七月に入ると、大学の空気は少し変わった。
雨の匂いが薄くなり、代わりに湿った熱気が肌にまとわりつくようになった。
構内の木々は濃い緑を増やし、舗装された道には、雨上がりの水たまりよりも、強い日差しの白さが目立つようになっている。
そして、掲示板には試験日程が貼り出されていた。
結人は人の少ない時間を選び、掲示板の前で足を止めた。
講義名。
教室。
試験時間。
持ち込みの可否。
レポート提出の締切。
一つずつスマホにメモしていく。
前世でも試験期間というものは経験している。
だが、今の大学で迎える試験は、当然ながら初めてだった。
知っている。
けれど、知らない。
そういう感覚が、結人にはときどきあった。
一度経験したことがあるはずなのに、どこか不思議に足元が浮く。
『同じじゃないんだよな』
前世の自分が知っている試験と、二間結人として受ける試験は同じではない。
講義も違う。
友人も違う。
住んでいる部屋も、バイト先も、帰る場所も違う。
だから、落ち着いているようでいて、少し緊張していた。
スマホに最後の予定を打ち込んだ時、背後から声がした。
「結人、顔が試験モード」
振り返ると、颯が立っていた。
片手には購買で買ったらしいペットボトルを持っている。
「そんな顔してた?」
「してた。掲示板に向かって戦いを挑んでる顔」
「試験日程を確認してただけ」
「その確認の仕方が真面目なんだよね」
颯は笑いながら、掲示板を覗き込んだ。
その数秒後、分かりやすく顔をしかめる。
「……うわ、試験多くない?」
「多いかどうかは講義によると思う」
「結人、そういう正論やめよう。今は気持ちに寄り添って」
「じゃあ、多いね」
「雑すぎない?」
颯が肩をすくめる。
少し遅れて、渉と修司もやってきた。
渉は掲示板を見るなり、声を上げる。
「終わった」
「まだ始まってもいない」
修司が淡々と返した。
「いや、もう精神的には終わった。何だよ持ち込み不可って。持ち込ませろよ。夢を」
「夢は持ち込めるだろ」
颯が言うと、渉は真顔で首を振った。
「単位が持ち込めない」
「当たり前だ」
修司が呆れたように言った。
結人はそのやり取りを聞きながら、スマホの画面を閉じた。
渉は試験日程を見て、眉間に皺を寄せている。
「なあ結人、これってどれがやばい?」
「講義による」
「それはそうなんだけど」
「渉がどれだけ聞いてたかにもよる」
「そこを突くな」
渉は胸を押さえた。
修司が掲示板を確認しながら言う。
「とりあえず、範囲が広いやつからやった方がいいだろ」
「修司、頼れる」
「お前もやれ」
「やる。やるけど、一人だとたぶん寝る」
颯がそこで、軽く手を叩いた。
「じゃあ、みんなで勉強会する?」
渉が顔を上げる。
「それだ」
「すぐ乗るな」
修司が言う。
「いや、これは必要なやつだろ。結人、やろう。勉強会」
急に名前を呼ばれて、結人は一瞬だけ目を瞬かせた。
「自分?」
「結人、ちゃんとメモしてるし。何か分かってそう」
「分かってるかはまだ分からない」
「その言い方がもう分かってる人の言い方なんだよ」
颯が笑う。
結人は少し迷った。
誰かと一緒に勉強する。
それ自体は別に嫌ではない。
けれど、自分が何かを教える側に回るのかと思うと、少しだけ肩に力が入った。
間違っていたらどうするのか。
相手に変な覚え方をさせたらどうするのか。
分からないことを分かるふりはしたくない。
考え出すと、いつものように足が止まりそうになる。
けれど、渉はすでにやる気になっている顔をしていた。
颯は軽い調子で日程を確認している。
修司は何も急かさず、掲示板を見ている。
その沈黙が、結人には少し助かった。
「……分かるところなら」
結人が言うと、渉はぱっと顔を明るくした。
「よし、勝った」
「何に?」
「単位に」
「まだ早い」
