「あと十九日」
昼休み、席に着くなり渉が言った。
結人は箸を取ろうとしていた手を止める。
「何が?」
「秋桜祭」
「ああ」
昨日は、あと二十日だった。
一日経ったのだから十九日になる。当たり前といえば、それだけの話だった。
「まさか、これから毎日言うつもり?」
「十八、十七、十六って?」
「そう」
渉は少し考えたあと、首を横に振った。
「いや、さすがに面倒だな」
「自分で始めたのに……」
向かいに座った修司が呆れたように言う。
「十日切ったら、またやる」
「結局やるんだ」
結人がそう返すと、渉は笑いながら定食へ箸を伸ばした。
秋桜祭まで十九日。
昨日から急に何かが変わったわけではない。
講義はいつも通りにあり、学食は昼になれば混み、午後になれば眠そうな顔で教室へ向かう学生もいる。
結人たちの生活も同じだった。
けれど、昨日まで二十日だったものが十九日になった。
数字の上では、ただ一つ減っただけだ。
「そういえば……」
修司が味噌汁を置いた。
「当日、集合時間とか決めてるのか?」
渉の箸が止まった。
「……まだ」
「学祭の話ばっかりしてるのに?」
「細かいことは直前でいいかなって」
「十九日前からカウントダウンしてるやつの台詞じゃないだろ」
「それとこれは別だ!」
結人は小さく笑った。
「颯と紗理奈もいる時に決めればいいんじゃない?」
「今日いるぞ」
修司が言う。
結人は周囲を見る。
確かに少し離れたところに、紗理奈の姿があった。友人らしい女子学生と話している。
颯はまだ見当たらない。
「颯は?」
「さっき廊下で見た」
修司が答える。
渉がすぐに聞く。
「女?」
「知らん」
「重要だろ」
「何がだよ」
三人でそんな話をしているうちに、紗理奈が友人たちに一言断ってから、こちらへやってきた。
「何の話?」
「秋桜祭の作戦会議」
渉が言う。
「作戦って何するの?」
「集合時間とか」
「ああ、それなら分かる」
紗理奈は近くの椅子を引いた。
「てっきり渉が『何から食べるか決めよう』とか言い出したのかと思った」
「それも大事だけどな」
「やっぱり考えてたんじゃん」
そこへ颯も遅れてやってきた。
「何、もう始めてるの?」
「お前待ち」
「それは失礼したね」
颯はそう言いながらも、あまり申し訳なさそうには見えなかった。
五人が揃う。
講義の話でも、課題の話でもない。
十九日後の予定を決めるために。
☆☆☆☆☆
「まず何時?」
紗理奈がスマホを机へ置いた。
「九時」
渉が即答する。
「早い」
紗理奈も即答した。
「なんで!?」
「土曜だよ?」
「秋桜祭だぞ?」
「秋桜祭でも土曜の朝でしょ」
「九時って、そんな早い?」
渉が周囲を見る。
修司は首を横に振った。
「十時でいいだろ」
「颯は?」
「僕も十時かな」
そして三人の視線が結人へ向く。
「自分も十時でいい」
「四対一!」
「民主主義だね」
颯が笑う。
「民主主義って時々残酷だな……」
渉が肩を落とした。
紗理奈がスマホを操作する。
「場所は?」
「正門でいいんじゃない?」
結人が言うと、修司が少し考えた。
「当日、かなり混むんじゃないか」
「じゃあ駅?」
「それだと大学まで一緒に歩くだけになるじゃん」
渉が口を挟む。
「別にそれでもいいでしょ」
「祭りは門を一緒にくぐるところからだろ!」
「こだわり強いなぁ」
紗理奈が笑う。
結局、多少混雑しても一番分かりやすいという理由で正門前になった。
十時。
正門前。
そこまで決まると、渉は満足そうに頷く。
「よし」
「なんで仕切った感じ出してるの?」
「オレが言い出したから」
「時間は全部却下されたけどね」
「そこは忘れろ」
結人は自分のスマホを開いた。
予定表。
秋桜祭の日付を押す。
