束の間の逢瀬を満喫した私は、今日も遅刻ギリギリで教室に入る。が、今日に限っては普段よりもその身に刺さる視線が多い。それもそのはず。なにせ頗る機嫌が良かったので、ついつい鼻歌交じりになっていた。訝しげにクラスメイトたちが談笑の横目で見てくるものの、まったく気にならない。ご機嫌な様子を隠すこと無く自分の席についた。
「……ふへ」
だらしない含み笑いが漏れる。ついさっきまで彼女と繋いでいた手を眺めたからだ。まだ、触れ合った感覚が残っている。温もり、匂い、気配が私の全身に染み付いている。ちょっとやそっとじゃ消えやしない。
それに、天井には彼女の"目"があり、コンセントの奥には彼女の耳がある。御守りも、学生証すらも翔子の目となり耳となる。私はいつだって彼女に見守られている――それがどんなに安心できることか。世の人々には分かりゃしないだろう。
どれほどの雑踏の中に居ても、翔子は私を見つけ出してくれる。どんなに酷い雑音でも、翔子は私の声を聞き分けてくれる。そういう確信めいたものが私の内側にはあった。
思わずカメラに向かって手を振りたくなったけれど、流石に今それをやるとクラスメイトからは明らかな奇行にしか映らないので泣く泣く断念。奇異の目で見られるどころか頭の心配をされてしまうこと請け合いだ。
などと考えているうちに茶柱先生がやってくる。相変わらずスーツの胸元を開けた出で立ちは、男子からすれば垂涎ものかもしれないけど、女の私から見ればふしだらに思える。まあ、夜な夜な爛れた生活を送る自分が言えた義理じゃないんだけど。
「全員揃っているな。さて、今日は少しお前たちに報せがある。先日、校内でトラブルが発生した。そこの須藤とCクラスの生徒とで諍いがあったようだ。要するに喧嘩だな」
他人事のように淡々と報告する茶柱先生に、クラスメイトたちが俄にざわめく。責任如何によってはクラスの持つポイントの減少、そして須藤本人の停学の可能性を告げられる。クラスメイトからすれば、授業態度を改善して真面目にやってきたというのに、揉め事などという水を差されたわけで、決して少なくない悪感情が須藤へ向けられる。当の本人はふてぶてしそうに腕を組んでいた。暗に自分は悪くないと態度で主張しているみたいだけど、私には須藤に原因があるようにしか見えない。
「結論が出ていないのは何故なんですか?」
クラスの雰囲気が濁り始めたのを察してか、平田くんが徐ろに質問する。彼なりに須藤を慮っての行動だろう。
「簡単な話だ、双方で意見が食い違っている。訴えを起こしたのはCクラスからで、須藤から一方的に殴られたと主張している。だが須藤に話を聞けば、彼は自分はCクラスの生徒に呼び出され、喧嘩を売られたに過ぎず、まったくの事実無根だとな」
「ああそうだ。俺は悪くねえ、正当防衛だ。Cクラスの連中がホラ吹いてやがんだよ」
「だが、それを証明する証拠がない。真実が分からない以上、こうして結論が保留になっているわけだ。どちらに非があるかで処遇も対応もその都度変わる。それが世の常だ」
不満げに舌打ちをする須藤を、茶柱先生は冷ややかな視線で一瞥した。
「須藤の言い分はお世辞にも信憑性が高いとは言えない。これで目撃者でも居れば話は別だが、まあ一応聞くとしよう。お前たちの中に喧嘩を目撃したものは居るか? もし居れば挙手してもらおうか」
その問いかけに誰ひとり手を挙げない。仮に、もしもそんな人物が居たとしても、素行の悪い須藤のために名乗り出るお人好しが居るとは思えなかった。
「残念だったな須藤。そう都合良く目撃者は現れないようだ」
相変わらずの冷たい物言いで告げると、それから茶柱先生はこの件を各クラスの担任が同じように説明した。それを聞いた須藤は歯噛みしたように表情を歪ませている。彼としては大事にするつもりはなかったのかもしれないけど、訴えられてしまえば嫌でも情報が拡散する。隠し通せるわけがない。
「本件に関しては以上となる。最終的な判断は来週の火曜日には下される見込みだ」