修司が短く突っ込んだ。
結人は小さく息を吐いた。
頼られることは、まだ少し怖い。
けれど、全部を背負わなければいけないわけではない。
分かるところなら。
その言い方なら、自分にも少しだけ手を伸ばせる気がした。
☆☆☆☆☆
試験前の図書館は、いつもより人が多かった。
普段なら空いているはずの閲覧席にも学生が並び、机の上には教科書やプリント、ノートパソコンが広げられている。
空調は効いているはずなのに、人の多さのせいか、空気は少しだけ重い。
結人たちは図書館の端にある閲覧スペースで、何とか四人分の席を確保した。
「静かすぎて眠くなる」
席につくなり、渉が小声で言った。
「寝るな」
修司が同じく小声で返す。
「図書館って、睡眠導入の効果あるよな」
「勉強しに来たんだよね?」
颯が笑いながらノートを開いた。
結人は配られた講義資料を机の上に並べた。
試験範囲を確認し、重要そうな語句に印をつけていく。
その横で、渉がプリントを見ながら眉間に皺を寄せていた。
「これ、何言ってるか分からないんだけど」
「どこ?」
「ここ。授業中は分かった気がしてた」
「気がしてただけだな」
修司が横から淡々と言う。
「言うなよ、そういうこと」
渉は小さく呻いた。
結人は、渉の指差した箇所を覗き込んだ。
講義で扱った基礎的な部分だった。
説明できないほどではない。
ただ、自分の中で理解していることを、人に分かるように言葉にするのは少し難しい。
「たぶん、ここは先にこっちを見た方がいい」
結人はプリントの別のページを指した。
「この説明があって、それを使ってこっちに進んでる。だから、いきなりここだけ読むと分かりにくい」
「なるほど。順番が悪いのか」
「渉の理解の順番が飛んでる」
「刺すなあ」
渉は言いながらも、結人の示した箇所に線を引いた。
颯は横から二人のプリントを覗き込み、手元のノートに同じ箇所を書き足している。
「颯、お前ちゃっかり写してない?」
渉が顔を上げると、颯は笑った。
「写してるんじゃなくて、共有してる」
「言い方」
「大事でしょ、言い方は」
颯は悪びれずにペンを動かし、それから結人の方を見た。
「でも、結人の説明は分かりやすいよ。順番に戻してくれるから」
「そう?」
「うん。分からないところだけじゃなくて、その前を見せてくれるのが助かる」
「褒められてる?」
「褒めてる。かなり」
颯がさらりと言って、結人は少しだけ目を細めた。
人に説明するのは苦手だと思っていた。
前世でも、何かを聞かれるたびに、どこから話せばいいのか分からなくなることが多かった。
丁寧に説明しようとすると長くなる。
短くしようとすると足りなくなる。
その加減が掴めず、相手の表情を見て不安になる。
今も、完璧にできているわけではない。
けれど、渉は分からないところを遠慮なく聞く。
颯は要領よく要点だけ拾っていく。
修司は黙って聞きながら、必要なところだけ補足する。
一人で全部正しく説明しなくても、会話は進んでいく。
それが、少し不思議だった。
しばらくして、渉がノートに顔を近づけたまま呟いた。
「結人、これ向いてるんじゃね?」
「何が?」
「先生」
「向いてないと思う」
「即答」
「人前で話すのは無理」
「じゃあ家庭教師」
「それもたぶん無理」
颯が笑った。
「でも、分からない人がどこで止まるかは見てる感じするよ」
その言葉に、結人は少しだけ返事に詰まった。
見ている。
たぶん、それはそうなのかもしれない。
どこで人が困るのか。
どの言葉で引っかかるのか。
どこまで分かっていて、どこから分からないのか。
それを見る癖は、前世からあった。
自分自身が何度も引っかかってきたからだ。
一見何でもないところで足が止まることを知っている。
分からないことをすぐに言えない怖さも知っている。
