翌日の放課後、私は茹だるような蒸し暑さに苛まれながら、特別棟でカメラの設置を試みていた。もう30分は作業に没頭していて、既に全身から滝のように汗が滲んでいる。おかげで汗を吸ったシャツが肌に張り付いて気持ち悪い。
「あっつぃ……やっぱ翔子に任せればよかったぁ……」
独りごちりながら腕で額の汗を拭い、慣れないドライバーを回してネジを締める。普段使っている校舎とは違って、ここは冷房が効いていない。建物内の室温は外と然程変わらず、むしろ風通しが悪く熱が籠っている分、屋内のほうがよっぽど暑かった。こういうところで電気代をケチるくらいなら、いっそ夏場だけでも一日中ガンガンにクーラーを聞かせて欲しいと思わざるを得ない。学校としては、ろくに生徒が居ない建物を冷やすより節約を選んだということか。
流れた汗が頬を伝い落ちていく。そもそも、何故私がこんな作業をしているかと言えば、翔子とカメラを設置しに特別棟へやってきたはいいものの、直後にコンクールの関係で呼び出しを受けた彼女が、急遽美術部の方へ出向かなければならなくなってしまったのが要因だ。
ついて行こうかどうか迷いはしたものの、結局、私美術部員じゃないしなとその場に残ることに(翔子はめちゃくちゃ名残惜しそうにしていた)。部外者が居てもアレだろうし、なにより、翔子が戻ってくるまでの間にささっとカメラを設置して、彼女を驚かせたかったというちょっとした下心もあった。結果、こうして悪戦苦闘しているわけなのだが。
「お、いけたっぽい……?」
しっかりとネジで固定されていることを確認して、達成感がこみ上げると同時にどっと疲れが出てくる。からっからに乾いた喉を潤すべく脚立を下りると、床に置いておいたスポーツドリンクを手に取り、キャップを開けてごきゅごきゅと喉を鳴らしながら失った水分を補給していく。蒸し暑さのせいでボトルはすっかり結露でびちゃびちゃな上、少し放置していたから若干ぬるくなってしまっていた。が、気にせず一気に半分ほど飲んでしまう。渇いた体に甘い水分が染み渡る。まるで砂漠でオアシスを見つけたような、そんな生き返る気分だった。
廊下の壁に背を預けて一息ついていると、ふと視界の先に人影が見えてくる。
「軽井沢さん?」
こちらに気づいてやってきたのは、堀北さんと綾小路くんのセットだった。これまた珍しい組み合わせである。いや、教室でもちらほらと話しているのを見かけた覚えがあるので、意外にも二人は仲が良いのかもしれない。
「堀北さんじゃん。あと綾小路くんも。こんなとこで何してんの?」
「それはこちらのセリフよ。貴方こそ、ここで何を――」
訝しむ彼女の視線が私の手元を見た。左手にスポドリを持ち、右手には女子高生に似つかわしくない無骨なドライバーが握ってある。それから視線は上を向き、今しがた設置したばかりの監視カメラを注視する。やば、見られた。
「カメラを付けてたのか?」
起伏のない平坦な声色で綾小路くんが尋ねてくる。彼は表情に乏しく、面と向かっている今も感情が読めない人物だ。良く言えばクール、悪く言えば根暗な印象。顔は悪くないんだけどな。
「まあちょっとね。ほら、ここってカメラないじゃん? 何かあったら嫌だし、保険的な?」
ドライバーを脚立の足元に置いていた小さめの工具箱にしまいながら、少しぼかして言う。これは翔子の持ち物だった。
「……土岐は一緒じゃないのか?」
廊下を見渡した綾小路くんが、表情筋を一切動かさずに尋ねてくる。声色的に少しだけ意外そうな雰囲気を滲ませていた。工具箱の蓋を締めてから、私は特に隠す必要もないかと判断する。
「翔子ならちょっと美術部の方に顔出してる。もう戻ってくると思うけど?」
「そうか。いや、いつ見ても二人で居るから、片方だけ見るとなんとなく違和感があってな」
一泊開けて、ところで、と彼は言葉を続けた。
「つかぬことを聞くんだが、土岐と首輪をつけて散歩してたっていうのは本当なのか?」
「え゛っ」
喉から濁音まみれの汚い悲鳴が出る。あまりの動揺に思わず頬が引き攣ってしまい、示唆するどころか言外に白状しているようなものだった。噂は学年中に出回ってるだろうけど、こうして実際にクラスの男子に直接聞かれると、途端に心拍数が跳ね上がる。
