分けようかとも思いましたが、一気にまとめました。
夏休みに入って、二週間ほどが過ぎた。
講義のない生活にも、少しずつ慣れてきた頃だった。
ライブハウスのシフトに入り、空いた日には買い物や部屋の掃除をする。
大学へ通っていた頃より時間には余裕があるはずなのに、何もせずに一日が終わることは意外と少なかった。
夏休みは、まだ十分に残っている。
それでも、前期の講義はすでに少し遠い出来事のように感じられた。
窓の外では、朝から蝉が鳴いている。
八月の日差しは相変わらず強く、今日も暑くなりそうだった。
結人は冷房の効いた部屋で、机の上に置いたノートパソコンを見つめていた。
画面には、大学の学生用ポータルサイトが表示されている。
時刻は、午前十一時五十八分。
前期の成績が公開されるまで、あと二分だった。
『別に、公開された瞬間に見なくてもいいんだけどな』
そう思いながらも、結人は画面を閉じられなかった。
単位を落とすような手応えはない。
講義にはほとんど出席した。
課題も期限までに提出し、試験勉強も自分なりに進めた。
それでも、結果を見るまでは安心できない。
自分ではできたと思っていても、何かを見落としているかもしれない。
簡単なところで、勘違いをしているかもしれない。
前世の頃から、評価が出る直前の時間は得意ではなかった。
机の端に置いていたスマホが震える。
グループメッセージだった。
「あと二分」
送ってきたのは渉だった。
すぐに修司から返信が入る。
「実況しなくていい」
「緊張を共有しようぜ」
「一人でしてて」
紗里奈からの返事だった。
少し遅れて颯も入ってくる。
「もうログインして待ってるの?」
「当然だろ」
「成績発表をイベントみたいに扱ってるね」
「大学生にとっては一大イベントだろ!」
渉の主張に、結人は小さく笑った。
時刻が正午に変わる。
結人はポータルサイトの更新ボタンを押した。
画面が一度白くなり、そのまま止まる。
数秒待っても、表示は変わらない。
もう一度更新すると、今度はアクセスが集中しているという案内が表示された。
直後、スマホが震える。
「開かねえ!」
「みんな同時に見てるんだから、少し待て」
修司が返す。
「この数秒でオレの単位が消えるかもしれないだろ!」
「結果はもう決まってるよ」
颯の冷静な言葉に、紗里奈が続く。
「今開かない方が、もう少し幸せでいられるかもね」
「怖いこと言うな!」
結人は苦笑しながら、一度画面から手を離した。
焦って更新を繰り返しても、早く見られるわけではない。
麦茶を一口飲み、一分ほど待ってから再び更新する。
今度は、成績確認のページが表示された。
履修した科目が一覧になって並んでいる。
結人は、一番上から順番に確認していった。
不可はない。
前期に履修した科目は、すべて単位を取得できていた。
その事実を確かめた瞬間、肩から少し力が抜けた。
飛び抜けて良い評価ばかりではない。
手応えより低かった科目もあり、反対に予想以上だった科目もある。
それでも、落とした単位はなかった。
『よかった……』
胸の中で、静かに呟く。
大学へ通い、講義を受け、課題を提出し、試験を受けた。
ただ、それだけの結果だ。
けれど結人にとっては、二間結人として積み重ねた時間が、目に見える形になったものでもあった。
前世では理系寄りだった自分が、今は経済学科で学んでいる。
第二の人生では違う分野へ進もうと考え、実際に選んだ道だった。
『今の自分がやったことなんだよな』
前世の記憶だけで得た結果ではない。
講義へ出て、分からない部分を調べた。
友人たちと試験範囲を確認し、提出物を見直した。
その時間は、間違いなく二間結人として過ごしたものだった。
スマホが何度も震える。
「一個死んだ」
渉からの報告だった。
結人は一瞬、画面を見つめた。
すぐに修司から返信が入る。
「必修か?」
「違う」
「なら、今すぐ困るわけじゃないね」
颯が返した。
「何の科目?」
紗里奈が聞く。
「教えない」
「なんで?」
「オレの名誉に関わる」
「一科目落とした時点で、もう自分から言ってるけど」
「そこには触れるな」
結人は少し迷ってから、文字を打つ。
「ほかはどうだった?」
「だいたい想定通り。ちょっと良いのもあった」
渉の返事は、思っていたより軽かった。
一科目を落としたこと自体は残念なのだろう。
けれど、必修科目ではない。
一年生の前期に選択科目を一つ落としただけで、すぐに進級や卒業へ影響するわけでもなかった。
必要なら、今後の履修で補えばいい。
修司からも、