だから、誰かが止まっていると、少し気づきやすいのかもしれない。
「……自分がよく止まるから」
結人がぽつりと言うと、渉は顔を上げた。
「え?」
「分からないところで。だから、人が止まるところも少し気になるだけ」
渉は一瞬だけ黙った。
それから、いつもの調子で笑う。
「じゃあ今日のオレ、めちゃくちゃ止まってるから気にしてくれ」
「少しは自分で進んで」
「厳しい」
修司が小さく笑った。
その空気が軽く戻ったことに、結人は少しだけほっとした。
自分の言葉が重くなりすぎなかった。
誰かが変に気を遣うこともなかった。
そのことが、思っていたよりも嬉しかった。
☆☆☆☆☆
試験が近づく中で、ライブハウスのシフトも少し調整する必要が出てきた。
結人は休憩中、スマホのカレンダーと試験日程を見比べていた。
バイトを始めたばかりの頃よりは慣れてきた。
だが、試験前に無理をして体調を崩せば、本末転倒だ。
シフト表の空欄を見ながら、結人は自分の予定を確認する。
この日は試験前日。
ここはレポート提出の締切が近い。
この週末なら、少し入れる。
結人はメモを作ってから、カウンターの奥にいる迫田へ声をかけた。
「店長」
「うん?」
迫田が顔を上げる。
「試験期間のシフトなんですけど、このあたりは少し減らしてもらってもいいですか。代わりに、試験が終わったあとの週末は入れます」
結人がスマホの画面を見せると、迫田はすぐに頷いた。
「もちろん。試験優先でいいよ。早めに言ってくれて助かる」
「ありがとうございます」
「夏はイベントも増えるから、終わってから入れるところだけ入ってくれれば大丈夫」
「分かりました」
予定を確認して、必要な調整を伝える。
相手が確認して、頷く。
それだけの、普通のやり取りだった。
けれど、こういう普通の手続きを、普通に済ませられることも、今の結人には少し大事だった。
奥から草ヶ谷が出てきて、二人の会話を聞いていたのか、短く言った。
「試験前に無茶してシフト入れるやつ、普通にいるからな」
「……いるんですね、そういう人」
「学生バイトが学生やれてないの、店としても笑えないだろ」
草ヶ谷はそう言いながら、ケーブルの入った箱を持ち上げた。
「休むなら早めに言え。急に飛ばれる方がだるい」
「分かりました。気をつけます」
「それでいい」
言い方は相変わらず少しぶっきらぼうだった。
けれど、内容は責めているものではなかった。
迫田が笑う。
「草ヶ谷君なりの優しさだね」
「余計な翻訳しないでください」
草ヶ谷は顔をしかめて、ステージの方へ戻っていった。
結人は小さく頭を下げる。
「ありがとうございます」
「うん。試験、頑張って」
迫田の言葉に、結人は頷いた。
頑張る。
その言葉は、範囲が広すぎて少し苦手だった。
けれど今は、とりあえず目の前のことを一つずつやればいい。
試験日程を確認する。
分からないところを潰す。
シフトを調整する。
寝る時間を確保する。
それなら、少しだけ分かる気がした。
☆☆☆☆☆
試験初日、教室の中は静かだった。
普段の講義ではざわついている学生たちも、その日ばかりは机に向かい、プリントやノートを確認している。
窓の外では蝉が鳴き始めていた。
梅雨明けの気配が、ぽつぽつと見え始めている。
その声だけで、季節が一段階進んだように感じられた。
結人は席につき、筆記用具を机の上に並べた。
シャープペン。
消しゴム。
学生証。
時計。
一つずつ確認する。
緊張していないわけではない。
ただ、何を確認すればいいのかは分かっている。
前世の経験が役に立っている部分も、たぶんある。
だが、それだけではない。
昨日、渉から送られてきた「もう無理」というメッセージ。
それに颯が返した「まだ始まってない」。
修司の「寝ろ」。
そして結人が送った「暗記より先に寝た方がいい」。
そういうやり取りが、頭の片隅に残っていた。
