目覚ましの音で、結人は目を覚ました。
一度目。
手を伸ばして止める。
そのまま目を閉じかけたところで、数分後に二つ目が鳴った。
「……眠い」
小さく呟きながら、結人はようやく体を起こした。
足が少し重い。
昨日、一昨日と二日間歩き回ったせいだろう。
普段なら何とも思わない程度の疲れだったが、布団から出る理由を一つ減らすには十分だった。
スマホを手に取る。
時刻を確認すると、まだ余裕はある。
そして通知欄に、グループチャットの新着が一件。
渉だった。
「起きた」
送信時刻は五分前。
結人はしばらく画面を見た。
『本当に起きたんだ』
昨日の夜、
「明日遅刻したら起こして」
などと言っていた本人とは思えない。
結人は少し迷ってから、
「おめでとう」
と返した。
すぐに既読がついた。
「もっと褒めて」
「普通に起きただけでしょ」
紗理奈から返信が来る。
続いて、
「目覚まし四つの勝利」
と颯。
修司からは、
「朝からうるさい」
の一言だった。
結人は画面を見ながら少し笑った。
昨日まで二日間続いていた秋桜祭は終わった。
机の端には、そのパンフレットがまだ置いてある。
少し折れた表紙。
何度も開いた跡。
昨日までは予定を確認するために持ち歩いていたものなのに、今日はもう必要ない。
結人はパンフレットへ一度目を向け、それから立ち上がった。
シャワーを浴び、着替える。
簡単に朝食を済ませて家を出た。
いつもの時間。
いつもの道。
昨日までは大学へ向かう人の中に、家族連れや高校生らしい姿も混じっていた。
今日は違う。
電車の中も、駅から大学へ向かう道も、見慣れた学生ばかりだった。
正門が近づく。
秋桜祭の横断幕はもう外されていた。
昨日まで人の流れを作っていた案内板もない。
大学へ入る。
広場へ目を向ける。
ステージがあった場所には何もなかった。
何人かの学生が普通にそこを横切っている。
『昨日まで、あそこでやってたんだよな』
ほんの少し、不思議な感じがした。
あれだけ人が集まっていた場所に、今は何もない。
音楽が聞こえていた。
模擬店の呼び込みが聞こえていた。
昨日はミスコンもあった。
それが一晩経っただけで、いつもの大学に戻っている。
結人は立ち止まることなく、そのまま講義棟へ向かった。
☆☆☆☆☆
教室へ入ると、修司がすでに座っていた。
いつもの辺りの席。
結人は特に考えることなく、その近くへ向かった。
「おはよう」
「ああ。おはよう」
修司が顔を上げる。
結人はその前の席に荷物を置いた。
少しして、廊下から大きめの声が聞こえてきた。
「間に合った!」
渉だった。
教室へ入ってくるなり、妙に達成感のある顔をしている。
結人が時計を見る。
「普通に余裕あるけど」
「余裕を持って到着したってことが重要なんだよ」
「昨日も今日こそ余裕って言ってたよね」
「有言実行」
後ろで修司が小さく笑った。
「起きただけでそこまで誇れるの、ある意味すごいな」
「もっと評価してくれていいぞ」
「しない」
修司が即答する。
渉は不満そうに席へ座った。
少しして颯が来る。
その後、紗理奈も教室へ入ってきた。
「おはよー」
「あ、ちゃんと起きてる」
紗理奈が渉を見る。
「何で会う人全員それ言うんだよ」
「昨日あれだけ言ってたからでしょ」
「信用なさすぎない?」
「実績の問題じゃない?」
颯が笑いながら座る。
いつもの五人。
結人は教科書を机の上へ出した。
少し前なら、こうして誰かの近くに座る時にも、どこかで考えていた。
ここでいいのか。
今日は一緒にいていいのか。
誰かが先に座っていたら別の場所へ行った方がいいのか。
そんなことを。
今日は何も考えなかった。
修司がいた。
だから近くに座った。
渉が来た。
颯が来た。
紗理奈が来た。
ただ、それだけだった。
「課題やった?」
不意に紗理奈が聞いた。
渉の動きが止まる。
「何の?」
「今日提出のやつ」
「今日?」
「今日」
渉がゆっくりと結人を見る。
結人は首を横に振った。
「見ても何も出ないよ」
「結人、お前はやったのか?」
「昨日の夜」
「裏切り者!」
「何で?」
颯が笑う。
「秋桜祭終わった日の夜に課題やるの偉いね」
「忘れてて、家帰ってから思い出しただけ」
