夏休みに入って数日が過ぎた。
講義のない朝は、思っていたより静かだった。
アラームが鳴る前に目を覚ます必要もない。
教室を確認する必要もなければ、昼休みの混雑を避けるために早めに食堂へ向かう必要もない。
それでも結人は、普段より一時間ほど遅い程度で目を覚ました。
カーテンの隙間から差し込む日差しは、朝から強い。
冷房の切れた部屋には、すでに薄い熱が籠もっていた。
結人はベッドから起き上がり、最初に窓を開けた。
けれど、入ってきた風も生温かい。
「……暑い」
誰もいない部屋で呟く。
前日の夜に洗っておいたコップを棚へ戻し、冷蔵庫から麦茶を取り出す。
朝食は食パンと目玉焼きだった。
大学へ行く日なら、時計を見ながら口へ運ぶ。
けれど今日は、テレビのニュースを眺めながら、ゆっくり食べることができた。
画面には、海水浴場で遊ぶ家族の姿が映っていた。
青い空。
白い砂浜。
浮き輪を持って走る子ども。
夏休みらしい光景だった。
結人はパンを口へ運びながら、机の端に置いたスマホへ視線を向けた。
グループメッセージには、朝から何件か通知が入っている。
最初に送ってきたのは渉だった。
「夏休みなのに暇なんだけど」
その三分後。
「誰か遊ぼうぜ」
さらに五分後。
「返事がない。夏休みって孤独」
結人が画面を見ていると、修司から返信が入った。
「朝の八時から連投するな」
「修司起きてた!」
「バイトだからな」
修司は大学近くの喫茶店でアルバイトをしている。
夏休みに入ってからは、講義がない分、昼間のシフトも増えたらしい。
少し遅れて颯も入ってきた。
「僕は今日の午後なら空いてるよ」
「午後バスケなんだよ!」
「自分から誘っておいて予定あるの?」
「午前が暇だった」
結人は思わず小さく笑った。
そこへ紗里奈からも返信が届く。
「あたし今日友達と買い物」
「全員予定あるじゃん!」
「渉もあるでしょ」
「午前が空いてるんだって!」
会話は噛み合っているようで、噛み合っていない。
結人は今日の予定を確認した。
午後三時にはライブハウスへ入る予定だった。
いつもより出演者が多く、開場も少し早い。
帰宅するのは、おそらく夜になる。
「自分も午後からバイト」
そう送ってから、結人は少し考え、もう一文付け加えた。
「午前中なら空いてるけど、今日はイベントで帰りも遅くなりそうだから、出るまではゆっくりしてたい」
午後三時に店へ入るとはいえ、昼食を済ませ、着替えや持ち物を確認し、余裕を持って家を出ることを考えれば、午前中だけ誰かと会う気にはなれなかった。
時間がないわけではない。
けれど、遊べる時間があるのとは、少し違う。
渉から、泣いている顔のスタンプが返ってきた。
「結人まで……」
「前から言ってただろ」
修司が返す。
「夏は忙しいって」
「そうだけどさ。じゃあ全員空いてる日、今決めようぜ」
その提案をきっかけに、候補日がいくつか挙がった。
だが、一日目は修司がバイト。
二日目は渉がスポーツサークルの集まり。
三日目は颯に予定があり、四日目は紗里奈が家族と出かける。
ようやく渉たち四人の予定が合う日を見つけても、今度は結人のシフトが入っていた。
「結人、働きすぎじゃね?」
渉から届いた文字に、結人はカレンダーを見直した。
確かに、夏休みに入る前よりシフトは増えている。
だが、毎日ではない。
何日か続けて入ったあと、二日ほど休みになるよう調整されている。
「毎日じゃないよ」
「でもオレらと合わない」
その言葉に、結人の指が少し止まった。
責められているわけではない。
渉が深く考えて言っていないことも分かる。
それでも、一瞬だけ胸の奥に引っかかった。
『自分が予定を合わせられていない……』
そう考えると、申し訳なさが先に出る。
シフトを減らせないわけではない。
まだ変更を相談できる日もあるかもしれない。
けれど、そこまで考えたところで、修司から新しいメッセージが入った。
「結人だけの問題じゃないだろ。おれたちも予定がばらばらだ」
続いて颯。
「夏休みは長いし、後半なら合う日あるでしょ」
紗里奈も、