「選択なら、これから必要な単位を取ればいいだろ」
と届く。
「そうする。後期のオレに期待してくれ」
「もう前期の反省終わったの?」
「反省はした」
「短いね」
颯の返事に、渉が泣いている顔のスタンプを送る。
続いて紗里奈から、
「あたしは全部取れてた」
と届いた。
さらに、
「一個、思ったより良かった」
と付け加えられる。
「何?」
「教えない」
「なんでだよ」
「渉に勝ってそうだから」
「一個落としたやつと比べるな!」
「自分から傷を広げてるね」
颯が返す。
修司からは、
「おれも問題なし」
とだけ届いた。
相変わらず簡潔だった。
結人も文字を打つ。
「自分も全部取れてた」
送信すると、渉からすぐに返事が来た。
「裏切り者が増えた!」
「誰も渉を裏切ってないだろ」
修司が返す。
「オレだけ一個ない!」
「必修じゃないなら、次から気をつければいいよ」
颯が宥める。
「分かってる。今日は反省会だ」
「遊ぶ日じゃなかったの?」
結人が聞く。
「遊びながら反省する」
「反省できなさそう」
結人は画面を見ながら、息を吐いた。
結果を見る前まで胸の内にあった緊張は、いつの間にか薄れていた。
今日はこのあと、全員で集まる予定になっている。
集合は午後一時半。
駅前の広場だった。
正午に成績が公開されると分かっていたため、それぞれ結果を確認してからでも間に合う時間にしていた。
結人はノートパソコンを閉じた。
昼食は、集まってから取ることになっている。
着替えを済ませ、財布やスマホを鞄へ入れる。
玄関を出る前、もう一度だけ成績画面を確認しようかと思った。
けれど、結人はそのまま靴を履いた。
結果は変わらない。
それより今は、友人たちとの約束の方が大事だった。
☆☆☆☆☆
駅前の広場へ着くと、すでに修司と颯がいた。
二人とも、建物の陰になっている場所に立っている。
「おはよう」
結人が声をかけると、修司が腕時計へ視線を落とした。
「もう昼過ぎだけどな」
「挨拶として」
「夏休みなら、昼でも朝みたいなものかもね」
颯が笑った。
二人とも、大学で会う時より身軽な服装をしている。
講義がないため、鞄も小さい。
結人は周囲を見回した。
「渉と紗里奈は?」
「紗里奈はもうすぐ着くって」
修司が答える。
「渉は今、走ってるらしいよ」
颯がスマホの画面を見せた。
「電車一本逃した! 走る!」
と送られている。
「駅まで走っても、逃した電車には乗れないだろ」
修司が淡々と言う。
「次の電車には間に合ったって意味じゃない?」
「それなら、そう書けばいい」
数分後、紗里奈が改札から現れた。
薄い色のシャツに、小さな鞄を肩から提げている。
「お待たせ」
「まだ渉が来てないから大丈夫」
結人が言うと、紗里奈は納得したように頷いた。
「じゃあ、あたしは遅刻してないね」
「時間には少し遅れてるけどな」
修司が指摘する。
「渉が来るまでは集合が完成してないから」
「どういう理屈だよ」
さらに五分ほどして、ようやく渉が姿を見せた。
額に汗を浮かべながら、改札から駆けてくる。
「悪い!」
「遅い」
修司が即座に返した。
「電車が!」
「電車は時間通りだったと思うよ」
颯の言葉に、渉は胸を押さえながら首を振る。
「家を出る直前に、もう一回成績を見たくなったんだよ」
「見ても増えてないでしょ」
紗里奈が呆れたように言った。
「もしかしたら、不可が可に変わってるかもしれないだろ」
「一時間で?」
「大学側の入力ミスだった可能性がある」
「何でも人のせいにするな」
修司に言われ、渉は肩を落とした。
「分かってるよ。オレのせいだよ」
先ほどまでの勢いが、少しだけ弱くなる。
結人は渉の表情を見た。
深刻に落ち込んでいるわけではない。
それでも、まったく気にしていないわけでもなさそうだった。
「必修じゃないんだろ?」
結人が確認すると、渉は頷いた。
「うん。卒業までに必要な単位を取ればいいやつ」
「じゃあ、今から気にしすぎなくてもいいんじゃないか」
「まあな。落とすかもしれないとは思ってたし」
渉はそう言って、首の後ろを掻いた。
「出席が少し危なかったんだよ」
「試験じゃなくて出席なんだ」
颯が言う。
「途中までは行ってた。でも後半、サークルの予定を優先して何回か休んじゃって」
「それなら想定できたでしょ」
紗里奈の言葉に、渉は視線を逸らした。
「もしかしたら、先生がオレの人柄を評価してくれるかと」
「出席してないのに、人柄は伝わらないだろ」
修司が切り捨てる。
渉は一度空を仰ぎ、それから両手を合わせた。
「後期のオレに期待してください」
「前期の反省は?」
