水底から見上げた、二度目の空   作:しまらくだ

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章管理を追加しました。
今回までが序章となります。


ふたつめの家

二間結人が、自分を二間結人だと自然に思えるようになるまでには、長い時間がかかった。

生まれてすぐの記憶は、普通なら残らないものなのだと思う。

けれど結人には、断片的に残っていた。

 

眩しさ。

寒さ。

自分の意思とは関係なく喉から響く泣き声。

そして、泣きそうな声で自分の名を呼んだ女の人。

 

「結人……」

 

その声は、成長してからも耳の奥に残っていた。

母の二間椿は、よく笑う人だった。

仕事の話をしている時は凛としていて、資料や図面を広げる横顔には近寄りがたい雰囲気もある。けれど、結人の前では表情が柔らかくなった。

父の二間祐司は、よくカメラを構えていた。

 

「結人、こっち向いて」

「また撮るの?」

「また撮る。昨日の結人と今日の結人は違うからな」

「そんなに変わらないよ」

「変わるんだよ。父親には分かる」

 

幼い結人には、その言葉の意味がよく分からなかった。

ただ、レンズの向こうで祐司が嬉しそうに笑っていることだけは分かった。

二間家は、両親共働きだった。

 

祐司は海外でも活動するフリーのフォトグラファーで、家にいない期間もある人だった。

椿はインテリアデザイナーで、昔、会社勤めをしていた頃に、祐司と仕事をきっかけに知り合ったそうだ。

 

二人とも忙しい。

けれど、冷たい家ではなかった。

帰ってくれば祐司は必ず結人を抱き上げた。椿は仕事の合間にも、結人の話を聞いた。遠くの国にいる時も、祐司は写真を送ってきた。

 

青すぎる海、石畳の街、夜明けの砂漠といった見たことのない世界に加え、椿がデザインした施設の写真。

そういった様々な世界が祐司の写真には広がっていた。

 

「お父さん、ここどこ?」

「ボツワナだな」

「ぼつわな……」

「いつか一緒に行くか?」

「遠い?」

「遠い。でも、結人が行きたいなら連れていく」

 

そう言って笑う祐司を見て、結人は小さく頷いた。

その頃の自分は、まだ何も知らなかった。

いや、何も知らないふりをしていられた。

 

☆☆☆☆☆

 

前世の記憶は、ある日突然すべて戻ったわけではなかった。

最初は、夢のようなものだった。

幼稚園の頃、雨の音を聞くと胸がざわついた。

理由は分からない。

ただ、雨の日の夜が怖かった。

椿に手を引かれて横断歩道を渡る時、結人は無意識に車道側を見ていた。

 

「結人?」

「……車、来ない?」

「信号、青よ」

「うん」

 

青なら大丈夫。

そう思う一方で、青でも絶対ではないと、どこかで知っている気がした。

小学校に上がる頃には、知らない名前が頭の中に浮かぶようになった。

 

【柴咲光】

 

それが誰なのか、最初は分からなかった。

けれど、その名前を思い浮かべるたび、胸の奥が重くなった。

父でも母でもない男女の顔が、ぼんやりと浮かぶ。

体格のいい男性。

穏やかな女性。

二人は結人を見ていない。

別の誰かを見ていた。

 

『誰だろう』

 

そう考えるたび、頭の奥が痛くなった。

小学校三年生の冬、結人は給食当番のエプロンを着ながら、ふと手を止めた。

首の後ろで紐を結ぶ。

腰の紐を後ろで結ぶ。

ほんの少し手間取ったが、それでも結べた。

その瞬間、別の感覚が蘇った。

 

冬場の厚い服。

かじかんだ指。

ボタンを留めようとして、穴を探し損ねる手。

周りの子が着替え終えている中、自分だけが遅れている焦り。

 

『違う』

 

結人は自分の手を見下ろした。

 

『この手は、前より動く』

 

その考えが浮かんだ直後、自分でも意味が分からなくなった。

前より、とは何か。

誰と比べているのか。

結人の手は、間違いなく結人のものだった。

生まれてからずっと、この身体で生きてきた。

走れば息が切れる。転べば痛い。眠くなればまぶたが重くなる。

それなのに、別の身体を知っている。

もう少し重くて、もう少し鈍くて、思うように動かなかった身体を。

その日から、結人は少しずつ理解し始めた。

自分の中には、二間結人ではない誰かの記憶がある。

そして、その誰かはたぶん、自分自身なのだと。

 