「いやっ、あれは、その……何ていうか別に、あたしの趣味じゃなくて翔子が……ね?」
「……マジだったのか」
あたふたと身振り手振りで、あくまでも翔子の趣味だよと説明するも、綾小路くんはじりと一歩後ずさった。まずい、このままでは私がリードを付けられて喜ぶ変態趣味のレズ女だと誤認されてしまう。それはよろしくない。ヒエラルキーはとっくに地に落ちてるだろうけど、不名誉なレッテルが貼られるのは出来れば避けたい。
必死の弁明を受けて、堀北さんが呆れ顔で口を開いた。
「人の趣味趣向にとやかく言うつもりはないけれど、せめて査定に響かないよう人目につかない場所でやってちょうだい。不純異性交遊でどれだけポイントが引かれるか分かったものじゃないもの」
「堀北、軽井沢たちの場合は不純同性交遊だと思うぞ」
「揚げ足を取らないで百合小路くん」
「波紋を呼ぶニックネームを付けるのはやめないか」
嘆息する綾小路くんのやり取りを見るに、彼女とは軽口を叩ける間柄ではあるのが分かる。多分本人らに指摘したら、そんなことはないと端的に返されそうなのが目に浮かぶ。
「てかさ、二人は何しに来たの?」
話の流れを変えるべく、思い出したかのような口ぶりで尋ねてみた。二人は一瞬視線を交差させた後、気だるそうに口を開いたのは綾小路くんだった。
「単に事件現場を見に来ただけだ」
「ふーん……」
怪訝な顔をして冷ややかに視線を投げる。この頃、休み時間になると須藤たちと何やら集まって話しているのをよく見かけていた。そこに櫛田さんも混じっているとなると、ただの談笑の線は薄い。十中八九、例のトラブルの件で解決策を探してるんだろう。
「ねえ、もしかして須藤のこと助けようとしてない?」
単刀直入に、私は鋭い眼差しをぶつけた。
「オレの数少ない友達だしな。見捨てるのも角が立つだろ? 多少は手伝うことにしたんだ」
「やめときなよ。須藤、一回痛い目見たほうが良いって絶対」
「随分と手厳しいな」
「悪い? 仮に綾小路くんがトラブルを起こしたんならあたしも協力したかもだけど、須藤は話が別。あいつ、暴力的だし素行は悪いし、全然反省もしてないでしょ。なんでそんなやつのこと助けなきゃいけないわけ? 退学にでもなればいいのよ」
冷たく言い切って、自分でも内心驚く。どうしてここまで須藤に対して悪感情を抱いているのか、その理由が判然としなかった。過剰というか、私らしくない。他人にこうも攻撃的な思考をするのは違和感がある。
やっぱり最近の私はどこかおかしくなってきている。
「私も軽井沢さんの意見には概ね賛同するわ」
俄に表情を曇らせる私に、思わぬ援護が飛んできた。
「彼は確かに、暴力的で短絡的思考が目立つし、改善傾向ではあるけれど授業態度も良くない。反省の色が見えないのも気に入らないわ。Dクラスにおける不良品のうちの一人であることは明らかよ。けれど、そんな彼でもDクラスの一員である以上、課せられる罰則は軽くする必要がある。Aクラスを目指すには、損害は最小限に抑えなければいけないもの」
「……堀北さんも須藤を助けようってわけ?」
「業腹ではあるけれど、そう受け取ってもらって構わないわ」
凛とした佇まい且つ涼しい顔で考えを述べた彼女の真っ直ぐな目を見ていると、何故か私が責められているような気分になった。感情的とは言え、私は至極真っ当な意見をぶつけたはず。堀北さんが言っていることも頭では理解しているつもり。なのにどうして、こんなにも心がささくれ立って居るのか。自分で自分が分からなくなってくる。
「好きにすれば? あたしは須藤がどうなろうと関係ないし」
投げやりに突き放して会話を打ち切る。ボトルを握る手に力が入って小さく歪んだ音を立てた。イライラする。何故? 分からない。翔子、まだかな。
「なあ軽井沢。オレたちは事件の目撃者を探してるんだが、何か知らないか?」
二人に背を向けて不機嫌さをアピールしても、綾小路くんから問いかけられる。無性にイライラしていて、びっくりするくらい低い声が出た。