「全員の予定が何もない方が怖いって」
と返した。
渉からは、少し間が空いてから、
「それもそうか」
と届いた。
さらに、
「じゃあ後半に期待。結人はシフト出たら教えて」
と続く。
結人はしばらく画面を見たあと、
「分かった」
と返した。
約束は決まらなかった。
けれど、なくなったわけでもなかった。
その違いを、結人は胸の中で静かに確かめた。
☆☆☆☆☆
午後のライブハウスは、外とは違う熱を持っていた。
冷房は入っている。
それでも、機材の熱と人の動きが重なると、店内には独特の暑さが残る。
ステージ上では、一組目のバンドが機材を運び込んでいた。
ギターケース。
エフェクターボード。
シンバル。
アンプ。
細い通路を、出演者とスタッフが何度も行き来する。
今日のイベントには、四組の学生バンドが出演する予定だった。
普段より開演が早く、予約客も多い。
結人が裏口から入ると、迫田は受付横の机で紙の束を確認していた。
「おはよう、二間君」
「おはようございます」
「今日も暑いね。水分はちゃんと取ってね」
「はい」
結人は荷物を置き、店内用の服に着替えた。
それから、いつものように備品の確認へ向かおうとする。
だが、迫田に呼び止められた。
「二間君。今日は、最初に受付をお願いしてもいいかな」
結人は足を止めた。
「受付ですか?」
「うん。予約表の確認と、ドリンク代、それからチケットの受け渡し。開場してしばらくは、二間君に中心でやってもらおうと思ってる」
中心。
その言葉が、耳の奥に残った。
これまでにも受付の補助には入っている。
名前を確認し、ドリンク代を受け取り、分からないことがあれば迫田へ聞く。
だが、今日は補助ではない。
「自分一人で、ということですか?」
慎重に聞くと、迫田は首を横に振った。
「完全に一人ではないよ。私はすぐ後ろにいるし、難しい対応はこっちへ回してくれていい。ただ、普通の受付は二間君に任せたい」
任せたい。
胸の奥に、小さな緊張が生まれる。
前世では、その言葉が怖かった。
任される。
期待される。
失敗できなくなる。
何かを任されるたび、周囲と同じ速度でできるのかを考えた。
遅れた時の顔を想像した。
できなかった時に、相手を失望させることを恐れた。
今も、完全に違うわけではない。
「……分かりました」
結人はそう答えた。
少しだけ声が硬かったのか、迫田は穏やかに続ける。
「二間君が、これまでちゃんと確認しながらやっていたから頼むんだよ」
「はい」
「全部自分で解決することが、任されるって意味じゃないからね。分からない時に私を呼ぶところまで含めて、お願いしてる」
その言葉に、結人は一度瞬きをした。
『分からない時に呼ぶところまで』
できることだけを求められているわけではない。
できないことを、適切な相手へ渡すことも仕事に含まれている。
頭では知っていた。
けれど、こうして言葉にされると、少しだけ呼吸がしやすくなった。
「分かりました。お願いします」
「うん。こちらこそ」
迫田は予約表を結人へ渡した。
☆☆☆☆☆
開場までの時間、結人は受付に必要なものを一つずつ並べた。
予約者の一覧。
当日券。
ドリンクチケット。
釣り銭。
筆記用具。
出演者ごとに分けられた取り置き表。
名前の横に人数を書く。
料金を受け取る。
ドリンクチケットを渡す。
入場済みの印をつける。
チケットの開始枚数も、忘れないよう表の端へ記録しておく。
流れ自体は難しくない。
問題は、人が重なった時だった。
一人ずつ来るとは限らない。
友人同士でまとまって来ることもある。
予約名と来場者の名前が違うこともある。
出演者の知り合いが、どのバンドの取り置きか分からないまま来ることもある。
草ヶ谷がPA卓から戻ってくる途中、受付を覗いた。
「今日、予約多いから、一気に来るかも」
「はい」
「焦って金額間違えるより、待たせてでも確認した方がいい。列が伸びたら店長呼んで」
「分かりました」
「あと、予約に名前がなかったら勝手に当日券扱いにしないこと。出演者側の書き忘れもあるから」
結人は頷きながらメモへ書き加えた。
