大学生を始める日
一人暮らしが始まって、二週間が過ぎた。
早めに引っ越して生活には少し慣れたが、大学生活そのものは今日からが本番だった。
結人は、朝の六時半に目を覚ました。
スマートフォンのアラームを止め、しばらく天井を見上げる。実家とは違う白い天井。まだ見慣れきっていないカーテン。壁際に置かれたテレビ。
目覚めるたびに、ここが自分の部屋なのだと確認しているような感覚があった。
『今日から、本格的に大学生活か……』
入学式はすでに終わっている。
先日の入学式には、祐司と椿も参加したかったらしい。通話越しに二人してぼやいていたが、前世でも大学のそういったイベントに親が参加した覚えはなかったので、結人としては過保護気味な二人にはちょうど良かったとも思っていた。
今日は経済学科のガイダンスと、履修登録の説明。それから、いくつかの初回講義が予定されていた。
結人は布団から起き上がり、顔を洗って、簡単な朝食を用意する。
食パンを焼き、紅茶を淹れる。こんな簡単な朝食の準備も一人暮らし初日よりは少しだけましになっていた。
テレビをつけると、朝の情報番組が流れ始める。
特別見たいわけではない。
けれど、人の声があるだけで、部屋の静けさは少し和らいだ。
「いただきます」
一人で言う声にも、少しずつ慣れてきた。
食事を終え、食器を洗い、大学用の鞄を確認する。
学生証。
筆記用具。
配られた資料。
財布。
スマートフォン。
忘れ物はない。何度も確認してから、結人は小さく息を吐いた。
前世でも、忘れ物が多かったわけではない。けれど、確認しないと落ち着かない性分ではあった。
それは柴咲光だった頃から変わらないのか、それとも二間結人として身についた癖なのか、今ではもう分からない。
「行ってきます」
誰もいない部屋にそう言って、結人は玄関を出た。
☆☆☆☆☆
大学の最寄り駅は、学生らしい人で溢れていた。
私服にバッグを持った
少し浮き足立った声。
同じような資料袋を持った新入生たち。
その中を歩きながら、結人は不思議な気分になっていた。
前世でも大学には通った。
けれど、あの頃とは何もかも違う。
身体も違う。
名前も違う。
選んだ学部も違う。
何より、自分の中に二度目の大学生活という意識があることが、周囲との間に薄い膜を作っているようだった。
『前世も含めれば、同級生とは親子ほども離れてるんだよな』
そう考えると、少し気が引ける。
けれど、見た目は十八歳の新入生だ。実際、この身体で十八年生きてきたのも事実だった。
柴咲光であり、二間結人でもある。
その感覚には、まだ完全には慣れない。
大学の正門が見えてくる。
掲示板の前では、何人もの学生が立ち止まっていた。サークル勧誘のチラシを配る上級生たちが、明るい声で新入生に声をかけている。
「新入生ですか? 軽音どうですか!」
「フットサル初心者歓迎で~す!」
「落語研究会で~す。見るだけでも大丈夫ですよ~」
結人は会釈をしながら、何枚かチラシを受け取った。
断るのが下手というわけではない。
ただ、差し出されたものを無視するのも少し苦手だった。
手元のチラシが増えていく。
『全部入るわけじゃないんだけどな』
内心で苦笑しながら、結人は経済学科のガイダンス会場へ向かった。
指定された教室は、思ったより広かった。
階段状の座席に、新入生たちがまばらに座っている。友人同士らしい者もいれば、一人で資料を見ている者もいる。
結人は中央より少し後ろの席に座った。
鞄から資料を取り出し、開始時間を確認する。
その時、隣の席に誰かが勢いよく座った。
「ここ、経済学科で合ってるよな?」
声をかけられ、結人は顔を上げた。
隣にいたのは、明るそうな雰囲気の男子だった。髪は少し癖があり、表情はよく動く。人懐っこい笑顔を向けられて、結人は一瞬だけ反応が遅れた。
「うん。合ってると思う」
「よかったわ~。教室番号、二回見直したのに不安になってさ」
「分かる。建物が多いから少し迷うよね」
「だよな! オレだけじゃなくて安心した」
そう言って、彼は笑った。
「オレ、
「二間結人。同じく経済学科。よろしく」
結人が名乗ると、渉はすぐに頷いた。
「ああ。下の名前で呼んでいい?」
「うん。大丈夫」
「オレのことも渉でいいから」
「分かった、渉」
それだけのやり取りなのに、距離の詰め方が自然だった。
結人は少し驚いた。
前世でも、こういう人間はいた。