☆☆☆☆☆

 

小学校六年生の梅雨の日だった。

その日は朝から雨が降っていた。

教室の窓に、細い水滴がいくつも流れている。授業中、先生の声を聞きながら、結人は黒板を写していた。

 

チョークの音。

雨音。

湿った空気。

 

そのどれかがきっかけだったのかもしれない。

あるいは、これまで少しずつ戻っていた記憶が、ようやく輪郭を持っただけなのかもしれない。

 

【柴咲光】

 

二十九歳手前。

実家暮らし。

父、柴咲虎次郎。

母、柴咲香世子。

仕事で作業の遅さに悩んでいたこと。

両親から、軽度の身体的な障がいがあったと聞かされた夜。

言いたいことを何も言えなかったこと。

翌日の仕事帰り。

青信号。

雨。

白い光。

衝撃。

 

『ごめん』

 

今まで断片だったものが、ひとつの流れとして繋がった。

知らない夢ではない。

どこかの誰かの記憶でもない。

柴咲光は、自分だった。

結人は鉛筆を落とした。

乾いた音が教室に響く。

隣の席の子が小声で言った。

 

「結人君、大丈夫?」

「……大丈夫」

 

結人はそう答えた。

声は震えていなかったと思う。

けれど、胸の内側では、もう一つの人生が確かに息を吹き返していた。

それからの授業内容は、ほとんど覚えていない。

家に帰ると、椿が玄関で結人を迎えた。

 

「おかえり。雨、大丈夫だった?」

「うん。ただいま」

「濡れてない?」

「大丈夫。傘、ちゃんと差したから」

 

いつも通りの会話だった。

けれど、結人にはそれが少し遠く聞こえた。

目の前にいるのは、二間椿。

自分を産んでくれた母。

それは間違いない。

なのに、心の奥では柴咲香世子の顔が浮かんでいた。

 

前の母。

前の人生で、自分を育ててくれた人。

 

どちらが本物なのか。

そう考えた瞬間、結人は自分がひどく嫌な人間になった気がした。

 

『どちらも本物なのに』

 

頭では分かっていた。

椿は結人の母だ。

香世子は光の母だ。

そして、自分は二間結人であり、柴咲光でもある。

けれど、小学六年生の身体には、その事実は大きすぎた。

その夜、夕食の席で祐司が言った。

 

「結人、どうした? 今日は少し静かだな」

「そう?」

「うん。いつもなら学校の話をもっとするだろ」

 

結人は箸を持つ手を止めかけて、すぐに動かした。

 

「ちょっと疲れただけ。雨の日って眠くなるし」

「それは分かるな」

 

祐司は笑った。

 

「お父さんも雨の日の撮影は気を使う」

「カメラ、濡れるから?」

「それもある。あとは、雨の日にしか撮れない顔があるからな。街も、人も」

「人も?」

「晴れてる時とは違う表情になるんだよ」

 

祐司の言葉に、結人は胸が痛んだ。

雨の日にしか出ない顔。

もし今の自分を祐司が撮ったら、どんな顔をしているのだろう。

二間結人として笑えているだろうか。

それとも、柴咲光の顔をしているのだろうか。

 

☆☆☆☆☆

 

それからしばらく、結人は自分の中の記憶を誰にも言えなかった。

言えるはずがなかった。

自分には前世の記憶がある。

二十九歳手前で死んだ。

今はあなたたちの子どもとして生きている。

そんなことを言って、誰が信じるのか。

信じられたとして、それはそれで怖かった。

(祐司)(椿)の自分を見る目を変えてしまうかもしれない。

可愛い息子ではなく、知らない大人の魂が入った子どもだと思われるかもしれない。

 

『自分は、二間結人でいていいのかな』

 

その問いは、長い間、結人の中に残った。

ただ、不思議なことに、前世の記憶が戻ったからといって、結人の生活が大きく変わったわけではなかった。

 