一人で試験を受ける。
でも、試験期間を一人で過ごしているわけではない。
その感覚は、少しだけ不思議だった。
試験問題が配られる。
教室の空気が、さらに静かになる。
開始の合図と同時に、紙をめくる音があちこちで鳴った。
結人は問題文に目を通し、小さく息を吐いた。
見覚えのある範囲。
少し迷う問題。
講義で聞いたはずなのに、言葉がすぐに出てこない箇所。
全部が完璧ではない。
それでも、手は動いた。
分かるところから書く。
止まったら飛ばす。
戻れる問題には印をつける。
当たり前の手順を、一つずつ積む。
試験が終わる頃には、手のひらが少し汗ばんでいた。
答案を提出し、教室を出る。
廊下では、渉が壁にもたれていた。
顔は妙に真剣だった。
「どうだった?」
結人が聞くと、渉はゆっくり顔を上げた。
「生きてる」
「感想が大きい」
「単位も生きててほしい」
後ろから颯がやってきた。
「僕は八割くらいはいけたんじゃないかな」
「なんだかんだでしっかりやってるな」
修司が言うと、颯は笑った。
「必修落とすと後が面倒だからね。そこはちゃんとやるよ」
渉が結人の肩を軽く叩いた。
「結人先生、昨日のとこ出た」
「先生じゃない」
「出たんだよ。助かった」
その言葉に、結人は少しだけ目を伏せた。
助かった。
そう言われると、どう返せばいいのかまだ迷う。
「……それならよかった」
結人が答えると、渉は笑った。
「よかったよ。今日の昼、ジュース奢る」
「あ、タオルの分?」
「そう。覚えてたオレ、えらい」
「自分で言うな」
修司が呆れたように言った。
結人はそのやり取りを見ながら、少しだけ口元を緩めた。
頼られることは怖い。
けれど、頼られて、少しでも返せた時の感覚は、嫌ではなかった。
それを素直に嬉しいと言うには、まだ少し時間がかかる。
でも、胸の奥に残った温度は、確かに悪いものではなかった。
☆☆☆☆☆
試験期間は、思っていたより早く過ぎていった。
始まる前は、ずいぶん長いもののように感じていた。
だが、いざ始まってしまえば、日程を確認し、勉強し、試験を受け、レポートを提出することの繰り返しだった。
朝起きる。
大学へ行く。
図書館に寄る。
友人と確認し合う。
帰って、少しだけ復習する。
バイトのない日は早めに寝る。
特別なことは何もない。
けれど、その繰り返しの中で、結人は少しずつ自分の呼吸を掴んでいった。
最後の試験が終わった日、渉は教室を出た瞬間に両手を上げた。
「終わった!」
「まだ結果は出てない」
修司が言う。
「今それ言うなよ!」
「現実は大事だろ」
「現実から解放された瞬間なんだよ、今は」
颯が笑いながら、スマホを確認した。
「じゃあ解放記念にアイス食べる?」
「食べる!」
渉は即答した。
「結人は?」
「暑いし、食べる」
「お、珍しく即答」
「暑いから」
「理由が現実的」
四人は購買へ向かった。
廊下には、同じように試験を終えた学生たちの声が広がっている。
夏休みの予定。
帰省の話。
サークルの合宿。
バイトのシフト。
誰かとどこかへ行く約束。
その声を聞きながら、結人は歩いた。
夏休み。
その響きは、少し遠かった。
子どもの頃なら、ただ長い休みだった。
前世の大学時代なら、夏休みを楽しんだ記憶より、バイトや人付き合いの中で、自分の不器用さに何度も足を取られた記憶の方が強い。
今の自分にとって、初めての大学の夏休みが何になるのかは、まだ分からない。
購買前には、冷たい飲み物とアイスを買う学生で列ができていた。
「夏休み、何するかなあ」
渉がアイスケースを覗き込みながら言う。
「まず結果確認」
修司が言うと、渉は聞こえなかったふりをした。
「旅行は金がない。海は暑い。山も暑い。家は暇」
「全部文句じゃん」
颯が笑う。
「結人はバイト?」