そう締め括ってホームルームが終わり、茶柱先生が教室を出ていく。すると当然、抑圧されていた須藤への不満があちこちから噴出する。この件でポイントが減らされてしまうかもと危惧している生徒が大半だったけど、私は翔子から既に200000ポイント近く貰っているので、クラスでの収入がなくとも生活には不自由しない。なんなら、須藤に関しては停学にでもなってしまえばいいとさえ思っている。あれは暴力的な輩だ。なるべく同じ空間に居たくない。
騒がしくなってきたクラスメイトたちを他所に、私は学生証を取り出して翔子と連絡を取る。Aクラスでも情報が共有されたようで、あっちでも目撃者は出なかったらしい。まあ、居ても名乗り出はしないだろうなと薄っすら思う。Aクラスからすれば今回の件は対岸の火事なわけで、わざわざ首を突っ込む理由がない。下位クラス同士で潰し合う分には遠巻きに眺めていれば勝手に自滅してくれるのだからなおさら。
そんなことより。チャットを送って昼休みも一緒に居たいという旨を伝えると、翔子は上級生とポイントの件で話し合いがあるらしく、それに同伴させてくれることになった。どうやら、長らく不明瞭だった翔子の金策の一つが関係しているとのこと。二人っきりで食事が取れないのは残念だけど、独り寂しくぼっち飯を食べるよりは遥かにマシだった。
「ちょっと良いかな?」
学生証を弄りながら昼休みの到来を早くも待ち望んでいると、櫛田さんが声を上げる。
「あのね、茶柱先生の言う通り須藤くんは喧嘩をしちゃったかもしれない。けど、須藤くんは巻き込まれただけなの」
悲痛そうな面持ちでクラスメイトたちに訴えかける櫛田さんだったが、周囲の反応は芳しくない。
須藤がバスケのレギュラーに選ばれた話や、嫉妬したバスケ部員によって数人で脅されたこと、その結果喧嘩に発展してしまい、自衛のために相手を殴ってしまったということ。それらを信じてほしいと、櫛田さんによって真摯に訴えかけられる。それでもやっぱり、クラスメイトたちの心を動かすには至らない。須藤の普段の素行があまりにも悪かったが故に。
「もし、このクラスや友達、先輩方の中で目撃した人が居たら、いつでも私に教えてください。よろしくお願いしますっ」
と、須藤のために頭まで下げてみせた櫛田さんだったが、暫し沈黙してクラスメイトらが顔を見合わせると、山内を筆頭に続々と否定的な意見が漏れる。どれも須藤への素行の悪さを指摘するものだった。私はそれをチャットのやり取りをしながら聞き流す。須藤は確かにクラスメイトではあるけど、同時に他人でしか無かった。たとえ彼が濡れ衣を着せられていたとしても、今の私に庇う理由はない。
少し前までの自分とは違って、いつからか排他的な物の見方をするようになってきていた。
だから平田くんが協力する姿勢を見せても、私は端末に意識を向けたまま聞く耳を持たなかった。今はただ、翔子のことだけを考えている。
◆
昼。翔子と共に訪れたのはカフェ・パレットだった。
学年問わず女子で賑わう姦しい店内の一角に席を取って暫く、一人の女子生徒が接触してきた。
「ごめん待たせちゃった?」
「いえ。私たちも来たばかりですので」
テーブルにドリンクを置いて腰を下ろした見知らぬ彼女は、翔子の隣でパンケーキを頬張る私を一瞥して怪訝そうな表情を見せる。
「その子は?」
「彼女は恵ちゃん、私にとってかけがえのない人です。とっても寂しがり屋さんなので、連れてきちゃいました。心配なさらずとも、今回のお話は他言しないよう伝えてありますよ」
「それならまあ……」
艶肌の良い手が私の頭の上で左右に揺れる。喜色に目を細めてされるがままの有り様を見て、待ち人はやや呆れたように苦笑した。
「早速本題に入りましょうか。あまり先輩のお時間を取るわけにもいきませんからね」
余所行きの営業スマイルを見せつけて、翔子が話を切り出す。人当たりの良い微笑みを浮かべるその横で、私は黙ってパンケーキを一切れ口に運ぶ。ん、美味しい。
「先日お話させて頂いた、我が社への内定を確約する代わりに、保有する全てのプライベートポイントを私に譲渡して貰うという契約ですが……いかがでしょう?」
朝日のように柔和な笑みで尋ねる翔子。対面に腰掛けた先輩は、手元のドリンクに視線を伏せて逡巡しているようだった。周囲の喧騒が僅かにボリュームを落とした合間を縫って、彼女は静かに口を開く。
