向こう側の獣   作:深山 悠

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第三話 渇き

森の中は急速に暗くなっていた。

木々が空を覆っているせいで、実際の日没よりもずっと早く夜が訪れる。

あと三十分もすれば足元さえ見えなくなるだろう。そうなれば身動きは取れない。

私は寝床になりそうな場所を探しながら森の中を歩いた。

 

しばらく進んだところで、斜面の途中に岩場を見つける。大きな岩がせり出し、その下には人が一人入れそうな窪みができていた。

私はしゃがみ込み、周囲を見回した。洞窟と呼ぶには小さすぎるが、今の状況では十分だった。

少なくとも背後を気にせずに済むし、風も多少は防げそうだった。

岩へ背中を預けると、ようやく全身から力が抜けた。思っていた以上に疲れていたらしい。

窪みの中へ腰を下ろし、そのまま横になる。

落ち葉が積もっていたので多少はましだろうと思ったが、現実はそう甘くなかった。

冷気は地面から容赦なく伝わってくるし、背中には岩の硬さが食い込んでくる。体勢を変えれば今度は肩や腰が痛み、少しでも楽な姿勢を探して何度も寝返りを打ったが、結局どこも落ち着かなかった。

眠れるはずがないと思った。

だが疲労は思っていた以上に深かったらしい。

次に目を開いた時には、どれほど時間が経ったのか分からなかった。

 

目を覚ますと、木々の隙間から差し込む朝日が眩しかった。

一瞬、自分がどこにいるのか分からない。見慣れない木々、岩陰、冷たい地面を見て、ようやく昨夜の出来事を思い出した。

背中も首も固まったように痛む。地面で眠った代償だった。

私は顔をしかめながら体を起こし、ポケットからスマートフォンを取り出す。画面は点いたが、電波表示は相変わらず圏外のままだった。昨夜と何も変わっていない。夢ではないらしい。現実だった。

昨夜から何も口にしていないせいで空腹はさらに強くなっていたし、喉の渇きも無視できないところまで来ていた。考えるのは後だ。まずは水を探さなければならなかった。

歩き始めてしばらく経つと、喉の渇きは思っていた以上に深刻だった。口の中が張り付き、唾を飲み込むたびに違和感がある。私は水を探しながら森の中を歩いた。とにかく水が欲しかった。

しばらく進むと視界が少し開ける。森の一角が大きくぬかるみ、泥と水が混じり合って小さな池のようになっていた。私は思わず足を速めたが、近付いてすぐに足を止めた。

獣のヌタ場だった。

役場の仕事で何度も見たことがある。イノシシやシカが泥浴びをする場所だ。

周囲には無数の足跡が残されていた。大小様々な蹄の跡が泥を踏み荒らしている。

しゃがみ込むと臭いが鼻を突いた。獣臭。それに混じって、鼻の奥に張り付くような嫌な臭いもする。泥の表面には黒っぽい塊や繊維のようなものが混じっていた。何なのかは分からない。

だが、おそらく排泄物も混じっているのだろう。獣たちはここで泥浴びをし、水を飲み、そして用も足しているはずだった。

私は顔をしかめた。

飲めるような水ではない。

こんな水を飲めば腹を壊すかもしれないし、病気になるかもしれない。頭では分かっていた。だが喉は違うことを言っていた。口の中は乾き切っている。

私はしばらく泥水を見つめたあと、観念したように息を吐いた。

「……背に腹は代えられないか」

上着を脱ぎ、泥の少ない場所から水を掬って生地を通し、近くの岩の窪みに落としていく。意味があるのかは分からない。気休めだった。

それでも何もしないよりはましな気がした。

 

何度も繰り返した結果、濁りは少し薄くなった。だがそれだけだった。

私はしばらく躊躇したあと、顔を近付けて臭いを嗅いだ。嫌な臭いがした。だがもう限界だった。

観念したように息を吐き、泥水を口に含む。

冷たかった。

ただそれだけだった。

だが二口目を飲んだ瞬間、強烈な吐き気が込み上げてくる。獣臭。泥の臭い。口の中に広がる得体の知れない味。本能が拒絶していた。

飲むな。

頭のどこかでそんな声がする。

だが喉は渇いていた。

どうしようもなく。

私は顔をしかめたまま、もう一度水を口に含む。吐き気がしても飲むことをやめられなかった。三口、四口と飲み続け、気付けば夢中になっていた。

ようやく顔を上げた時には、岩の窪みに溜めた水はほとんどなくなっていた。

私は口元を拭う。

そして小さく笑った。

「終わってるな」

そう呟いてから、自分でも何がおかしいのか分からなくなった。

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