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置いてきた名前
勉強ができないわけではない。むしろ、授業は真面目に聞く方だったし、提出物も期限を守った。教科によって得意不得意はあったが、成績は平均して人並み。理系科目では中の上に入ることもあった。
人付き合いも、極端に苦手というほどではなかった。
挨拶はする。礼儀も守る。先生や大人からは「真面目な子」と言われることが多かった。友人と話す時も、聞かれたことにはきちんと答えるし、自分から話題を振ることもある。
ただ、身体の動きだけが少し鈍かった。
冬場、服のボタンを留めるのには極端に時間がかかる。
図工や技術の作業では、周りより完成が遅い。
体育の球技では、頭では分かっていても手足が思うように動かず、ボールを取り損ねる。
走ることも得意ではなかったが、それでも持久走だけはそれなりに粘れた。短距離や球技より、ただ前へ進み続ける方が光には向いていた。
だから、光はずっとこう思っていた。
『自分は、
それは事実だった。
学生時代、困ることはあっても、生活が成り立たないほどではなかった。
周囲から少し笑われることはあっても、真面目に取り組む姿勢は評価された。
光自身も、万能ではない自分に悩みながら、不器用という言葉の範囲内だと考えて、それなりに折り合いをつけてきた。
けれど、社会人になると、その「少し」は思ったより大きな差になった。
☆☆☆☆☆
社会人になった光は、職場で少しずつ苦しくなっていた。
覚えが悪いわけではない。話が通じないわけでもない。指示の意味は理解できるし、書類の内容も読める。
ただ、作業が遅かった。
細かな手作業や、急ぎの処理が重なると、どうしても周囲より遅れる。慌てると手元が乱れ、余計に時間がかかる。急かされれば急かされるほど、身体が固くなった。
「柴咲くん、これ、まだ終わってないの?」
「すみません。あと少しで終わります」
「丁寧なのはいいんだけどさ。仕事だから、速度も必要なんだよ」
「はい。申し訳ありません」
光は頭を下げた。
言われていることは分かる。
自分でも、遅いと思う。
だから、余計に何も言えなかった。
帰宅後、光は自室で手帳を開いた。仕事の改善点を書き出し、作業手順を見直す。どうすれば早くできるのか。どこで手が止まるのか。真面目に考えれば考えるほど、自分の身体の鈍さが嫌になった。
『もっと普通にできればいいのに』
そう思う日は増えていた。
そんなある夜、夕食後の居間で、父が光を呼び止めた。
「光。少し、話せるか」
そう父に呼ばれリビングに行くと、母がすでに座っていた。
光は現在二十九歳だが、現在はまだ実家で暮らしていた。
父の
母の
そんな十分恵まれているであろう両親と共に。
「うん。どうしたの?」
光は湯呑みを手にしたまま座り直した。
父の顔は硬かった。母も隣で、落ち着かない様子で指を重ねている。
虎次郎は一度、香世子を見た。
「香世子」
「……ええ」
母は小さく頷き、光へ視線を向けた。
「光。あなたが小さい頃、一度、病院で診てもらったことがあるの」
「病院?」
「身体の発達のことでね。手先や身体の動かし方に、少し不器用さがあるかもしれないって」
光は黙って母を見た。
胸の奥が、静かに冷えていく。
香世子は続けた。
「先生からは、軽度の障がいに当たるとは言われたわ。でも、日常生活は送れるし、個性の範囲として見ても問題ないくらいだとも言われたの。だから、私たちは申請をしなかった」
虎次郎が低い声で言う。
「お前を、最初から特別扱いされる場所に置きたくなかった。普通に学校へ行って、普通に友達を作って、普通に生きてほしかった」
光は湯呑みを両手で包んだ。
熱はもう、ほとんど残っていなかった。
「……そうだったんだ」
出てきた声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。
香世子の目が揺れる。