まだ何も登録されていない。
予定名に、
【秋桜祭】
と入力する。
少し考えて、その下へ、
「十時 正門前」
と加えた。
保存する。
カレンダーの中に、新しい予定が一つ増えた。
「結人、何してる?」
渉が覗き込もうとする。
「予定入れただけ」
「おお。ちゃんとしてる」
「忘れないためだよ」
「十九日前から入れとけば絶対忘れないな」
「渉も入れた方がいいんじゃない?」
「オレは忘れない!」
修司が横から言う。
「お前が一番入れとけ」
「信用ないな!?」
また笑いが起きた。
結人は画面を閉じる。
十九日後。
まだ三週間近くある。
それでも、カレンダーに文字を入れると、ただの行事ではなく自分の予定になった気がした。
☆☆☆☆☆
それから数日が過ぎた。
秋桜祭が近づいていることは、日付を数えなくても分かるようになった。
講義室の変更を知らせる掲示が出た。
普段使っている教室の一つが、秋桜祭関連の準備で使用されるらしい。
「三号館?」
教室を出たところで、渉が露骨に嫌そうな顔をした。
「四階だって」
結人が言う。
「遠い」
「歩けば着くだろ」
修司が前を歩きながら言う。
「この教室からなら五分は増えるぞ」
「五分だろ」
「その五分が大事なんだよ」
「なら早く出ろ」
「修司って時々容赦ないよな」
「普通のことしか言ってない」
三人はそんなことを話しながら、三号館へ向かって歩き出した。
少し進んだところで、渉がふと思い出したように口を開く。
「そういや、当日ってさ。最初は五人で回るとして、その後どうする?」
修司が振り向く。
「その時決めればいいだろ」
「いや、颯とか絶対途中で消えるじゃん」
「ひどい言われようだなぁ」
後ろから声がして、三人が振り返った。
颯と紗理奈が追いついてきていた。
「でも間違ってないでしょ?」
紗理奈が言う。
颯は否定しなかった。
「知り合いに声かけられたら、少し抜けるかもしれないね」
「ほら!」
渉が勝ち誇った顔をする。
「何に勝ったの?」
結人が聞く。
「予想」
「別に勝負してないけど」
紗理奈も続ける。
「あたしも午後は、さっき一緒にいた子たちと合流するかも」
「じゃあ本当に午前だけか」
渉が少し残念そうに言った。
「まだ分かんないよ」
「まあ、朝は五人だろ?」
「十時は朝なの?」
紗理奈が聞く。
「午前なら朝だ」
「それは雑じゃない?」
五人で歩きながら、そんな話が続く。
結人は聞いているうちに、ふと思った。
最初に秋桜祭の話をした時は、当日何を見るのか、何があるのかという話ばかりだった。
今は違う。
何時に会うか。
誰が途中で抜けるか。
どこで合流するか。
イベントの中身より、自分たちがどう過ごすかという話になっている。
「じゃあ午前中は五人でいいんじゃない?」
気づけば、結人がそう言っていた。
渉が振り向く。
「だよな!」
「渉に賛成したというより、一番分かりやすいから」
「理由は何でもいい」
「そこは気にしないんだ」
「結果が大事だからな」
修司が小さく笑った。
紗理奈も、
「まあ、最初はそれでいいんじゃない?」
と頷く。
颯も異論はないようだった。
結人は自分から言った言葉を、少し遅れて意識した。
『午前中は五人で』
一人で回る方が楽だとか、相手に合わせてもらうのが悪いとか、そういうことは考えなかった。
少なくとも、今は。
五人で行くなら、最初は五人で回る。
その程度のことだった。
☆☆☆☆☆
秋桜祭まで一週間を切った。
ある日の午後。
経済学の講義が終わり、学生たちが一斉に立ち上がる。
教授は最後に、
「土日には秋桜祭もありますが、課題の提出日は変わりませんからね」
と言い残した。
教室のあちこちから、小さな不満の声が上がる。
「鬼だ……」
