水底から見上げた、二度目の空   作:しまらくだ

10 / 10
ようやく「恋愛」部分のフラグがちらほらと……。


夏の入口

七月に入ると、大学の空気は少し変わった。

雨の匂いが薄くなり、代わりに湿った熱気が肌にまとわりつくようになった。

構内の木々は濃い緑を増やし、舗装された道には、雨上がりの水たまりよりも、強い日差しの白さが目立つようになっている。

そして、掲示板には試験日程が貼り出されていた。

結人は人の少ない時間を選び、掲示板の前で足を止めた。

 

講義名。

教室。

試験時間。

持ち込みの可否。

レポート提出の締切。

 

一つずつスマホにメモしていく。

前世でも試験期間というものは経験している。

だが、今の大学で迎える試験は、当然ながら初めてだった。

知っている。

けれど、知らない。

そういう感覚が、結人にはときどきあった。

一度経験したことがあるはずなのに、どこか不思議に足元が浮く。

 

『同じじゃないんだよな』

 

前世の自分が知っている試験と、二間結人として受ける試験は同じではない。

 

講義も違う。

友人も違う。

住んでいる部屋も、バイト先も、帰る場所も違う。

 

だから、落ち着いているようでいて、少し緊張していた。

スマホに最後の予定を打ち込んだ時、背後から声がした。

 

「結人、顔が試験モード」

 

振り返ると、颯が立っていた。

片手には購買で買ったらしいペットボトルを持っている。

 

「そんな顔してた?」

「してた。掲示板に向かって戦いを挑んでる顔」

「試験日程を確認してただけ」

「その確認の仕方が真面目なんだよね」

 

颯は笑いながら、掲示板を覗き込んだ。

その数秒後、分かりやすく顔をしかめる。

 

「……うわ、試験多くない?」

「多いかどうかは講義によると思う」

「結人、そういう正論やめよう。今は気持ちに寄り添って」

「じゃあ、多いね」

「雑すぎない?」

 

颯が肩をすくめる。

少し遅れて、渉と修司もやってきた。

渉は掲示板を見るなり、声を上げる。

 

「終わった」

「まだ始まってもいない」

 

修司が淡々と返した。

 

「いや、もう精神的には終わった。何だよ持ち込み不可って。持ち込ませろよ。夢を」

「夢は持ち込めるだろ」

 

颯が言うと、渉は真顔で首を振った。

 

「単位が持ち込めない」

「当たり前だ」

 

修司が呆れたように言った。

結人はそのやり取りを聞きながら、スマホの画面を閉じた。

渉は試験日程を見て、眉間に皺を寄せている。

 

「なあ結人、これってどれがやばい?」

「講義による」

「それはそうなんだけど」

「渉がどれだけ聞いてたかにもよる」

「そこを突くな」

 

渉は胸を押さえた。

修司が掲示板を確認しながら言う。

 

「とりあえず、範囲が広いやつからやった方がいいだろ」

「修司、頼れる」

「お前もやれ」

「やる。やるけど、一人だとたぶん寝る」

 

颯がそこで、軽く手を叩いた。

 

「じゃあ、みんなで勉強会する?」

 

渉が顔を上げる。

 

「それだ」

「すぐ乗るな」

 

修司が言う。

 

「いや、これは必要なやつだろ。結人、やろう。勉強会」

 

急に名前を呼ばれて、結人は一瞬だけ目を瞬かせた。

 

「自分?」

「結人、ちゃんとメモしてるし。何か分かってそう」

「分かってるかはまだ分からない」

「その言い方がもう分かってる人の言い方なんだよ」

 

颯が笑う。

結人は少し迷った。

誰かと一緒に勉強する。

それ自体は別に嫌ではない。

けれど、自分が何かを教える側に回るのかと思うと、少しだけ肩に力が入った。

間違っていたらどうするのか。

相手に変な覚え方をさせたらどうするのか。

分からないことを分かるふりはしたくない。

考え出すと、いつものように足が止まりそうになる。

けれど、渉はすでにやる気になっている顔をしていた。

颯は軽い調子で日程を確認している。

修司は何も急かさず、掲示板を見ている。

その沈黙が、結人には少し助かった。

 

「……分かるところなら」

 

結人が言うと、渉はぱっと顔を明るくした。

 