「それでもやったなら偉いでしょ」
紗理奈が言う。
後ろで修司が教科書を開きながら口を挟んだ。
「渉、始まるまでまだ時間あるぞ」
「修司!」
「写すなよ」
「希望を与えてから奪うな!」
また笑いが起きた。
その声に混ざりながら、結人も教科書を開いた。
やがて教授が教室へ入ってくる。
いつもの講義が始まった。
☆☆☆☆☆
昼休み。
五人で食堂へ向かった。
昨日まで外には模擬店が並び、大学中に食べ物の匂いが漂っていた。
今日は食堂の前に学生が並んでいるだけ。
渉がメニュー表を見る。
「昨日まであんなに食うものあったのにな」
「昨日散々食べたじゃん」
紗理奈が言う。
「祭りの食べ物と学食は別物」
「昨日も似たようなこと言ってなかった?」
「夕飯は別ってやつ?」
颯が笑う。
「そう、それ」
「自分で認めるんだ」
結人も笑った。
それぞれ注文し、空いている席へ座る。
渉は相変わらず量の多い定食を選んでいた。
「結局、秋桜祭で一番食ったの何だった?」
颯が聞く。
「一番って何基準?」
「量」
「覚えてない」
「じゃあ種類」
「それも覚えてない」
修司が呆れたように言う。
「結局何も覚えてないじゃないか」
「全部うまかったってことだよ」
「便利だね、そのまとめ方」
紗理奈が笑う。
話題は少しだけ昨日のことへ戻った。
ステージ。
展示。
ミスコン。
途中で会った友人。
売り切れて食べられなかったもの。
だが、昨日の夜ほど長くは続かなかった。
気づけば話題は今日の講義になり、次の課題になり、今週の予定へ移っていた。
「結人、今日バイト?」
渉が聞く。
「うん。夕方から」
「祭りの次の日にバイトとか元気だな」
「別に普通でしょ」
「ライブハウスって今日もイベントあるの?」
颯が聞いた。
「あるみたい。自分は詳しく知らないけど」
「働いてるのに?」
「出演者とか全部覚えてるわけじゃないし」
「夢がないなあ」
渉が言う。
結人は箸を止める。
「仕事だから」
一瞬の間。
修司が吹き出した。
「それ、前も聞いたな」
「あ」
結人も思い出した。
ライブハウスで働き始めた頃、同じような話をした。
渉も思い出したらしい。
「結人、そこずっと現実派だよな」
「何を期待してるの」
「バンドマンと仲良くなって、裏話とか聞いてくるとか」
「まだ新人だよ」
「じゃあ一年後に期待する」
「勝手に予定立てないで」
紗理奈が笑う。
「でも結人、最初よりバイト慣れたんじゃない?」
そう言われ、結人は少し考えた。
「……少しは」
自分でも意外だった。
以前なら、
「まだ全然」
と先に否定していた気がする。
もちろん今も分からないことは多い。
失敗もする。
草ヶ谷に注意されることもある。
それでも、初日とは違う。
何をすればいいのか分かる場面は増えた。
店の中でどこを歩けば邪魔にならないのか。
誰に何を聞けばいいのか。
まだ考えながらではある。
でも、最初よりは。
「お」
渉が反応した。
「珍しく認めた」
「何が?」
「成長してるって」
「そこまで言ってない」
「同じようなもんだろ」
「違うと思う」
結人は苦笑しながら昼食を続けた。
☆☆☆☆☆
午後の講義は、五人全員が同じではなかった。
修司と渉は別の教室。
紗理奈も別。
颯は午後から講義を取っていないらしく、
「じゃあ今日はこれで」
と言って帰っていった。
結人は一人で次の教室へ向かった。
廊下を歩く。
周囲には学生がいる。
友人同士で話している者。
一人でスマホを見ながら歩いている者。
以前なら、誰かと別れて一人になった途端、妙に静かになったように感じることがあった。
今日は、そうでもなかった。
『次の講義、修司も取ってたっけ』
一瞬考えてから、
『いや、違ったな』
と思い出す。
それだけ。
講義を受ける。
終わる。
スマホを見ると、グループチャットに渉から写真が送られていた。
机の上に置かれた大量の資料。
「死ぬ」
その一言。
続いて修司から、
「自業自得」
と返されている。
紗理奈からは、
「あたしも同じくらいある」
颯から、
「頑張って」
結人も、
「頑張って」
と送った。
すぐに渉から、
「他人事すぎる」
と返ってきた。
結人は歩きながら少し笑った。
一人だった。
でも、完全に一人という感じはしなかった。
