俺は目覚めた。
おかしい。
俺は死んだ。確かに殺してもらったのだ。
魔導王陛下の魔法を受け、何の痛みもなく意識が途切れた。最後に見たのは、黒いローブ。最後に聞いたのはあのお方の呆れたような声だった。
──『馬鹿だな』
そこまでは覚えている。
ここはどこだ。
薄く目を開ける。
真っ先に視界へ入ったのは、見覚えのない白い天井だった。
戦場の空ではない。天幕でもない。ましてや死体を放り込む穴の中でもないらしい。
背中には柔らかな感触がある。
ベッドだ。
俺はベッドに寝ていた。
死後の世界というのは随分と心地良い空間なのだな。
いや。
そんな馬鹿な。
俺はゆっくりと右手を持ち上げた。指が動く。握る。開く。もう一度握る。
生きている時と変わらない。
頬に触れる。
温かい。
胸元に手を置けば、鼓動まである。
どく、どく、と。
俺の胸の中で心臓が動いている。
「……なんだ、これは」
声も出た。
喉が妙に乾いている。
体を起こそうとして、すぐに後悔した。
「ぐっ……」
全身に力が入らない。
痛いわけではない。ただ、ひどく体が重い。長く寝込んだ病人のようだった。腕に力を込めて上半身を起こし、辺りを見る。
広い部屋だった。
俺が王城で使っていた私室よりも豪華なのではないだろうか。
壁には見事な装飾が施され、家具の一つ一つまで恐ろしく高価そうだ。窓には厚いカーテンが掛かり、その隙間から明るい光が差し込んでいる。
少なくとも地下牢ではない。
死体置き場でもない。
では本当に死後の世界なのか。
まさか善人だけが行けるという場所ではあるまいな。俺が善人だとは到底思えない。
「起きたか」
「──っ!」
聞き覚えのある声に、俺は反射的に振り返った。
部屋の中に、黒い影が立っていた。
黒衣。
骸骨。
赤く揺らめく眼窩。
「……魔導王、陛下?」
「ああ」
俺はしばらく、その姿を眺めた。
夢ではない。
いや、夢でないという保証もないが、少なくとも今までこれほど嫌に鮮明な夢を見た覚えはない。
「ここ、は……?」
「ナザリックだ」
ナザリック。聞いたことがある。魔導王陛下の本拠地。
「私は捕虜になったのでしょうか?」
「違う」
「では人質でしょうか」
「違う」
「君は私を何だと思っているんだ?」
「……失礼いたしました」
俺は改めて自分の体を見る。
傷はない。
鎧もない。
簡素ではあるが上等な衣服を着せられている。
記憶が正しいならば、俺は戦場で死んだ。
ならば。
「まさか」
顔を上げる。
「陛下が、私を?」
「ああ」
「生き返らせた、と」
「ああ」
「……何故?」
一番聞きたかった言葉が、ようやく出た。
魔導王陛下はすぐには答えなかった。
あの時と同じだ。
このお方は、答えを考える時にほんの少し黙る。
「そうだな」
やがて陛下は言った。
「私にも、上手く説明できない」
「……はい?」
思っていた答えと違った。
何か大きな目的があるのだと思っていた。
王国の残党を統治させるため。
何らかの情報を引き出すため。
俺を利用するため。
当然、その類いだと思っていた。
ところが当の本人が、分からないという。
「陛下にも分からないのですか?」
「ああ」
「私を蘇らせたのは陛下、なのでしょう?」
「そうだ」
「それなのに?」
「そうだ」
堂々と言われると、こちらが間違っているような気がしてくる。困った。
「……随分と奇妙な話ですね」
「自覚はある」
魔導王陛下は俺の横にある椅子へ腰を下ろした。
その仕草を眺めながら、俺はもう一度胸へ手を当てる。
心臓が動いている。
俺は生きている。
生きてしまっている。
「王国は」
声が少しだけ掠れた。
「……どうなりました」
質問するまでもない。
分かっていた。
それでも聞かなければならなかった。
陛下は俺から目を逸らさなかった。
「滅びた」
短い言葉だった。
胸の奥に、鈍いものが落ちた。
そうか。
滅びたか。
分かっていた。
俺が死ぬ前から、結果は決まっていた。
分かっていたはずなのに。
実際にその言葉を聞けば、どうにもならないものが込み上げる。
父上。
兄上。
ラナー。
城に残った者たち。
兵たち。
街。
王国。
何百年と続いてきたもの。
全部。
もうない。
「……そう、ですか」
それ以上は言えなかった。
泣くほどの涙も出ない。
怒鳴ったところで何かが戻るわけでもない。
ましてや、その原因となった本人が目の前にいる。
当然だ。
許せるはずがない。
だが同時に、その本人が俺を生き返らせた。
憎しみも、無い。複雑だ。
どういう顔をすればいいのだろう。
「怒らないのか?」
「怒っては……おります」
「そうか」
「ええ」
俺は小さく息を吐いた。