「よし、勝った」

「何に?」

「単位に」

「まだ早い」

 

修司が短く突っ込んだ。

結人は小さく息を吐いた。

頼られることは、まだ少し怖い。

けれど、全部を背負わなければいけないわけではない。

分かるところなら。

その言い方なら、自分にも少しだけ手を伸ばせる気がした。

 

☆☆☆☆☆

 

試験前の図書館は、いつもより人が多かった。

普段なら空いているはずの閲覧席にも学生が並び、机の上には教科書やプリント、ノートパソコンが広げられている。

空調は効いているはずなのに、人の多さのせいか、空気は少しだけ重い。

結人たちは図書館の端にある閲覧スペースで、何とか四人分の席を確保した。

 

「静かすぎて眠くなる」

 

席につくなり、渉が小声で言った。

 

「寝るな」

 

修司が同じく小声で返す。

 

「図書館って、睡眠導入の効果あるよな」

「勉強しに来たんだよね?」

 

颯が笑いながらノートを開いた。

結人は配られた講義資料を机の上に並べた。

試験範囲を確認し、重要そうな語句に印をつけていく。

その横で、渉がプリントを見ながら眉間に皺を寄せていた。

 

「これ、何言ってるか分からないんだけど」

「どこ?」

「ここ。授業中は分かった気がしてた」

「気がしてただけだな」

 

修司が横から淡々と言う。

 

「言うなよ、そういうこと」

 

渉は小さく呻いた。

結人は、渉の指差した箇所を覗き込んだ。

講義で扱った基礎的な部分だった。

説明できないほどではない。

ただ、自分の中で理解していることを、人に分かるように言葉にするのは少し難しい。

 

「たぶん、ここは先にこっちを見た方がいい」

 

結人はプリントの別のページを指した。

 

「この説明があって、それを使ってこっちに進んでる。だから、いきなりここだけ読むと分かりにくい」

「なるほど。順番が悪いのか」

「渉の理解の順番が飛んでる」

「刺すなあ」

 

渉は言いながらも、結人の示した箇所に線を引いた。

颯は横から二人のプリントを覗き込み、手元のノートに同じ箇所を書き足している。

 

「颯、お前ちゃっかり写してない?」

 

渉が顔を上げると、颯は笑った。

 

「写してるんじゃなくて、共有してる」

「言い方」

「大事でしょ、言い方は」

 

颯は悪びれずにペンを動かし、それから結人の方を見た。

 

「でも、結人の説明は分かりやすいよ。順番に戻してくれるから」

「そう?」

「うん。分からないところだけじゃなくて、その前を見せてくれるのが助かる」

「褒められてる?」

「褒めてる。かなり」

 

颯がさらりと言って、結人は少しだけ目を細めた。

人に説明するのは苦手だと思っていた。

前世でも、何かを聞かれるたびに、どこから話せばいいのか分からなくなることが多かった。

 

丁寧に説明しようとすると長くなる。

短くしようとすると足りなくなる。

その加減が掴めず、相手の表情を見て不安になる。

 

今も、完璧にできているわけではない。

けれど、渉は分からないところを遠慮なく聞く。

颯は要領よく要点だけ拾っていく。

修司は黙って聞きながら、必要なところだけ補足する。

一人で全部正しく説明しなくても、会話は進んでいく。

それが、少し不思議だった。

しばらくして、渉がノートに顔を近づけたまま呟いた。

 

「結人、これ向いてるんじゃね?」

「何が?」

「先生」

「向いてないと思う」

「即答」

「人前で話すのは無理」

「じゃあ家庭教師」

「それもたぶん無理」

 

颯が笑った。

 

「でも、分からない人がどこで止まるかは見てる感じするよ」

 

その言葉に、結人は少しだけ返事に詰まった。

見ている。

たぶん、それはそうなのかもしれない。

 

どこで人が困るのか。

どの言葉で引っかかるのか。

どこまで分かっていて、どこから分からないのか。

 

それを見る癖は、前世からあった。

自分自身が何度も引っかかってきたからだ。

一見何でもないところで足が止まることを知っている。

分からないことをすぐに言えない怖さも知っている。

だから、誰かが止まっていると、少し気づきやすいのかもしれない。

 

「……自分がよく止まるから」

 

結人がぽつりと言うと、渉は顔を上げた。

 