「今してる」
結人は思わず笑った。
渉も、少し遅れて笑う。
一科目を落としたことは、褒められることではない。
けれど、それだけで今日のすべてが悪くなるわけでもなかった。
全員が揃い、まずは遅めの昼食を取ることになった。
駅前の商業施設に入り、混雑したフードコートで五人分の席を探す。
夏休み中ということもあり、家族連れや学生が多い。
少し待って窓際の席が空き、それぞれ荷物を置いた。
食事を買って戻ってくると、自然に成績の話になる。
「で、結人はどうだった?」
渉が丼を口へ運びながら聞いた。
「全部取れてたよ」
「それは聞いた。評価の方」
「普通」
「普通ってどのくらい?」
「良いのもあれば、思ったより低いのもあった」
結人は曖昧に答えた。
隠すほど悪いわけではない。
けれど、自分から細かく見せるほどでもないと思った。
「修司は?」
「普通」
「絶対、結人より教える気ないじゃん」
渉が不満そうな顔をする。
修司は気にせず、水を一口飲んだ。
「単位が取れてればいいだろ」
「そういう余裕のあるやつが一番成績いいんだよ」
「颯は?」
「一つだけ、思ったより低かったかな。あとは予想通り」
「不可は?」
「ないよ」
「聞いたオレが馬鹿だった」
渉が箸を置き、深く息を吐く。
「別に、一科目くらいならこれから取り返せるでしょ」
紗里奈が言う。
「分かってる。でも今日だけは、少し悲しませてくれ」
「元気に丼食べてるけど」
「悲しみを栄養に変えてる」
「便利な身体だね」
颯が笑った。
「紗里奈は、思ったより良かった科目があったんでしょ?」
結人が聞く。
「うん。でも秘密」
「まだ言わないの?」
「聞いたら、あたしのこと賢いって思っちゃうから」
「今まで思われてない前提なのか」
渉が言うと、紗里奈は箸を止めた。
「単位落とした人が何か言った?」
「申し訳ありません」
渉はすぐに頭を下げた。
くだらない会話だった。
けれど結人は、その輪の中に自分がいることを、以前より自然に受け止めていた。
試験前に同じ範囲を確認し、結果が出れば一緒に話す。
誰かが一つ失敗すれば、必要以上に責めるのではなく、冗談を交えながら次の話をする。
大学生としては、珍しくもない時間なのだろう。
だからこそ、結人には少し眩しかった。
『こういうのも、自分の生活なんだよな』
特別な出来事ではない。
それでも、今の自分が積み重ねている時間だった。
☆☆☆☆☆
昼食のあとは、ボウリングへ行くことになった。
映画では見たい作品が一致せず、カラオケは後からでも行けるという渉の意見で保留になった。
貸し出された靴へ履き替え、五人で一つのレーンを使う。
一投目から、修司は安定してピンを倒した。
中央付近へ転がったボールが、八本のピンを倒す。
残った二本も、二投目できれいに処理した。
「やっぱり、こういうのもできるんだな」
結人が言うと、修司は首を傾げた。
「普通だろ」
「その普通の範囲が広いんだよ」
渉が不満そうに言う。
続く渉は、助走だけは勢いがあった。
投げられたボールは大きく左へ曲がり、端のピンを二本だけ倒す。
「今日は運が悪い」
「成績も?」
紗里奈が聞く。
「それはオレが悪い」
「ちゃんと反省してるじゃん」
「同じ失敗は繰り返さない男だからな」
「まだ一時間も経ってないけど」
颯が返す。
結人の番になる。
ボールを持ち、レーンの前に立つ。
ボウリングの経験は少ない。
前世でも、球技は得意ではなかった。
それでも今日は、失敗した時のことを必要以上に考えずにいられた。
遊びなのだから、うまくできなくても構わない。
後ろで見ているのも、失敗を責めるような者たちではない。
結人は狙いを定め、ボールを投げた。
真っすぐ進んだボールが、中央より少し右へ当たる。
六本のピンが倒れた。
「悪くないじゃん」
渉が言う。
「初投げにしてはね」
二投目は狙いより少し左へずれたが、それでも二本倒すことができた。
次は紗里奈だった。
紗里奈は軽めのボールを選び、勢いをつけすぎないように投げる。
ボールは中央からやや右へ進み、七本のピンを倒した。
「まあまあかな」
紗里奈は残ったピンを見ながら言った。
二投目では、そのうち二本を倒す。
大きく崩れない代わりに、驚くほど派手な結果にもならない。
けれど、本人は特に気にしていない様子だった。
最後に颯が立つ。
颯はボールを手に取ると、何度か指の位置を確かめた。
「颯、やったことあるの?」
結人が聞く。
「何回かね。友達に誘われて」
そう答えた颯の投球には、修司とは違う滑らかさがあった。
力任せではない。
