藪の向こうで何かが走った。

大きかった。

見えたのは一瞬だけだった。

黒い影。

低い姿勢。

大型犬より大きい。

イノシシかもしれない。

そう思った。

だが、どこか違った。

私はその正体を考えた。考えようとしたが、結局分からなかった。

音は遠ざかっていく。

やがて完全に消えた。

私はようやく息を吐いた。

知らないうちに拳を握り締めていた。

日が傾いている。

まずい。

空を見上げる。

木々の隙間から見える空は、すでに赤く染まり始めていた。

あと一時間もない。

完全に日が落ちる。

そこで初めて。

私は遭難という言葉を現実のものとして考えた。

財布を取り出す。

中には運転免許証と職員証が入っていた。

 

御影町役場

農林振興課

森川 碧

 

私はしばらく職員証を見つめた。

「だから何だっていうんだ」

思わず苦笑する。

今の状況で、その肩書きに何の意味もなかった。

私は空を見上げた。

森は少しずつ夜に沈み始めている。

歩き続けるべきか。

それとも夜を越せそうな場所を探すべきか。

遠くで、また獣が鳴いた。

私はその声を聞きながら。

ようやく認めることにした。

今夜はここで夜を越さなければならない。

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