誰とでもすぐに話せるタイプ。
場の空気を難しく考えず、するりと相手の懐に入ってくる人間。
自分には出来なかった距離感だ。
けれど、嫌ではなかった。
渉は資料を広げながら、首を傾げた。
「履修登録ってさ、これ見れば分かるのか?」
「たぶん説明があると思うけど」
「説明聞いて分かるかな、オレ」
「まだ始まってもないのに諦めるの早くない?」
「いや、文字が多い時点で負けそう」
「
結人が思わず笑うと、前の席から男子が振り返った。
「最初に必修を入れて、残りを選択で埋めれば大きくは外さないと思う。あと、空きコマを作りすぎると逆に動きづらいらしい」
落ち着いた声だった。
振り返った男子は、明るめの茶髪がよく似合う爽やかな雰囲気をしていた。整った顔立ちではあるが、それ以上に目を引いたのは、机の上に並べられた資料の整い方だった。
配られたばかりの資料にはすでに付箋が貼られ、重要そうな箇所には薄く線が引かれている。
初対面でも分かる。
この人は、できる側の人間だ。
渉が目を丸くした。
「おお、賢そうなヤツが現れた」
「賢そう、じゃなくて、今の話は資料に書いてある」
男子は淡々と言った。
渉が資料を覗き込み、すぐに眉を寄せる。
「どこに?」
「十八ページの下。履修登録例のところ」
「本当だ。すごいな。オレ、今初めて十八ページを認識した」
「それは少し不安だな」
男子は呆れたように言いながらも、笑っていた。
結人は軽く頭を下げた。
「ありがとう。助かる」
「
「二間結人です。よろしく」
「オレは秤渉。よろしく」
「よろしく。おれのことも修司でいい」
自然に三人で話す形になった。
ガイダンスが始まるまでの短い時間、渉がよく喋り、修司が的確に補足し、結人が時々相槌を打つ。
不思議と居心地は悪くなかった。
むしろ、少し楽だった。
☆☆☆☆☆
ガイダンスは想像以上に長かった。
大学生活の注意事項。
履修登録の方法。
単位の仕組み。
ゼミの説明。
奨学金、学生相談、図書館利用。
配られる資料は多く、聞くことも多い。
渉は途中から明らかに集中力が切れていた。
「結人、今の何ページ?」
小声で聞かれ、結人は資料の端を指で示した。
「二十七ページ」
「ありがとう。命の恩人」
「大げさな……」
「いや、もう三回くらい見失った」
修司が小さく笑う。
「今の説明は後でポータルにも載るらしい。大事なのは履修登録の締切と、初回授業の出席扱いだと思う」
そう言って、修司は自身の資料に短く要点を書き込んでいた。
字は見やすく、無駄がない。
渉がそれを見て、感心したように言う。
「修司、綺麗にまとめてるな」
「読めないと後で困るから」
「オレのノートとか、未来のオレに対する挑戦状みたいになるんだけど」
「それは未来の自分に謝った方がいい」
「もう謝っとくか」
渉が真顔で資料に向かって頭を下げたので、結人は思わず笑ってしまった。
講義室の空気はまだぎこちない。
それでも、三人の周りだけは少し柔らかかった。
結人は資料に目を落とす。
二人とも、同い年だ。
当然のことなのに、時々引っかかる。
渉の軽さも、修司の落ち着きも、十八歳として自然なものに見える。
一方の自分は、前世の記憶を抱えている。
柴咲光として二十九歳手前まで生き、二間結人として十八年育った。
単純に足し算をすれば、とても新入生とは言えない。
けれど、だからといって大人として完璧なわけでもない。
前世で出来なかったことはたくさんある。
今も分からないことは多い。
『自分は、どこに立てばいいんだろうな』
そう思った時、渉が小声で言った。
「結人、次どこ読んでる?」
結人は瞬きをして、資料へ視線を戻した。
「三十二ページ。履修登録の締切」
「そこ大事なヤツじゃん。危なかった」
「聞いてなかったの?」
「聞いてた。聞いてたけど、脳が受け取り拒否した」
「それは聞いてないのと同じじゃないかな」
渉が真剣な顔で言う。
「結人、意外と辛辣だな」
「そんなつもりはないんだけど」
修司が肩を揺らして笑った。
その笑い声に、結人の胸の中の重さが少し薄れた。
今は、【ここ】にいる。
経済学科の新入生として、資料を開き、隣の友人にページを教えている。
それは嘘ではなかった。
☆☆☆☆☆
昼になると、三人は自然と一緒に学食へ向かった。
学食は混んでいた。
メニュー表の前で学生たちが列を作り、あちこちから話し声が聞こえる。新入生らしい緊張と、上級生らしい慣れた空気が混ざっていた。