隣で渉が呟いた。
「提出日、前から決まってただろ」
修司が言う。
「学祭前くらい優しくなってもよくない?」
「課題はもう出てるんだから、先にやればいいじゃん」
結人が鞄へノートを入れながら言う。
渉がこちらを見る。
「結人」
「何?」
「それができる人間ばかりだと思うなよ」
「威張ることじゃないよ」
「正論しか来ない」
後ろの席から紗理奈が笑う。
「じゃあ今日やれば?」
「今日は気分じゃない」
「明日は?」
「明日のオレに聞かないと」
「たぶん明日の渉も同じこと言うよ」
「なんで分かるんだよ」
「分かるでしょ」
颯がその様子を見ながらスマホを確認する。
「僕、今日図書館寄ってくけど、誰か行く?」
「課題?」
結人が聞く。
「半分それ。半分は時間潰し」
「自分も少しやって帰ろうかな」
そう答えると、渉が結人を見る。
「結人も行くの?」
「当日に課題残したくないし」
「……おれも行く」
「急に?」
「みんなが終わってる中で、オレだけ学祭のあと課題やるの嫌だ」
「動機はちゃんとしてるんだか、してないんだか」
修司が言った。
結局、そのまま五人で図書館へ寄ることになった。
☆☆☆☆☆
課題を始めて一時間ほど。
最初に集中が切れたのは、やはり渉だった。
「疲れた」
声を抑えているつもりなのだろうが、十分に聞こえる。
結人はノートパソコンから視線を上げた。
「まだ一時間だよ」
「一時間もだよ」
「もう少しやれば?」
「結人どこまで終わった?」
「半分くらい」
「なんで!?」
「やってたから」
「オレもやってた!」
修司が渉のノートを横から見る。
「二十分くらいスマホ見てただろ」
「調べ物だよ」
「動画サイトが?」
「資料になる可能性がある」
「ない」
紗理奈が口元を押さえて笑う。
図書館なので、大声は出せない。
それが余計におかしかった。
結人も声を出さないよう少し俯いた。
そこへスマホが震える。
グループチャットだった。
目の前に全員いるのに、渉が送っている。
「学祭まであと五日」
結人は画面を見た。
顔を上げる。
渉が得意そうにこちらを見ていた。
「十日切ったらやるって言っただろ」
声を出せないため、今度は文字で返す。
「今ここに全員いるけど」
すぐに既読が四つ付いた。
修司から、
「うるさい」
紗理奈から、
「図書館でまで始めないで」
颯から、
「あと五日」
渉。
「ほら颯は分かってる」
結人は思わず笑った。
司書に注意されないよう、すぐに口元を押さえる。
五日。
十九日だったものが、いつの間にかそこまで減っていた。
毎日数えていたわけではない。
いつも通り大学へ来て、講義を受けて、バイトへ行く日にはバイトへ行った。
その間にも、一日は一日ずつ減っていた。
結人はスマホを伏せ、課題へ戻る。
当日までに終わらせよう。
そう思った理由は単純だった。
秋桜祭の日に、課題を気にしたくなかった。
そこまで考えてから、結人の指が少し止まった。
『……自分、結構楽しみにしてるのかな』
以前なら、その気持ちを否定する理由を探したかもしれない。
友人に合わせているだけ。
大学生なら参加するものだから。
誘われたから断る理由がなかっただけ。
けれど、課題を先に終わらせようとしているのは自分だった。
十九日前に予定表へ入力したのも自分だ。
『まあ、いいか』
楽しみなら、それで。
結人は再びキーボードを打ち始めた。
☆☆☆☆☆
そして、秋桜祭前日。
午後の講義を終えた結人が校舎を出ると、中庭はいつもの帰宅時間とは違う賑わいに包まれていた。
帰る学生もいる。
その一方で、これから準備を始めるらしい学生たちが次々と建物から出てくる。
長机を運ぶ者。
何人かで看板を抱えている者。
離れた場所から誰かを呼ぶ声。