学校へ行く。

授業を受ける。

友人と話す。

宿題をする。

椿に頼まれて食器を並べる。

祐司が帰国すれば、土産話を聞く。

 

日々は続いていく。

結人は真面目な子どもだった。

成績は悪くない。先生への受け答えも丁寧で、係の仕事もきちんとこなす。運動神経は特別よくないが、前世のように身体が思い通りに動かない感覚はなかった。

 

跳び箱を跳べた時。

球技で普通にパスを受けられた時。

家庭科でボタンを縫いつけられた時。

 

結人は、小さく安堵した。

そして、そのたびに少しだけ苦しくなった。

 

『光は、これが苦手だった』

 

前世の自分を、遠くから見ているような感覚があった。

努力不足ではなかったのだと、今なら分かる。

あの身体には、あの身体なりの難しさがあった。

けれど、今の自分は普通にできてしまう。

その事実が、嬉しくて、申し訳なかった。

中学、高校と進むにつれて、結人は少しずつ自分の状況に慣れていった。

慣れるしかなかった、と言った方が近いかもしれない。

前世の記憶は消えない。

それでも、今の人生も確かに積み重なっていく。

 

文化祭でクラスの出し物を手伝ったこと。

試験前に友人と勉強したこと。

祐司が帰国した日に、深夜まで写真を見せてもらったこと。

椿と家具屋を巡り、部屋の色合いについて語られたこと。

 

それらはすべて、二間結人の記憶だった。

柴咲光の続きではなく、二間結人としての時間だった。

それでも時々、ふと怖くなる。

 

『自分は、この家族を騙しているんじゃないか』

 

前世の記憶を隠したまま、息子として愛されている。

それは本当に許されることなのか。

答えは出なかった。

出ないまま、結人は十八歳になった。

 

☆☆☆☆☆

 

大学は、実家から少し離れた場所に決まった。

通えない距離ではない。

ただ、毎日の通学を考えれば一人暮らしをした方が楽だった。

合格通知を見た日、椿は嬉しそうに笑った。

 

「おめでとう、結人」

「ありがとう」

 

難関というほどではないが、決して低くもない。そんな大学に現役合格した。

学科は経済学科。

特別な理由はなかったが、前世が理系だったため、違う方向に進んでみようかと考えた。その程度の理由だ。

祐司は合格通知を写真に撮っていた。

 

「祐司さん、それ撮る必要ある?」

「ある。結人の人生の節目だぞ」

「そう言って何でも撮るじゃない」

「何でもじゃない。大事なものだけだ」

「お父さんの大事なもの、多すぎない?」

 

結人がそう言うと、祐司は真顔で答えた。

 

「家族に関するものは全部大事だ」

 

その言葉に、結人は少し黙った。

祐司は何気なく言ったのだろう。

けれど、結人には重かった。

 

家族。

 

自分はこの家の家族だ。

そう思っていいはずなのに、胸の奥に小さな引っかかりが残る。

大学進学を機に、結人は一人暮らしをすることになった。

実家は持ち家だった。

三人で暮らすにはちょうどよかった家も、結人一人で暮らすには少し広い。掃除も管理も、防犯面も、生活のすべてを考えると負担が大きい。

それなら大学近くにアパートを借りた方がいい。

そう決まるまでに、家族会議は何度か開かれた。

 

「本当に大丈夫? 通えない距離ではないのよ」

「大丈夫。自分でやってみたいんだ」

「料理とか、洗濯とか」

「少しずつ覚えるよ。今も手伝ってるし」

「それはそうだけど」

 

椿は簡単には頷かなかったが、祐司は意外にも反対しなかった。

 

「やらせてみてもいいんじゃないか、椿」

「祐司さんは心配じゃないの?」

「心配だよ。でも、心配だから閉じ込めるのは違うだろ」

 

その言葉に、結人は祐司を見た。

笑っていたが、その目は真剣だった。

 

「困ったら帰ってくればいい。失敗したら電話すればいい。家族って、そのためにいるんだから」

「それもそうね」

 

結人は、その言葉にすぐに返事ができなかった。

胸の奥が熱くなるのを感じた。

 

「……ありがとう」

 

それだけ言うのが精一杯だった。

 