「ごめんなさい。あなたのためだと思っていたの。でも、社会に出てからつらそうにしているのを見て、このまま黙っていていいのか分からなくなって」
「ううん」
光は首を横に振った。
「教えてくれて、ありがとう」
それ以上の言葉は出なかった。
責めたい気持ちが、ないわけではなかった。
なぜもっと早く言ってくれなかったのか。
自分の努力不足だけではなかったのかもしれない。
そう思うと、胸の奥が苦しくなった。
けれど、目の前の両親が自分を愛していなかったわけではないことも、光は知っていた。
運動会でうまく走れなかった時、父は「最後まで走ったな」と笑ってくれた。
工作の宿題に時間がかかった時、母は夜遅くまで隣に座ってくれた。
二人は光を見捨てていなかった。
だから、光は何も言えなかった。
言えば、きっと傷つける。
自分も、両親も。
「今日は、もう休むよ」
光は静かに立ち上がった。
虎次郎が何か言いかけたが、香世子がそっと首を振った。
「ええ。おやすみなさい」
「おやすみ」
光は自室へ戻り、扉を閉めた。
ベッドに腰掛けても、眠気は来なかった。
『個性の範囲』
『軽度の障がい』
『普通に生きてほしかった』
どれも間違いではないのだと思う。
実際、光は学校に通い、就職し、今まで生きてきた。
けれど、胸の中では別の声が消えなかった。
『じゃあ、この苦しさには、最初から名前があったのか』
光はその夜、一度も泣かなかった。
ただ、朝になるまで眠れなかった。
☆☆☆☆☆
翌日も、光はいつも通り仕事へ行った。
朝食の席で、母は何度か光の顔色を窺っていた。
「光、今日、無理しなくてもいいのよ」
「大丈夫。行ってくる」
「本当に?」
「うん。大丈夫」
そう答えた声は、いつも通りだったと思う。
父は玄関まで見送りに来た。
「光」
「なに?」
「……気をつけて行けよ」
「うん。行ってきます」
光は家を出た。
仕事中も、前日の話は頭から離れなかった。
手元の作業を進めながら、ふとした瞬間に母の声が蘇る。父の表情が浮かぶ。
それでも、光はいつも通りに振る舞った。
同僚に挨拶をし、指示に返事をし、遅れないように手を動かした。
作業はやはり早くない。
けれど、いつもより乱れは少なかった。
不思議なものだった。
心の中はぐちゃぐちゃなのに、外側の自分はいつもより丁寧に動いている。
仕事が終わる頃には、外は雨になっていた。
光は会社を出て、駅から自宅へ向かう道を歩いた。
傘を打つ雨音が、静かに耳に残る。
『父さんたちは、悪くない』
光はそう思った。
『でも、何も思わないわけじゃない』
両親の判断は、愛情から出たものだった。
そのことは分かる。
それでも、自分自身のことを知らないまま生きてきた時間を思うと、胸が痛んだ。
もっと早く知っていたら。
職場での苦しさも、違う受け止め方ができただろうか。
自分を責めるばかりではなく、別の工夫を探せただろうか。
横断歩道の前で、光は足を止めた。
信号が青に変わる。
横断歩道を渡ろうと一歩を踏み出したその時だった。
雨の向こうから、白い光が大きく膨らんだ。
クラクション。
水を裂くタイヤの音。
誰かの叫び声が聞こえた。
光が振り向いた瞬間、衝撃が身体を貫いた。
傘が手から離れる。
視界が回る。
空と地面が入れ替わる。
高い所から落ちた訳でもない。
実際の時間にすれば宙にいるのは僅かな時間だったはずだ。
しかし、そんな中で信号を確認する。
間違いなく青信号だった。
光が交通違反をした訳ではないようだった。
その上で『ごめんなさい』という謝罪の気持ちがまず浮かんだ。
どこか少し自暴自棄になっていたのを否定出来なかった。
防げる事故ではなかったのかもしれない。
それでも光は、普段通りの自分でいられたなら、もっと早く気づけたのではないかと思ってしまった。
それなのにこの事故で【命を落とす、助からない】なぜかそんな確信があったからだ。
そして地面に叩きつけられた。
「救急車!早く!」
「大丈夫ですか!聞こえますか!」
周りからそんな声が遠い。
光は口を動かそうとした。
事故相手に謝りたい。