草ヶ谷はその様子を見て、少しだけ眉を寄せた。
「全部書くの?」
「忘れたくないので」
「まあ、いいけど。書くことに集中して、目の前の客を待たせないようにな」
「気をつけます」
草ヶ谷は短く頷き、ステージ側へ戻っていった。
言い方は相変わらずだった。
けれど、必要なことを先に伝えてくれている。
結人はメモ帳を閉じた。
開場五分前。
入口の外には、すでに何人かの客が並んでいた。
若い男女が多い。
出演する学生バンドの友人なのだろう。
笑い声。
スマホの画面を見せ合う声。
出演者の名前を呼ぶ声。
扉一枚隔てた向こう側に、夏休みらしい賑やかさがある。
その裏で、結人は釣り銭の枚数をもう一度確認した。
千円札。
五百円玉。
百円玉。
手のひらに、薄く汗が滲んでいた。
『大丈夫』
そう言い聞かせようとして、結人はやめた。
大丈夫かどうかは、まだ分からない。
だから代わりに、やることを確認する。
名前を聞く。
表を見る。
料金を受け取る。
チケットを渡す。
分からなければ迫田を呼ぶ。
それでいい。
「開けるよ」
迫田の声がした。
結人は顔を上げた。
「はい」
扉が開いた。
☆☆☆☆☆
最初の十分は、思っていたより順調だった。
「予約のお名前をお願いします」
「山下です。二人です」
「確認します。こちら、ドリンク代が一人六百円になります」
料金を受け取り、人数を確認する。
チケットを二枚渡し、表へ印をつける。
次の客。
その次の客。
声は少し硬い。
だが、聞き取れないほどではない。
「佐々木です」
「どちらの出演者のお取り置きでしょうか」
「あ、たぶん二組目の……バンド名、何だっけ」
同行者と顔を見合わせる客に、結人は一覧を示した。
「こちらの中にありますか」
「あ、これです。ブルーノート」
「確認します」
急かさない。
だが、止まりすぎない。
そう意識しているうちに、入口の外へ列が伸び始めた。
一組の確認に時間がかかると、後ろの客が少しずつ増えていく。
その視線を感じると、胸が焦る。
早くしなければ。
待たせている。
自分が遅いから。
前世の記憶が、頭の奥で重なりかけた。
『違う』
結人は一度だけ息を吐いた。
今、確認に時間がかかっているのは、予約名が見つからないからだ。
手が動かないわけではない。
指示が理解できていないわけでもない。
目の前の客に聞く。
「予約された方のお名前が、別の方になっている可能性はありますか」
「あ、先輩が取ってくれたかも」
「その方のお名前は分かりますか」
名前を聞き、別の欄を確認する。
見つかった。
「ありました。お待たせしました」
客が入場する。
結人は次の客へ視線を向けた。
だが、列はさらに伸びている。
自分だけで続けるべきか。
それとも、呼ぶべきか。
迷ったのは一秒ほどだった。
「店長、少しお願いします」
結人が声を上げると、すぐ後ろにいた迫田が隣へ入った。
「はい。次の方はこちらへどうぞ」
受付が二列になる。
流れが少しずつ戻った。
迷惑をかけた感覚はなかった。
むしろ、列を止めないために必要な判断だった。
そのことに、結人は少し遅れて気づいた。
☆☆☆☆☆
開演後、店内はさらに熱を帯びた。
ギターの音が響き、ドラムの振動が床から伝わる。
客席では、ステージに向けて手を上げる者もいた。
結人は受付からドリンクカウンターへ移り、空いたカップを回収しながら店内を見た。
冷蔵庫を開ける。
ペットボトルの水が、残り少なくなっていた。
一組目が終われば、客が一度にドリンクを取りに来る。
今のうちに補充した方がいい。
結人はバックヤードへ向かい、在庫を確認した。
箱を持ち上げようとしてから、足元に別のケースがあることへ気づく。
このままでは通りにくい。
先にケースを端へ寄せる。
通路を確保してから、水の箱を運ぶ。
以前なら、目の前の指示や作業だけで精いっぱいだった。
今は、その一つ先を少しだけ見られる。
カウンターへ箱を置くと、草ヶ谷がPA卓の方からこちらを見た。
「水、少なかった?」
「はい。一組目が終わる前に補充した方がいいと思って」