☆☆☆☆☆

 

「結人が家を出るなら、私も祐司さんと一緒に海外で仕事を受けることを考えてもいいのかもしれないわね」

 

ある夜、椿はそう言った。

結人は驚いて顔を上げた。

 

椿は元々、結人が自立するまでは日本にいるつもりだった。

祐司の海外での仕事が増え、椿自身にも現地のクライアントからインテリア関係の仕事が来るようになっていた。それでも、結人がまだ家にいる間は、日本を拠点にするつもりでいたらしい。

けれど、結人が大学進学に合わせて一人暮らしをしたいと言い出したことで、状況が変わった。

 

「自分の一人暮らしが理由になるの?」

「理由の一つね。もちろん、それだけじゃないわ。前から話はあったの。でも、あなたがいる間は、できれば家にいたかったのよ」

「……そっか」

 

嬉しいような、申し訳ないような気持ちだった。

実家については、売るつもりはなかった。

両親は定期的に日本へ戻ってくる予定だったし、その時には実家を使う。結人も時々戻って、換気や掃除をすることになった。

 

「空き家にすると傷むからな」

 

祐司が言うと、椿も頷いた。

 

「郵便物の確認も必要ね。管理会社にも相談するけど、完全に任せきりにはしたくないし」

「分かった。時間がある時に戻って掃除するよ」

「無理はしなくていいのよ?」

「そのくらいはするよ。自分の家でもあるし」

 

そう口にしてから、結人は少しだけ驚いた。

 

【自分の家】

 

自然にそう言えたことが、妙に胸に残った。

 

☆☆☆☆☆

 

一人暮らしの部屋は、大学からそう遠くない場所に決まった。

広くはない。

けれど、日当たりは悪くなく、近くにスーパーもあった。

椿は部屋を見るなり、家具の配置を真剣に考え始めた。

 

「ベッドはこっちね。机は窓際でもいいけど、光が入りすぎると画面が見づらいかしら」

「母さん、まだ契約前だよ」

「契約するなら考えておかないと」

「早いって」

「生活は最初が大事なの」

 

インテリアデザイナーらしい椿の言葉に、結人は笑った。

その横で祐司は、空っぽの部屋を撮っていた。

 

「何もない部屋なんて撮ってどうするの?」

「ここから始まるって感じがするだろ」

「始まる……」

 

結人は部屋を見回した。

 

白い壁。

まだ何も置かれていない床。

小さなキッチン。

狭い浴室。

 

確かに、ここから何かが始まるのだと思った。

前世も含めて、結人は一人暮らしをしたことがなかった。

柴咲光は二十九歳手前まで実家暮らしだった。

二間結人も、これまでずっと家族と暮らしてきた。

初めての一人暮らし。

その事実は、不安であり、少しだけ楽しみでもあった。

家電を選ぶ時、結人は少し悩んだ。

冷蔵庫、洗濯機、電子レンジ、炊飯器。

生活に必要なものを一通り決めたあと、テレビの前で足を止めた。

 

「テレビも買うの?」

「費用的に許されるのであれば」

 

椿が少し意外そうだった。

 

「最近は見ない人も多いって聞くけど」

「うん。そうなんだけど……ないと、少し落ち着かない気がして」

「結人、そんなにテレビ見てた?」

「そこまでじゃないけど」

 

答えながら、結人は内心で苦笑した。

前世も含めれば、自分の感覚はもう五十歳近い。

テレビがない部屋に違和感を覚えるのは、そのせいかもしれない。

 

『古い考えなのかな』

 

そう思うと、少しだけ可笑しかった。

結局、場所を取らない大きさのテレビを買うことにした。

祐司はその様子を見て、妙に満足そうに頷いた。

 

「まあ、テレビがあると部屋っぽくなるよな」

「お父さんも古い側じゃない?」

「否定はしない」

 

祐司が笑い、椿もつられて笑っていた。

その何気ない時間が、結人には少し眩しかった。

 

☆☆☆☆☆

 

引っ越しが近づく頃、椿が祐司について海外へ行く日も決まった。

以前からあった話が、結人の一人暮らしをきっかけに本格的に動き出した形だった。

空港へ向かう電車の中で、結人は窓の外を眺めていた。

 