「たぶん、少し増えると思う」
「ライブハウス、夏忙しいって言ってたもんな」
「うん。週末はイベントが増えるみたい」
「夏休みっぽいな。こっちは解放感あるのに、結人は労働が増えるのか」
「労働……」
「何でそこで復唱するんだよ」
渉が笑う。
「でも、予定あるのはいいんじゃない?」
颯がアイスを選びながら言った。
「暇すぎる夏休みも、それはそれでだらけるし」
「颯は予定ありそうだよな」
渉が言うと、颯は少しだけ得意げに笑った。
「まあ、多少は」
「出会いか」
「それも増やしたいけどね。まあ、現実はバイトもある」
アイスを買って、四人は日陰になっているベンチに座った。
風はある。
けれど、その風もどこか熱を含んでいる。
包装を開けると、冷たい甘さが指先に伝わった。
夏が本格的に始まろうとしている。
その実感が、ようやく少しだけ湧いた。
☆☆☆☆☆
アイスを食べ終えたあと、颯がスマホを見ながら「あ」と声を上げた。
「何?」
渉が聞く。
「秋桜祭の話、ちょっと流れてきた」
その言葉に、結人は顔を上げた。
秋桜祭。
四月の終わりに掲示板で見た文字。
七月前にも、企画協力者募集として見かけた文字。
まだ遠いと思っていたはずの秋が、少しずつ学生たちの会話に混じり始めている。
「もう?」
結人が言うと、修司が頷いた。
「準備は夏休み中も動くんだろ」
「たぶんね。大学の夏休みって長いけど、明けたらわりとすぐでしょ」
颯はスマホを指で滑らせながら言った。
「ステージ企画とか、出店とか、ミスコンっぽいやつとか。去年の写真も回ってきた」
「ミスコン!」
渉がすぐに反応する。
「そこだけ反応早いな」
修司が言うと、渉は胸を張った。
「大学生活だからな」
「便利な言葉にするな」
颯は笑いながら、スマホの画面に視線を戻した。
「自薦他薦ありらしいね」
「他薦ありって怖くないか?」
渉が少し身を乗り出した。
「勝手に名前出されるってことだろ?」
「さすがに本人確認はあるでしょ。候補に名前が挙がるだけで、そのまま出場決定ってことはないと思う」
修司が言うと、渉は少し安心したように頷いた。
「まあ、そりゃそうか」
「でも、周りに推されてる子はいるっぽい」
颯が続ける。
「商学科の七海日葵さん」
その名前に、結人はほんの少しだけ反応した。
六月の終わり、掲示板の前で耳に入った名前だ。
「知ってるのか?」
そのわずかな反応に気づいたのか、修司がこちらを見る。
「前に掲示板の前で、誰かが話してるのを聞いた。実行委員に誘われたとか、そういう話」
「へえ。じゃあ本当に話題なんだな」
渉が感心したように言う。
颯は頷いた。
「友達の友達が商学科でさ。明るくて、けっこう目立つらしいよ。本人が自分から出たいって感じじゃなくて、実行委員に声をかけられてるみたいだけど」
「周りに推されるってことは、相当なんじゃね?」
「まあ、そういう噂になるくらいには可愛いんだと思う」
颯はさらりと言った。
一度聞いた名前が、もう一度会話の中に出てくる。
それだけで、結人の中では少しだけ輪郭が濃くなった。
「他にもいるのか? そういう噂の子」
渉が聞くと、颯は少し考えるように空を見た。
「社会福祉の
その名前は、結人にとっては初めてだった。
水無月真白。
音の並びが、少し静かに耳に残る。
「その人もミスコン?」
渉が聞く。
颯は首を横に振った。
「いや、出なさそう。前に一回見たけど、そういう場に立つタイプには見えなかった」
「見たことあるのか?」
「遠目に一回だけね。友達が、あの人が水無月さんって教えてくれた」
「どんな人?」
「落ち着いてる。あと、普通に綺麗」
「後半が本音だろ」
修司が言うと、颯は悪びれもせず笑った。
「否定はしない。可愛い子情報は大事でしょ」
「何に?」
結人が思わず聞くと、颯は真面目な顔を作った。
「大学生活に」