軽く腕を振ったように見えたのに、ボールは中央近くまで真っすぐ進み、最後にわずかに内側へ入った。
十本のピンが、一度に倒れる。
「え?」
渉が声を上げた。
颯は振り返り、小さく笑う。
「うまくいったね」
「絶対、何回かって回数じゃないだろ!」
「本当に何回かだよ」
「その何回かでストライク出せるの、おかしくない?」
「投げ方を教えてもらったことはあるかな」
「先に言えよ!」
「聞かれなかったから」
紗里奈が声を上げて笑った。
その後も、修司と颯は安定して点数を伸ばした。
修司は余計な動きがなく、大きな失敗をしない。
颯は時々ボールが狙いから外れるものの、当たった時には多くのピンを倒した。
紗里奈も派手さはないが、大きく崩れない。
結人は何度かスペアを取り、思っていたより良い点数になった。
渉だけが、投げるたびに結果が大きく変わった。
ストライクを出した次の投球で、一本も倒せない。
「安定しないね」
結人が言う。
「爆発力があるって言ってくれ」
「悪い方にも爆発してるけど」
ゲームが終わる頃には、全員が少し汗をかいていた。
冷房の効いた建物の中にいても、身体を動かせば暑い。
それでも、結人はその疲れを嫌だとは思わなかった。
一位は修司。
それを颯が追い、紗里奈、結人、渉と続いた。
「今日、オレだけ何も勝ってない」
渉がスコア画面を見上げながら言う。
「単位の数でも負けたしな」
修司が淡々と付け加える。
「そこはもう忘れさせてくれ!」
「次は勝てばいいよ」
結人が言う。
「そうだな。成績もボウリングも、次は勝つ」
「成績は人と勝負するものじゃないけどね」
颯の言葉に、渉は少し考えたあと頷いた。
「じゃあ、次は落とさない」
「その方がいい」
その後は近くの店を少し見て回り、冷たい飲み物を買った。
当初候補に挙がっていたカラオケへ行くほどの時間は残っていなかったが、誰も不満そうにはしていなかった。
特別な場所へ出かけたわけではない。
それでも、久しぶりに全員で過ごした時間は、思っていたより早く過ぎていった。
☆☆☆☆☆
それから数日が過ぎ、お盆の時期に入った。
ニュースでは、高速道路の渋滞や、新幹線の混雑が伝えられている。
帰省する家族。
大きな荷物を持った人々。
久しぶりに祖父母と会い、笑顔を見せる子どもたち。
結人は朝食を取りながら、その映像を眺めていた。
机の上に置いたスマホが震える。
父の祐司と母の椿、それに結人の三人だけのグループメッセージだった。
「今年のお盆は、そっちには帰れそうにない。ごめんな」
祐司から届いている。
すぐ下には、椿のメッセージもあった。
「仕事の予定がずれ込んじゃって。結人は元気にしてる?」
「食事、ちゃんと取ってる?」
「ライブハウスも忙しいのかな」
立て続けに送られてくる文章に、結人は小さく笑った。
両親が帰国できないことは、以前から聞いていた。
それでも、お盆が近づいて改めて連絡をくれたのだろう。
「元気にしてるよ。今日はこれからバイト」
「食事も取ってる」
「二人も仕事頑張って」
そこまで打ってから、少し考える。
テレビでは、久しぶりに再会した家族の姿が映っていた。
寂しくないわけではない。
一人暮らしを始めてから、両親がいない部屋には慣れた。
大学にも友人がいる。
ライブハウスへ行けば、迫田や草ヶ谷がいる。
それでも、誰かが家族のもとへ帰っていく時期には、自分の部屋の静かさが少しだけ目立つ。
結人は、もう一行加えた。
「また帰ってこられる時に、三人でご飯食べよう」
送信すると、すぐに椿から返事が届いた。
「もちろん」
「次は結人の食べたいものにしよう」
祐司も、
「帰国の日程が決まったら、最初に連絡する」
と送ってきた。
結人は画面をしばらく眺めたあと、スマホを伏せた。
帰ってこられないことは変わらない。
けれど、帰る場所がなくなったわけではなかった。
☆☆☆☆☆
その日のライブハウスでは、三組のバンドが出演する予定になっていた。
学生バンドだけではなく、普段から近隣のライブハウスで活動している社会人のバンドも出演する。
お盆休みに入った者が多いためか、予約の数も多かった。
結人が店へ向かう電車の中でスマホを確認すると、都子からメッセージが届いていた。
「今日、彼氏と結人のところに行くね」
「前に事前に言うって約束したから、一応連絡」
「仕事中に話しかけすぎないようにするから安心して」
結人は画面を見たまま、わずかに肩へ力が入るのを感じた。
以前、都子から、音楽好きの彼氏と一緒にライブハウスへ行くことがあると聞いていた。