「魅力的な提案だと思う。土岐製薬は大きい会社だし、私も何度か商品を使ったこともある。評判も良いし、就職先としては申し分ない。内定競争の倍率もかなり高いんでしょ? 激戦区だって聞いてる。そこに確定で就職できるなんて夢みたいな話だよ。手持ちのポイント全部叩いてでもこの話を受けたいって子、結構多いんじゃないかな」
真剣な眼差しで先輩が語る。確かに彼女の言う通り、翔子の家族の会社は名だたる企業の一つだ。コンビニやモールの薬局にも商品が陳列されているのをよく見かけるし、テレビでは時折CMも流れている。以前は大して注目していなかったけど、最近は目にする度に『あ、翔子のところのやつだ』と関心を寄せて眺めるようになった。
先輩はドリンクを傾け、一度唇を湿らせてから話を続ける。ほんのり甘くカフェオレの香りが鼻腔をくすぐった。
「君も知っての通り、私はBクラス。どうにかAクラスに食らいついてはいるけど、中々差が縮まらない。ま、相手はあの堀北くん率いる最優組だからね、当然っちゃ当然なんだけどさ。でも完全に諦めたわけじゃない。やってやろうって気概は十分残ってる。……だけど、クラスでちらほら保身を考え始める人が出始めてる。うちらは3年だからね、もう後がない。保身に走るのが悪いことだとは思わないよ、実際、私もこうして君の提案に食いついたわけだし」
戸惑うような視線がカフェオレと翔子を行き来する。やや沈黙があって、念を押すように先輩は語気を強めて問う。
「……本当に、確約してくれるんだよね?」
その問いかけに、翔子はにっこりと笑顔を返す。
「ええ、それはもちろん。卒業後、本社の受付にて私の名前を出し、こう伝えてください『勿忘草を見つけました』と」
「勿忘草……真実の愛だっけ? 何かの暗号かな?」
「ご存知でしたか。いえ、深い意味はありませんよ。先輩を推薦したのが私であるという、ただの本人確認です。社内の人間にはそれで伝わりますので。特に、お父様には」
鈴を転がしたような含み笑いは、翔子の所作や醸し出す気品さが相まって、同性の誰よりも非常に上品に映る。彼女の傍で、思わず見とれてしまう。何度目にしても色褪せない振る舞いが、自分に向けられたものではないと理解していてもなお、私の瞳を惹き付けて離さない。パンケーキを口に運ぶ手を止めたまま、暫し硬直していた。
「――わかった。いいよ、契約しよう」
「ありがとうございます。では、こちらの契約書にサインを」
「ま、流石に契約書くらい用意してるよね――――はい」
鞄から取り出した一枚の書類をテーブルに添え、それを熟読した後、先輩はペンを走らせた。返された契約書を受け取った翔子が、満足そうに頷く。
「確認いたしました。これで先輩の進路も安泰ですね」
「そうだね。あー、肩の荷が下りた気分だよ」
ほっと息を吐いて、先輩が朗らかに笑む。話が一段落ついたことを悟り、私も食事の手を今一度動かし始める。ここまで完全にマスコットというか、居ても居なくても変わらない置物ではあった。ただそこにいるだけの無害な生き物である。
場の空気が少々弛緩したところで、柔らかい口調で翔子が釘を刺す。
「内定が確約されたからと言って自己研鑽は怠らないでくださいね? あくまでも決定したのは内定。新人とは言え、無能と判断されれば解雇もやむ無しですから」
「あはは、まあそりゃそうだよね。会社ってそういうものだろうし」
わかってるよ、と先輩はカップに口をつけた。私も注文したパンケーキを半分ほど食べ終えたので、そこで皿にフォークを置く。あとは翔子に食べさせてあげるつもりだった。
「ではお疲れ様でした。契約書はコピーを取っておきますので、内容を再確認したい場合はいつでもご連絡ください。それとここの代金は私が持ちますから、どうぞごゆっくりしていってくださいね」
「ありがとう。じゃ、お言葉に甘えちゃおうかな」
そう言って彼女は早速、席を立ってカウンターへ向かった。翔子へパンケーキをあーんしてあげていると、程なくしてサンドイッチを一皿持ってきた先輩がにまにましながらテーブルに戻ってくる。