「何にする?」
修司が尋ねる。
渉は即答した。
「安いやつ」
「基準が潔いね」
結人が言うと、渉は胸を張った。
「寮暮らしだけど、金は大事だからな」
「渉は寮?」
「そう。朝と夜は食事付きだけど、昼は自分たちでってトコ。だから初日のうちに学食チェックをだな」
「なるほど」
「結人は?」
「自分は、一人暮らし」
「おお、大人じゃん」
「そうかな」
「一人で家事全部やってるんだろ? オレから見たらもう大人」
渉の言葉に、結人は苦笑した。
「まだ全然慣れてないよ。昨日も鶏肉を焼きすぎたし」
「焼いただけ偉い。オレなら惣菜買う」
「それもありだと思う」
修司は二人の会話を聞きながら、定食の食券を買った。
「おれも一人暮らしだけど、凝ったものはあんまり作ってないな。続かないと意味がないし」
「修司も一人暮らしなんだ」
結人が言うと、修司は頷いた。
「大学に近い方が時間を使いやすいと思って。家事は大変だが、今のうちに経験もしておこうと思ってな」
言い方に無理がなかった。
一人暮らしを始めたばかりのはずなのに、修司はすでにこなれた感じがあった。元からそれなりに家事等はしていたのかもしれない。
渉が感心したように言う。
「修司、絶対ちゃんとした生活してるだろ」
「最低限だよ」
「その最低限が高そうなんだよな」
三人で席を探していると、背後から声がした。
「新入生三人組?」
振り返ると、知らない男子が立っていた。
黒髪がさらりと揺れ、どこか中性的で整った顔立ちをしている。柔らかく笑っているが、その笑みには少し軽さもあった。
修司が爽やかな優等生系なら、こちらは人懐っこく距離を詰めるのが上手いタイプに見えた。
「席探してるなら、あそこ空いてるよ。四人席だけど、僕も混ざっていい?」
彼が指差した先に、四人掛けの席が一つ空いていた。
渉がすぐに反応する。
「助かる! えっと、同じ学科?」
「たぶんね。経済学科、
「オレ、秤渉。こっちは結人と修司」
「二間結人。こちらこそ」
「綾瀬修司だ。よろしく」
颯は三人の顔を順に見て、修司のところで少しだけ目を止めた。
「綾瀬、爽やかだね。絶対もう女子に名前覚えられてるでしょ」
「今日会ったばかりの相手に言うことか?」
修司が苦笑する。
渉が笑った。
「でも分かる。修司は爽やかイケメンって感じする」
「渉まで乗らなくていい」
颯は特に悪びれず笑い、自然に四人目として席についた。
結人には、颯はいかにも軽いノリの大学生に見えた。
サークルの話。
近くの店の話。
入学式で見かけた綺麗な女子の話。
次々に話題を出し、渉がそれに乗る。修司は呆れながらも聞き、結人は時々相槌を打った。
「ちなみに、学食は十二時二十分くらいが一番混むっぽいよ。今日はガイダンス終わりだから仕方ないけど、普通の日は少しずらした方がいいかも」
颯はそう言って、スマートフォンのメモを見せた。
そこには、大学周辺の店やコンビニ、カフェ、学食の営業時間が簡単にまとめられていた。
渉が目を丸くする。
「颯、めちゃくちゃ調べてるじゃん」
「まあね。女の子と出かける時に、店分かりません、混んでます、歩き回らせます、は最悪でしょ」
「理由が思ったより軽い……」
「でも実用的ではあるだろ?」
颯は悪びれずに笑った。
確かに軽い。
悪く言えば、女遊び好きなタイプといえるけれど、相手を困らせないために下調べをするという意味では、雑な人間ではないとも取れる。
あとは、根っこまで軽いかどうかだが、それはおいおい分かることだろう。
「駅前の店までまとめてるのか」
「一人暮らしだからね。外食先とスーパーとドラッグストアは最初に押さえた。あと、バイト募集してる店も少し」
「颯も一人暮らしなんだ」
結人が聞くと、颯は頷いた。
「そう。大学近く。家にいると何かと口出されるから、ちょうどよかった」
異性泣かせの性格をしていないことを祈るばかりである。
「みんなはサークル入る予定ある?」
「まだ決めてない。バイトも探したいし」
「決めてないが、楽しく過ごせるようにしないとな」
「おれは入らない予定だな」
颯の問いかけに結人、渉、修司が三者三様の答えを返した。
「せっかくの大学生活だ。学科だけで完結するにはもったいないよ。サークルにバイト、いろいろなことをしないとね」
颯は軽い調子でそう言った。
けれど、その言葉自体は不思議と結人の胸に残った。
サークル。