その時、自分の働いている姿を親戚に見られるのは気まずいと答えた。
都子は、来る時には事前に知らせると言っていた。
本当に来るとは思っていなかったわけではない。
それでも、実際に今日来ると知らされると、落ち着かない。
「分かりました」
「受付にいると思います」
「気をつけて来てください」
そう返すと、都子から笑っている顔のスタンプが届いた。
「緊張してる?」
「少し」
「普通に働いてれば大丈夫」
「それが緊張します」
「じゃあ、なるべく普通の客として行くね」
普通の客として来るなら、わざわざ緊張しているか聞かないでほしい。
そう思ったが、結人は文字にはしなかった。
☆☆☆☆☆
開場後、受付には途切れることなく客が訪れた。
結人は予約表を確認し、料金を受け取り、ドリンクチケットを渡す。
前回よりも、手順を考えずに動けるようになっていた。
「予約のお名前をお願いします」
「橋本です」
「二名様ですね。ドリンク代が、お一人六百円になります」
客を通し、表へ印をつける。
次の名前を聞こうと顔を上げた時、入口の外に見覚えのある女性が立っていることに気づいた。
都子だった。
隣には、結人が初めて見る男性がいる。
都子は結人と目が合うと、軽く片手を上げた。
「こんにちは」
「……こんにちは」
仕事中だと意識したせいで、結人の返事は少し硬くなった。
都子の隣にいた男性が、一歩前へ出る。
「初めまして。
落ち着いた声だった。
「都子から話は聞いてます」
結人も姿勢を正す。
「二間結人です。初めまして」
「今日は楽しみにしてました」
「ありがとうございます」
裕太はそれ以上話を続けず、都子と一緒に予約名を伝えた。
結人は表を確認する。
確かに、我妻裕太の名前で二名分の取り置きが入っている。
「確認できました。ドリンク代が、お一人六百円です」
料金を受け取り、チケットを二枚渡す。
いつも通りの手順だった。
けれど、都子が目の前にいると思うだけで、いつもより緊張した。
チケットを落とさなかったか。
金額を間違えていないか。
表へ印をつけたか。
一つずつ確認している結人を見て、都子が少しだけ笑った。
「ちゃんと働いてるね」
「まだ受付の途中なので」
「ごめん。普通のお客さんだった」
都子はそう言って、裕太の腕を軽く引いた。
裕太は結人へ小さく頭を下げる。
「また帰りに、余裕があれば」
「はい」
二人が店内へ入っていく。
結人は、その背中を見送りかけてから、すぐに次の客へ顔を向けた。
「お待たせしました。予約のお名前をお願いします」
親戚に働いている姿を見られるのは、やはり少し気まずい。
けれど、思っていたほど手が止まることはなかった。
今の自分には、目の前でやるべき仕事がある。
そのことが、余計な緊張から結人を少し遠ざけてくれた。
☆☆☆☆☆
一組目の演奏が終わると、客の一部がドリンクカウンターへ流れてきた。
結人は空いたカップを回収しながら、列の様子を確認する。
水。
炭酸飲料。
ビール。
注文が重なる。
草ヶ谷がカウンターの中で飲み物を用意し、結人は受け渡しと空いた容器の整理を手伝った。
列が短くなった頃、都子と裕太がやってきた。
裕太はステージの方を振り返りながら、楽しそうに言う。
「やっぱり、ここは近くていいですね」
「裕太、それ来るたびに言ってない?」
都子が少し呆れたように言う。
「だって本当に近いから。前に来た時も思ったけど、この距離で見られるのはやっぱりいいよ」
「そこまで気に入ってたんですね」
結人が言うと、裕太は頷いた。
「はい。大きい会場も好きですけど、こういうところは演奏してる人の動きまでよく見えるので。音も近いですし」
「ほら。音楽の話を始めると長くなるよ」
都子が横から口を挟む。
「まだそんなに話してないけど」
「これから長くなるの知ってるから。予防」
「信用がないな」
裕太は苦笑した。
二人のやり取りは自然だった。
都子が裕太の話を止めても、裕太は気を悪くした様子を見せない。
裕太も都子へ軽く言い返すが、その様子には慣れたものがあった。
『こういう人なんだ』
都子から聞いていた彼氏という存在が、ようやく一人の人物として目の前に立った。
けれど、今は仕事中だ。
結人はカウンターの奥を確認する。
「飲み物、何にしますか?」
「私は炭酸水」
「僕はビールで」
チケットを受け取り、草ヶ谷へ注文を伝える。
飲み物を待つ間、都子が思い出したように結人へ聞いた。
「そういえば、叔母さんたち、お盆は帰ってくるの?」
結人は首を横に振った。
「今年は仕事で帰れないそうです。今朝、連絡が来ました」
「そっか。やっぱり忙しいんだ」