「ですが、陛下へ怒鳴り散らしたところで王国が蘇るわけでもありません。それに……」
「それに?」
「今の私は、怒りより困惑の方が勝っています」
魔導王陛下の赤い光が揺れた。
「そうだろうな」
「他人事のように仰らないでいただけますか」
「すまない」
謝られた。
この御方は妙なところで素直だ。
「……陛下」
「なんだ?」
「私は、これからどうなるのでしょう」
自分で口にして、ひどく頼りない質問だと思った。
だが、本当に分からない。
王国はない。
王子という立場もない。
守る国も、帰る場所もない。
俺は死ぬつもりだった。
死んだ。
そこで俺の役目は終わった。
なのに、また生きている。
何をすればいい。
「それを私に聞くのか?」
「私を蘇らせたのは陛下ですので」
「それはそうだが……」
魔導王陛下は考え込むように顎へ手を当てた。
ややあって、俺を見る。
「好きにすればいいのではないか?」
「…………」
「何だ、その顔は」
「いえ」
あまりにも無責任ではないだろうか。
俺を勝手に生き返らせておいて、好きにしろ。
「不満か?」
「少々」
「では、魔導国で働くか?」
「それはそれで大問題でしょう」
「そうか?」
「つい先日まで敵国の王子だった男ですよ」
「有能なら使う価値はある」
さらりと言われた。
一瞬、言葉に詰まる。
「……陛下は、私を有能だと?」
「ああ」
「…………」
「何だ?」
「いえ」
どうにも調子が狂う。
王国にいた頃より、敵だった男の方が俺を高く評価しているように聞こえる。
笑えない話だ。
「まあ、今すぐ決める必要はない」
魔導王陛下は続けた。
「君は一度死んだばかりだ。しばらく休むといい」
「死んだばかり、という言葉も妙ですね」
「私が言うと特にそう聞こえるだろうな」
「ええ」
思わず口元が緩んだ。
笑っていいのか。
国が滅びたばかりだというのに。
そう思った瞬間、笑みが消えた。
陛下は何も言わなかった。
ただ俺を見ていた。
その沈黙が、かえってありがたかった。
それにしても、"好きに"か。
俺の好きなこと。今までの人生で、したかったこと。
一体、何なのだろうな。
──────
数日後。
俺はどうにか一人で歩ける程度まで回復していた。
蘇生というものはもっと便利なものだと思っていたが、どうやら死者は生き返らせれば全て元通り、というほど都合のよいものでもないらしい。
部屋の中に閉じ籠もっていても仕方がない。
そう思い廊下へ出たところで、魔導王陛下と出くわした。
いや。
本当に偶然だったのだろうか。
この場所で俺がどこにいるかなど、陛下には簡単に分かるのではないだろうか。
「歩けるようになったようだな」
「おかげさまで」
「少し外へ出るか?」
「外?」
「庭園がある」
庭園。
この地下だか異界だか分からない場所に?
疑問はあったが、断る理由もない。
「喜んで」
俺は陛下の隣を歩いた。
妙なものだ。
少し前まで戦場で向かい合っていた相手と、今は並んで廊下を歩いている。
敵でなければ。
あの時、自分で言った言葉が頭を過った。
──もう少し気安く話せたかもしれません。
まさか、本当にその機会が訪れるとは思わなかった。
案内された先には、広い庭園があった。
柔らかな光。
整えられた草木。
色とりどりの花。
どこから吹いているのか、穏やかな風まである。
空を見上げる。
本物なのだろうか。
この場所では何を見ても疑わしくなる。
「気に入らなかったか?」
「いえ。驚いていただけです」
たた、全て息を呑む程美しかった。
「そうか」
陛下は少し先まで歩き、開けた場所で足を止めた。
「ここにするか」
「何をです?」
答える代わりに、陛下が片手を動かした。
次の瞬間、何もなかった場所に黒い机と二脚の椅子が現れた。
俺は思わず立ち止まる。
「……またですか」
「何がだ?」
「初めてお会いした時も、陛下はこのように椅子を出されました」
「ああ」
覚えていたらしい。
「座ろう」
「はい」
向かい合って座る。
戦場での会談と同じだ。
違うのは、周囲に兵がいないこと。
俺が鎧を着ていないこと。
そして。
次に殺し合う予定がないこと。
陛下が机の上に水を置いた。
俺はそれを見て、思わず笑った。
「ありがとうございます」
コップを手に取る。
「毒を疑わないのか?」
「何を言うのですか」
「今回は前と事情が違うかもしれないぞ」
「私をわざわざ蘇生させて数日療養させた後、庭園へ連れ出し、毒殺するのですか?」
「……確かに効率が悪いな」
「陛下らしくありません」
水を一口飲む。
冷たい。
以前と同じだ。
それなのに、味はまるで違うように思えた。
あの時は、これが最後になるかもしれないと思って飲んだ。
今は。