「え?」

「分からないところで。だから、人が止まるところも少し気になるだけ」

 

渉は一瞬だけ黙った。

それから、いつもの調子で笑う。

 

「じゃあ今日のオレ、めちゃくちゃ止まってるから気にしてくれ」

「少しは自分で進んで」

「厳しい」

 

修司が小さく笑った。

その空気が軽く戻ったことに、結人は少しだけほっとした。

自分の言葉が重くなりすぎなかった。

誰かが変に気を遣うこともなかった。

そのことが、思っていたよりも嬉しかった。

 

☆☆☆☆☆

 

試験が近づく中で、ライブハウスのシフトも少し調整する必要が出てきた。

結人は休憩中、スマホのカレンダーと試験日程を見比べていた。

バイトを始めたばかりの頃よりは慣れてきた。

だが、試験前に無理をして体調を崩せば、本末転倒だ。

シフト表の空欄を見ながら、結人は自分の予定を確認する。

 

この日は試験前日。

ここはレポート提出の締切が近い。

この週末なら、少し入れる。

 

結人はメモを作ってから、カウンターの奥にいる迫田へ声をかけた。

 

「店長」

「うん?」

 

迫田が顔を上げる。

 

「試験期間のシフトなんですけど、このあたりは少し減らしてもらってもいいですか。代わりに、試験が終わったあとの週末は入れます」

 

結人がスマホの画面を見せると、迫田はすぐに頷いた。

 

「もちろん。試験優先でいいよ。早めに言ってくれて助かる」

「ありがとうございます」

「夏はイベントも増えるから、終わってから入れるところだけ入ってくれれば大丈夫」

「分かりました」

 

予定を確認して、必要な調整を伝える。

相手が確認して、頷く。

それだけの、普通のやり取りだった。

けれど、こういう普通の手続きを、普通に済ませられることも、今の結人には少し大事だった。

奥から草ヶ谷が出てきて、二人の会話を聞いていたのか、短く言った。

 

「試験前に無茶してシフト入れるやつ、普通にいるからな」

「……いるんですね、そういう人」

「学生バイトが学生やれてないの、店としても笑えないだろ」

 

草ヶ谷はそう言いながら、ケーブルの入った箱を持ち上げた。

 

「休むなら早めに言え。急に飛ばれる方がだるい」

「分かりました。気をつけます」

「それでいい」

 

言い方は相変わらず少しぶっきらぼうだった。

けれど、内容は責めているものではなかった。

迫田が笑う。

 

「草ヶ谷君なりの優しさだね」

「余計な翻訳しないでください」

 

草ヶ谷は顔をしかめて、ステージの方へ戻っていった。

結人は小さく頭を下げる。

 

「ありがとうございます」

「うん。試験、頑張って」

 

迫田の言葉に、結人は頷いた。

頑張る。

その言葉は、範囲が広すぎて少し苦手だった。

けれど今は、とりあえず目の前のことを一つずつやればいい。

 

試験日程を確認する。

分からないところを潰す。

シフトを調整する。

寝る時間を確保する。

 

それなら、少しだけ分かる気がした。

 

☆☆☆☆☆

 

試験初日、教室の中は静かだった。

普段の講義ではざわついている学生たちも、その日ばかりは机に向かい、プリントやノートを確認している。

窓の外では蝉が鳴き始めていた。

梅雨明けの気配が、ぽつぽつと見え始めている。

その声だけで、季節が一段階進んだように感じられた。

結人は席につき、筆記用具を机の上に並べた。

 

シャープペン。

消しゴム。

学生証。

時計。

 

一つずつ確認する。

緊張していないわけではない。

ただ、何を確認すればいいのかは分かっている。

前世の経験が役に立っている部分も、たぶんある。

だが、それだけではない。

昨日、渉から送られてきた「もう無理」というメッセージ。

それに颯が返した「まだ始まってない」。

修司の「寝ろ」。

そして結人が送った「暗記より先に寝た方がいい」。

そういうやり取りが、頭の片隅に残っていた。

一人で試験を受ける。

でも、試験期間を一人で過ごしているわけではない。

その感覚は、少しだけ不思議だった。

試験問題が配られる。

教室の空気が、さらに静かになる。

開始の合図と同時に、紙をめくる音があちこちで鳴った。

結人は問題文に目を通し、小さく息を吐いた。

 