「はい。帰国できる日が決まったら連絡するって言ってました」
「じゃあ、お盆は一人?」
「一人ですけど、バイトもありますし、友達とも遊んでますよ。両親とも連絡は取ってるので……」
結人がそう答えると、都子は少しだけ表情を柔らかくした。
「そっか」
「はい」
「じゃあ、叔母さんたちが帰ってくるまでに、予定が合えばまたご飯でも行こうか」
「予定が合えば、お願いします」
「うん。予定が合えば」
都子も同じ言葉を返した。
草ヶ谷が用意した飲み物をカウンターへ置く。
「炭酸水とビール」
「ありがとうございます」
都子がグラスを受け取る。
裕太もビールを受け取り、結人へ軽く頭を下げた。
「仕事中に引き止めてすみません」
「いえ」
「次のバンドも楽しみにしてます」
そう言って、二人は客席へ戻っていった。
深い話をしたわけではない。
裕太とは、まだ少し言葉を交わした程度だった。
それでも、都子が普段どのような相手と時間を過ごしているのか、少しだけ分かった気がした。
☆☆☆☆☆
二組目が始まると、店内には再び大きな音が満ちた。
結人は受付とドリンクカウンターの間を行き来しながら、客の流れを見る。
途中から来た客へ対応し、減った水を補充する。
床に落ちたフライヤーを拾い、通路を塞いでいた荷物を出演者へ確認する。
時折、客席の中に都子と裕太の姿が見えた。
裕太はステージを真剣に見ている。
都子も隣で音に合わせて身体を揺らしていた。
自分の仕事を見られているという意識は、完全には消えなかった。
それでも、開場直後のような硬さはもうない。
結人は目の前の作業へ集中していた。
水の残りを確認する。
チケットの追加分を用意する。
迫田から頼まれた備品を運ぶ。
一つずつ終えていく。
都子たちが来たことは、今日の仕事の一部ではない。
けれど、その二人を客として迎え、普段と同じように対応できたことは、結人にとって小さな変化だった。
以前なら、知っている相手の視線を気にして、必要以上に失敗を恐れていたかもしれない。
今も緊張はする。
だが、緊張しながらでも手は動く。
『それでいいのかもしれない』
何も感じなくなる必要はない。
不安や緊張を抱えたままでも、できることはある。
☆☆☆☆☆
最後の演奏が終わり、客が少しずつ出口へ向かい始めた。
結人は受付付近で、忘れ物がないか声をかける。
都子と裕太も、人の流れが落ち着いてから出口へやってきた。
「結人、お疲れさま」
「ありがとうございます」
裕太も笑顔で続ける。
「楽しかったです」
「それならよかったです」
「また来ると思います」
「その時は、よろしくお願いします」
裕太はそれ以上踏み込まず、結人へ一礼した。
都子が隣から結人を見る。
「思ってたより普通に働いてた」
「普通じゃないと思ってたんですか?」
「緊張して受付で固まってるかと思ってた」
「最初は少し緊張しました」
「やっぱり」
都子は楽しそうに笑った。
「でも、ちゃんとしてたよ」
「ありがとうございます」
「今度ご飯の日、また連絡する」
「はい」
「叔母さんたちにも、結人は元気そうだったって言っておくね」
「自分からも連絡します」
「それが一番」
都子は軽く手を振った。
「じゃあ、仕事頑張って」
「気をつけて帰ってください」
裕太も軽く手を上げ、二人は店を出ていった。
扉が閉じる。
結人は、一度だけその扉を見た。
以前、都子は、本当に彼氏とこの店へ来るかもしれないと言っていた。
その言葉が、今日現実になった。
何か大きな出来事が起きたわけではない。
裕太とも、少し言葉を交わしただけだった。
それでも、これまで名前だけを聞いていた人物に、顔と声が加わった。
都子が普段、こんな相手と時間を過ごしている。
そのことを少し知れただけでも、結人にはどこか不思議な感じがした。
「二間君」
迫田の声に、結人は振り返った。
「片付け、こっちからお願いしてもいいかな」
「はい」
仕事はまだ終わっていない。
結人は扉から視線を離し、店内へ戻った。
☆☆☆☆☆
それから、夏休みの日々は静かに流れていった。
ライブハウスでは、受付を任されることが増えた。
最初にチケットの枚数を記録し、予約表を確認する。
列が伸び始めた時には、無理に一人で対応しようとせず、早めに迫田へ声をかける。
終演後のチケットと現金も、落ち着いて照らし合わせられるようになった。
迫田は大げさに褒めなかった。
ただ、次のイベント予定を確認しながら、
「この日も受付をお願いしていいかな」
と、以前より自然に尋ねた。
結人も、
「はい。大丈夫です」