自分のせいで人生を狂わしてしまう。
故にあなたのせいではないと、防げたかもしれない事故だと。
少なくともあなたのだけのせいではないと…。
仮に交通違反を相手がしていても罪はずっと軽くなるはずだったのだから…。
父と母にも、何か言わなければと思った。
責めていない。
でも、苦しかった。
愛されていたことは分かっている。
でも、知りたかった。
もっと早く、自分のことを知りたかった。
声にはならなかった。
『ごめん』
何に対する謝罪なのか、自分でも分からなかった。
雨粒が頬に落ちる。
目の前の光が、少しずつ滲んでいく。
柴咲光の人生は、その雨の夜に途切れた。
☆☆☆☆☆
そこには空も地面もなかった。
音もなく、匂いもなく、時間の流れさえ曖昧だった。
静かな余白のような空間だった。
そこに、神と呼ぶしかない存在がいた。
そんな神は観ていた。
偉人ではない。
悪人でもない。
ただ、自分なりに真面目に生きて、少しずつ傷ついて、それでも誰かを責め切れずに終わった一人の人間。
神の内側に、かすかな迷いが生まれた。
残酷な言い方だが、もっと不幸な人は大勢いる。
救いの為に目を向ける人物は他にもいる。
しかし、それでも…。
本来なら、光の人生はもう少し続くはずだった。
両親から告げられた事実を受け止め、苦しみながらも、自分の身体と向き合う時間があったはずだった。
怒る日もあっただろう、泣く日もあっただろう。
それでも、いつか両親の愛情と自分の痛みを、別々のものとして抱えられる日が来たかもしれない。
だが、その未来は閉ざされた。
神は男の感情を思い返す。
驚き。
戸惑い。
悲しみ。
言葉にできなかった苦しさ。
そして、最後まで両親を憎み切れなかった優しさ。
記憶を消してしまえば、この痛みは消える。
けれど、それは光が生きた時間そのものを薄めることでもあった。
記憶を残せば、次の人生でも苦しむかもしれない。
それでも、光という魂が自分で選び直すためには、何もかも消してしまうべきではない。
神は長い沈黙の末、ひとつの道を選んだ。
すべてを鮮明に背負わせるのではなく、成長と共に少しずつ思い出すように。
柴咲光としての痛みも、愛された記憶も、完全には失われないように。
そして、次の身体では、前の身体が抱えていた不自由を持たせないように。
それが救いになるのか、残酷になるのかは分からなかった。
それでも神は、祈りに近い感情を込めて、新しい命を誕生させた。
☆☆☆☆☆
胎内記憶という物がある。
一般的には物心付く前の小さな子どもが母親のお腹中の事や生まれた瞬間などを覚えていると言われるものをさす。
通常は成長と共に忘れる物である。
しかし、物心がつくと生まれた際の記憶が鮮明になったのを今でも覚えている。
最初に感じたのは、眩しさだった。
次に、寒さ。
そして、自分の喉から響く泣き声。
小さな身体。
動かない手足。
ぼやけた視界。
その時はただ泣いていた。
いや、泣いているのは自分なのに、自分の意思ではなかった。
「元気な男の子ですよ」
知らない声が聞こえる。
それから、泣きそうなほど優しい女性の声。
「結人……」
そう呼ばれたの覚えている。
後から聞いた話だが、生まれる前から男の子であれば、
少し離れた場所で、男の声が震えていた。
「
「
「泣くだろ、これは」
二人の声には、確かな愛情があった。
生まれたばかりの命を、心から迎え入れる声だった。
柴咲光としての人生は終わった。
けれど、すべてが消えたわけではなかった。
雨の夜。
父の声。
母の表情。
言えなかった言葉。
それらは深い場所に沈みながら、確かに残っていた。
『自分は……』
まだ、うまく考えが纏まらない。
けれど、確かに言える事があった。
『生きてる』
久々の執筆。
以前少し書いてた物を骨格にしたオリジナル作品になります。
スローペースですが、良ければよろしくお願いいたします。
AIって改めて凄いと思いました。
全てが悪ではないと思いますので、上手な使われ方をされると良いなと思う今日この頃です。