見覚えのある範囲。

少し迷う問題。

講義で聞いたはずなのに、言葉がすぐに出てこない箇所。

 

全部が完璧ではない。

それでも、手は動いた。

 

分かるところから書く。

止まったら飛ばす。

戻れる問題には印をつける。

 

当たり前の手順を、一つずつ積む。

試験が終わる頃には、手のひらが少し汗ばんでいた。

答案を提出し、教室を出る。

廊下では、渉が壁にもたれていた。

顔は妙に真剣だった。

 

「どうだった?」

 

結人が聞くと、渉はゆっくり顔を上げた。

 

「生きてる」

「感想が大きい」

「単位も生きててほしい」

 

後ろから颯がやってきた。

 

「僕は八割くらいはいけたんじゃないかな」

「なんだかんだでしっかりやってるな」

 

修司が言うと、颯は笑った。

 

「必修落とすと後が面倒だからね。そこはちゃんとやるよ」

 

渉が結人の肩を軽く叩いた。

 

「結人先生、昨日のとこ出た」

「先生じゃない」

「出たんだよ。助かった」

 

その言葉に、結人は少しだけ目を伏せた。

助かった。

そう言われると、どう返せばいいのかまだ迷う。

 

「……それならよかった」

 

結人が答えると、渉は笑った。

 

「よかったよ。今日の昼、ジュース奢る」

「あ、タオルの分?」

「そう。覚えてたオレ、えらい」

「自分で言うな」

 

修司が呆れたように言った。

結人はそのやり取りを見ながら、少しだけ口元を緩めた。

頼られることは怖い。

けれど、頼られて、少しでも返せた時の感覚は、嫌ではなかった。

それを素直に嬉しいと言うには、まだ少し時間がかかる。

でも、胸の奥に残った温度は、確かに悪いものではなかった。

 

☆☆☆☆☆

 

試験期間は、思っていたより早く過ぎていった。

始まる前は、ずいぶん長いもののように感じていた。

だが、いざ始まってしまえば、日程を確認し、勉強し、試験を受け、レポートを提出することの繰り返しだった。

 

朝起きる。

大学へ行く。

図書館に寄る。

友人と確認し合う。

帰って、少しだけ復習する。

バイトのない日は早めに寝る。

 

特別なことは何もない。

けれど、その繰り返しの中で、結人は少しずつ自分の呼吸を掴んでいった。

最後の試験が終わった日、渉は教室を出た瞬間に両手を上げた。

 

「終わった!」

「まだ結果は出てない」

 

修司が言う。

 

「今それ言うなよ!」

「現実は大事だろ」

「現実から解放された瞬間なんだよ、今は」

 

颯が笑いながら、スマホを確認した。

 

「じゃあ解放記念にアイス食べる?」

「食べる!」

 

渉は即答した。

 

「結人は?」

「暑いし、食べる」

「お、珍しく即答」

「暑いから」

「理由が現実的」

 

四人は購買へ向かった。

廊下には、同じように試験を終えた学生たちの声が広がっている。

 

夏休みの予定。

帰省の話。

サークルの合宿。

バイトのシフト。

誰かとどこかへ行く約束。

 

その声を聞きながら、結人は歩いた。

夏休み。

その響きは、少し遠かった。

子どもの頃なら、ただ長い休みだった。

前世の大学時代なら、夏休みを楽しんだ記憶より、バイトや人付き合いの中で、自分の不器用さに何度も足を取られた記憶の方が強い。

今の自分にとって、初めての大学の夏休みが何になるのかは、まだ分からない。

購買前には、冷たい飲み物とアイスを買う学生で列ができていた。

 

「夏休み、何するかなあ」

 

渉がアイスケースを覗き込みながら言う。

 

「まず結果確認」

 

修司が言うと、渉は聞こえなかったふりをした。

 

「旅行は金がない。海は暑い。山も暑い。家は暇」

「全部文句じゃん」

 

颯が笑う。

 

「結人はバイト?」

「たぶん、少し増えると思う」

「ライブハウス、夏忙しいって言ってたもんな」

「うん。週末はイベントが増えるみたい」

「夏休みっぽいな。こっちは解放感あるのに、結人は労働が増えるのか」

「労働……」

「何でそこで復唱するんだよ」

 