「そう。じゃあ、そのまま入れといて」
「分かりました」
短いやり取りだった。
けれど、草ヶ谷は結人が補充した理由を聞いた。
勝手なことをするなとは言わなかった。
結人は冷蔵庫へペットボトルを並べていく。
一本。
二本。
三本。
思った通りに手が動く。
それを嬉しいと思う一方で、胸の奥に複雑な感覚が残る。
柴咲光だった頃の自分は、同じ状況でここまで動けただろうか。
箱を運ぶだけで周囲より時間がかかり、焦って通路を塞いでいたかもしれない。
今はできる。
だからといって、前の自分が怠けていたわけではない。
それも分かっている。
『それでも、できることを嬉しいと思っていいのかな』
答えは出ない。
ステージから拍手が響いた。
一組目が終わったらしい。
すぐに客がカウンターへ流れてくる。
結人は冷蔵庫を閉め、顔を上げた。
考えるのは、あとでいい。
今は目の前の仕事がある。
☆☆☆☆☆
最後のバンドが演奏を終えた頃には、外はすっかり夜になっていた。
客を見送り、店内の片付けが始まる。
床に落ちたフライヤーを拾う。
カップを集める。
忘れ物を確認する。
受付で使った表やチケットを整理する。
結人は、受付で使わずに残ったドリンクチケットを数えていた。
一枚。
二枚。
三枚。
合わない。
入場者数から逆算した残数より、チケットが一枚少ない。
胸の奥が冷えた。
誰かに一枚多く渡したのか。
二枚重なったまま渡したのか。
途中で落としたのか。
もう一度数える。
やはり、一枚少ない。
『自分が間違えたのか』
周囲では片付けが進んでいる。
迫田は出演者と話している。
草ヶ谷はステージ周りを確認している。
もう一度、自分だけで確認するべきか。
机の下も探すか。
記録を一人ずつ見直すか。
隠したいわけではない。
だが、報告する前に自分で解決した方がいいのではないかという思いが浮かぶ。
前世でも、そうやって抱え込んだ。
間違いを知られるのが怖かった。
確認に時間を使い、さらに遅れた。
結局、もっと迷惑をかけた。
結人は手を止めた。
「店長」
迫田が振り向く。
「どうしたの?」
「ドリンクチケットの残りが、一枚合いません。入場者数から計算すると、もう一枚あるはずなんですけど」
言葉にすると、喉が少し乾いた。
迫田は責める顔をしなかった。
机へ近づき、表を確認する。
「現金は?」
「こちらです。まだ数えていません」
「じゃあ先に、金額と合わせてみようか」
二人で釣り銭と売上を確認する。
計算すると、現金の金額は合っていた。
迫田はチケットの束を手に取り、横から確かめる。
そのうちの一枚を指で擦ると、重なっていた薄い紙が二枚に分かれた。
「あった」
「……重なっていたんですね」
「そうみたいだね。こういう紙、汗や湿気でくっつくから」
結人は息を吐いた。
安心した。
同時に、身体から力が抜けそうになる。
「すみません」
「謝ることではないよ」
迫田はチケットを机へ置いた。
「合わないことに気づいて、報告してくれた。それで十分」
「でも、自分が数える時に気づけなくて」
「二回数えて、それでも合わなかったから相談したんでしょう?」
「はい」
「なら、その判断で合ってるよ」
迫田は穏やかに言った。
「仕事を任せるっていうのは、間違えない人に全部渡すことじゃない。違和感があった時に、黙らず言える人へ渡すことでもあるから」
結人は、重なっていた二枚のチケットを見た。
たった一枚。
小さな紙だ。
それでも、気づかないふりをすれば、曖昧なまま終わったかもしれない。
「……ありがとうございます」
「うん。今日は助かったよ」
迫田はそう言ってから、受付表を整えた。
「来週も同じイベント形式の日があるんだけど、入れるなら受付をお願いしていいかな」
結人は顔を上げた。
「自分でいいんですか?」
「二間君がいいから聞いてるんだよ」
穏やかな声だった。
大げさな褒め方ではない。
特別な才能を認められたわけでもない。
今日の働き方を見て、次も頼みたいと思われた。
それだけだ。
けれど、その「それだけ」が、結人には少し重く、同時に温かかった。
