九月も半ばを過ぎたというのに、昼間の空気にはまだ夏が残っていた。
窓を開ければ、遠くから蝉の声が聞こえる日もある。
昼過ぎに買い物へ出れば、アパートへ戻る頃には額に汗が浮かんでいる。
それでも八月とは違った。
夕方になると、日が落ちるのが少し早い。
夜に吹き込む風にも、時折ひんやりとしたものが混じるようになった。
季節はまだ夏の顔を残したまま、少しずつ次へ進んでいるらしい。
結人は部屋のテーブルに座り、スマートフォンと大学の時間割を交互に見ていた。
後期開始は明日。
履修自体はすでに確認している。
それでも、教室変更などがないか念のためポータルを開いていた。
「月曜は……二限からか」
前期にも使っていた講義棟。
教室番号を見れば、大体どこにあるかも分かる。
そのことに、結人は少しだけ手を止めた。
四月。
大学へ通い始めた頃は、教室番号を見ても場所が分からなかった。
一号館と二号館の間を歩きながら、本当にこちらで合っているのかと地図を確認したこともある。
昼休みになれば、食堂がどのくらい混むのかも分からなかった。
講義ごとに必要なものを鞄へ入れては、忘れ物がないか何度も見直していた。
今は違う。
『二限が終わったら、あっちの階段から降りた方が食堂近いな』
そんなことを、考えるまでもなく思い浮かべている。
半年にも満たない時間だった。
それでも、毎週通った場所には、それなりに身体が馴染むらしい。
スマートフォンが震えた。
画面を見る。
【経済学科の民】
相変わらずのグループ名だった。
渉からメッセージが届いている。
「明日から大学ってマジ?」
結人は数秒画面を見つめた。
続いて修司。
「今さら何を言ってる」
「いや知ってるけど」
「じゃあ聞くな」
その下に颯。
「渉、夏休み終わること受け入れられてないの?」
「受け入れてる。ただ確認しただけ」
今度は紗里奈だった。
「その確認で休み伸びるならあたしも確認したい」
「だろ?」
「伸びないけど」
「味方じゃなかった」
結人は思わず笑った。
少し考えてから文字を打つ。
「明日二限からでしょ?」
送る。
すぐに渉から返事が来た。
「そう!」
「なら朝もそんな早くないじゃん」
「そういう問題じゃない」
「じゃあ何の問題?」
しばらく間が空く。
「気持ち?」
修司から、
「寝ろ」
とだけ届いた。
結人はまた笑った。
夏休み中も、このグループは完全に止まることはなかった。
毎日のように動く時期もあれば、数日何もないこともあった。
何度か実際に会っている。
だから明日、久しぶりに友人と会う、という感じでもない。
それでも。
『明日からまた大学か』
そう考えると、少しだけ気持ちが切り替わる。
長かった夏休みが終わることへの惜しさがないわけではない。
講義も始まる。
レポートもある。
試験もいずれやってくる。
けれど、それ以上に。
またいつもの生活が始まる。
そんな感覚があった。
結人はポータルを閉じ、スマートフォンを机の上へ置いた。
☆☆☆☆☆
翌朝。
電車を降りた時点で、夏休み中との違いははっきりしていた。
ホームに学生が多い。
改札へ向かう階段も、同じ年代の人間で埋まっている。
駅を出れば、大学へ向かう道にも学生の列ができていた。
「久しぶり!」
「焼けた?」
「そっちは全然変わってないじゃん」
二限の講義に合わせた登校で、時刻はすでに十時を回っている。それでも、ところどころからそんな声が聞こえてきた。
結人も、その流れの中を歩いた。
八月末。
図書館へ本を返すために大学へ来た時には、構内は随分静かだった。
もちろん人がいなかったわけではない。
職員もいる。
実行委員らしい学生もいた。
図書館を利用している学生もいた。
それでも、今日とは違う。
大学という場所に、人の声が戻っていた。
正門へ近づく。
ふと、結人は四月の自分を思い出した。
初めてここへ来た頃。
正門をくぐるだけで、少し緊張していた。
周囲にいる学生たちは、自分と同じ新入生のはずなのに、なぜか自分よりずっと自然に大学生をしているように見えた。
二間結人。
十八歳。
大学一年生。
そういう立場を、自分の中で何度も確認していた。
けれど今日は。
何も考えずに門をくぐっている。