隣には椿。

向かいに祐司。

大きなスーツケースが二つ。

 

いつもなら祐司だけを見送る場所へ、今日は椿も一緒に向かっている。

 

「別に、母さんがいなくなるのが嫌ってわけじゃないよ」

 

結人がそう言うと、椿が苦笑した。

 

「それ、少し傷つく言い方ね」

「あ、違う。そういう意味じゃなくて」

「分かってるわ。でも、寂しくないと言ったら嘘になるわね」

 

隣に座る祐司が頷く。

 

「俺も寂しい」

「お父さんは仕事で慣れてるでしょ」

「家族と離れるのに慣れることはないな」

 

その言い方がまっすぐで、結人はまた返事に困った。

空港は人で溢れていた。

 

スーツケースを引く人。

出発案内を見上げる人。

笑っている人。

泣いている人。

 

結人にとって、空港はいつも祐司を見送る場所だった。

けれど今日は、椿も一緒に行く。

それが思った以上に不思議だった。

搭乗手続きの前、椿が結人の前に立った。

 

「結人」

「うん」

「何かあったら、すぐ連絡して。時差があっても関係ないから」

「分かってる」

「食事はちゃんと取ること。洗濯物を溜めすぎないこと。体調が悪い時は無理しないこと」

「うん」

「あと、困っているのに大丈夫って言いすぎないこと」

「……うん」

「実家に戻った時は、戸締まりをちゃんと確認するのよ。掃除は無理に全部やらなくていいから、換気だけでもしてくれたら助かるわ」

 

「分かった」

「アパートの鍵もなくさないこと。夜遅くなる時は、なるべく明るい道を通ること。知らない人について行かないこと」

「母さん、それは小学生への注意じゃない?」

 

結人がそう言うと、椿は少しだけ真面目な顔をした。

 

「親にとっては、何歳になっても子どもなのよ」

 

その言葉に、結人は困ったように笑った。

 

『少し過保護だな』

 

内心でそう思う。

けれど、嫌ではなかった。

むしろ、その過保護さが温かかった。

前世の記憶があるからか、両親の言っていることが基本的に正しいのも分かっていた。そのせいもあるのかもしれない。

椿は結人の表情を見て、少しだけ目を細めた。

 

「結人は、昔からそういうところがあるから」

「どういうところ?」

「ちゃんとしてるように見せるのが上手なの」

 

結人は視線を落とした。

前世のことを知らなくても、椿は結人を見ていた。

ちゃんと、今の自分を。

祐司が結人の肩に手を置く。

 

「一人暮らしは、自由だけど孤独でもある。けど、孤独になりきる必要はないからな」

「うん」

「それと、写真送れよ。部屋とか、飯とか、大学とか」

「お父さんに送るほどの写真じゃないと思うけど」

「俺が見たいんだ」

 

祐司は当然のように言った。

椿も頷く。

 

「私も見たいわ」

 

結人は小さく息を吐いた。

泣くつもりはなかった。

けれど、胸の奥が少し熱かった。

 

「分かった。送る」

「約束ね」

「うん。約束」

 

出発の時間が近づく。

椿が結人を抱きしめた。

子どもの頃より、椿の腕は細く感じた。

それでも、温かかった。

 

「行ってくるわね、結人」

「行ってらっしゃい、母さん」

 

続いて、祐司が軽く抱きしめてきた。

 

「元気でやれよ」

「お父さんも」

「おう」

 

二人が搭乗口の向こうへ歩いていく。

途中で、祐司が振り返ってカメラを構えた。

 

「祐司さん、こんなところで撮るの?」

「大事な場面だからな」

 

椿が呆れたように笑い、結人は苦笑しながら手を振った。

シャッター音は聞こえなかった。

けれど、その瞬間が写真になったことは分かった。

二人の姿が見えなくなってからも、結人はしばらくその場に立っていた。

 

『行ってらっしゃい』

 

そう心の中で呟いていた。

 

☆☆☆☆☆

 