渉が笑う。

 

「でも、予定あるのはいいんじゃない?」

 

颯がアイスを選びながら言った。

 

「暇すぎる夏休みも、それはそれでだらけるし」

「颯は予定ありそうだよな」

 

渉が言うと、颯は少しだけ得意げに笑った。

 

「まあ、多少は」

「出会いか」

「それも増やしたいけどね。まあ、現実はバイトもある」

 

 

アイスを買って、四人は日陰になっているベンチに座った。

風はある。

けれど、その風もどこか熱を含んでいる。

包装を開けると、冷たい甘さが指先に伝わった。

夏が本格的に始まろうとしている。

その実感が、ようやく少しだけ湧いた。

 

☆☆☆☆☆

 

アイスを食べ終えたあと、颯がスマホを見ながら「あ」と声を上げた。

 

「何?」

 

渉が聞く。

 

「秋桜祭の話、ちょっと流れてきた」

 

その言葉に、結人は顔を上げた。

秋桜祭。

四月の終わりに掲示板で見た文字。

七月前にも、企画協力者募集として見かけた文字。

まだ遠いと思っていたはずの秋が、少しずつ学生たちの会話に混じり始めている。

 

「もう?」

 

結人が言うと、修司が頷いた。

 

「準備は夏休み中も動くんだろ」

「たぶんね。大学の夏休みって長いけど、明けたらわりとすぐでしょ」

 

颯はスマホを指で滑らせながら言った。

 

「ステージ企画とか、出店とか、ミスコンっぽいやつとか。去年の写真も回ってきた」

「ミスコン!」

 

渉がすぐに反応する。

 

「そこだけ反応早いな」

 

修司が言うと、渉は胸を張った。

 

「大学生活だからな」

「便利な言葉にするな」

 

颯は笑いながら、スマホの画面に視線を戻した。

 

「自薦他薦ありらしいね」

「他薦ありって怖くないか?」

 

渉が少し身を乗り出した。

 

「勝手に名前出されるってことだろ?」

「さすがに本人確認はあるでしょ。候補に名前が挙がるだけで、そのまま出場決定ってことはないと思う」

 

修司が言うと、渉は少し安心したように頷いた。

 

「まあ、そりゃそうか」

「でも、周りに推されてる子はいるっぽい」

 

颯が続ける。

 

「商学科の七海日葵さん」

 

その名前に、結人はほんの少しだけ反応した。

六月の終わり、掲示板の前で耳に入った名前だ。

 

「知ってるのか?」

 

そのわずかな反応に気づいたのか、修司がこちらを見る。

 

「前に掲示板の前で、誰かが話してるのを聞いた。実行委員に誘われたとか、そういう話」

「へえ。じゃあ本当に話題なんだな」

 

渉が感心したように言う。

颯は頷いた。

 

「友達の友達が商学科でさ。明るくて、けっこう目立つらしいよ。本人が自分から出たいって感じじゃなくて、実行委員に声をかけられてるみたいだけど」

「周りに推されるってことは、相当なんじゃね?」

「まあ、そういう噂になるくらいには可愛いんだと思う」

 

颯はさらりと言った。

一度聞いた名前が、もう一度会話の中に出てくる。

それだけで、結人の中では少しだけ輪郭が濃くなった。

 

「他にもいるのか? そういう噂の子」

 

渉が聞くと、颯は少し考えるように空を見た。

 

「社会福祉の水無月真白(みなづきましろ)さんって人も、名前は聞くよ」

 

その名前は、結人にとっては初めてだった。

水無月真白。

音の並びが、少し静かに耳に残る。

 

「その人もミスコン?」

 

渉が聞く。

颯は首を横に振った。

 

「いや、出なさそう。前に一回見たけど、そういう場に立つタイプには見えなかった」

「見たことあるのか?」

「遠目に一回だけね。友達が、あの人が水無月さんって教えてくれた」

「どんな人?」

「落ち着いてる。あと、普通に綺麗」

「後半が本音だろ」

 

修司が言うと、颯は悪びれもせず笑った。

 

「否定はしない。可愛い子情報は大事でしょ」

「何に?」

 

結人が思わず聞くと、颯は真面目な顔を作った。

 

「大学生活に」

「渉と同じこと言ってる」

「僕と渉を一緒にするのはひどくない?」

「今のは同じだった」

 