と、すぐに答えられた。
任されることへの緊張が、なくなったわけではない。
それでも、任された瞬間に失敗だけを想像することは、少しずつ減っていた。
草ヶ谷からは、相変わらず細かな注意を受けた。
「受付に集中するのはいいけど、客の流れも見て」
「はい」
「あと、ドリンク交換の列が伸びたら、そっちも少し手伝って」
「分かりました」
言い方は素っ気ない。
けれど、結人が何もできない新人として扱われているわけではなかった。
必要な仕事を伝えられ、それを任されている。
その事実を、結人は少しずつ受け取れるようになっていた。
友人たちとは、毎日会うわけではなかった。
渉はスポーツサークルへ顔を出し、修司は喫茶店のシフトへ入る。
颯は友人との予定が多く、紗里奈も家族や大学外の友人と出かけていた。
それでも、グループメッセージは途切れなかった。
渉がバスケで転んだと報告すれば、紗里奈が笑う。
修司が喫茶店の新作を試食したと送れば、渉が自分にも寄越せと言う。
颯が出先の写真を送ると、紗里奈が場所を当てようとする。
ある日、渉が、
「後期は出席を大事にします」
と突然送ってきた。
紗里奈が、
「夏休み中に反省を忘れてなかったんだ」
と返す。
「オレは成長する男だからな」
「出席するだけで成長扱い?」
「今までのオレからすれば成長」
「基準が低い」
そんなやり取りも続いた。
結人も時々、ライブハウスの帰りに見つけた店や、祐司と椿から届いた海外の写真を送った。
以前なら、送る前に考えすぎていた。
こんな写真を送っても反応に困るのではないか。
自分の日常を見せて、何が面白いのか。
けれど、一度送れば、渉は大げさに反応し、颯は写真の場所を聞き、修司も短い言葉を返した。
誰も、特別な話題だけを求めているわけではなかった。
何気ないものを共有することも、人とつながる方法の一つなのだと、結人は少しずつ知っていった。
☆☆☆☆☆
八月も終わりに近づいた頃、結人は久しぶりに大学を訪れた。
夏休み前に借りていた本の返却期限が近づいていたためだった。
試験勉強に使った経済学の参考書は、すでに読み終えている。
すぐに返してもよかったが、ライブハウスのシフトや買い物を優先しているうちに、返却期限の数日前になっていた。
大学の最寄り駅を出ると、強い日差しが道路を照らしている。
夏の盛りほどではない。
それでも、歩けば額に汗が滲んだ。
正門を通り、講義棟の前を進む。
夏休み中の大学は、普段より静かだった。
講義棟の窓は閉まり、人の出入りも少ない。
それでも、完全に無人というわけではない。
サークル活動へ向かう学生。
図書館を利用する者。
研究室へ向かう教員。
遠くからは、運動部らしい掛け声も聞こえる。
結人は図書館へ入り、借りていた本を返却した。
手続きはすぐに終わった。
このまま帰ってもよかったが、外の暑さに戻る気になれず、館内で少し時間を潰すことにする。
後期の講義に関係しそうな本を何冊か眺めたあと、結人は図書館を出た。
中庭へ続く通路を歩いていると、夏休み前とは違う光景が目に入った。
長机。
積み上げられた段ボール。
何枚もの大きな紙。
木材や看板らしき板。
腕章をつけた学生たちが、それらを運んでいる。
秋桜祭の実行委員らしい。
大学の秋桜祭は、秋に行われる学園祭だった。
入学してから何度か名前は聞いていたが、結人が実際に迎えるのは今年が初めてになる。
どのような模擬店が並ぶのか。
ステージでは何が行われるのか。
詳しいことは、まだほとんど知らなかった。
掲示板には、新しいポスターが何枚か貼られていた。
模擬店の追加募集。
ステージ出演者への案内。
実行委員からの注意事項。
その中に、ミスコンの告知もあった。
候補者については、後日発表と書かれている。
『ミスコンね……』
結人は足を止めず、掲示板を横目に見る。
渉なら興味を示しそうだと思った。
紗里奈は、それを見て呆れるかもしれない。
けれど、結人自身はミスコンに特別な関心を持っていなかった。
秋桜祭についても、参加するとしても友人たちと少し見て回る程度になるのだろうと考えていた。
自分には、まだ少し遠い行事だった。
そう思いながら中庭の脇を通り過ぎようとした時だった。
少し先で、紙の束が床へ落ちた。
大学職員らしい女性が、両手に資料を抱えている。
積み重ねた紙の一部が崩れ、通路へ広がってしまったらしい。
近くを歩いていた女子学生が足を止めた。
肩より下まで伸びた黒髪が、動きに合わせて揺れる。
女子学生は迷う様子もなくしゃがみ込み、散らばった紙を拾い始めた。