一人暮らしの初日は、思ったより静かだった。

引っ越し業者が帰り、祐司と椿も海外へ行き、部屋には結人一人だけが残った。

段ボールがいくつも積まれている。

カーテンは椿が選んだ落ち着いた色のもの。

机は窓際。

ベッドは壁際。

配置は、結局ほとんど椿の案の通りになった。

そして、壁際には買ったばかりのテレビが置かれている。

電源を入れると、特に見たい番組があるわけでもないのに、部屋に人の声が流れた。

それだけで、少し空気が変わる。

結人はリモコンを手にしたまま、小さく笑った。

 

「……やっぱり、古いのかな」

 

誰に聞かせるでもない声が、部屋に落ちた。

結人は段ボールを一つ開け、食器を取り出した。

 

皿。

マグカップ。

箸。

包丁。

まな板。

 

生活に必要なものが、一つずつ自分の手で置かれていく。

それが妙に不思議だった。

前世の柴咲光は、実家で暮らしていた。

仕事から帰れば、母が用意してくれた夕食があった。洗濯物も、気づけば畳まれていることが多かった。もちろん手伝いをしなかったわけではない。けれど、生活の中心は両親の家にあった。

今は違う。

洗濯物を放っておけば溜まる。

食材を買わなければ冷蔵庫は空のまま。

掃除をしなければ埃が積もる。

すべて自分に返ってくる。

結人は小さく笑った。

 

「……大丈夫かな、これ」

 

夕方、近くのスーパーへ行った。

何を買えばいいのか分からず、しばらく棚の前で悩んだ。結局、米、卵、野菜、鶏肉、味噌、豆腐、冷凍食品を少し買った。

会計を済ませ、袋を持って帰る。

ただそれだけなのに、妙に大きなことをした気分になった。

前世の頃から、親がしてくれていたことがいかに大変でありがたいことか、頭では分かっていた。

故に感謝もしていた。

しかし、実際に自分でやってみて、どれほどありがたかったのかが身に染みて分かった。

 

☆☆☆☆☆

 

夜、初めて自分の部屋で作った夕食は、少し味の薄い味噌汁と、焼きすぎた鶏肉だった。

 

「いただきます」

 

一人で言うと、思ったより声が響いた。

テレビからは、知らない芸人の笑い声が聞こえていた。

特別見ているわけではない。

けれど、完全な無音ではないことに、少しだけ安心している自分がいた。

味は、悪くはなかった。

特別おいしくもなかった。

それでも、自分で作った食事だった。

食後、結人は写真を撮った。

少し焦げた鶏肉と、味噌汁と、白米。

(祐司)に送るには地味すぎる写真だと思った。

けれど、約束したから送った。

すぐに返信が来た。

祐司からは、短く。

 

「いい飯だな」

 

続いて椿から。

 

「野菜も入っていて安心しました。でも、明日はもう少し彩りがほしいわね」

 

結人は画面を見て笑った。

遠くにいるのに、ちゃんと近い。

そう思えた。

風呂を済ませ、寝る準備をする。

テレビを消すと、部屋は急に静かになった。

実家とは違う天井。

聞き慣れない冷蔵庫の音。

外を走る車の気配。

眠気はすぐには来なかった。

 

『初めてなんだな』

 

前世も含めて。

 

本当に初めて、自分だけの生活が始まった。

不安はある。

寂しさもある。

けれど、どこかで少しだけ胸が弾んでいた。

柴咲光は、言えなかったことを抱えたまま終わった。

二間結人は、その記憶を持ったまま生きている。

二つの人生が、完全に一つになることはないのかもしれない。

それでも、今ここで息をしているのは自分だ。

両親に見送られ、今度は両親を見送って、この部屋にいる自分だ。

結人は布団の中で、ゆっくり目を閉じた。

 

『自分は、二間結人なんだな……』

 

その言葉は、まだ少しぎこちなかった。

けれど、嘘ではなかった。

新しい部屋の静けさの中で、二間結人の一人暮らしが始まった。

 




自分がいろいろと遅いだけと言われればそれまでですが、話の叩き台を出して貰えるのだけでここまで違うのだなと思っております。
自分みたいに趣味の範疇だったら十分すぎる事実。
定期的な投稿も全然出来そうな気がしてます。

だからこそ自力で定期的投稿や文才がある方やプロの方には尊敬しかありません。
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