『……慣れたんだな』
そう思った時だった。
「結人ー!」
後ろから声が飛んできた。
振り向く前に、誰なのか分かった。
結人は足を止める。
少し離れたところから、秤渉が片手を上げながら歩いてきていた。
その隣に綾瀬修司もいる。
「おはよう」
「おう!」
渉が結人の横まで来る。
「大学で会うの久しぶり!」
「先週会ったけどね」
「だから大学でって言ってんじゃん」
「昨日もグループで話してたし」
「分かってないなあ」
渉が大げさに首を振る。
修司が横から言った。
「何を分かれっていうんだ」
「場所が違うんだよ。夏休みに会うのと、大学で会うのは」
「まあ、それは少し分かるかも」
結人が言うと、渉が嬉しそうに指を向けてくる。
「ほら!」
「全部は分からないけど」
「裏切られた」
修司が小さく笑った。
三人で講義棟へ向かう。
途中、修司が渉へ視線を向けた。
「ちゃんと起きたんだな」
「当たり前だろ。朝一ではないし余裕」
渉は胸を張る。
「オレを誰だと思ってる」
「前期に一科目落とした人」
結人が言った。
「出会って一発目からそれ言う!?」
「事実だろ」
修司が続ける。
「お前ら夏休み明けから容赦ないな!」
口ではそう言っているものの、渉は笑っていた。
結人もつられて笑う。
そのまま歩いていると、キャンパスの景色が少しだけ変わっていることに気づいた。
八月末にも見た秋桜祭関係の掲示。
あの時より紙の枚数が増えている。
ただし、まだ華やかな装飾が並んでいるわけではない。
掲示されているのは、
出店団体向け説明会。
ステージ企画の申し込み。
機材利用に関する注意。
運営補助の募集。
そういった文字の多い紙が中心だった。
腕章をつけた実行委員らしい学生が、ファイルを抱えて校舎へ入っていく。
以前見た時と同じように、祭りそのものよりも、その前段階にある細かな仕事の方が目立つ。
渉も掲示へ目を向けた。
「まだ結構先なのに、色々あるんだな」
「十一月だもんね」
結人が答える。
「一か月以上ある」
修司も掲示を見る。
「出す側はそのくらい前から動かないと間に合わないんだろ」
「見るだけの側は気楽だな」
「お前、何か出したいのか?」
「いや」
渉は即答した。
「見る側がいい」
「じゃあ気楽でいいだろ」
三人はそのまま講義棟へ入った。
☆☆☆☆☆
後期最初の講義は、驚くほど普通に始まった。
教授が簡単な挨拶をする。
後期の予定。
評価方法。
レポート。
試験。
前期から続く科目では、休み前に扱った内容を軽く振り返る。
結人はノートを開き、板書を書き写した。
最初の十分ほどは、久しぶりに講義室へ座っていることが妙に感じられた。
だが、それも長くは続かない。
話を聞く。
書く。
資料を見る。
分からない箇所へ印をつける。
やっているうちに、前期と同じ感覚が戻ってくる。
前の席では、渉が珍しく真剣な顔でノートを取っていた。
結人は少しだけ意外に思う。
『一科目落としたの、やっぱり気にしてるのかな』
前期の成績発表。
渉は一科目だけ単位を落としていた。
本人なりに反省したのかもしれない。
そう思っていると。
教授がスクリーンへ顔を向けた瞬間。
渉がゆっくり振り返った。
目が合う。
渉が口だけを動かす。
『腹減った』
結人は無言で前を向いた。
『反省してても、お腹は減るか』
隣を見ると、修司も気づいていたらしい。
小さくため息をついていた。
☆☆☆☆☆
昼休み。
結人たちは食堂の端にある席へ座っていた。
向かいには渉。
隣に修司。
少し遅れて颯と紗里奈も合流した。
「やっぱ人多いなあ」
紗里奈がトレーを置きながら言う。
「夏休み中はずっと静かだったもんね」
颯が答える。
「お前、大学来てたの?」
渉が聞く。
「何回かね。知り合いのサークルの用事とかでね」
「夏休みまで大学来るの偉くね?」
「遊び半分だよ」
颯はそう言って笑う。
紗里奈が椅子へ座った。
「で、渉。後期は?」
「何が?」
「単位」
「いきなり刺してくるじゃん」
「だって分かりやすい話題だし」
渉は箸を持ったまま姿勢を正した。
「後期はフル単を目指します」
「一個落としただけで壮大だな」
修司が言う。
「一個を笑うやつは一個に泣くぞ」