「ごめんなさい。大丈夫だから」
職員の女性が慌てたように言う。
「このままだと踏まれてしまうので。こっちは私が持ちます」
女子学生はそう答え、拾った紙を軽く揃えた。
すべてを一つの束に戻すのではなく、女性が持ちやすいよう二つに分ける。
片方を自分で抱え、女性と一緒に歩き始めた。
「水無月さん、本当にありがとう」
「いえ。ちょうど同じ方向なので」
職員の声が、結人のところまで届いた。
水無月。
その名字に、結人はわずかに足を緩めた。
以前、颯との会話の中で聞いた名前が頭に浮かぶ。
水無月真白。
『もしかして、前に颯が言っていた人かな』
女子学生は職員と並び、講義棟の中へ入っていく。
結人のいる場所からは少し距離があった。
顔立ちまでは、はっきりとは見えない。
それでも、遠目から見た横顔の輪郭や立ち姿には、どこか整った雰囲気があった。
ただ、それ以上に結人の印象に残ったのは、落ちた紙を拾うまでの動きだった。
困っている人を見つけてから、声をかけるべきか悩む様子もない。
まるで、それが特別な行動ではないようだった。
ただ、名字を聞いただけで本人だと決めつけることもできない。
『まあ、タイミングがあれば颯に聞いてみてもいいか』
わざわざ今すぐ確かめたいほど、強く気になったわけではない。
結人はそれ以上立ち止まらず、再び歩き始めた。
中庭では、実行委員たちが大きな看板を立てようとしている。
まだ完成していない板の中央に、薄い下書きで秋桜祭の文字が見えた。
蝉の声が響いている。
空には夏らしい雲が浮かんでいる。
それでも大学では、すでに秋へ向けた準備が始まっていた。
『もう、そんな時期なんだな』
夏休みが始まったばかりの頃は、長い休みだと思っていた。
ライブハウスのシフトに入り、友人たちと予定を合わせ、成績を確認した。
そんな日々を過ごしているうちに、八月も終わりへ近づいている。
結人は秋桜祭の看板をもう一度見た。
参加するとしても、友人たちと見て回る程度になるだろう。
自分から企画へ参加する予定もない。
実行委員に知り合いがいるわけでもない。
『自分には、あまり関係ないかな』
そう考え、結人は正門へ向かった。
その背後では、看板を立て終えた学生たちから、小さな歓声が上がっていた。
☆☆☆☆☆
大学を出た頃には、日が少し傾いていた。
相変わらず暑い。
けれど、真昼のような刺す日差しではない。
駅へ向かう途中、結人はスマホを取り出した。
グループメッセージには、渉から新しい投稿が入っていた。
秋桜祭の公式アカウントらしい画面の画像だった。
「今年のミスコン、候補者発表もうすぐだって」
すぐに紗里奈が返す。
「食いつくの早すぎ」
「祭りの情報収集だよ」
「そこしか見てないでしょ」
颯も、
「実行委員の知り合いでもできたの?」
と送っている。
「いない。でも有益な情報は向こうから来る」
「成績情報も、もっと早く集めればよかったな」
修司の短い返事が入った。
「それはもう反省してる!」
結人は小さく笑った。
大学で見たポスターを思い出す。
ミスコン。
秋桜祭。
資材を運ぶ実行委員たち。
そして、職員と一緒に資料を運んでいた女子学生。
水無月という名字も、ふと頭に浮かんだ。
もしかすると、以前颯が話していた水無月真白という学生なのかもしれない。
けれど、今の時点で確かめるほどのことでもなかった。
いずれ話題に出る機会があれば、颯へ聞いてみればいい。
それらはまだ、結人の日常から少し離れた場所にあるものだった。
結人はグループメッセージへ、
「大学、もう秋桜祭の準備始まってたよ」
と送った。
渉からすぐに返事が来る。
「マジで? 今度見に行こうぜ」
「後期始まったら毎日見られるだろ」
修司が返す。
「準備期間にしかないものもあるんだよ」
「何?」
「知らないけど」
結人は画面を見ながら、駅の階段を下りた。
長いと思っていた夏休みは、少しずつ終わりへ近づいている。
海へ行ったわけでもない。
花火を見たわけでもない。
遠くへ旅行したわけでもない。
それでも、何もなかったわけではなかった。
働いた時間。
友人たちと笑った時間。
成績を見て安堵した時間。
一人で過ごした、静かな時間。
そのどれもが、結人の夏を形作っている。
駅のホームへ出ると、風が吹いた。
昼間の熱を残してはいたが、以前よりわずかに軽い風だった。
結人は顔を上げる。
夏は、まだ完全には終わっていない。
けれど、その向こうには、もう次の季節が見え始めていた。
本番はもう少し後なのでこの辺りは少しざっくり構成。
駆け足過ぎるかなと少し悩み中ではあります。