ステージの方から短く音楽が流れ、すぐに止まった。
「おー」
隣で渉が声を上げる。
「完成してきたな」
「まだ作ってる人も多いけどね」
結人が言う。
「今日遅くまでやるんだろうな」
修司が周囲を見る。
結人たちは準備へ参加していない。
だから、通路の邪魔にならないよう端を歩いていく。
途中、台車を押してくる学生が見え、五人で端へ寄った。
「すみません!」
台車を押していた学生が頭を下げる。
渉が、
「頑張ってください!」
と返した。
相手が少し驚いたあと、笑って、
「ありがとうございます!」
と答える。
「急に声かけるなよ」
修司が言う。
「いいだろ、応援くらい」
「びっくりしてたじゃん」
紗理奈が笑った。
「最後笑ってたからセーフ」
「渉ルール?」
「そう」
正門が近づく。
颯がスマホを確認した。
「じゃあ明日、十時でいいんだよね?」
「正門前」
結人が答える。
「忘れてなかった」
渉が嬉しそうに言う。
「十九日前に決めたからね」
「結人が覚えてるなら安心だな」
「渉が覚えてるかの方が心配だけど」
紗理奈が言う。
「覚えてる!」
「寝坊は?」
「しない!」
修司が淡々と聞く。
「目覚ましは?」
「かける!」
「何個?」
「……三つ」
「もう不安じゃん」
紗理奈が吹き出した。
結人も笑う。
正門を出たところで、五人の帰る方向が分かれる。
「じゃあ明日!」
渉が手を上げた。
「遅れるなよ」
修司が言う。
「お前もな!」
「僕はたぶん大丈夫」
颯も片手を上げる。
「じゃ、また明日」
紗理奈も続く。
結人は少し遅れて、
「うん。また明日」
と返した。
何度も使ってきた言葉だった。
けれど今日の「また明日」には、いつもよりはっきりとした続きがある。
十時。
正門前。
五人で集合。
結人は一人になってからも、しばらく先ほどのやり取りを思い出していた。
☆☆☆☆☆
夜。
夕食を済ませた結人は、机の上にスマホを置いた。
明日は講義がない。
課題も、今日までに終わらせた。
普段大学へ行く時ほど荷物も必要ない。
財布。
スマホ。
モバイルバッテリー。
念のため折り畳み傘も入れるか迷い、天気予報を確認する。
降水確率は低かった。
「……いらないかな」
誰もいない部屋で呟く。
その時、スマホが震えた。
グループチャット。
渉だった。
「明日十時! 正門前!」
すぐに修司。
「十九日前から知ってる」
紗理奈。
「渉が一番忘れそうだから自分に言い聞かせてる?」
颯。
「ありそう」
渉。
「違う!」
結人は画面を見ながら小さく笑った。
十九日前。
あの時は、カレンダーのずっと先にあった予定だった。
そこから数日が過ぎ、一週間を切り、今日になった。
そして今はもう、残りの日数を数える必要もない。
明日。
ただ、それだけだった。
結人は少し迷ってから、自分もメッセージを打つ。
「明日よろしく」
送信。
すぐに既読が増える。
最初に返したのは渉だった。
「おう!」
続いて修司。
「また明日」
紗理奈からは、
「楽しもー」
と届く。
颯も、
「よろしく」
と返した。
結人はしばらく四つの返事を見ていた。
誰かに言われる前に、自分から送った。
だからといって、何か大きく変わったわけではない。
明日の確認をしただけだ。
けれど今は、その程度でいいと思えた。
友人と約束している。
だから明日、大学へ行く。
講義を受けるためでもない。
アルバイトへ向かう途中でもない。
ただ、一緒に秋桜祭を回るために。
結人はスマホを充電器へ繋ぎ、アラームを確認した。
十九日後だった予定は、もう明日だった。
徐々に過ごしやすくなってきてる印象。
季節の切り替わりって割と一気にくるので、体調には十二分に注意して過ごしたいですね。