「……はい。予定を確認して、今日中に連絡します」
「お願い」
少し離れたところで聞いていた草ヶ谷が、ケーブルをまとめながら口を挟んだ。
「受付、最初よりだいぶましだったし」
「最初より、ですか」
「最初から完璧だったとは言ってない」
「それは、分かってます」
「でも、列が伸びた時に店長呼んだのは正解。変に粘られる方が困る」
草ヶ谷はそれだけ言うと、また手元へ視線を戻した。
褒められたのかどうかは、少し分かりにくい。
けれど、否定されてはいない。
結人は小さく頭を下げた。
「ありがとうございます」
「だから、毎回礼を言わなくていいって」
草ヶ谷の声に、迫田が笑った。
ライブの終わった店内には、もう演奏の音はない。
それでも耳の奥には、まだ低い振動が残っていた。
☆☆☆☆☆
ライブハウスを出ると、夜の空気も生温かかった。
駅へ向かう途中、結人はスマホを取り出した。
まずカレンダーを開き、迫田に頼まれた来週のイベントの日を確認する。
ほかの予定とは重なっていない。
結人は迫田へ、
「来週も入れます。よろしくお願いします」
と短いメッセージを送った。
続けて通知を確認すると、グループメッセージにもいくつか新しい投稿が入っていた。
渉がコンビニのアイスの写真を送っている。
「夏休みらしいこと第一号」
修司が、
「アイス食べただけだろ」
と返している。
颯は、
「でも夜に食べるアイスは夏っぽいね」
と送り、紗里奈は別の種類のアイスの写真を返していた。
「こっちの勝ち」
「なんの勝負だよ」
くだらない会話だった。
結人は歩きながら、その画面を眺めた。
今日、自分は一緒にいなかった。
渉たちも、全員が同じ場所にいたわけではない。
それぞれの場所で、それぞれの夏を過ごしている。
大学にいる時は、同じ講義を受け、同じ食堂で話していた。
けれど、夏休みになれば生活の時間は少しずつずれる。
そのずれを、関係が離れたように感じる必要はないのかもしれない。
結人はもう一度カレンダーを開いた。
迫田に頼まれた日をカレンダーへ入れても、来週と再来週には、まだいくつか空いている日が残っていた。
これまでは、予定を聞かれてから答えることが多かった。
空いていれば行く。
都合が合えば参加する。
自分から誰かの時間を押さえるようなことは、あまりしなかった。
迷惑かもしれない。
自分が言い出して、合わなければ気まずい。
そんな考えが先に出ていた。
けれど今日は、少しだけ違った。
結人はグループメッセージへ文字を打つ。
「来週の水曜と、再来週の木曜なら空いてる」
送信する前に、一度だけ指が止まった。
それから、そのまま送った。
数秒後、渉から返事が来る。
「再来週の木曜いける!」
修司。
「おれも今のところ空いてる」
颯。
「昼過ぎからなら大丈夫」
紗里奈。
「木曜ならたぶんいける。何する?」
話が急に進み始める。
「映画」
「ボウリング」
「カラオケ」
「涼しいところ」
「最後だけ範囲広すぎ」
メッセージが次々に増えていく。
結人は駅の入口で立ち止まり、画面を見ながら小さく笑った。
まだ、予定は決まっていない。
全員が本当に集まれるかも分からない。
それでも、自分から空いている日を伝えた。
そのことで、何かが少し動いた。
ライブハウスの中では、ステージに立つ者がいる。
客席で音を受け取る者がいる。
その裏で、受付をし、飲み物を補充し、床を片付ける者がいる。
表からは見えにくい時間が、確かにその場所を作っている。
夏も、同じなのかもしれない。
海や祭りや旅行だけが、夏休みではない。
働く時間。
予定が合わない時間。
一人で朝食を食べる時間。
誰かから届いたメッセージに、少し遅れて返事をする時間。
華やかではない日々も、その裏側で一つの季節を作っている。
結人はスマホを鞄へ戻し、駅の階段を下りた。
耳の奥には、まだライブの余韻が残っている。
そして鞄の中では、友人たちからの通知が、もう一度小さく震えていた。
リアルでも暑い日が続きますが、体調には十二分に注意しながら続きを定期的に書いていきたいと思う今日この頃です。