明日もまた飲めるかもしれない。
「おいしいです」
「そうか」
陛下が答える。
同じやり取りだった。
俺はコップを置いた。
しばらく、二人とも話さなかった。
気まずいわけではない。
むしろ不思議な静けさだった。
戦場では話すべきことが山ほどあった。
降伏。王国。戦争。死。
今は何を話してもいい。
だから逆に、何を話せばいいのか分からない。
「妙ですね」
「何がだ?」
「以前より、今の方が話題に困ります」
「そうなのか?」
「ええ。以前は立場がありましたので。私は王国の王子、陛下は魔導国の王。話すべきことは決まっていた」
「今は違うと?」
「王国はありませんから」
口にすると胸が痛んだ。
それでも続ける。
「少なくとも今ここにいる私は、王国の使者ではない。陛下へ降伏を願いに来たわけでもない。ですから……何を話してよいものか」
陛下はしばらく俺を見た。
「何でもいいんじゃないか?」
「何でも?」
「ああ。食べ物でも、天気でも、昔の話でも」
「陛下は普段……そのような話をなさるのですか?」
「する」
「意外です」
「君は私をどういうものだと思っている」
また聞かれた。
「冷徹で仕事熱心な方かと」
「違うぞ。仕事はそんなに好きではない」
「そうなのですか」
俺は少し笑った。
「うむ……では、ザナック」
「はい」
「君の好きなものは?」
「好きなもの、ですか?」
「ああ」
また妙な質問だ。
だが以前の"幸せ"よりは答えやすい。
「食べ物なら甘いものは好きです」
「そうなのか」
「意外ですか?」
「少しな」
「陛下は?」
「私は食べない」
「ああ……」
そうだった。
聞いてから気付く。
「失礼しました」
「構わない」
しばらくして、俺はまた笑ってしまった。
「なんだ?」
「いえ。ただ、本当に妙だと思いまして」
「何が?」
「なんだかくだらない話をしているなと」
「悪いことか?」
「いいえ」
即答してから、自分でも少し驚いた。
「……悪くありません」
風が吹いた。
庭園の木々が小さく揺れる。
こんな時間が存在するとは思わなかった。
俺は死んだ。
国もなくした。
何もかも失った。
その事実は変わらない。
それでも、死んだ後にこんな時間が残っている。
奇妙だ。
あまりにも奇妙で。
少しだけ、おかしかった。
ふと、一つ思い出す。
「そういえば」
「なんだ?」
「陛下」
俺は机に肘をつかないよう気を付けながら、少し身を乗り出した。
「一つ、伺っても?」
「いいぞ」
「あの時の約束ですが」
陛下の赤い光が揺れた。
「約束?」
「私を、できるだけ優しく殺すという約束です」
「ああ」
「陛下は、確かに守られました」
「そうだろう」
「痛みもありませんでした。あれほど見事に死ねるとは思っておりませんでした」
「褒められているのか?」
「一応は」
俺はコップへ視線を落とす。
「ですが」
「なんだ?」
「それなら何故、私は今ここにいるのでしょう」
陛下が黙った。
俺は顔を上げる。
「陛下は私を殺すと仰った。私はそれを受け入れた。そして陛下は実際に私を殺した」
「ああ」
「なのに、生き返らせた」
「ああ」
「それでは、何のために殺したのです」
「約束だったからだ」
あまりにも当然のように言われた。
「…………」
「私は君を殺すと約束した」
「はい」
「だから殺した」
「はい」
「その後で蘇生した」
「……はい」
「何か問題があるか?」
あるだろう。
俺はしばらく陛下を見つめた。
どうやら本気らしい。
「陛下」
「なんだ?」
「普通、殺すと約束した場合、その後に生き返らせることまでは想定しておりません」
「しかし、蘇生させないとは約束していない」
「…………」
「私は確かに君を殺した。君も死んだだろう?」
「死にました」
「ならば約束は守った」
陛下は堂々と言った。
「殺すとは言ったが、その後そのまま死なせたままにするとは言っていない」
一瞬。
言葉が出なかった。
それから。
どうしようもなく、おかしくなった。
「ふっ……」
口元を押さえる。
駄目だ。笑ってはいけない。相手は魔導王だ。
王国を滅ぼした男だ。俺を一度殺した本人だ。
なのに。
「く、はは……っ」
「そんなにおかしいか?」
「申し訳、ございません……」
笑いを堪えながら顔を上げる。
赤い光が、少し不満そうに揺れているように見えた。
本当に。
恐ろしい御方だ。恐ろしく強く。恐ろしく賢く。
そして、時々。
ひどく馬鹿馬鹿しい。
俺は目元を拭う。
久しぶりに、こんなふうに笑った気がした。
いつ以来だっただろう。
思い出せない。
「……すみません」
「なんだ?」
俺はまだ残る笑みを隠さず、魔導王陛下を見た。
「それは屁理屈というのですよ、陛下」