そのことについて、結人は深く考えなかった。
☆☆☆☆☆
夕方。
大学を出た結人は、そのままライブハウスへ向かった。
店へ入ると、すでに準備が始まっていた。
「おはようございます」
「おはよう」
カウンターの奥から迫田が返す。
少し離れた場所では、草ヶ谷がケーブルをまとめていた。
「二間君、着替えたら受付周りお願いできるかな」
「はい」
「今日は少し客入り多いと思うから、早めに準備しておこう」
「分かりました」
バックヤードで着替え、受付へ向かう。
以前なら一つ一つ確認しなければ分からなかったことも、今は少しずつ覚えている。
必要なものを出す。
チケット関係を確認する。
受付周辺を整える。
途中で草ヶ谷が通りかかった。
「二間」
「はい」
結人は反射的に顔を上げる。
草ヶ谷が受付横を指した。
「そこ、列できた時に邪魔になるから少し奥に寄せといて」
「あ、はい」
一瞬だけ、胸の奥がきゅっと狭くなる。
『また何か間違えた』
その感覚。
けれど、すぐに荷物を移動させた。
「これで大丈夫ですか?」
草ヶ谷が一度見る。
「ああ」
それだけ言って、またステージ側へ戻っていった。
結人は少し息を吐いた。
以前なら、その後もしばらく、
『何で気づかなかったんだ』
『また迷惑かけた』
と考えていた。
今もまったく思わないわけではない。
でも。
『次から気をつければいいか』
それ以上は考えず、結人は作業へ戻った。
客が入り始める。
受付。
案内。
ドリンクの補助。
分からないことがあれば、その都度迫田に確認した。
迫田はいつも通り答えた。
忙しくなると、考えている暇もなくなった。
ただ目の前のことをこなす。
一段落した頃には、開演時間を少し過ぎていた。
店内から演奏の音が聞こえる。
結人はカウンター周りを片付けていた。
「二間君」
迫田が声をかける。
「はい」
「だいぶ慣れてきたね」
結人は手を止めた。
「そうですか?」
「最初の頃よりはね」
迫田は笑った。
「まだ分からないことも多いです」
「そりゃそうだよ。何年もやってる人と同じだったら、それはそれで怖い」
「……確かに」
結人も少し笑う。
「でも、最初より周りを見る余裕は出てきたと思うよ」
「ありがとうございます」
答えながら、少しだけ落ち着かない気持ちになる。
褒められることには、まだ慣れない。
本当にそうなのか。
気を遣われているだけではないのか。
そんな考えが出てこないわけではなかった。
けれど今日は、
『最初よりは、か』
とだけ思った。
否定するほどでもない気がした。
☆☆☆☆☆
バイトが終わった頃には、外は暗くなっていた。
駅へ向かって歩く。
今日一日を振り返る。
大学へ行った。
渉たちと話した。
講義を受けた。
昼を食べた。
一人で別の講義へ行った。
バイトをした。
それだけ。
昨日のような祭りはない。
ステージもない。
特別な出来事もない。
本当に、普通の一日だった。
結人は歩きながらスマホを取り出した。
グループチャットが動いている。
渉から、
「明日の課題どこ?」
と来ていた。
修司が、
「授業聞け」
と返している。
その下に紗理奈から、
「そこあたしも分からない」
さらに颯。
「全滅じゃん」
結人は少し考えてから、
「たぶん教科書の七十二ページ」
と送った。
すぐに既読がつく。
「神」
「本当にそこ?」
「今確認する」
「結人が一番ちゃんと授業聞いてる説」
結人は歩きながら画面を見た。
『普通だな』
ふと思う。
何かが起きたわけではない。
それでも、その普通が嫌ではなかった。
大学へ行けば誰かがいて。
講義があって。
バイトへ行けば仕事がある。
明日になれば、また大学へ行く。
それだけ。
でも今は、それで十分だった。
駅の明かりが見えてくる。
結人はスマホをポケットへ戻した。
『明日も大学か』
少しだけ面倒ではある。
一限からではなかったはずだ。
それを思い出して、少し気が楽になる。
結人はそのまま駅へ向かって歩いた。
いつもの一日が終わる。
そして明日になれば、また次の一日が始まる。
今は、それも悪くないと思えた。
恋愛とかに限らず、結人の心境の変化とかも少しずつ描いていけたらと思うのですが。なかなか難しいです……。