向こう側の獣   作:深山 悠

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第四話 森に隠れる獣

私はしばらくその場に座り込んでいた。

胃の奥にはまだ嫌な感覚が残っている。口の中にも獣臭がこびり付いており、唾を飲み込むたびに吐き気が込み上げてきた。

今になって思えば、無理に飲み下す必要はなかったのかもしれない。

口を湿らせるだけでも、あの渇きは多少ましになったはずだ。

服で糞尿の混じった泥水を濾し、それを飲む。文字にしたら正気を疑うような行動だ。

思い返すほど情けなくなる。 おおよそ文明人とは思えぬ暴挙だった。

もっとも、今さら後悔したところで何も変わらない。

飲んでしまったものは戻らない。今さら反省したところで腹の中の泥水が消えるわけでもなかった。

 

私は何となく顔を上げ、少し離れた場所にある別のぬかるみに目を向けた。

そこには苔むした古い倒木があった。森では珍しくない。

私はぼんやりとその倒木を眺めていたが、やがて違和感を覚える。

その倒木はまるで水を飲んでいるようにゆっくりと頭を下げていた。

私は思わず目を細める。

倒木が頭を下げるはずがない。そう思った次の瞬間、その苔むした塊がゆっくりと首を持ち上げた。

私は息を呑んだ。そこでようやく気付く。

倒木ではない。獣だった。

だが何の動物なのかは分からなかった。

距離がある上に、全身が苔に覆われているせいで輪郭が掴みづらいのである。

やがて獣が少し体の向きを変える。

そこでようやく全体像が見えた。

その姿はシカを連想させた。しかし、どこか私の知るシカとは違って見えた。

体格はニホンジカに近い。脚も長く、頭部の形もよく似ている。だが全身を覆う厚い苔が、その印象を根底から覆していた。

背中から首筋にかけて緑色の苔がびっしりと張り付き、場所によっては蔦のような植物まで絡み付いている。毛並みはほとんど見えない。もし動かなければ、私は倒木か苔むした岩だと思って通り過ぎていただろう。

私はしばらくその姿に見入っていた。

驚いているはずなのに、不思議と恐怖は感じない。

むしろ感心に近い感情を覚えていた。

あれほど森の景色に溶け込んでいれば見付からないのも当然だった。

実際、あの獣が動くまで私はその存在に気付かなかったのである。

 

獣はしばらく水を飲み続けていた。その動作は実にゆっくりとしている。

時折顔を上げて周囲を見回し、再び水面へ口を近付ける。

私は自然と息を潜めていた。

距離は離れているが、それでも物音を立てないよう気を付けてしまう。目の前の生き物が何なのか分からなかったからだ。

獣は再び顔を上げる。その拍子に首筋の苔がわずかに揺れた。

付着しているだけの苔とは違う。もっと自然だった。 まるで最初からそういう生き物であるかのように体に馴染んでいる。

私は思わずポケットへ手を伸ばし、メモ帳を取り出した。

獣はまだ水を飲んでいる。

私はその姿から目を離さないまま、空いているページを開いた。

『シカに類似する中型獣を確認。

 単独行動。

 体表全体を苔状の植物が覆う。

 静止時は倒木との判別が困難。』

そこまで書いてから、私はペン先を止めた。

しばらく考えた後、余白へ文字を書き加える。

『苔鹿(仮称)』

もちろん正式な名称など分からない。だが、記録を付ける以上、呼称がないのは不便だった。

我ながら安直だと思う。それでも特徴はよく表している。

少なくとも今はそれで十分だった。

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