「お熱いことで。……ところで、君と似たようなことをしてる1年生が居るって話、もう聞いた?」
やおら聞き覚えのない話題が飛んでくる。ケーキを咀嚼して細い喉を小さく鳴らした後、翔子はそれに答えた。
「ええ、まあ。高円寺くんでしたか」
「うちのクラスの女子も何人か声かけられたみたいでね、卒業時にポイントの現金化してくれるんでしょ? 性格はちょっとアレだけど、顔は良いしコンツェルンの御曹司だから話に乗っかる子も多いみたい。私は最初に声かけられたのが君だったから、こうして今に至るわけだけど。彼、土岐さんにとっては目の上のたんこぶじゃない?」
「そうですね。候補の先輩方が数人取られてしまいました。ですがそこは数でカバーすることにしましたので、特には」
「そっか。でもさ、躍起になってポイントを集める必要ないんじゃないの? だって君、将来土岐製薬の次期社長でしょ。もしかして単に豪遊するためだったり?」
「豪遊……捉え方によってはそうかも知れませんね」
表情が切り替わる。私だけに向けられる、慈愛に満ちた優しい色の面持ち。虚飾のない誠実な微笑み。
「私はただ、この子と平穏無事に、何一つ不自由無く暮らしたいだけなのですよ」
柔らかな唇が、頬に触れた。
◆
軽い昼食を終えてパレットを出る。先輩は甘い空気感が居た堪れなくなったのか、リスみたいにサンドイッチを頬張って早い段階で店を去っていった。
「さっきのが翔子の言ってたポイント稼ぎなの?」
「うん。目星をつけた何人かにああやって話を持ちかけてるの。契約すれば、彼女たちからは毎月1日にそれぞれが持つプライベートポイントの2割が私に振り込まれてくる。卒業する際は残りのポイントを全て一括で払う契約になってるから、取りこぼしもない。万が一、振込が確認されない場合は、契約を打ち切った上で違約金を請求するよ」
「へー、なんて言うんだっけそういうの、不労所得?」
「みたいなものだね」
翔子と腕を組みながら廊下を歩く。互いの歩幅は小さい。少しでも、教室に着くのを遅らせるための自然な配慮だった。
「来月から早速振り込まれてくるから、額によっては想定より早めに移籍できるかも」
「やったっ」
嬉しい報せに心が踊る。顔を喜ばせてその喜びを表現すると、翔子もまた嬉しそうにささやかに破顔した。
「放課後も契約の話が一件あるけど、恵ちゃんはどうしたい?」
「そりゃついてくけど」
「だよね」
翔子は上機嫌に相槌を弾ませる。とことん、私の前では感情豊かだった。最近は逆もまた然りだけど。
「そうだ、終わったらケヤキモールに寄っても良い? 家電量販店で買いたい物があるんだ」
「いいよ。何買うの?」
「監視カメラを一台……いや、やっぱり二台ぐらい買おうかな」
「まだ追加するの? もう十分だと思うけど」
本気で頭を悩ませているものだから、私は苦笑交じりに言った。すると、指を一本立てて至極真面目そうな表情で翔子が理由を述べる。
「ほら、例のトラブルあったでしょ? 恵ちゃんにもしものことがあったら耐えられないから、安全のために設置しておきたいの」
「心配しすぎだって。あれは須藤の方に原因があるからああなったんでしょ。素行も悪いし、あいつの自業自得じゃん」
擁護する気など一切ない私は、本人が居ないのを良いことに思っていることを率直に口にした。あの沸点の低い赤髪が、Cクラスの生徒をタコ殴りにしている様がありありと想像できる。言い分もどこまで信用して良いものやら。全部口からでまかせなんじゃないかとすら考えてしまうのは、幾らなんでも酷いだろうか。……いや、普段の心証が悪すぎて妥当かもしれない。
クラスメイトを冷たく突き放す発言に、翔子は少し目を見開いた。
「そう? 明らかにCクラス側から仕掛けてたように見えたよ」
今度は私が瞠目する番だった。びっくりして少し声が上ずってしまう。
「え? 現場に居たの?」
「あ、言ってなかったね。あんなのどうでもよかったから、つい忘れちゃってた」
言葉の節々から本当に興味がないのが容易に窺える。翔子は廊下を往来する生徒たちを一瞥して、私の耳元にそっと顔を寄せた。
「私が事件の目撃者だよ」