「お前がもう泣いた側だろ」
「だから言ってんだよ!」
結人は笑いながら昼食を口へ運ぶ。
こういうやり取りも。
春の頃は、まだ少し離れたところから見ていた気がする。
誰がどういう言葉を返すのか。
どこまで冗談を言っていいのか。
少しずつ確かめながら話していた。
今は、考える前に口が動くことが増えた。
それがいいことなのかどうかは分からない。
ただ、楽ではあった。
会話が一度途切れる。
その時。
渉が何かを思い出したように顔を上げた。
「そういえば、秋桜祭のミスコンって、もう募集締め切ったんだっけ?」
結人も箸を止めずに聞いていた。
夏休み前から何度か話題に出ていた。
自薦も他薦もあるらしいこと。
候補に名前が挙がっても、本人が了承しなければ出場するわけではないこと。
そして。
周囲から推されている学生がいるということも。
颯が少し考える。
「確か、もう締め切ってたと思うよ」
「じゃあ出る人もう決まってんの?」
「選考とか本人確認とかあるなら、内部ではある程度決まってるかもしれないけど」
颯はスマートフォンを取り出すでもなく、軽く肩をすくめた。
「正式発表はまだじゃない?」
「噂の七海さんは?」
渉が聞く。
紗里奈がすぐ横から見る。
「そこ覚えてたんだ」
「そりゃ覚えてるだろ」
「講義内容もそのくらい覚えられれば単位落とさないのにね」
「今その話関係なくない!?」
颯が笑った。
「僕もそこまでは知らないよ」
「颯でも?」
結人が何気なく聞く。
颯は少し眉を上げる。
「僕を何だと思ってるの?」
修司が間を置かずに答えた。
「大学内女子情報局」
紗里奈が吹き出した。
「それいいじゃん」
「よくないよ」
「割と合ってる」
渉まで頷く。
颯は呆れたように笑った。
「友達の友達が商学科ってだけだからね。七海さんが声かけられてたって話は聞いたけど、本人が最終的にどうしたかまでは知らない」
「そっか」
渉は少し残念そうに言った。
紗里奈がその顔を見る。
「正式発表まで待てばいいじゃん」
「分かってるよ」
「せっかちだなあ」
結人は黙って味噌汁を口へ運んだ。
七海日葵。
ここ最近、何度か耳にするようになった名前だった。
今回新しく分かったことといえば、ミスコンの募集期間が終わったらしいということくらいだ。
本人が出るかどうかは、まだ分からない。
『まあ、そのうち発表されるか』
結人にとっては、それだけの話だった。
以前、渉から「ミスコンがあったら見るだろ」と聞かれた時も、結人は人が多くなければ、と答えた。
今も考えは変わっていない。
友人たちが見に行くなら、一緒に行くことはあるかもしれない。
けれど、出場者を今から気にするほどではなかった。
そんな話も長くは続かなかった。
話題はすぐに、後期の履修やバイト、夏休み中の出来事へ移っていく。
渉がサークルで日焼けしたこと。
紗里奈が夏休み中に夜更かしして翌日を潰したこと。
七海日葵という名前も、いつの間にかその会話の向こうへ消えていた。
☆☆☆☆☆
午後の講義を終えたあと。
五人は一緒に校舎を出た。
「このあとどうする?」
渉が聞く。
「おれは帰る」
修司が答える。
「自分も。今日はバイトないから買い物して帰るかな」
結人も言う。
紗里奈はスマートフォンを確認した。
「あたし友達と合流する」
颯も、
「僕はサークル棟寄ってくよ」
と答える。
自然と、それぞれの行き先へ分かれることになった。
その途中。
結人は朝に見た掲示板の前をもう一度通った。
秋桜祭。
十一月初旬。
開催日だけが大きく書かれたポスター。
その周囲には、朝見た募集案内や説明会の日程が並んでいる。
その一角に、新しい紙が貼られていた。
ミスコンテスト出場者 近日発表予定
渉がすぐに気づく。
「ほら、やっぱもう募集終わってるじゃん」
紗里奈が横から覗く。
「近日っていつ?」
「書いてないな」
修司が言う。
「来週とかじゃない?」
颯が軽く答える。
「別に逃げないんだから待ちなよ」
「分かってるって」
渉はそう言いながらも、もう一度紙を見る。
結人も同じ掲示へ目を向けた。
近日発表。
その文字だけなら、特に気になるものではない。
ただ。