バイト。
学科以外の人間関係。
前世の自分が、どこかで避けてきたもの。
柴咲光としての人生でも、大学には通っていた。
それなりに友人もいたし、講義を受け、試験をこなし、学生らしい時間を過ごしたつもりだった。
けれど、今こうして目の前で当たり前のように「いろいろなことをしないとね」と笑われると、自分が思っていた以上に狭い場所で生きていたのかもしれないと思った。
「……そうだね」
結人は小さく頷いた。
「せっかくだし、少し考えてみるよ」
「お、いいね。結人は真面目そうだから、変なとこには引っかからなさそうだし」
「それは分からないけど」
「大丈夫大丈夫。変なとこだったら僕が止めるから」
「颯が言うと、少し不安だな」
修司が横から言うと、渉が笑った。
「確かに。女の子が多いサークルだったら逆に勧めそう」
「人聞き悪いな。ちゃんと健全なところを勧めるよ。女の子が多い健全なところを」
「そこは譲らないんだ」
結人は思わず笑った。
昼休みの終わりを告げるように、周囲の学生たちが少しずつ席を立ち始める。
食器を返却する音。椅子を引く音。次の講義へ向かう足音。
結人も食器を持って立ち上がった。
まだ始まったばかりの大学生活。
前世の記憶も、胸の奥にある違和感も消えたわけではない。
それでも、今日出会った三人と話している間だけは、自分もただの大学生でいられる気がした。
☆☆☆☆☆
午後の講義が終わる頃には、結人は少し疲れていた。
体力的な疲れよりも、新しい人間関係に触れ続けた疲れだった。
けれど、不快ではなかった。
渉は明るく、修司は目に見えて優秀で、颯は正直少し不安ではある。
それでも、三人とも距離の取り方が違った。
その違いが、結人にはありがたかった。
帰り際、渉がスマートフォンを取り出した。
「連絡先交換しようぜ。履修で分からないことあったら聞きたい」
「それ、自分に聞く前提?」
「頼りにしてる」
「まだ何もしてないけど」
「今日ページ教えてくれた」
「それだけで?」
「命の恩人だからな。それに修司と颯も頼る!」
「断言って……」
結人は思わず苦笑いしながら、連絡先を交換した。
修司とも、颯とも交換する。
画面の中に、新しい名前が増えていく。
秤渉。
綾瀬修司。
隠颯。
それはただの連絡先なのに、結人には少し不思議に見えた。
二間結人としての生活が、少しずつ形を持ち始めている。
大学の門を出る時、渉が手を振った。
「じゃあまた明日な、結人!」
「うん。また明日」
修司も軽く手を上げる。
「履修、分からなかったら連絡して。おれも確認しておく」
「ありがとう。助かる」
颯は笑いながら言った。
「今度、駅前回ろうよ。バイト探しもしたいし。僕、候補いくつか見てるし」
「うん。時間が合えば」
三人と別れ、結人は一人でアパートへ向かった。
夕方の道は、朝とは違う空気だった。
学生たちの声が遠ざかり、街の音が少しずつ生活の音に変わっていく。
アパートに着き、鍵を開ける。
部屋は朝出た時のままだった。
当たり前なのに、少し安心する。
鞄を置き、テレビをつける。
それから、スマートフォンを開いた。
祐司と椿に送るため、今日撮った大学の写真を選ぶ。正門。講義棟。学食のメニュー表。どれも特別な写真ではない。
けれど、約束したから送った。
すぐに祐司から返信が来た。
「大学生っぽいな」
続いて椿から。
「無理しすぎないように。友達はできた?」
結人は少し迷ってから、文字を打った。
「同じ学科で話せる人ができた。明日も会うと思う」
送信すると、すぐに椿から返事が来た。
「よかった」
たった四文字だった。
けれど、その四文字が妙に温かかった。
結人はスマートフォンを伏せ、部屋の天井を見上げた。
今日一日で、何かが劇的に変わったわけではない。
前世の記憶が消えたわけでもない。
胸の奥にある違和感も、罪悪感も、そのままだ。
それでも……。
『自分は、ここで大学生を始めるんだな』
そう思った。
柴咲光では選ばなかった道。
二間結人として選んだ道。
その最初の日は、思っていたよりも騒がしく、思っていたよりも悪くなかった。
テレビの音が、静かな部屋に流れている。
結人は小さく息を吐き、明日の予定を確認するために資料を開いた。
新しい日常は、まだ始まったばかりだった。
予約投稿等まだまだ拙い部分が多く四苦八苦してます。
今後この作品も関しては投稿時間は固定しようか検討中です。