「渉と同じこと言ってる」
「僕と渉を一緒にするのはひどくない?」
「今のは同じだった」
修司が淡々と言い、渉が「おい」と声を上げる。
颯は笑いながら、アイスの棒を袋に戻した。
七海日葵は、前にも聞いた名前。
水無月真白は、今日初めて聞いた名前。
今はまだ、それくらいだった。
「結人、興味なさそうな顔してる」
渉が言った。
「興味がないというか、まだ知らない人だから」
「真面目な答え」
「知らない人の噂だけで盛り上がるの、少し難しい」
「でもミスコンあったら見るだろ?」
「人が多くなさそうなら」
「またじいさんみたいなこと言ってる」
颯が笑う。
「でも、そういうのに限って巻き込まれるんだよ」
「紗理奈にも似たようなこと言われた」
「じゃあフラグじゃん」
「フラグじゃない」
結人が即答すると、三人が少し笑った。
その笑い声を聞きながら、結人はアイスの棒を袋にしまった。
秋桜祭は、まだ先だ。
それでも、四月に見た掲示板の文字は、七月にはもう、会話の中に入り込んでいた。
夏休みが始まる。
バイトも増える。
友人たちとの時間も、今までとは少し変わるかもしれない。
結人は手の中の空になった袋を見つめた。
今の人生は、思っているより先へ進むのが早い。
それが少し怖くて、けれど、少しだけ悪くないと思った。
☆☆☆☆☆
その日の夕方、結人は部屋に戻って、試験期間中に散らかった机を片付けた。
積んでいたプリントを講義ごとに分ける。
使い終わったルーズリーフをファイルに挟む。
短くなったシャープペンの芯を補充する。
空になったペットボトルを洗って、ゴミ袋に入れる。
試験が終わった。
ただそれだけのことなのに、机の上を片付けると、部屋の空気まで少し軽くなったような気がした。
スマホには、グループチャットの通知が入っていた。
渉から。
「夏休み突入記念スタンプ」
意味の分からない勢いのスタンプが三つ続く。
颯が、
「出会いの夏」
と返し、修司が、
「まず生活リズムを壊すな」
と返していた。
少し遅れて、紗理奈も入ってくる。
「生活リズム? 何それおいしいの?」
渉がすぐに反応した。
「紗理奈、もう壊す気だ」
「夏休みは夜更かししてなんぼでしょ」
修司が、
「試験終わった瞬間にだめな方向へ行くな」
と返す。
颯が続けて、
「でも夏っぽい」
と送ると、紗理奈から得意げなスタンプが返ってきた。
結人はそれを見て、少し笑った。
生活リズム。
バイト。
夏休み。
秋桜祭。
考えることは、まだいくつもある。
けれど、今日は試験が終わった日だ。
少しだけ気を抜いてもいいのかもしれない。
結人はスマホを手に取り、短く打った。
「お疲れ」
すぐに既読がつく。
渉から返信が来た。
「結人先生もお疲れ!」
結人は画面を見て、眉を下げる。
「先生じゃない」
そう返すと、颯がすぐにスタンプを送ってきた。
紗理奈からも、
「先生、夏休みの課題少なめでお願いしまーす」
と返ってくる。
「先生じゃない」
結人がもう一度打つと、修司からは、
「お疲れ」
とだけ返ってきた。
結人はスマホを伏せ、窓の外を見た。
空にはまだ雲が残っている。
けれど、その向こう側には、夜になる前の淡い青が見えていた。
雨の季節は、もうすぐ終わる。
そして、夏が来る。
結人は静かに息を吐いた。
一年前の自分にはなかった予定が、今はある。
明日のバイト。
友人との会話。
まだ知らない誰かの名前。
遠くに見えていた秋の気配。
その全部が、自分の生活の中に少しずつ置かれていく。
それを受け取るのは、まだ少し怖い。
けれど、拒むほど嫌ではなかった。
机の上に残っていた最後のプリントをファイルにしまい、結人は部屋の電気をつけた。
夏休みが、始まろうとしていた。
少しネタバレ(?)ですが、話題に出てる二人がヒロイン予定のキャラクターになります。