夏休み前には、まだずっと先の行事に思えていた秋桜祭が。
こうして少しずつ、目に見える予定へ変わっている。
夏休み中。
人の少ない大学で動いていた実行委員。
八月末に見た資料や段ボール。
そして今は、参加団体や出演者の募集が進んでいる。
本格的な準備は、きっとまだこれからなのだろう。
それでも。
十一月という日付が、以前より少し近く感じられた。
「結人」
修司に呼ばれる。
「行かないのか?」
「あ、ごめん」
結人は掲示板から目を離した。
五人で正門の方へ歩き出す。
その途中。
建物の脇を通ったところで、結人は一人の女子学生を見かけた。
少し離れている。
友人らしい女子学生二人と話しながら、別の校舎へ向かっているところだった。
見覚えがある。
八月末。
職員が落とした資料を拾い、そのまま運ぶのを手伝っていた女子学生。
あの時。
職員から「水無月さん」と呼ばれていた。
『やっぱり、あの人なのかな』
水無月真白。
以前、颯から聞いた名前。
けれど、確かめたわけではない。
今日も近づいて確認する理由はなかった。
結人がほんの一瞬見ている間に、彼女たちは人の流れの向こうへ消えていった。
「結人、どうした?」
渉が聞く。
「いや、何でもない」
「知り合いいた?」
「たぶん違う」
「たぶん?」
「前に見たことあるような気がしただけ」
「大学なんだから、そりゃあるだろ」
修司が言う。
「うん。そうだね」
それで終わった。
誰も深く聞かなかった。
結人自身も、それ以上考えなかった。
☆☆☆☆☆
駅へ向かう途中。
渉と修司とも別れた。
一人になった結人は、スーパーへ寄ってからアパートへ帰った。
袋の中には豚肉とキャベツ。
安くなっていた豆腐。
それから牛乳。
玄関で靴を脱ぐ。
手を洗う。
冷蔵庫へ買ってきたものを入れる。
鞄から大学のノートを出し、机の上へ置く。
昨日までと違うのは、そのノートに今日の講義の内容が増えたことくらいだった。
結人は椅子へ座る。
スマートフォンを見ると、グループメッセージが増えている。
渉。
「ミスコン正式発表されたら誰か教えて」
紗里奈。
「自分で見なよ」
颯。
「情報局に任せて」
修司。
「気に入ってるじゃないか」
少し間を置いて、颯。
「ちょっとだけ」
結人は笑った。
返信はせず、スマートフォンを置く。
窓の外を見る。
まだ完全に暗くなってはいない。
けれど、夕方の色は八月より早く濃くなっていた。
後期初日。
特別なことは何もなかった。
友人と大学へ行った。
講義を受けた。
昼食を食べた。
くだらない話をした。
掲示板を見た。
帰りに買い物をした。
それだけだった。
けれど。
四月の初日とは違う。
あの頃は、一日を終えるだけでどこか肩に力が入っていた。
今日は違った。
大学へ行くことも。
渉たちと話すことも。
帰ってきて夕食の準備をすることも。
いつもの流れとして続いていた。
『戻ってきた……っていうより』
結人は少し考える。
『続きが始まった、の方が近いのかな』
夏休み中も、大学生ではあった。
友人との関係も途切れていない。
ライブハウスで働き。
一人暮らしをして。
時々両親と連絡を取り。
二間結人としての日々は、ずっと続いていた。
そこへ再び講義が加わっただけなのかもしれない。
以前の自分なら。
そんな何でもない毎日を、自分のものとして考えることにも少し躊躇していた気がする。
今も、すべてを受け入れられているわけではない。
胸の奥には、柴咲光として過ごした時間がある。
二間結人として愛され、友人と笑っている自分を、時々どこか遠くから見てしまう。
それでも。
今日、大学へ向かう時。
自分は知らない場所へ行くとは思わなかった。
戻ってきたと思った。
そのことだけは、確かだった。
結人は立ち上がる。
「ご飯作るか」
誰に聞かせるでもなく呟いた。
炊飯器へ米を入れる。
水を量る。
冷蔵庫を開ける。
明日の朝になれば、また大学へ行く。
秋桜祭はまだ一か月以上先。
窓の外では、夏の終わりを急かすこともなく、少しずつ、夜が早くなっていた。
こちらを書くにあたって大学の事を改めて確認していたりするのですが、「懐かしい、颯だった気がする……」とか思いながら見てたりします。