「知らないわよ。ってか見てても教えない」
「じゃあ土岐はどうだ? あいつなら、何か見てるんじゃないか?」
一瞬、答えに迷った。以前の私だったら、素直に翔子が目撃者であることを教えていたと思う。でも今の私は変だ。迷ってしまった。事件を解決に導く、クラスの助けになるかもしれない情報。迷う必要なんてないはずなのに。
逡巡した末、わけもわからず自分の感情を優先した。
「……なんであたしに聞くのよ。本人に聞けばいいじゃない」
「それもそうだな」
つい、はぐらかしてしまった。冷静な判断じゃない。キャップを開けて温いスポドリを喉に流し込んでも、思考に霧がかかったまま。ああ、翔子に会いたい。
「――恵ちゃ~ん」
気まずい雰囲気に居心地の悪さを感じて顔をしかめていると、待ち望んだ声が廊下の奥から響いてくる。条件反射で声の方向を見やれば、ぱたぱたと小走りで翔子がこちらへ駆け寄ってきていた。両手には見慣れたトロフィーや丸めた表彰状を抱えている。
「翔子っ」
思わず駆け寄ると、あれほど募っていたはずのフラストレーションが嘘のように消えていく。すっかり心は晴れやかだった。どんな精神安定剤でもここまで速攻で効き目のあるものはこの世に存在しないだろう。
「ごめん待たせちゃって。また顧問の先生に捕まって長話された挙句、戻ろうとしたら次は派閥の勧誘に出くわして……寂しくなかった?」
「全然へーき! それより見てよあれ! あたしが頑張って付けといたから!」
得意げに設置したカメラを指差せば、翔子は目を輝かせて太陽のように破顔した。そしてわざわざ手に持った荷物を床に置き、ぎゅ~っと力強く私を抱きしめてくれる。
「恵ちゃん偉いね~! 代わりにやってくれたの~? いい子いい子~」
「えっへへ……って、い、今は抱きしめるの禁止! 汗かいちゃってるから!」
「だめ~」
身を捩って逃げ出そうとしても、翔子はにこにこと笑顔を振りまきながら強力に離してくれない。気恥ずかしさであわあわしていると、彼女が徐ろに顔を寄せてきてぺろりと首筋を舐めた。ざら、と生暖かい感触が肌を滑る。
「ひゃあう!?」
「んふ。可愛い声」
ぺろ。ぺろ。汗ばむ肌に鮮やかな赤の舌が這う度、私はみっともない声を上げて体をくねらせる。喉仏や鎖骨まで念入りに汗を舐め取られていき、次第に首周りが敏感になってくる。肌に感じる吐息と、ざらついた舌のくすぐったさに連動して腰が浮く。
「ん、ぁ……やぁっ……」
「今日の恵ちゃんは、ちょっとしょっぱいね」
最後に軽くキスをして翔子が体を離す。満足気に舌なめずりを見せていた。
「ごちそうさま。これ以上やると自制が効かないから、続きはお部屋でね」
「も、もう……」
ぽんぽんと頭を撫でられ、私も満更ではない表情でそれに甘える。
「気は済んだかしら」
若干頬を赤らめた堀北さんが、目尻を釣り上げてこちらを睨んでいた。暑さのせい……ではないだろう。さっきまで涼しい顔をしていたのだから。今の痴態に等しい行為を目撃してしまったからに違いない。私は別に、見せつけるつもりはなかったんだけどな。
「本当に所構わずじゃれ合っているのね。節操がないとは思わないの?」
「恵ちゃんが可愛いので、つい」
「理由になっていないのだけれど」
深く溜め息を吐いて彼女はそれ以降口を固く閉ざした。どうやら呆れ果てて物も言えなくなったみたいだ。
「お二人は恵ちゃんに何か御用でしたか?」
忍び笑う翔子が尋ねると、口を一文字に結んだ堀北さんに代わって、綾小路くんが首を横に振って緩慢に答える。
「用ってほどじゃない。偶然出くわしたから、声をかけただけだ」
「そうですか。ところで貴方は?」
「Dクラスの綾小路だ」
「ああ、クラスメイトの方でしたか。そういえばいつぞやの図書館でもお見かけしましたね。私はAクラスの土岐翔子と申します。恵ちゃんとは運命共同体のようなものと思っていただければ」
見せつけるように、自然な所作で翔子は私の手を取り指を絡めた。
「幾つか聞きたいんだが、あのカメラは土岐が買ったのか?」
綾小路くんはフラットな態度を維持したまま、質問を投げる。目線は私が設置したカメラへと向けられていた。