修司が淡々と言い、渉が「おい」と声を上げる。

颯は笑いながら、アイスの棒を袋に戻した。

七海日葵は、前にも聞いた名前。

水無月真白は、今日初めて聞いた名前。

今はまだ、それくらいだった。

 

「結人、興味なさそうな顔してる」

 

渉が言った。

 

「興味がないというか、まだ知らない人だから」

「真面目な答え」

「知らない人の噂だけで盛り上がるの、少し難しい」

「でもミスコンあったら見るだろ?」

「人が多くなさそうなら」

「またじいさんみたいなこと言ってる」

 

颯が笑う。

 

「でも、そういうのに限って巻き込まれるんだよ」

「紗理奈にも似たようなこと言われた」

「じゃあフラグじゃん」

「フラグじゃない」

 

結人が即答すると、三人が少し笑った。

その笑い声を聞きながら、結人はアイスの棒を袋にしまった。

秋桜祭は、まだ先だ。

それでも、四月に見た掲示板の文字は、七月にはもう、会話の中に入り込んでいた。

夏休みが始まる。

バイトも増える。

友人たちとの時間も、今までとは少し変わるかもしれない。

結人は手の中の空になった袋を見つめた。

今の人生は、思っているより先へ進むのが早い。

それが少し怖くて、けれど、少しだけ悪くないと思った。

 

☆☆☆☆☆

 

その日の夕方、結人は部屋に戻って、試験期間中に散らかった机を片付けた。

 

積んでいたプリントを講義ごとに分ける。

使い終わったルーズリーフをファイルに挟む。

短くなったシャープペンの芯を補充する。

空になったペットボトルを洗って、ゴミ袋に入れる。

 

試験が終わった。

ただそれだけのことなのに、机の上を片付けると、部屋の空気まで少し軽くなったような気がした。

スマホには、グループチャットの通知が入っていた。

渉から。

 

「夏休み突入記念スタンプ」

 

意味の分からない勢いのスタンプが三つ続く。

颯が、

 

「出会いの夏」

 

と返し、修司が、

 

「まず生活リズムを壊すな」

 

と返していた。

少し遅れて、紗理奈も入ってくる。

 

「生活リズム? 何それおいしいの?」

 

渉がすぐに反応した。

 

「紗理奈、もう壊す気だ」

「夏休みは夜更かししてなんぼでしょ」

 

修司が、

 

「試験終わった瞬間にだめな方向へ行くな」

 

と返す。

颯が続けて、

 

「でも夏っぽい」

 

と送ると、紗理奈から得意げなスタンプが返ってきた。

結人はそれを見て、少し笑った。

 

生活リズム。

バイト。

夏休み。

秋桜祭。

 

考えることは、まだいくつもある。

けれど、今日は試験が終わった日だ。

少しだけ気を抜いてもいいのかもしれない。

結人はスマホを手に取り、短く打った。

 

「お疲れ」

 

すぐに既読がつく。

渉から返信が来た。

 

「結人先生もお疲れ!」

 

結人は画面を見て、眉を下げる。

 

「先生じゃない」

 

そう返すと、颯がすぐにスタンプを送ってきた。

紗理奈からも、

 

「先生、夏休みの課題少なめでお願いしまーす」

 

と返ってくる。

 

「先生じゃない」

 

結人がもう一度打つと、修司からは、

 

「お疲れ」

 

とだけ返ってきた。

結人はスマホを伏せ、窓の外を見た。

空にはまだ雲が残っている。

けれど、その向こう側には、夜になる前の淡い青が見えていた。

 

雨の季節は、もうすぐ終わる。

そして、夏が来る。

結人は静かに息を吐いた。

一年前の自分にはなかった予定が、今はある。

 

明日のバイト。

友人との会話。

まだ知らない誰かの名前。

遠くに見えていた秋の気配。

 

その全部が、自分の生活の中に少しずつ置かれていく。

それを受け取るのは、まだ少し怖い。

けれど、拒むほど嫌ではなかった。

机の上に残っていた最後のプリントをファイルにしまい、結人は部屋の電気をつけた。

 

夏休みが、始まろうとしていた。

 




少しネタバレ(?)ですが、話題に出てる二人がヒロイン予定のキャラクターになります。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。