私はしばらく耳を澄ませていた。
もう鳴き声は聞こえない。
先ほどから風一つ吹かない。
静寂だけが森を満たしていた。
私はスマートフォンをポケットへ戻した。
考えろ。
まずは落ち着け。
クマから逃げるうちに方向感覚を失った。
ただそれだけだ。
私は歩き出した。
立ち止まっていても仕方がない。
どこかへ下れば道路くらいある。
林道でもいい。
人の痕跡さえ見つかれば何とかなる。
歩きながら周囲を見回す。
だが違和感は消えなかった。
道路がない。
林道もない。
人の手が入った痕跡が見当たらない。
電柱でもいい。
ガードレールでもいい。
だが何もなかった。
見渡す限り森だった。
それも見たことのない木ばかりだ。
葉は妙に大きかった。
幹の色も違う。
見上げるほど高い木ばかりだった。
森というより、巨大な柱が並んでいるように見えた。
「……なんだよ、ここ」
思わず声が漏れた。
自分の声が妙に大きく聞こえた。
歩く。
歩く。
歩く。
だが景色は変わらない。
人工物が何一つ見つからない。
私は額の汗を拭った。
疲労ではない。
焦りだった。
その時だった。
ガサッ。
私は反射的に振り返った。
右手の藪が揺れている。
何かいる。
私は目を凝らした。
だが見えない。
ガサ。
また鳴る。
近い。
十メートルか。
二十メートルか。
距離が分からない。
獣だ。
姿が見えなくても。
いる。
その感覚だけは分かる。
私は動かなかった。
いや、動けなかった。
イノシシかもしれない。
シカかもしれない。
野犬かもしれない。
問題は、どれでも困るということだった。
私はゆっくり周囲を見回した。
登れそうな木はない。
逃げ場もない。
手に持っているのはスマートフォンだけだ。
ガサ。
音がする。
止まる。
また音がする。
こちらの様子を窺っているようにも思えた。
私は無意識に唾を飲み込んだ。
喉が乾いていた。
どれほどそうしていただろう。
ガサガサッ。
突然。
藪の向こうで何かが走った。
大きかった。
見えたのは一瞬だけだった。
黒い影。
低い姿勢。
大型犬より大きい。
イノシシかもしれない。
そう思った。
だが、どこか違った。
私はその正体を考えた。考えようとしたが、結局分からなかった。
音は遠ざかっていく。
やがて完全に消えた。
私はようやく息を吐いた。
知らないうちに拳を握り締めていた。
日が傾いている。
まずい。
空を見上げる。
木々の隙間から見える空は、すでに赤く染まり始めていた。
あと一時間もない。
完全に日が落ちる。
そこで初めて。
私は遭難という言葉を現実のものとして考えた。
財布を取り出す。
中には運転免許証と職員証が入っていた。
御影町役場
農林振興課
森川 碧
私はしばらく職員証を見つめた。
「だから何だっていうんだ」
思わず苦笑する。
今の状況で、その肩書きに何の意味もなかった。
私は空を見上げた。
森は少しずつ夜に沈み始めている。
歩き続けるべきか。
それとも夜を越せそうな場所を探すべきか。
遠くで、また獣が鳴いた。
私はその声を聞きながら。
ようやく認めることにした。
今夜はここで夜を越さなければならない。