「ええ。例のトラブルを機に設置することにしたんです。恵ちゃんには安心して過ごしてほしいですから」
「……気に入ってるんだな、軽井沢のこと」
「はいっ、私は恵ちゃんを愛しています。ですから、傷つかないよう私が守ってあげないと」
嬉しそうに肯定して、そっと私を抱き寄せる。見上げたその表情は眩い喜色に満ちていた。
「それより、先日起きた暴力事件のことで色々聞いて回ってるんだ。何か知らないか?」
否定も肯定もせず、彼は話を変えた。私に問うたのと同じ内容のものだ。さっきは知らないと突っぱねたけれど、翔子はどう答えるだろうか。彼女は事件の目撃者だと言ったが、同時にどうでもよかったとも言っていた。他クラスの問題であることには変わりないし、私が関わり合いになりたくないことも盗聴器を通して既に知っているはず。そんな彼女が進んで名乗り出るとは思えない。
少し緊張しながら見守っていると、翔子は逡巡する様子を見せて頭を振った。
「残念ながら、あなた方のお力にはなれないかと」
「そうか。ならいいんだ」
あっさりと引き下がって、綾小路くんが背を向ける。
「邪魔して悪かったな」
食い下がること無く去っていった綾小路くんの後を、最後まで意味深な眼差しをこちらに向けていた堀北さんも程なくして追う。二人が廊下の先へ小さくなっていくのを見届けながら、私は翔子を見上げて尋ねた。
「……言わなくてよかったの?」
「うん。わざわざ首を突っ込んでもメリットがないし、私と恵ちゃんには関係のないことだから。それに恵ちゃんも嫌がってたみたいだしね」
そう言って翔子は私の額に浮かんだ汗を指先で拭い、それを軽く吸ってみせた。ちゅぱ、とわざとらしく音が鳴る。
「片付けて帰ろっか。続きはその後で、ゆっくりとね」
◆
軽井沢たちと別れたオレと堀北は、熱気で蒸した廊下を歩きながら話す。
「思わぬ収穫ね」
「ああ。土岐は目撃者と見てほぼ間違いないだろうな」
堀北の言葉に頷いて見せる。思い返すのは、土岐とのやり取りの場面。オレが質問を投げた際、彼女は見事なポーカーフェイスで乗り切った。けれどその実、否定もせず肯定もしていない。曖昧なまま返答を終わらせた。もし仮に一対一で問答していれば、目撃者であると確信を抱くことは難しかっただろう。
だが、軽井沢はその限りじゃない。
オレが土岐に尋ねた瞬間、明確に表情が強張り、不安そうに瞳を揺らして彼女を見つめていた。まるで、言われたくない何かが口にされるのを恐れているような素振り。それは暗に土岐が情報を持っていると軽井沢が教えているようなものだ。堀北も軽井沢の機微を目敏く察し、確信に至ったようだ。
「Dクラスの佐倉は証言としては弱い。だが、Aクラスの土岐なら話は変わってくる。やりようによっては十分に状況をひっくり返せるはずだ」
「ええ。けれど問題は……」
「土岐本人、いや、軽井沢を説得する必要があるな」
あの二人の関係性は今のでおおよそ把握した。土岐は軽井沢に、軽井沢は土岐に依存している。特に、土岐は軽井沢を異様なほど甘やかす傾向があった。であれば、先に軽井沢を説得すれば自ずと彼女もこちらに協力してくれるはずだ。
しかし堀北が懸念するように、問題がある。軽井沢の説得方法だ。
現状、彼女は須藤に不満を抱いている。須藤に諸々の改善を約束させても、それは説得の材料足り得ない。今の彼は心象が頗る悪い。何を言っても信憑性が低い以上、もっとシンプルで分かりやすいメリットを提示できなければ、彼女は決して首を縦に振らないだろう。
「ポイントで釣れると思うか?」
「望み薄でしょうね。軽井沢さんは恐らく、土岐さんから資金面でも援助を受けているわ。あれだけの仲でポイントが融通されてないとは思えないもの。もっと別の、二人にとって有益な何かが必要よ」
「有益な何か、か……」
ふと足を止める。あのお熱い二人に提供できる最高のプレゼントを思いついた。
単純だが、これなら行けるかもしれない。
「なあ堀北。折り入って相談があるんだが」
怪訝そうな表情で振り返った堀北に、恥を忍んで頼み込む。
「――ちょっとポイントを貸してくれないか?」